第15次・蒲原宿へ
2016年3月12日(土)、蒲原駅に集まって、2016年最初の東海道の旅が始まった。
前日から出発して、前回見れなかった清見寺、望嶽亭などを見学したグループとも、蒲原宿西木戸で合流した。
蒲原宿は、本陣1、脇本陣3、旅籠42軒。元禄12年(1699)の大津波で宿場の大半が流出したため、山寄りに移転した。そのため、道幅が広くとられ、ゆったりとしている。また、国道が旧東海道を迂回したため、江戸期の建物が残り、往時の面影が残っている。蒲原宿は、富士川の舟運の中継基地としても栄えたため、残っている建物も立派。
格子戸が美しい家を過ぎて、「国登録有形文化財」「東海道町民生活歴史館」の表示がある志田邸では、館長が解説をしてくれるというので中に入った。
志田家は、醤油醸造を営む商家で、安政の地震の後建て直された家。奥にある醸造蔵は、しっかりした木組み建物を、丸竹を芯にした塗り壁が支えている構造で、大地震にも耐えたようである。
館長の説明では、江戸幕府が整備した東海道は「57次」で江戸と大坂を結んでいた。幕府資料などを示してあり、間違いなさそう。広重は、幕府の朝廷への献上品を届ける一行に同行して、京までを旅して「東海道53次」の浮世絵を描き、それが大ヒットしたため、東海道は53次と思われてしまったのではないか、とのこと。
高札場跡は説明看板のみ。左手の小高い山は、蒲原城址。蒲原城は、武田信玄の猛攻にあって敗れた北条新三郎が城主だった。
本陣跡・佐藤家の建物は大正時代のもの。旅籠和泉屋は天保年間の建物で、安政の大地震でも倒壊しなかった。現在は、国登録有形文化財で、「お休み処」となっている。私たちは、ここでおいしいコーヒーをいれていただいて昼食休憩した。
江戸期建造の国登録有形文化財の商家、旅籠が建ち並ぶ宿場を歩いて、蒲原橋を渡ったところが東木戸跡。
すぐ先に、蒲原一里塚跡の碑が立ち、向かい側の法面の上に、北条新三郎の墓標柱がある。
第14次・吉原宿へ
一里塚の先から、急な上り坂。東名高速道路の上を渡り、しばらく高速道路に沿って歩いた後、急な下り坂を下る。坂の途中の民家の庭先に「明治天皇御駐畢之跡」の碑が立てられている。
新幹線の高架の下を通り、上り坂の手前の宇多利神社入り口で小休憩。
東名高速道路の下をとおり、小学校の先に、左右一対の榎が植わった岩淵一里塚が現れた。枝を広げ過ぎたためか、先端を刈り込まれているが、原型を想像させるみごとな一里塚である。
岩淵一里塚の近くに、富士川の渡船を控えた休憩所として、間の宿・岩淵が設けられていた。当初は、富士川近くに設けられていたが、たびたびの洪水にあって、高台のこの地に移ったとのこと。
坂を下ると、目の前に富士川が見えてきた。富士川は、川幅が260間、急流のため船で渡していた。大正13年(1924)に橋がかけられるまで、渡船場が使われていたようである。富士川橋を渡ったところに渡船場跡の碑と水神社がある。
江戸時代、甲州米を江戸まで輸送するため、幕府は、角倉了以に富士川開削を命じて、甲州・鰍沢から東海道・岩淵までの18里(71キロ)を舟運用に整備させた。甲州米は、蒲原宿を経由して江尻湊に運ばれ、江尻の大型船で江戸に運ばれたとのこと。ここで、ようやく江尻宿に「甲州廻米置場跡」(山梨県所有地)が今も残っている理由がわかった。
曇り空のため富士山も見えず、冷たい風が吹く富士川橋を渡ってからは、旧道をひたすら歩いて、本州製紙工場の脇にある本市場一里塚跡を確認。あと一息、と気持ちがゆるみ、おしゃべりしながら歩いていたが、いつまでたっても吉原宿入口の潤井川が現れない。スマホで位置を確認すると、潤井川の上流に間違えてきていることが判明。
スマホのナビにしたがって歩いて、鯛屋旅館に着いた時は予定を30分超過し、夕闇が迫っていた。
吉原宿は、本陣2、脇本陣3、旅籠60軒の宿場で、元吉原と呼ばれる海岸近くにあったが、津波や台風の高潮の被害を受け、2度の所替えで、現在の新吉原に落ち着いた。現在、宿場の面影は殆どなく、富士市の中心の吉原商店街としてにぎわっている。
鯛屋旅館は吉原宿で唯一残る元旅籠で、大部屋を小部屋に改装して、今風にしてある。吉原宿街おこしの拠点として、大名の宿札や吉原に伝わる生活用品などを展示している。清水次郎長とも交流があったようで写真が掲示してあった。
(第14回一日目の歩数:27,256歩)
吉原宿から第13次・原宿へ
翌朝、7時半に旅館を出て商店街を歩く。岳南鉄道の吉原本町駅を過ぎると、「見よう歩こう富士市の東海道」という看板があり、宿場の見どころを紹介している。看板の向いている方を見ると、昨日は曇り空で見えなかった富士山が、すぐそこに、すそ野を広げてそびえているではないか。
富士山に見とれながら歩く。平家越橋のたもとに、平家越の碑、が立てられている。源平合戦のとき、平家軍が水鳥の羽音に驚いて敗走したところがこのあたりだという。
すぐ先に、馬頭観音と左富士の石碑が立っている。バス停も「左富士」。振り返ってみると、真後ろに富士山が見える。
少し先に、松が植えられた小公園があり、広重の左富士の浮世絵のレリーフが置かれている。残念な事に、すぐ目の前に工場の大きな屋根があり、富士山は頂のあたりが見えるのみ。江戸から旅してくると、これまで富士山は右に見えていたのに、ここにくると、松並木の間の左側に見えることに感激して「左富士」の絵を描いたのであろう。
信号を渡った先に、左富士神社がある。神社の境内には、依田橋村一里塚も造られている。境内に、ヘルメットをかぶった人が数人いるので、聞けば、8時半から津波が来るとの想定で防災訓練が行われるのだという。私たちが歩いていると、神社に向かって歩いてくる人達とすれちがった。
河合橋を渡りながら見ると、川の両岸にレジャーボートがたくさん係留されている。田子の浦港はすぐ近くである。
吉原駅に着くと、富士山が正面に見える。駅前の鉄骨造りの3階建の建物は、津波から避難するために造られたのだとのこと。避難訓練で集まった人たちが上に上っていた。私たちのグループの何人かも走って行って上らせてもらった。
吉原駅から原駅までは、松林が続く海岸通りで、名所旧跡もないので、電車を利用した。海岸沿いは松林になっている。
原駅で降りると、目の前に富士山の雄姿。広重の浮世絵でも、画面からはみだして富士山が描かれている。そんな絵を描きたくなるように、富士山が目の前に美しくそびえている。
原宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠25軒で小さな宿場であった。本陣の跡は碑が立てられ、立派な松が残っている。
浅間神社の向かい側に、白隠禅師生誕地と刻まれた大きな石碑が立てられている。敷地の奥には、白隠禅師の産湯の井戸が保存されている。臨済宗中興の祖といわれた白隠禅師が住職を務めた松蔭寺は小規模な寺だが、良く手入れされた松の老木が境内にあり、落ち着いた雰囲気。奥に、白隠禅師の墓所がある。「駿河に過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」といわれるほど尊敬を集めていた。
第12次・沼津宿へ
しばらく歩くと、松長一里塚跡の真新しい碑が立てられている。すぐ先に、「従是東沼津藩領」と刻まれた傍示石が立っている。沼津宿は近い、と思って歩くがなかなか着かない。
2キロほど歩いて、ようやく、出口町見付外(沼津宿西見附)の標識があった。浅間神社の境内は桜が咲き始めている。
交差点を渡った先の、松林の中にある乗運寺には、若山牧水の墓がある。牧水は、大正14年、41歳のとき、千本松原の地が気に入り、500坪の土地を購入して家を建築したが、体調優れず、禁酒を試みるも長く続かず、昭和3年に43歳でこの地で永眠した。
千本浜公園には「幾山河こえさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞけふも旅ゆく 牧水」の歌碑がある。
乗運寺の墓所の両側には、牧水と妻・喜志子の歌碑が立てられている。
「聞きゐつつ楽しくもあるか松風のいまはゆめともうつつとも聞ゆ 牧水」
「古里の赤石山のましろ雪わがゐる春のうみべより見ゆ 喜志子」
沼津宿は本陣3、脇本陣1、旅籠55軒で、沼津城下町を兼ねた宿場として賑わったとのことだが、戦災で昔の建物などは残っていない。
第11次・三島宿へ
沼津城跡を過ぎ、三枚橋の先に、三枚橋一里塚がある。塚の手前に、玉砥石といわれる柱状の大きな石が2つ置かれている。昔、玉の原石をみがくのに使われたとのこと。
街道の右側は狩野川の高い堤防が続く。堤防の脇に、日本三大仇討の一つ、平作地蔵尊、が祀られている。説明書きによれば、浄瑠璃「伊賀越道中双六」に出てくる沼津の平作を祀ってあるとのこと。
県道と合流するところに、小さな祠が置かれている。旅人の安全を祈っているようである。富士山が美しい。
1キロ程歩いて、また旧道に入る。従是西沼津領、と刻まれた傍示石が立てられている。この辺りには、伊豆石の立派な蔵が散見される。この先の喜瀬川を通って伊豆から運ばれたのだろうか。喜瀬川橋の上からも富士山が美しい。
橋を渡ると、長沢の松並木が街道歩きの気分にしてくれる。
すぐ先の八幡神社の入口に、大きく「対面石」と書いた標示板が掲げられている。源頼朝と奥州から駆けつけた義経が対面した時に座った石が、この奥の神社に祭られているとのこと。
国道を横断した先に、伏見一里塚がある。街道の両側に寺があり、右側が宝池寺一里塚と呼ばれている。昭和60年(1985)改修され、当初の一里塚のように塚の上に榎が植えられている。向かい側の玉井寺一里塚は、長年の間に塚に根付いた木々と榎が調和した森のようになっている。ここからも富士山が美しい。
少し先の麹屋の向かいに秋葉神社常夜燈があり、その脇に標識が立っている、「新宿・向かい宿」とある。このあたりの町名が「新宿」なので宿場と関係があるのだろう。
境川橋の下は千貫樋と言われる水路が通っている。橋の脇が、三島宿の西見附跡で秋葉神社がある。
ほどなく伊豆箱根鉄道の踏切をわたり、樋口本陣跡の小さな碑を見つけた。道路の向かい側に世古本陣跡の碑がある。
三島宿は、本陣2、脇本陣3、旅籠74軒で、箱根を控えてにぎわった。
歩いていると、行列ができている「うなぎ」料理屋がある。また「三島女郎衆は今も健在です」と書いた看板を掲げた店もある。
三島大社は森の中にある。古代より伊豆一宮として崇敬されてきた。嘉永7年(1854)の震災で倒壊したが、慶応年間に再建され、国の重要文化財に指定されている。
2016年の旅の初めにあたり、三島大社に参拝して旅の無事を祈った。
(第14回二日目の歩数:34,031歩)
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