会報うえだ 93号(日本橋にゴール 東海道53次の旅が完結)
会報うえだ 92号(藤枝から三島) 会報うえだ 91号(二川から藤枝)
(4)小田原宿から日本橋、大阪 会報うえだ 90号(岡崎から二川)
(3)掛川宿から小田原宿 会報うえだ 89号(宮の渡しから岡崎)
(2)有松宿から掛川宿 会報うえだ 88号(土山宿から桑名宿)
(1)草津宿から鳴海宿 会報うえだ 87号(草津宿から水口宿)
番外編2 姫街道 (見附宿から嵩山宿まで、浜名湖北の陸路を歩く)
番外編 佐屋街道 (熱田から桑名へ、七里の渡しを歩く)

第15回 三島宿から小田原宿へ

(16/4/16-17)

三島から山中城跡(間の宿・山中)へ
 2016年4月16日(土)、三島駅に集まる。18名の予定だったが、山本さんが急用のため不参加になってしまった。ところが、湯河原に住んでいるからと、小田原名物の「薄皮あんぱん」を差し入れに持って、見送りに来てくれて、感謝感激。

 箱根峠越えは厳しい山道なので、旧道をバスが運行していることもあり、体力に合わせて、一部バスを利用して、史跡見学もすることにして、バス組と歩き組に別れて出発した。
 歩き組は、三島駅から三島大社を通り、旧東海道を歩く。新町橋を渡り、愛宕橋を渡り、東海道本線の踏切を渡ると、いよいよ上り道。愛宕坂とある。急坂なので人も馬も滑って大変なところだった。そこで幕府は1680年にそれまでの竹を敷いてあったものから石畳の道に改修した、とのこと。
 愛宕坂がなだらかになったところに錦田一里塚がある。榎が枝を広げて緑陰をつくっている。もう一方の塚は、国道の向こう側にあり、側に行って見るわけにはいかないので写真撮影のみ。
 この先の初音ケ原の坂道は、石畳と松並木が整備され、歩きやすい。松並木が途切れた先で伊豆縦貫道を横断すると、右手に伊豆フルーツパークの温室群が見える。
 左側に、大きな箱根路の石碑が置かれているところから旧道に入ると、傍らに小さな道祖神が置かれている。
 人家が点在するゆるやかな坂道を上って行くと、右側に小さなお堂があり、普門庵と書かれた額がかかっている。脇に頬杖をついた石仏などが置かれている。
 国道と合流してすぐに別れ、木が茂る山道に入る。「臼転坂」というだけあって、急坂で通る人もない。馬頭観音が置かれたところで昼食休憩にした。

 坂を上った所にグランドがあり、中学生が野球の練習をしている。
 すぐ先に、赤い帽子と首巻きをしたお地蔵さんが二列に並んでいる。六地蔵が二組も並んでいるのは珍しい。地蔵堂もあり、中に仏像があるようだ。
 急な題目坂を上ると、「征夷大将軍足利尊氏建立 七面堂旧跡」と刻んだ碑が立っている。小学校の向かい側には、法善寺旧跡、の大きな碑が立っている。
 この先は急な上り坂。右手に三島市街地が見下ろせ、左手に富士山が春霞の中に見える。霞んでいるから写真を撮ってもだめだろう、と思うが、富士山の美しさに感動して立ち止まり、何枚もシャッターを押してしまった。

 しばらく上って行くと、左手に冠木門の寺、松雲寺とある。明治天皇史蹟と刻んだ碑も立っている。江戸時代、尾張、紀伊藩をはじめ、西国大名の休憩所となり、幕末には、徳川家茂、慶喜など徳川一門の寺本陣ともなった。明治期は、天皇の御小休所として度々利用された、とのこと。
 こわめし坂の急坂をあえぎあえぎ上る。国道を横断して、すぐの右手にこんもりとした丘がある。大きな榎のほか、樫などの雑木が生い茂っている。笹原一里塚とある。
 塚を下りたところに、牛馬頭観音と刻んだ碑と、観音像を刻んだ碑が3基おかれた、粗末な祠がある。馬頭観音は街道沿いに沢山見てきたが、「牛馬頭観音」は初めて。このあたりでは、牛も荷役に使われていたのだろうか。

 上長坂を上り、国道を横断するところに、三島スカイウオークという、富士山を眺める吊り橋ができていてビックリ。昨年末にできたのだという。ドライブインには車が沢山停まっている。吊り橋の先には、富士山の美しい姿があった。
 杉林の中の石畳道を上って行くと、工事中で先に行けなくなってしまった。やむを得ず、国道に出て、迂回した道を歩くとようやく、山中城跡に着いた。

山中城跡見学
 「健脚コース」の最初の予定では、山中城が東海道を城内に取り込む形で築かれているので、街道を歩きながら城跡を眺めて、立ち寄らずに箱根峠に向かうことにしていた。立ち寄って見学していたのでは、元箱根到着が遅くなりすぎる。
 ところが、メンバーの清水淳郎さん(城郭研究家で『日本の名城厳選100』の発行人)から、山中城を見学すべし、と直言されて、見学する事になった。

 山中城は、北条氏によって本城小田原城の西方守備の城として築かれた。1567年(永禄10)頃に築城が開始され、豊臣氏との対決が決定的となった1587年(天正15)頃から大改修が始まった。本丸から南に延びる尾根を岱崎(だいさき)出丸として増強を図っている中途で、豊臣軍(秀次軍と秀吉直属軍あわせて6万7800)の攻撃を受けて半日で落城してしまった。山中城の北条軍は4000ないし5000の軍勢で守りについていたようである。
 城跡を歩いてみると、東海道に面したところが三の丸。二の丸は、その上の山の斜面につくられている。二の丸の斜面を上った所が本丸で、その先の北の丸とは木橋が架けられ、間は深い土塁が築かれている。
 二の丸の西側には西の丸が築かれ、周囲には畝堀と障子堀を巡らせている。西端に巨大な櫓を設置していたようで、櫓台の跡がある。
 城内は広大で、堀の深さは8メートルもあり、雨水を溜める池や兵糧蔵が設けられて厳重な防備の城であったが、わずか半日で落城したのは、豊臣軍が大兵力であったためと考えられる。城内を見学して、これほどの城郭がわずか半日で落ちたのは、やはり石垣を巡らせた堅牢な城でなかったからなのか、と考えさせられた。

山中城跡から第10次・箱根宿へ
 山中城跡を見学して、時計を見ると3時半、ここから元箱根まで歩くと約3時間の行程。関所見学などができなくなってしまうので、箱根宿の入口までバスを利用することにした。
 バスは旧道を縫うように運行しているので、車窓から旧道の上り出口と入口が見える。歩いたつもりで、バス停の表示を追った。「接待茶屋」(この近くに山中一里塚跡)、「芦ノ湖カントリー入口」、「箱根やすらぎの森入口」(ドライブインの所が箱根峠846m)、「芦川入口」(箱根宿入口の碑)、「箱根ホテル」下車。
 箱根宿は、本陣6、脇本陣1、旅籠72軒で、本陣6軒は浜松宿と並んで東海道最大であった。箱根ホテルは旧本陣はふや、とのこと。入口に大きな楓の木(樹齢約400年)が立っている。かつて「はふや」の入口にあったものを移植したが、今は、枯れてしまい、木の中ほどの枝分かれしたところに桜の木が寄生して花を咲かせている。

 すぐ隣が、箱根関所・箱根関所資料館。平成11年から箱根関所一帯の発掘調査をして、復元工事を行い、平成19年から全面公開に至ったとのこと。
 京口御門、大番所、足軽番所、厠、江戸口御門などの建造物のほか、調度品も復元されている。役人の人形などは、当時の人の身体的特徴、衣服の色、模様などが明らかになっていないからと、シルエット展示という淡い色で表現する展示方法になっている。資料館もわかりやすく充実した展示になっている。
資料館を出て、箱根杉並木を歩く。江戸時代に植えられた杉が街道の両側に約420本残り、芦ノ湖からの強い風や日差しをさえぎり鬱蒼としている。杉並木の終わりに、吉原久保一里塚跡。
 国道を歩くと、箱根神社の鳥居が見えてきた。鳥居の手前に、身替り地蔵が鎮座している。宇治川の合戦で名高い梶原影季が箱根を通りかかった時、何者かに襲われたが、幸いに傍らにあった地蔵が身替わりになって命が助かったので、身替り地蔵と呼んだ、とのこと。
 この先の遊覧船乗り場の手前が、今日の宿、「ホテルむさしや」。箱根駅伝の早稲田大学と東洋大学の宿所になっているホテルで、板前さんが作った季節の料理を堪能した。総勢17人、温泉で疲れを癒し、楽しい歓談の時を過ごした。
 (一日目の歩数、26,139歩)

箱根宿から第9次・小田原宿へ
 昨夜半から、強風が窓に吹き付けており、「8時頃から風雨強し」の天気予報。朝食を急いで済ませ、ホテルの庭に出て、芦ノ湖を背景に写真を撮って出発。芦ノ湖の向こうに富士山が見えるはずだが、湖上に箱根神社の赤い鳥居がみえるだけ。桜は、一部開花といったところ。

 興福院の前の旧道を歩き、石段を上ると、ケンペルとバーニーの碑が立っている。
 ケンペルは、オランダ通商使節の一員として、元禄4年(1691)に箱根を越え、箱根の美しさを世界に紹介した。バーニーは、箱根に別荘を持っていたイギリスの貿易商で、大正11年(1922)にケンペルの著書を引用して、美しい自然を大切にするように、と碑を立てた、とのこと。箱根町では、毎年、ケンペル祭を行っており、ちょうど4月17日がその日で準備が進んでいるようだった。
 史跡箱根旧街道、の碑を過ぎると、権現坂の上り道。石畳になっているので歩きやすい。路傍に薄紫色のスミレの花が咲いている。「山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉」が思い浮かぶ。
 車道と交わった所に、お玉観音堂がある。元禄時代に、江戸に奉公に出たお玉さんが、実家の伊豆に帰ろうとしたが通行手形を持っていなかったので、つかまり斬首された地とのこと。「出女」を厳しく取締ったというが痛ましい事である。
 林の中の道を少し歩くと、箱根馬子唄の大きな碑がある。「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」

 ここからは石畳の下り道。林の中なので風はさほどではないが、雨が激しくなってきた。苔むした大きな石が路傍にある、天石坂を下る。
 車道を横断するところに、「旧街道石畳」のバス停がある。箱根米桜が満開で美しい。
 杉林の中の石畳の道を下る。雨で石が滑りやすくなっているので慎重に歩く。車道に出たところが、甘酒茶屋。雨で濡れていたので、熱い甘酒がおいしかった。
 しばらく車道の脇を歩き、崖の上の道を歩き、猿滑坂の階段を下りる。
 引き続き、東坂最大の難所195段もの階段が続く樫木(かしのき)坂を下る。この坂を上る旅人が「どんぐりほどの涙を流した」と伝わっている。
 この先は、七曲の急な車道の脇を歩く。林の中の道ではないので、強風雨が吹きつけ、傘はまったく役に立たない。車道を雨が川のようになって流れている。
 車道から石畳の道に入ってしばらく下ると、畑宿一里塚。右側は榎が植えられているが、左側は常緑樹コメツガのようだ。

 車道に出たところが、間の宿・畑。箱根宿と小田原宿の中間にあり、山道が険しいので休憩地として賑わったよう。茗荷屋本陣跡の建物が残っている。また、江戸時代末期から作られたという寄木細工発祥の地で、寄木会館や寄木細工を売る店が立ち並んでいる。旅の思い出に、お盆、箸、独楽などを、それぞれが買い求めた。
 畑宿見付跡から、大沢坂の石畳道を下る。車道の脇をしばらく歩いて、割石坂の石畳の道に入り下る。
 車道に出たところから、須雲川沿いの車道の脇を歩いて下る。箱根大天狗神社の大きな鳥居が見える。鎮雲禅寺の脇には小さな滝が雨水で増水して盛んに流れ落ちている。風雨が激しさを増して、車が走る道は歩行が大変。昼食休憩のため、箱根湯本に下りる。

 昼食後、箱根湯本駅から、小田原宿の入口の、箱根板橋まで電車に乗る。強風のため、小田急ロマンスカーは運転取りやめの表示があった。
 箱根板橋駅から歩いて、新幹線のガードを過ぎたところが板橋見付跡。すぐ先に、大久寺。この寺は、小田原城主・大久保家の菩提寺である。
 小田原宿は、本陣4、脇本陣4、旅籠95軒で、箱根峠という難所をひかえていたため宿泊客も多かったようである。

 東海道線のガードを過ぎ、筋違橋町の碑の先の信号を渡ったところが、欄干橋町。歌舞伎十八番「外郎売」のセリフに出てくる八ツ棟造りの外郎家がある。
 外郎家は中国で薬の「ういろう」を作っていたが、将軍足利義満に招かれ日本に来た。朝廷に仕えて、薬のういろうとは別に菓子の「ういろう」も考案して、外国使節の接待に供された。1495年に小田原を平定した北条早雲に招かれ、小田原に来住した。小田原に来住するにあたって、菓子の製法を京の外郎家に残してきたので、仕えていた職人等によって全国に広まった。一方、薬の製法は小田原の外郎家が一子相伝で現在も伝えている、とのこと。
 また、歌舞伎との関係は、享保年間、二代目市川団十郎が持病の咳と痰のため台詞が言えず困っていたが、この薬によって全快したので、お礼の気持ちでこの台詞を舞台で上演した、ことによる。
 本町の角に、出桁造りの旧網問屋の建物を改修して、小田原宿なりわい交流館があり、お休み処兼観光案内所となっている。ここでお茶のサービスを受けて一休みして、小田原駅に向かい、帰路についた。
 (二日目の歩数、26,519歩) 

  

参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水正宣(1)、清水洋二(1)、平林正明(1)、磯村雄二(3)、柳澤信義(3)、石井則男(4)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、村居次雄(8)、山浦るみ子(8)、清水淳郎(9)、林久美子(9)、藤巻禮子(9)、宮下明子(9)、池田有美子(69期)、山本淳一(見送り)(8)、安武知人・松木(初日のみ)の19人。

 山中城(やまなかじょう) ~ 春の訪れ ~

 私がメンバー中最も遠い北信州からほぼ諦めていた今回の旅参加に踏み切った動機は【バス・史跡見学コース】を設けてくれたからでした。
 山中城のバス停に降り立ったのは、あつおさん・私と、ともこ・れいこ・くみこ・きょうこさんの女性四人。国道1号線に分断された南側少し下った、健脚グループが登ってくるはずの旧東海道の石畳の小さな碑の前で記念写真をとり再び石畳を引き返す途中、れいこさんのソプラノに唱和して「万丈の山、千仭の谷」と歌う。国道の北に位置した山中城はさながらゴルフ場と見紛(みまご)うばかりの美しさ。さしずめ武者溜り・砦の広々とした平地はコース、模様から名付けられた畝堀(うねぼり)・障子堀はグリーンに思える!!??
 ピンクの花ばかりを背丈より高い位置にいっぱいに咲かせたミツバツツジに出迎えられ、やがてひろびろとした緑の絨毯に大きな山桜とぽつんと四阿屋のある人っ子一人いない原にでてお昼を食べることに。女性は四阿屋に男性は離れた桜の木の根元に陣取る。
 腰を下ろし散り始めた桜の花びらがおむすびにくっつくとやはりこれぞ日本と感激、思わず女性達の方を見ればフリルのリボンつけた、つば広の洒落た帽子を脇に置いたともこさんをはじめ四人はまるで女学生、笑顔を返してくれる。一瞬が世界で一番美しい時となる。
    箱根路の裏に城(しろ)あり山桜 
         乙女の姿 永久(とわ)にとどめん
 原野と化していたこの変哲もない山をあつおさんも一役買って正確な史跡の復元を図ると同時に一面に、緑の化粧を施して憩いの場として呉れた三島市の英断には敬意を表する。
 程なくれいこさんと私の二人をバス停に残して四人は旧東海道の細道を元気よく行ってしまった。無論歩きたい、けれど、この歳になって足腰の痛まぬ人なんかいないわよと耳元で囁いてくれたきょうこさんの言葉を噛み締めて、人はひと自分は自分と、自らを慰める。
 箱根関所では重罪人を一時留めた「牢屋」に入ってみたり「お玉ケ池」の由来に想いを馳せる。気になるのは他のメンバーのこと。先刻別れたあつおさんにtelすると地図の道は見当たらず山中で迷ってしまっている由、辺りを見回せばさっきおりたバス停や箱根関所前の広場にはまだ観光客がたくさん溢れ、その後ろ遥か広くほの暗い芦ノ湖の湖面と山が連なっている。
 微かに不安がよぎる、何か手助けする術(すべ)は・・・その時大勢が一度にバスから降り立った。
 なんとまだ歩いているはずの懐かしい健脚メンバーの顔、々、顔。今朝三島駅で別れたばかりだというのに外国で身内に会えたような懐かしさを覚える。前回の旅で前日特別メニューのお陰で珍道中を一緒した磯村・柳澤さん、洋二さんの笑顔も見えて、こちらに応えて手を振ってくれている。マツダセイコの夏の扉の歌詞さながらの光景だ。近づいてから話を聞くと、歩いていては到底間に合わないと山中城からバスに乗った由。一行はそのまま箱根関所見学へ。
 一方、れいこさんと私はいちはやくホテルについてホッとしながらも、先刻のtelから情報が途絶えたままの四人の安否を気遣っていたところ、なんと暫くすると到着してビックリ。その理由は、機転を利かせたくみこさんが迷子になった山中に程近い国道1号にホテルの送迎車を呼んだからと知り感心してしまう。  ーーー翌日は泣きの雨(略)
 何はともあれ箱根越えは、2016年の春の訪れをしみじみと感じさせてくれて、やはり東海道歩き旅のハイライトにふさわしい、記憶に残る旅となりました。
 清水正宣(1組)


 東海道ハイライト箱根路

 三島駅より私達6人のバス組は山中城跡に向けて出発。北条氏の山城跡で広大な城跡である。4,000から5,000人の武士が守りについていたとか。何と言っても再現された堀障子の美しさに目を奪われる。専属の学芸員のようなS社長の的確な案内と解説でじっくりと見学。駿河湾を遠くに望める素晴らしい眺望に皆感激。それに刺激されてアドレナリンが出たせいか元気になり、4人で箱根関所を目指して歩くことにする。
 地図上では約5キロ、2時間あれば到着と胸算用。(がこれがとんでもない誤算と認識されるのはずっと後のこと。) 趣のある石畳、篠竹がうっそうと茂りトンネルのようになった道などが続く。途中には雲助徳利の碑や兜岩などの見所もあり楽しみながらもあえいで上る。ところが歩けども歩けども後3キロが減らないのだ。まるで狐に化かされているような気持ちになる。それでもようやく箱根峠に到着。ここでまたハプニング,旧道が消えてしまったのだ。行きつ戻りつしたが見つからず、結局タクシーを呼ぼうとホテルに連絡するとホテルより迎えが来てくれた。地獄に仏とは正にこのこと。4時間弱かかってしまった。健脚組は山中城跡からバスで来たと分かりびっくり。皆は歩いたことに驚いたと言っていたが、そんなに驚かれた事に私は驚いた次第である。
 次の日は畑宿に向けて出発。1580年に整備されたという道は苔に覆われ、300余年旅人の汗がしみ込んだ趣のある石畳の街道だった。甘酒茶屋で甘酒を頂いたが、こくのあるこの一杯が旅人の力となって最後の登りを乗り切ったのだろうと想像された。この辺から雨が本降りになり私の危機管理の甘さが露呈。皆しっかり対策をして防水ウェアを着ているのに私は軽装。しかもⅠさん曰く貴婦人が使うようなコウモリでは、雨を防ぎようもなくずぶ濡れになる。畑宿に着いた時は本当に嬉しかった。ここで私の峠越えは終了。
 箱根八里は馬でも越すと唄われた峠だが、この急坂を歩かされた馬はたまったものでは無かったろうにと思う程の急な峠だった。Yさんとお先に失礼したが、私たちは良いとこ取りだったよねと確認しあって小田原で別れた。色々あって思い出深い楽しい旅でした。
 林 (9組)

 箱根越え

 いよいよ箱根越え。4月16日(土)三島駅に集合、参加18名は今までの最大とのことです。天気は晴れ、駅前で記念撮影、歩き組とバス組と別れて出発。今回はツツジの咲く三島大社から始まりました。国道1号線に沿いながら高度を上げていきます。石畳と松並木の残る錦田一里塚で小休止、臼転坂で昼食休憩。題目坂と言う階段を上ると開けて左手奥に富士山が見え、歓声が上がりました。振り返ると駿河湾も望めました。
 すごく急な「こわめし坂」を登り笹原一里塚を過ぎ、国道1号線に合流すると大きな駐車場にバスが連なってビックリ、昨年12月にオープンした三島大吊橋(三島スカイウォーク)の駐車場でした。釣り橋の向こうには富士山、観光客がぞろぞろ、入場料は千円とか、遠くから眺め再スタート。工事中のため迂回させられ14時半山中城址に着きました。天正18年、豊臣秀吉の小田原平定に先立ち、北条氏の山城である山中城で戦いがあったとのこと。修復が進み当時の状況が再現されていました。山中城址からバスに乗って箱根峠を越え神奈川県に入りました。芦ノ湖畔の箱根町で下車、箱根関所を見学、箱根杉並木を通り今夜の宿むさしやに到着。温泉に入って、18時半から大広間で夕食でした。
 17日8時湖畔で写真、歩き組は雨支度をしてスタート。風が強く予報は雨、今日は元箱根から小田原まで下ります。二子山の見えるところまで登り、峠から下りです、雨も降り始めました。石畳の道を滑らないよう注意しながら下りました。甘酒茶屋で大休止、名物の甘酒を頂きました。畑宿近くなるにつれ雨が強くなり、寄木会館で雨宿りを兼ね休憩、バス組とも合流しました。再びスタート、江戸時代の石畳と書かれた旧街道を過ぎるとほぼ国道を下ります。雨も本降りになって、13時前に奥湯本温泉街に入り蕎麦屋で昼食、暖かいお茶を飲みホッとしました。箱根湯本駅まで歩いて、箱根板橋まで箱根登山鉄道に乗りました。青空が見えたり、急に降りだしたり風も強く傘も差せない変な天気でした。東海道線を潜り、小田原城を左手に見て歩き、ういろう屋さんで解散となりました。
 今回は高台から富士山と駿河の歩いて来た道を眺め、温泉につかり、雨の中江戸時代の雰囲気残る石畳を下って、という旅でした。次回は6月、修理の終わった小田原城見学からスタートとのこと。道路標識は日本橋まで90㎞を切りました。楽しみです。
 村居(8組)


三島駅(クリックして拡大)

錦田一里塚跡

山中城跡

芦ノ湖を背景に(クリックして拡大)

甘酒茶屋

畑宿一里塚跡

間の宿・畑、茗荷屋本陣跡

小田原宿、外郎家

第14回 蒲原宿から三島宿へ

(16/3/12-13)

第15次・蒲原宿へ
 2016年3月12日(土)、蒲原駅に集まって、2016年最初の東海道の旅が始まった。
前日から出発して、前回見れなかった清見寺、望嶽亭などを見学したグループとも、蒲原宿西木戸で合流した。
 蒲原宿は、本陣1、脇本陣3、旅籠42軒。元禄12年(1699)の大津波で宿場の大半が流出したため、山寄りに移転した。そのため、道幅が広くとられ、ゆったりとしている。また、国道が旧東海道を迂回したため、江戸期の建物が残り、往時の面影が残っている。蒲原宿は、富士川の舟運の中継基地としても栄えたため、残っている建物も立派。

 格子戸が美しい家を過ぎて、「国登録有形文化財」「東海道町民生活歴史館」の表示がある志田邸では、館長が解説をしてくれるというので中に入った。
 志田家は、醤油醸造を営む商家で、安政の地震の後建て直された家。奥にある醸造蔵は、しっかりした木組み建物を、丸竹を芯にした塗り壁が支えている構造で、大地震にも耐えたようである。
 館長の説明では、江戸幕府が整備した東海道は「57次」で江戸と大坂を結んでいた。幕府資料などを示してあり、間違いなさそう。広重は、幕府の朝廷への献上品を届ける一行に同行して、京までを旅して「東海道53次」の浮世絵を描き、それが大ヒットしたため、東海道は53次と思われてしまったのではないか、とのこと。

 高札場跡は説明看板のみ。左手の小高い山は、蒲原城址。蒲原城は、武田信玄の猛攻にあって敗れた北条新三郎が城主だった。
 本陣跡・佐藤家の建物は大正時代のもの。旅籠和泉屋は天保年間の建物で、安政の大地震でも倒壊しなかった。現在は、国登録有形文化財で、「お休み処」となっている。私たちは、ここでおいしいコーヒーをいれていただいて昼食休憩した。
 江戸期建造の国登録有形文化財の商家、旅籠が建ち並ぶ宿場を歩いて、蒲原橋を渡ったところが東木戸跡。
 すぐ先に、蒲原一里塚跡の碑が立ち、向かい側の法面の上に、北条新三郎の墓標柱がある。

第14次・吉原宿へ
  一里塚の先から、急な上り坂。東名高速道路の上を渡り、しばらく高速道路に沿って歩いた後、急な下り坂を下る。坂の途中の民家の庭先に「明治天皇御駐畢之跡」の碑が立てられている。
 新幹線の高架の下を通り、上り坂の手前の宇多利神社入り口で小休憩。
 東名高速道路の下をとおり、小学校の先に、左右一対の榎が植わった岩淵一里塚が現れた。枝を広げ過ぎたためか、先端を刈り込まれているが、原型を想像させるみごとな一里塚である。
 岩淵一里塚の近くに、富士川の渡船を控えた休憩所として、間の宿・岩淵が設けられていた。当初は、富士川近くに設けられていたが、たびたびの洪水にあって、高台のこの地に移ったとのこと。

 坂を下ると、目の前に富士川が見えてきた。富士川は、川幅が260間、急流のため船で渡していた。大正13年(1924)に橋がかけられるまで、渡船場が使われていたようである。富士川橋を渡ったところに渡船場跡の碑と水神社がある。
 江戸時代、甲州米を江戸まで輸送するため、幕府は、角倉了以に富士川開削を命じて、甲州・鰍沢から東海道・岩淵までの18里(71キロ)を舟運用に整備させた。甲州米は、蒲原宿を経由して江尻湊に運ばれ、江尻の大型船で江戸に運ばれたとのこと。ここで、ようやく江尻宿に「甲州廻米置場跡」(山梨県所有地)が今も残っている理由がわかった。

 曇り空のため富士山も見えず、冷たい風が吹く富士川橋を渡ってからは、旧道をひたすら歩いて、本州製紙工場の脇にある本市場一里塚跡を確認。あと一息、と気持ちがゆるみ、おしゃべりしながら歩いていたが、いつまでたっても吉原宿入口の潤井川が現れない。スマホで位置を確認すると、潤井川の上流に間違えてきていることが判明。
 スマホのナビにしたがって歩いて、鯛屋旅館に着いた時は予定を30分超過し、夕闇が迫っていた。
 吉原宿は、本陣2、脇本陣3、旅籠60軒の宿場で、元吉原と呼ばれる海岸近くにあったが、津波や台風の高潮の被害を受け、2度の所替えで、現在の新吉原に落ち着いた。現在、宿場の面影は殆どなく、富士市の中心の吉原商店街としてにぎわっている。

 鯛屋旅館は吉原宿で唯一残る元旅籠で、大部屋を小部屋に改装して、今風にしてある。吉原宿街おこしの拠点として、大名の宿札や吉原に伝わる生活用品などを展示している。清水次郎長とも交流があったようで写真が掲示してあった。
(第14回一日目の歩数:27,256歩)

吉原宿から第13次・原宿へ
 翌朝、7時半に旅館を出て商店街を歩く。岳南鉄道の吉原本町駅を過ぎると、「見よう歩こう富士市の東海道」という看板があり、宿場の見どころを紹介している。看板の向いている方を見ると、昨日は曇り空で見えなかった富士山が、すぐそこに、すそ野を広げてそびえているではないか。
 富士山に見とれながら歩く。平家越橋のたもとに、平家越の碑、が立てられている。源平合戦のとき、平家軍が水鳥の羽音に驚いて敗走したところがこのあたりだという。

 すぐ先に、馬頭観音と左富士の石碑が立っている。バス停も「左富士」。振り返ってみると、真後ろに富士山が見える。
 少し先に、松が植えられた小公園があり、広重の左富士の浮世絵のレリーフが置かれている。残念な事に、すぐ目の前に工場の大きな屋根があり、富士山は頂のあたりが見えるのみ。江戸から旅してくると、これまで富士山は右に見えていたのに、ここにくると、松並木の間の左側に見えることに感激して「左富士」の絵を描いたのであろう。

 信号を渡った先に、左富士神社がある。神社の境内には、依田橋村一里塚も造られている。境内に、ヘルメットをかぶった人が数人いるので、聞けば、8時半から津波が来るとの想定で防災訓練が行われるのだという。私たちが歩いていると、神社に向かって歩いてくる人達とすれちがった。
 河合橋を渡りながら見ると、川の両岸にレジャーボートがたくさん係留されている。田子の浦港はすぐ近くである。

 吉原駅に着くと、富士山が正面に見える。駅前の鉄骨造りの3階建の建物は、津波から避難するために造られたのだとのこと。避難訓練で集まった人たちが上に上っていた。私たちのグループの何人かも走って行って上らせてもらった。
 吉原駅から原駅までは、松林が続く海岸通りで、名所旧跡もないので、電車を利用した。海岸沿いは松林になっている。
 原駅で降りると、目の前に富士山の雄姿。広重の浮世絵でも、画面からはみだして富士山が描かれている。そんな絵を描きたくなるように、富士山が目の前に美しくそびえている。
 原宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠25軒で小さな宿場であった。本陣の跡は碑が立てられ、立派な松が残っている。

 浅間神社の向かい側に、白隠禅師生誕地と刻まれた大きな石碑が立てられている。敷地の奥には、白隠禅師の産湯の井戸が保存されている。臨済宗中興の祖といわれた白隠禅師が住職を務めた松蔭寺は小規模な寺だが、良く手入れされた松の老木が境内にあり、落ち着いた雰囲気。奥に、白隠禅師の墓所がある。「駿河に過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」といわれるほど尊敬を集めていた。

第12次・沼津宿へ
 しばらく歩くと、松長一里塚跡の真新しい碑が立てられている。すぐ先に、「従是東沼津藩領」と刻まれた傍示石が立っている。沼津宿は近い、と思って歩くがなかなか着かない。
 2キロほど歩いて、ようやく、出口町見付外(沼津宿西見附)の標識があった。浅間神社の境内は桜が咲き始めている。
 交差点を渡った先の、松林の中にある乗運寺には、若山牧水の墓がある。牧水は、大正14年、41歳のとき、千本松原の地が気に入り、500坪の土地を購入して家を建築したが、体調優れず、禁酒を試みるも長く続かず、昭和3年に43歳でこの地で永眠した。
 千本浜公園には「幾山河こえさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞけふも旅ゆく  牧水」の歌碑がある。
 乗運寺の墓所の両側には、牧水と妻・喜志子の歌碑が立てられている。
「聞きゐつつ楽しくもあるか松風のいまはゆめともうつつとも聞ゆ  牧水」
「古里の赤石山のましろ雪わがゐる春のうみべより見ゆ  喜志子」
 沼津宿は本陣3、脇本陣1、旅籠55軒で、沼津城下町を兼ねた宿場として賑わったとのことだが、戦災で昔の建物などは残っていない。

第11次・三島宿へ
 沼津城跡を過ぎ、三枚橋の先に、三枚橋一里塚がある。塚の手前に、玉砥石といわれる柱状の大きな石が2つ置かれている。昔、玉の原石をみがくのに使われたとのこと。
 街道の右側は狩野川の高い堤防が続く。堤防の脇に、日本三大仇討の一つ、平作地蔵尊、が祀られている。説明書きによれば、浄瑠璃「伊賀越道中双六」に出てくる沼津の平作を祀ってあるとのこと。
 県道と合流するところに、小さな祠が置かれている。旅人の安全を祈っているようである。富士山が美しい。

 1キロ程歩いて、また旧道に入る。従是西沼津領、と刻まれた傍示石が立てられている。この辺りには、伊豆石の立派な蔵が散見される。この先の喜瀬川を通って伊豆から運ばれたのだろうか。喜瀬川橋の上からも富士山が美しい。
 橋を渡ると、長沢の松並木が街道歩きの気分にしてくれる。
 すぐ先の八幡神社の入口に、大きく「対面石」と書いた標示板が掲げられている。源頼朝と奥州から駆けつけた義経が対面した時に座った石が、この奥の神社に祭られているとのこと。
 国道を横断した先に、伏見一里塚がある。街道の両側に寺があり、右側が宝池寺一里塚と呼ばれている。昭和60年(1985)改修され、当初の一里塚のように塚の上に榎が植えられている。向かい側の玉井寺一里塚は、長年の間に塚に根付いた木々と榎が調和した森のようになっている。ここからも富士山が美しい。

 少し先の麹屋の向かいに秋葉神社常夜燈があり、その脇に標識が立っている、「新宿・向かい宿」とある。このあたりの町名が「新宿」なので宿場と関係があるのだろう。
 境川橋の下は千貫樋と言われる水路が通っている。橋の脇が、三島宿の西見附跡で秋葉神社がある。
 ほどなく伊豆箱根鉄道の踏切をわたり、樋口本陣跡の小さな碑を見つけた。道路の向かい側に世古本陣跡の碑がある。
 三島宿は、本陣2、脇本陣3、旅籠74軒で、箱根を控えてにぎわった。
 歩いていると、行列ができている「うなぎ」料理屋がある。また「三島女郎衆は今も健在です」と書いた看板を掲げた店もある。
 三島大社は森の中にある。古代より伊豆一宮として崇敬されてきた。嘉永7年(1854)の震災で倒壊したが、慶応年間に再建され、国の重要文化財に指定されている。
 2016年の旅の初めにあたり、三島大社に参拝して旅の無事を祈った。
 (第14回二日目の歩数:34,031歩)

  

参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水正宣(1)、清水洋二(1)、磯村雄二(3)、柳澤信義(3)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、村居次雄(8)、山浦るみ子(8)、清水淳郎(9)、林久美子(9)、藤巻禮子(9)、宮下明子(9)、池田有美子(69期)の15人。

 第14回東海道53次の旅に参加して

 私の東海道の旅は、初参加の第5回(宮宿→鳴海宿)から6回目、姫街道の番外編を入れると7回目となった。前回(府中宿→由比宿)日没などで見学できなかった興津宿の坐漁荘と清見寺、間の宿の望嶽亭藤屋を、一日早く行って観ようという磯村さん提案の企画があったので、前回参加できなかった私は喜んで参加した。
 この企画には他に柳沢さんと正宣さんが加わり、男だけの珍道中となった。一日目は、時々小雨が降る生憎の天気だったが、清水港の魚市場で本鮪大とろ頭肉丼の豪華な昼食を取って気合を入れてから、興津宿まで歩き、坐漁荘と清見寺を見学した。坐漁荘は西園寺公望の別荘で、温暖で風光明媚な興津には、この他に井上馨などの別荘があったということだが、高度成長で周囲の環境が変わったせいか、現在では別荘地の面影はなくなってしまった。坐漁荘も昭和46年に明治村に移築され、現在の坐漁荘は平成16年に復元されたものということだった。近くの清見寺は、総門と山門の間を東海道線が走っているのに驚かされたが、大方丈には朝鮮通信使の詩文・琉球王子の扁額などが掲げられ、江戸の往事が偲ばれた。その後、宗像神社に寄ってから、興津川の河口沿いにある駿河健康ランドホテルに着き、太古の湯で心ゆくまで冷え切った体を癒した。しかしながら、展望レストランからの富士の眺めはこの日も翌朝も見ることができなかった。
 二日目は、薩捶峠からの富士の眺望と望嶽亭藤屋の見学が目当てであったが、富士は由比駅で少し顔を見せただけでこの日も見ることはできなかった。しかし、蜜柑と枇杷の樹園の中を歩く薩捶峠越えは、駿河湾の近くに三保の松原、遠くに伊豆の山々が霞んで見え、富士こそ姿を現わさなかったが、絶景を満喫できた。道沿いには一袋百円のみかんやきんかんが置いてあり、次々と5袋も買ってしまった。薩捶峠を降りたところの間の宿にある望嶽亭藤屋は、前日に予約を入れていたので、ご当主とそのおじさん・おばさんの歓待を受け、山岡鉄舟が官軍に追われて逃げ込んだ蔵座敷に残された最新式フランス製ピストルを見せてもらい、さらに隠し階段を降りて脱出口も開けてもらえて、臨場感を味わうことができた。
 その後、由比から蒲原まではJRで移動し、蒲原宿の手前で第14回の旅の本隊に追いついた。清水から由比までですでに約11.5キロを歩いていたので、吉原宿までの約13キロは、付いて行くのが精一杯で、鯛屋旅館には倒れ込むように到着した。
 三日目も、曇りの予報だったのでほとんど諦めていたが、富士川合戦の平家越、その先の左富士の辺りから、富士の雄姿が突然に現われて感激した。これから一日あちこちで新雪の富士を眺めることができ、今回の旅の最大の愉しみが満たされた。ただ、高度成長以降の工場・事業所などの無計画とも言える立地のため、邪魔されずに富士を見ることは不可能に近かった。唯一、吉原駅の近くで、地震に備えて建てられた3階建ての避難矢倉の上から優美な富士を眺めることができたのは、なんという皮肉かと思った。
 その後、白隠禅師ゆかりの松陰寺、若山牧水の墓のある乗運寺、最後に三島大社を見学して今回の旅は終わったが、三日目の約16キロを合わせると、三日間でマラソンとほぼ同じ約40キロを踏破したことになり、体力の限界を超えるほどであったが、自信にもなる旅であった。また、最終日に富士の雄姿を堪能したことで報われる旅ともなった。

 清水洋二(1組)


蒲原宿・西木戸

岩淵一里塚

鯛屋旅館

原宿からの富士山(クリックして拡大)

松蔭寺山門

伏見一里塚

清見寺

望嶽亭藤屋
    

第13回 府中宿から由井宿へ

(15/11/26-27)

静岡から第18次・江尻宿へ
 2015年11月26日(木)、静岡駅に集まって、府中宿を見学しながら江尻宿をめざす。
 駅から旧東海道に合流する手前にある宝泰寺に立ち寄る。寺は境内面積1万㎡で、江戸時代は朝鮮、琉球の使節が往来する際の休憩・宿泊施設としても使われていた。門は、格式高い日本の寺の門だが、本堂は朝鮮風で、石灯籠も朝鮮風だ。奥に日本風の立派な庫裏がある。

 伝馬町公園を過ぎると、旧東海道の通りに出る。東に向かって200m程歩くと、府中宿の標識と説明板(伝馬町歴史モニュメント)がある。伝馬町自治会が中心になって整備したようで、パンフレットも作って配っていた。
 少し歩くと、横田町公民館の一角に組み込まれたように延命地蔵尊のお堂がある。すぐ先の、国道と合流する所に、府中宿東見付の標識が立っている。ここで、府中宿とはお別れ、江尻宿に向かう。

 JR東海道線と新幹線のガードをくぐり、旧東海道を歩く。しばらく歩くと、旧道に背を向けたお堂がある。前側に行って見ると、曲金観音、とある。鎌倉時代のものらしい。
 曲金の街道標識には、江尻宿境まで8.5k、とある。まだまだ先が長い、と足を速める。
 一時間ほど歩いて、木立に囲まれた護国神社の休憩所に入れてもらって、昼食にした。境内には、自衛官の制服を着た人が数人、参拝に来ていた。

 長沼一里塚跡のすぐ先に、古庄、の街道標識。江尻宿境まで6.1k、とある。曲金からまだ2.4kしか歩いてないのだ。
 国道と別れて、JR東海道線の地下道を渡ると、静岡中央ロータリークラブが立てた、立派な「旧東海道記念碑」がある。東京から歩いて来た人にとっては、地下道への道しるべになっているが、西から歩いて来た人にとっては、地下道の入口に表示もないので、地下道を出て初めて、旧道が東海道線路で分断されたことがわかる。

 2k程歩くと、草薙神社の一の鳥居が立っている。神社本殿は、はるかかなた。日本武尊が東征の折り、賊が草に放った火を天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)でなぎ払い、難を逃れた地だという。
 すぐ先に、草薙一里塚跡の碑があるが、大きな、たぬきの像が並んで立っているのが印象的。
 道が左に曲がる所に、有度、の街道標識。江尻宿境まで2.6k、とある。
 上原子安地蔵堂の先に、久能寺観音道の道標が立っている。かつては、ここが久能山に向かう道の追分だったよう。
 追分踏切を渡ったところに、元追分、の街道標識。すぐ先に、都田吉兵衛の五輪塔が立てられている。清水次郎長が、子分の森の石松の仇、都田吉兵衛を討ったが、その吉兵衛の菩提を弔うために、里人がここに五輪塔を立てたとのこと。
 「是より志三づ道」の道標のところに追分羊羹の店がある。久能山へ向かう道の角で、元禄8年から営業していた羊羹屋。竹の皮で包んで蒸した羊羹で、素朴な味がした。ただ、甘味料にトレハロースを使用しているのは残念。

 ここで清水港の次郎長関係の史跡を見学するグループと別れて、本隊は江尻宿に向かった。
 江尻宿木戸跡を過ぎると、巴川。江戸時代、河川交通の重要な場所であったため、川畔に「船高札」が立てられていたとのこと。
 川に架かる稚児橋の欄干の上には河童の像が置かれている。家康公によって、巴川に橋が架けられ、橋渡りのセレモニーの時に川から童子が現れたのは、川にすむ河童だったのではと思われ、「稚児橋」と呼ばれるようになったとのこと。
 江尻宿は、本陣2、脇本陣3、旅籠50軒。江尻は、海上交通の要衝であったため、家康は42軒の廻船問屋に特許を付与していた。
 第二次大戦で江尻宿周辺は米軍の集中砲火に見舞われ、往時の建築物は現存しない。
 現在の清水銀座通りに、本陣、脇本陣などの宿場関係施設があったが、今は、菓子屋、飲食店、洋品店などのお店が並んでいて、宿場の面影は全くない。「東海道 江尻宿」の説明看板があるのみである。
 清水駅近くにある江淨寺は、家康の嫡男・信康の遺髪を埋め、五輪塔を立てて供養している。

江尻宿から第17次・興津宿へ
 清水銀座通りを左折して、旧道を2キロ程歩くと、右側に大きな松が一本立っている。「細井の松原」の街道標識がある。隣に「無縁さんの碑」と彫られた大きな石が立てられている。街道を旅していて、生き倒れになった人を埋めたところだという。
 しばらく歩くと、袖師ケ浦、の街道標識。興津宿境まで2.5k、とある。興津宿は近い、と思って歩けども、宿場入口にあるという延命地蔵尊がない。通り過ぎたはずはない、と思って歩くと、ようやくありました。ここを右折して、JR東海道線の横砂踏切を渡り、鉤の手に曲がった桝形と思われるところに、「ようこそ興津宿へ」の看板が立てられている。

 日没近く、薄暗い宿場を歩く。坐漁荘は、明治の元老・西園寺公望公が70歳になった大正8年に老後の静養の家として建てられた別荘で、明治村に移築されているが、平成16年、静岡市がもとあったこの地にできるかぎり忠実に復元した。純木造数寄屋造り2階建て、延べ床面積90坪の建物には、観光ボランテイアスタッフが常駐していて案内してくれる。この時、時間は4時30分で、5時まで時間があるので案内します、と言われたが、先を急がなければならないので、記念写真を撮ってもらって辞去した。

 すぐ先にある清見寺は、約1300年まえの白鳳時代、東北の蝦夷に備えて清見関が設けられ、その鎮護のため仏堂が建立されたのが始まり。足利氏、今川氏に崇敬され、家康が幼年時代に教育を受けた寺でもある。江戸時代は、朝鮮、琉球の使節の宿泊所としても使われた、とのことで、左甚五郎の弟子が造ったという山門は風格がある。梵鐘、本堂も立派で、時間が遅かったため内部を見学できなかったのが残念。ただ、足を傷めていたため、一人、車で清見寺に向かった藤巻さんが、内部を見学できたのは幸いであった。

 宿場の中ほどに、興津宿西本陣址、の石碑が立つ。通りの向かい側は、脇本陣・水口屋。水口屋は明治以降も旅館として営業し、政治家、皇族、財界人、小説家などの別荘旅館として愛され、昭和60年に廃業した後はギャラリーとして資料を公開している。ここも、開館時間を過ぎていたため、門が閉まり、看板のみ見て通り過ぎた。
 少し先に、興津宿東本陣址の碑が立てられ、興津宿公園として整備解放されている。が、真っ暗で、小さな街灯が一つあるのみで、夜間の公園利用は想定していないようだった。

 興津駅に着いたのは5時過ぎ、予定より30分遅い。興津駅前から、ホテルの送迎バスに乗って、興津川の河口近くにある、ホテル駿河健康ランドに向かった。
 ここには、12種類の温泉があり、旅の疲れを癒してくれた。
 (一日目の歩数、32,998歩はこれまでで最多)

薩埵(さった)峠を越えて第16次・由井宿へ
 朝ホテルの部屋から、駿河湾と富士山の一部が見えた。朝食会場の12階に行くと、真っ白な富士山がくっきりと見え、薩埵峠からの富士山の眺めが期待された。
 ホテルを出て、国道の下をくぐると、旧東海道に出る。浦安橋を渡り、興津川沿いの道を上流に向かって少し歩くと、興津川渡し場の川越遺跡、の説明板が立っている。

 しばらく歩くと、薩埵峠の入口を示す燈籠が立てられている。右に曲がり、ゆるやかな坂道を上ると、瑞泉寺の大きな石柱がある。ミカン畑を見ながら、さらに上って行くと、秋葉神社の石燈籠が立っている。
 薩埵峠ハイキングコース、の案内板の先の墓地の脇の道を上り、うっそうと茂る木立のトンネルを抜けると、駿河湾と真っ白に雪化粧した富士山が見えた。
 牛房坂を上ると薩埵峠の頂上。休憩所が設けられ、周りに植えられたスイセンは陽だまりでもう花が咲いていた。
 すぐ先に展望台が設けられていて、広重の浮世絵そのままの情景が見える。展望台の下には、松の木が植えられていて、育てば、浮世絵にある二本松のようになるのかもしれない。

 ここからは、ミカン畑の中の道を、富士山を見ながら下る。坂道を降りきったところに一里塚跡の碑が立っている。
 向かい側は、望嶽亭藤屋、広重の隷書版に描かれている老舗だが、土、日を中心に公開されているため見学できなかった。藤屋には、西郷との会談に向かう山岡鉄舟が3月7日に訪れ、藤屋主人の計らいで、ここから舟で江尻の清水次郎長の元に行き、3月9日に府中宿で西郷・山岡会談が実現したという。土日であれば、隠し階段や、鉄舟が残したフランス製ピストルなどを見る事ができたようである。
 間の宿・倉沢は小休憩のための本陣、脇本陣などが残り、往時の雰囲気を感じさせる。宿場の北側は急峻な山が迫り、南側は海岸で、わずかな平地に宿場の家々が立ち並んでいる。宿場の東口には八坂神社の鳥居が立っているが、神社の社殿は山の中腹に見える。
 寺尾地区に入ると、古い民家に「あかりの博物館」の看板がかかっているが、土日のみ開館のよう。筋向かいの「名主の館・小池邸」は公開していて、案内の方が、庭の水琴窟の音を水を流して聞かせてくれた。

 由井駅を過ぎると、「ゆい桜えび通り」という名のとおり、桜エビ、しらすなどを売る店と桜エビ、海鮮料理の店が立ち並んでいる。
 駿河湾の桜エビは、明治になって発見された、とのことなので、弥次喜多さん達は、桜エビではなく、さざえの壺焼きを食べたようだ。道路沿いには、桜エビ漁で栄え、せがい造りの立派な家が散見される。
由井川橋を渡ると、宿場の入口の桝形がある。由井宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠32軒の比較的小さな宿場。
 桝形のすぐ先に、脇本陣が残っている。その隣は、由井正雪の生家と伝えられる、正雪紺屋。400年続く紺屋として、今も染物屋として営業している。

 向かいが、本陣跡。立派な門と物見塔、井戸などが残っているが、敷地内は公園になっていて、東海道広重美術館などがある。
 美術館は、広重の「東海道53次」をはじめとして浮世絵1400点以上を所蔵している、とのことで見学時間を十分にとっておいたが、ほんの一部しか展示しておらず、広重や浮世絵に関する説明パネルは貧弱で、ありきたりの説明のみであった。しかも、ビデオは、NHKが放送したものを録画したもの。1400点も収蔵している、というだけで、浮世絵の素晴らしさを普及する、という気持ちが見られない。宝の持ち腐れ、とはこういうことをいうのだろう、と思った。しかも、入館料は510円と高い。すばらしい収蔵品を立派な建物にしまい込んで、見せないのなら、「東海道広重美術館」などと称する価値が無い。学芸員がいないか怠慢なんだ、などと感想を言い合って、美術館を後にした。

 お七里飛脚の役所跡は、紀州徳川家が設置していた。今は、碑と説明板があるのみ。
 すぐ先が、東の桝形跡。由井宿は東西600mほどの小さな宿場だったよう。
 一里塚跡は碑のみ。江戸から39番目、だんだん日本橋が近づいてくるようでうれしい。
 1キロほど歩くと蒲原駅。ここまでで、今回の旅は終わりにした。
(二日目の歩数、18,450歩)

参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、平林正明(1)、磯村雄二(3)、柳澤信義(3)、石井則男(4)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、山浦るみ子(8)、藤巻禮子(9)、宮下明子(9)、池田有美子(69期)の12人。

 第13回東海道53次の旅に参加して

 数カ月振りに東海道53次の旅に参加。前回、風邪のため参加を断念したためか余計気合いが入った。
 今回は静岡から江尻宿⇒興津宿⇒薩埵(さった)峠を超えて⇒油井宿までの旅。自宅を出る時には雨であったが静岡から歩き始めた時には曇り・晴れと絶好の天候に恵まれ、自称「晴れ男」の面目が保たれた。江尻宿では清水次郎長一家の墓、生家を見学、生家は江戸時代の普通の家で次郎長の開設した船宿・末廣には当時を偲ばれる趣があり感心。また、子弟の英語教育に力を入れていたなど意外な側面もあり驚く。今日は約20km(万歩計33,867歩)歩き、クア・アンドホテル駿河健康ランドに宿泊。種類の多い温泉に癒され疲れが吹き飛んで明日への活力が湧いた。温泉も旅の楽しみの一つである。
 翌日も天候は秋晴れで絶好調。朝食は海岸線を眼下に朝日が昇る富士山を見ながらその雄姿は最高。新興津川橋を渡り、薩埵峠に向かう。昔の旧東海道らしい狭い道を登りきると次第に視界が開け、右に伊豆半島と大海原、正面には冠雪の雄大な富士山の姿が見え始めた。この景色は、万葉歌人、山部赤人が歌った『田子の浦ゆうちいでてみれば 真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける』そのまま現代に引き継がれる圧巻の絶景だ。周りはみかん他の柑橘類が生い茂り穏やかな海と陽気、海と空、富士山が一体化した絶景は何度見ていても飽きない。これぞ街道歩きの醍醐味か・・・今年最後の東海道53次の旅のクリスマスプレゼントか・・・参加者全員!旅に参加してよかったと実感したのではなかろうか。油井宿では油井正雪の生家や浮世絵の広重美術館を見学。「田子の浦」の浮世絵が目につく。
 また、旅の楽しみは現地の名物土産や食事が楽しめること。今回は桜エビのかきあげと新鮮な刺身が圧巻であった。東海道の旅もいよいよ箱根越えに近づきつつあり来年末には日本橋に到着できる模様。次回以降もできるだけ参加し、東海道街道歩きの旅を楽しみたいと思っている。今回も記憶に残るよい旅となった。いつもお世話になっている東海道歩きの仲間に改めて感謝したい。

 平林(1組)


旧東海道記念碑

江尻宿木戸跡

坐漁荘

清見寺

清見寺山門

薩埵峠
(クリックして拡大)

由井本陣跡
(クリックして拡大)


清水次郎長菩提寺、梅蔭禅寺の墓
画像にマウスを置くと次郎長像が出ます


次郎長生家(静岡県観光協会より)
 
  清水次郎長の本名は山本長五郎で山本次郎八の
  養子となり次郎長と呼ばれた。明治維新とともに
  駿河・遠江・三河3カ国の治安維持に当たる。
  清水港開港、三保・日本平・富士裾野開墾など
  社会公益のために尽くした。
  菩提寺には夫人、次郎長、石松、大政、小政、
  仙右エ門の墓が並んでいる。
  賭け事に効ありと墓石のかけらを持ち帰る輩も
  いるという。 (I)

第12回 藤枝宿から府中宿へ

(15/10/31-11/1)

藤枝から第21次・岡部宿へ
 2015年10月31日(土)、藤枝駅に集まって、岡部宿をめざす。
 前回、藤枝宿を見学したので、今回は藤枝駅からバスで岡部宿の手前の松並木まで行く事にしたが、東京駅を1時間早い新幹線で出発して歩いた人が5名。
 岡部営業所南でバスを降りると、「これより東海道岡部宿」と刻んだ石碑と常夜燈があり、松並木が続いている。松並木は旧東海道の古木の間に、補植された松が並び、手入れがされている。大切にされているんだ、と感じ入った。
 松並木が終わった所に五智如来があり、観光案内所がおかれている。ここで、歩き組と合流して、昼食をとる。
 五智如来、とは、阿弥陀如来、釈迦如来、大日如来、阿宿如来、宝生如来の五つ。田中城主の娘の病気が治癒したので寄進されたもの、とのこと。後列の5体が市指定文化財だが、傷みが激しいので前列に復刻の5体が並べられている。明治の廃仏希釈で打ち壊されたようだ。

 少し歩くと宿場入口の桝形。所々に旧家が残る宿場の町並みを歩く。サッカーの中山選手の実家は旅籠屋だったようで、きれいに修復されて建っている。
 岡部宿は宇津ノ谷峠をひかえて、本陣2、脇本陣2、旅籠27軒と比較的大きな宿場だったようだ。
 宿場の中ほどを流れる小川に、小さな石橋がかかり、「小野小町の姿見の橋」と刻んである。小野小町が、晩年東に下る際この橋の上に立ち止まり、水面に映った自分の年老いた姿を見て悲しんだ、とのこと。
 本陣跡は門と土蔵のみを残して、屋敷は取り壊され公園になっている。ただ、屋敷の状態が想像できるように、玄関、台所、上段の間、厠などと石を敷いて部屋割りがされている。本陣(内野家)は建坪174坪もあったとのこと。
 隣が、大旅籠柏屋で、内野家の別家である山内家が営んでいた。天保7年(1836)に完成した、約100坪の建物が残っていて、歴史資料館になっている。町内にあった往時の生活用品・資料なども集めて展示していて、見学したい気持ちはあったが、峠を越えて静岡まで行く事を考えて、のぞき見だけにした。
 岡部宿東口の桝形跡を過ぎて、岡部川沿いの道を歩き宇津ノ谷峠に向かう。

宇津ノ谷峠を越えて第20次・丸子宿へ
 岡部川沿いの緩やかな上り道を歩く。道の駅・宇津ノ谷峠のところで国道と別れ、山道に入ると、右・つたの細道、左・明治の道、の標示があり、真ん中の旧東海道を進む。
 つたの細道は、江戸時代に旧東海道が整備されるまでの間、多くの人が行き来した道。『伊勢物語』に在原業平が詠んだ、「駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人に逢わぬなりけり」は、このつたの細道のこと、とのこと。

 旧東海道に入ると、坂下地蔵堂がある。本尊は聖徳太子の作と伝えられる延命地蔵。境内に、元禄年間に造られた鐘楼があり、地蔵堂としては立派。
 落ち葉と小石のまじる坂道を上って行くと、右手に大きな石碑がある。天保6年に、人馬の安全と天下泰平、五穀成就のために日蓮宗徒の人達が立てた、ひげ題目の碑。南無妙法蓮華経の文字が髭題目と呼ばれる書体で刻まれている。
 小石と落ち葉を踏みしめて上ると、平坦な所に礎石が並んでいる。峠の地蔵堂跡との標示板が立っている。ここは歌舞伎『蔦紅葉宇津ノ谷峠』に登場する舞台である。こんな山中なら、盲人の文弥を殺して100両を奪いたくなるな~、と思ってしまう。
 少し下った所から、眼下に間の宿・宇津ノ谷の集落が見える。竹林と杉林の入り混じる道を歩く。路傍に馬頭観音が二体置かれ、造花が飾ってある。

 間の宿・宇津ノ谷は、周囲を山に囲まれ、昔のままのたたずまい。家には屋号を書いた看板が架けられている。豊臣秀吉が褒美に陣羽織を与え、後に家康が茶碗を与えたというお羽織屋・石川家では、この陣羽織と茶碗を有料で見せている、と言われたが、先を急ぐことにした。
 宇津ノ谷峠の上から、休憩を予定している丸子宿の丁字屋に電話したら、40分ぐらいで着く、と言われ、足取りも軽く国道沿いの歩道を歩いていたが、1時間近くたってもなかなか丸子宿に着かない、と思っていたら、丁字屋から「今、どこですか」と電話がかかってきた。「金色の観音像があるところ」と伝えると、「10分ぐらいで着きます」と言われ、足を速めて歩く。
 日本の紅茶発祥の地・丸子紅茶、の看板を横目で見て歩く。ようやく丸子宿入口の高札場跡があり、丸子橋の先に、広重の浮世絵に描かれた藁葺屋根の丁字屋が見えた。

丸子宿から第19次・府中宿へ
 丁字屋でとろろ汁定食を食べる。契約栽培しているという自然薯のとろろ汁はねばりが強く、麦飯にかけて食べると美味。暖かい味噌汁には畳いわしが入っていて、これも美味。広重の浮世絵や東海道53次屏風などが展示してあって見る事が出来、大満足の丁字屋だった。
 丁字屋の脇には、東海道中膝栗毛の石碑と芭蕉の句碑「梅若葉丸子の宿のとろろ汁」がある。
 丸子宿は、本陣1、脇本陣2、旅籠24軒で、安倍川を控えていた割には小さい宿場。
 宿場の町並みは、古い旅籠らしき家が少し残る程度でほとんど建て替わっている。本陣、脇本陣は碑のみ。見付跡も看板のみである。
 丸子の一里塚は目印のポールがなければ通り過ぎてしまいそうな小さな石碑である。

 夕暮れが迫る中、安倍川に向かって歩くと、正面に富士山が見えて感激した。
 安倍川は南アルプスから流れ出ている川。今の時期、水量は少なく、歩いて渡れそう。江戸時代、川幅は360間で、大井川(720間)の半分である。
 安倍川を渡ると、安倍川餅の石部屋があるが、板戸が閉まっている。安倍川会所跡を通り、秋葉神社の前を過ぎ、七間通りを歩いて、札の辻へ。この辺りが静岡の一番の繁華街で、伊勢丹デパートがある。
 この日から一週間、大道芸のイベントがあるとのことで、通りのあちこちで大道芸が演じられていて、街じゅうが人であふれている。  第一日目の旅はここまでとして、ホテルに向かった。ホテルに着いて万歩計を見てびっくり、3万歩を越えていた。良く歩いた。藤枝駅から歩いた人はさぞかしお疲れだったことと思う。
(一日目の歩数、30,317歩)

府中宿、駿府城跡と久能山東照宮見学
 朝、ホテルを出ると、昨日の大道芸の興奮冷めやらぬ若者たちが、コンビニで朝食を調達して食べていた。車の近くには、スパークリングワインのボトルが転がっている。写真のシャッターを押してあげる、と言われ、躊躇したが押してもらった。
 早朝の静かな市内を歩き、15代将軍・慶喜が明治元年から20年間住んだという屋敷跡・浮月楼を見学した。
 建物は、立て替えられて料亭、結婚式場に使われているが、庭園の見学は「どうぞ」と言われ、見せてもらった。庭園は当時のままのものが残っていて、手入れが行き届いている。

 次に、旧東海道の伝馬町にある、西郷山岡会見之史跡を見る。東征軍参謀西郷隆盛と幕臣山岡鉄舟が江戸での戦争回避、徳川慶喜公の処分などをめぐり会談した。この予備会談の成功が江戸城無血開城につながった、とのこと。
 「ここは東海道府中宿」と書かれた標識が通り沿いの街灯に付けられている。標識をたどって、上伝馬本陣脇本陣跡と下伝馬本陣脇本陣跡を見る。府中宿の様子を描いた宿場絵が立ててあり、絵の中に現在地が標してありわかりやすい。
 府中宿は、本陣2、脇本陣2、旅籠43軒、宿内人口14,071人で、江戸に次ぐ都市として賑わったようである。

 駿府城は家康が大御所として晩年の10年を過ごした城。明治維新後、二の丸堀の内側は軍隊の駐屯地とされたため、御殿や櫓は壊されたが、巽櫓と坤(ひつじさる)櫓が復元されている。発掘調査により、埋め立てられていた本丸堀の一部が復元され、堀を結んでいた水路も復元されている。
 清水淳郎さんの案内で駿府城跡を見学したが、城内は大道芸大会のため、人出がすごく、ゆっくり散策する状況でなかった。ただ、櫓の内が展示施設になっていて、出土品や天守復元模型などが展示されて興味深い内容だった。

 この後、駿府城跡の喧騒を抜け、バスで日本平へ。ここからロープウェイで久能山東照宮に向かった。
 家康が75歳で亡くなると、遺命により久能山に葬られ、1年7カ月という短期間に東照宮が建造された、とのこと。権現造り、総漆塗り、極彩色の社殿は国宝に指定されている。また、博物館には徳川歴代将軍のよろい、かぶと、刀などが展示されている。スペイン国王フェリペ3世から贈られた時計は、当時のままで保存されているので、海外からも注目されているようだ。
 見学後、眼下を見ると、海岸沿いに温室が白く光っていた。石垣いちご栽培用という。
 ロープウェイとバスを乗り継ぎ、静岡駅に戻り、今回の旅を終えた。
(二日目の歩数、14,216歩)

参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水洋二(1)、磯村雄二(3)、柳澤信義(3)、石井則男(4)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、村居次雄(8)、山浦るみ子(8)、清水淳郎(9)、藤巻禮子(9)、宮下明子(9)、池田有美子(69期)の14人。

 思い出多き駿河路

 瀬戸の染飯(そめいい)はくちなしの黄色で色づけたおこわで、戦国時代から評判の道中食という。藤枝駅近くの喜久屋にあるというので途中で先発隊5人分を予約した。店頭には並んでいないが蒸し上がりが確保してあった。むすび2個入りで260円。お昼に後発隊と分けて食べたが好評だった。
 今回は宇津ノ谷峠の山道、丁字屋のとろろ汁、駿府城と思い出に残る場所を歩き、久能山東照宮まで足を延ばした。天気にも恵まれ、素晴らしい旅でした。京都に向かうグループが多かった。
 岡部宿で初亀醸造の純米酒岡部丸を購入。来年のNHK大河ドラマは真田丸、ラグビーは五郎丸、落語は染谷高校卒業の三遊亭鬼丸だ。
 石井(4組)


岡部宿・大旅籠柏屋

とろろ汁の丁字屋

ホテル前
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浮月楼

駿府城・巽櫓・弥次喜多像

駿府城・東御門
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駿府城・坤櫓

久能山東照宮

第11回 掛川宿から藤枝宿へ

(15/9/26-27)

掛川から第25次・日阪宿へ
 2015年9月26日(土)、掛川駅に集まって、日坂宿をめざす。
 前回は掛川宿入口から掛川城跡の見学までだったので、今回、掛川宿を歩く。
 掛川宿は城下町も兼ねた宿駅だが、本陣2、脇本陣0、旅籠30軒で、長さわずか8町の小規模の宿場町だった。
 現在、宿場の面影は無いが、敵の進入を防ぐため、新町七曲り、が設けられていた。
 城の大手門を過ぎてしばらく歩くと、新町七曲り。かつては、終点に木戸と番所があったとのこと。
 少し先に、「塩の道」の標識がある。ここから信州に塩が運ばれたのかな、などと話しながら歩くと、東伝寺を曲がった先の、塩井川の橋の手前に葛川一里塚跡がある。右の塚が現存し、左の塚は無いが、左の塚の跡と思われるところに、江戸時代創業の「振袖餅」を売る菓子屋が目についた。茶店の名残だろうか。名物、振袖餅を買って食べてみた。中に小豆の餡が入った求肥の餅で、振袖の形に細長く作ってあるので、この名がついたとのこと。
 国道に出る手前の如来堂の脇にベンチがあったので、ここで昼食をとる。

 昼食休憩の後、国道の歩道を歩く。伊達方から旧道に入った所に、「歌人 石川依平翁生誕地」の碑がある。すぐ先に、伊達方一里塚跡。話しながら歩くと、一里はわけなく過ぎる。
 八坂橋の所でまた国道に入り、しばらく歩くと事任八幡神社の杜が見えてきた。
 事(こと)任(のまま)八幡神社は坂上田村麻呂東征の際に植樹したという御神木の杉の巨木がみごとで、『枕草子』にも出てくる由緒ある神社で、参詣すれば、願い事のままに叶う、と信仰されてきたとのこと。
 事任八幡神社本宮入り口のところから旧道の上り道にはいる。「日坂宿宿場口」の案内看板があり、しばらく上ると古宮橋。橋を渡った所に、下木戸跡の説明板と高札場が復元してある。
 日坂宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠屋33軒の小さな宿場だったが、「小夜の中山峠」の西麓に位置し、大井川の川止めなどもあったため、かなりの賑わいだったようである。
 大きな秋葉山常夜燈の向かい側に、旧旅籠「川坂屋」がある。川坂屋は大旅籠で上段の間があり、士分格の者も泊った。掛川市の重要文化財に指定されているとのことで、案内していただいた。庭には、石灯籠が置かれ、掛川城主から譲られたという茶室が移設されている。
 隣の「萬屋」は庶民の旅籠、その先の「藤文」は問屋役を務めたとのこと。脇本陣・黒田屋は看板のみ。
 本陣は門のみが残る。明治期は日坂小学校の敷地となり、家屋は校舎として使われていたとのこと。

中山峠を越えて第24次・金谷宿へ
 日坂宿出口にある秋葉山常夜燈を過ぎ、国道を渡ると、中山峠への急な上り道が現れる。喘ぎながら上ると、右手に稲荷大明神がある。さらに上ると、少しゆるやかになった所に、広重の中山峠の浮世絵をはめ込んだ碑が置かれている。道の真ん中に「夜泣き石」が落ちていたところだという。反対側には、「夜泣き石跡」の碑が立てられている。現在、石は県道脇に移されているとのこと。
 茶畑を左右に見ながらゆるやかな上り道を行くと、右手に、「涼み松広場」の碑がある。かつて、ここに大きな松の木があり、芭蕉がこの下で句を詠んだという。以来、この松を涼み松と呼んだとのこと。
 「命なり 僅かの笠の 下涼み 芭蕉」とある。
 この広場の向かい側の、茶畑の中に、松の根元で自害した妊婦の墓があり、「往古懐妊女夜泣松三界万霊」と刻んである。

 ようやく平坦になった茶畑の中の道を行くと、左手に白山神社の社がある。茶畑では、今年最後の茶摘みが機械で行われている。茶の木には白い花がちらほら見え、のどかな風景である。
 小夜鹿一里塚跡の先に、大きな銀色の給水タンクと天皇杯受賞工場と書かれた大看板が見えたので、工場に入って行くと、おいしいお茶を飲ませてくれた。
 すぐ先が中山峠の上。小夜の中山峠公園があり、西行の歌碑が立てられている。
 「年たけて また越ゆべきと おもひきや いのちなりけり 小夜の中山 西行」
公園の向かい側にある茶店・扇屋で名物子育て飴を箸に巻いてもらって、なめながら歩く。
 久延寺は奈良時代の行基が開基と伝えられている名刹。境内にある石は、夜泣き石と同じ形で、「南無阿弥陀仏」と書かれていて、県道脇に移されている夜泣き石と本物争いがあるようだ。

 ここからが、急な下り坂で膝がひきつりそう。道の左右は一面の茶畑。自動車や機械が無い時代はさぞかし茶摘みは大変だったろう、と思う。
 急坂を下った所が、間の宿・菊川。菊川の里を過ぎると、菊川坂石畳の上り道。急な上りで、丸くなった石が敷かれた道は滑りそうだが、石の間に雑草が生えていて滑り止めになっているので、なんとか上り、諏訪原城入口のお休み処で一休みした。
 この先の金谷坂を下りると、金谷駅。ところが、平成3年に町民600名の参加で復元されたという、金谷坂の石畳は最悪だった。使われている石は、山石ではなく、大井川の河原の石と思われ、丸くて表面はつるつる。敷き詰めた石の間に、土や雑草がないうえ、前日までの雨で濡れて滑るため、転倒者続出、皆、膝を痛めてしまった。
 中山道の十曲峠の石畳も歩いたが、山石を平らに切り並べてあったので下り道でも滑る事は無かった。箱根の石畳も歩いたが、こんな丸い川石を敷き詰めたものでなく、歩きやすかった、云々。金谷坂の石畳は、見かけだけを優先して、綺麗にできているが、旅人が歩きやすいものではない、ということで参加者の意見が一致した。
 石畳茶屋は5時近かったので閉まっていた。駐車場で一休みして、金谷駅まで歩き、電車で島田駅に行き、宿泊。
(第11回一日目の歩数、29,586歩)

金谷から大井川を越え第23次・島田宿へ
 翌日、島田駅から金谷駅まで戻り、大井川へ向かって歩く。
 金谷宿は、本陣3、脇本陣1、旅籠屋51軒で、大井川西岸の宿場として繁栄したようだ。
 駅の近くのJR東海道線のガードの脇に、金谷一里塚跡、の説明板が立てられている。
 現在の金谷宿は街道時代の面影はないが、脇本陣跡、柏屋本陣跡、佐塚屋本陣跡、山田屋本陣跡、の説明板が立てられている。
 街道歩きで、今回、初めて目にした説明板が「お七里役所跡」というもの。徳川御三家の紀州藩が、藩の重要書類などを運搬する飛脚の継ぎ立てをする役所、として七里ごとに設置していたものとのこと。
 おうかんばし、を渡ると、秋葉社があり、「八番宿跡」などと書かれた看板をかけた家が並んでいる。一番から拾番まであったようである。

 江戸時代の大井川の川幅は、720間あったという。ここを渡るには、徒歩渡りしか認められておらず、旅人は「越すに越されぬ大井川」と難儀したようである。
 大井川橋の手前に石碑が立てられていて、昭和3年に架設された鋼製のトラス橋で、1026.4mあるとのこと。天竜川橋が1200mだったので、少し短い。
 この日は風もなく、橋の脇に歩行者用の通路が設けられているので、大井川の流れを見ながら、ゆっくり渡った。
 橋を渡り、堤防沿いの道を川下に少し歩いたところに立派な島田市博物館が建てられている。ただ、渡川関係の資料は、河原町の中ほどにある、島田市博物館分館に展示してある。
 川越場と民家との境には、増水の時、民家まで水が流れ込まないように造られた、せぎ跡が残っている。
 川越しを管理していた川会所には川庄屋の人形が置かれ、今にも声を掛けられそうなほど良くできている。籠を乗せて運んだ連台や人を乗せて運んだはしご、など興味深かった。 また、川会所の庭には芭蕉が馬で大井川を渡った時の句碑が立てられている。
 「馬方はしらじ時雨の大井川 芭蕉」
 札場、仲間の井戸、口取宿などの史跡が復元されて並ぶ河原町を歩いて、川越の開始と終わりを告げた鐘のある大善寺の前を通り、島田宿の入口にある大井神社に着いた。

 大井神社の入口には、江戸時代、川越稼業の人足が、大井川から持ってきて積んだという土手石垣がある。この石垣を平らに坂道に敷き並べたのが、金谷の復元された石畳だ。こんな石垣のような石畳を歩かされたので、転倒したり、膝を痛めたりしたんだ、旅人に優しくない、と恨み言葉が出てしまう。
 島田駅入口を過ぎて、しばらくすると、昨夜泊ったホテルの手前に、島田宿本陣跡の案内板とからくり時計が立てられている。奥に、御陣屋跡と御陣屋稲荷神社がある。
 島田宿は、本陣3、脇本陣0、旅籠屋48軒、国内最大級の難所、大井川を控えて栄えたようである。大井川は、最大29日の川止の記録がある。

島田宿から第22次・藤枝宿へ
 島田一里塚跡を過ぎると、国道の歩道をひたすら歩く。
 JR六合駅を過ぎた先の一里山で旧道に入る。ようやく上青島一里塚跡。昨日の疲れが出て、足どりが遅くなる。所々に、旧東海道名残の松並木がある。
 稲川橋を渡った先に、「本陣八百屋」があるが、これは本陣とは全く関係ない。道のすぐ先に一里塚跡があり、瀬戸川に架かる勝草橋を渡った所が西木戸門跡、藤枝宿の西口である。
 藤枝宿は、田中城の城下町でもあった。本陣2、脇本陣0、旅籠屋37軒だった。現在は、伝馬町といった宿場らしい町名が残っているが、本陣跡、問屋場跡などは、歩道に埋め込まれた敷石にその名が残るのみである 。

 徳川家康ゆかりの町、として白子の町名が残されている。本能寺の変の後、家康は伊勢・白子経由で海路尾張行きを図ったが、その際、白子の小川孫三が船を仕立てて支援した事に感謝して、藤枝宿に居住させたとのこと。「白子由来記」を刻んだ碑が立てられている。
 また、宿場西口近くにある、正定寺の本堂前には、傘状に枝を伸ばした本願の松がみごとである。これは、念願かなって、大阪城代となった田中藩主・土岐頼稔が寄進したもの。
 大慶寺には、日蓮上人が植えたという樹齢700年の久遠の松が、高さ25メートルにもなっている。
 今回の旅は、この藤枝宿までとした。
(第11回二日目の歩数:25,124歩)


参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水正宣(1)、清水洋二(1)、磯村雄二(3)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、山浦るみ子(8)、宮下明子(9)、池田有美子(69期)の10人。

 最高に充実した2日間

 いつもの気楽な歩きが切り替わったのは、日坂宿だった。とんでもない急勾配と、素晴らしい景観が待っていた。一気に登りつめ山頂に至ると、一面の茶畑。茶畑の中を辿る道は小さな歌碑や案内板がつつましく立っているだけ、人も車も殆んど通らない。延々とあまたの人が歩き続けた道を、自分も今辿っているのだと感慨深かった。
 ところが行程の最後の「平成の道普請」、このまがいものの石畳にそれまでの幸せ気分を一気に吹き飛ばされた。
 翌日の大井川の川越遺跡は、仰々しくないがリアル、心地よい空間だった。
 この2日間、街道筋にありがちな押し付けがましい過去再現にあまり出くわさなかった。それが丁寧にきちんと歴史を取り込めたことにつながった気がする。あたかもいろいろな時代や出来事を体験してきたような気分で帰途についた。最高に充実した2日間でした。
  山浦(8組)

掛川城大手門
掛川城大手門
日坂宿本陣門
日坂宿本陣門

中山峠・西行の歌碑前
中山峠・西行の歌碑前
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菊川坂・上り口
菊川坂・上り口
大井川・川会所
大井川・川会所
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大慶寺・久遠の松
大慶寺・久遠の松



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