参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、磯村雄二(3)、柳澤信義(3)、石井則男(4)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、村居次雄(8)、山浦るみ子(8)、清水淳郎(9)、林久美子(9)、池田有美子(69期)の12人。
戦略的踏破主義
私は、この東海道53次の旅の常連ではありませんが、今回は東海道の丁度真ん中の宿場であり東海道全体を押さえる上で戦略的に最も重要ではなかろうかと考えて参加しました。(後から全体に追いつくことが絶望的な場合、全体踏破は諦めて、効率的に踏破することだけを考えます。これを戦略的踏破主義と呼びます。)
旅ゆけ〜ばぁ〜 駿河の国に〜茶の香り〜、名代なる東海道ぉ名所古跡の多い所ぉ〜
ご存知の広沢虎三の浪曲、遠州は森の石松の一節であるが、今回の旅はこの遠州は浜松から掛川までのおよそ8里の旅でした。朝から歩けば1日で歩ける距離ですが、我々はのんびり2日を掛けて道草を食いながら(文字どおり路傍の木の実を喰いながら)歩きました。そして季節は初夏、季節の草木、花などの自然を満喫しました。
東海道は古代より日本の幹線道路であり、名所古跡の見どころが満載であろうと思いますが、現存しないものが多く、現在在る城郭、神社仏閣などは昭和に再建したようです。
浜松では、浜松城、掛川では、掛川城などを見ることができました。
それから明治初期のものですが、金原明善記念館や旧見付学校を見学することができました。どちらでも、親切な説明ガイドが展示でその成立ちを詳しく説明していただいくことができて大変勉強になりました。
沿道の風景は、季節は初夏で、5月末の沿道は花と緑が盛んでした。
浜松はさすがに花の博覧会が開催された場所であって広場や沿道には立派な花壇がたくさん飾られていた。そして見付宿に至るまでこの地方の沿道にはやはり花壇や植木、りっぱな庭がある家が多く見られたが、沿道には庭木がしげるに任せた家もあって、きんかんやびわなど木の実がびっしりと実をつけていたので、それをみんなで勝手に採っていただいた。我々が小学生の頃は貧しかったせいか、おやつがわりに、ぐみ、すぐり、くわのみ、あんずなど庭先や山野の木になる実を食べて育ったのであるが、その習性がまだ残っているようで、その姿、いと可笑しかった。
あそこにクチナシの花があると言われて見るとそれらしき白い花があった。クチナシの花〜は歌で有名であるが、私は実際に見たことがあったかどうか記憶が定かで無い。あらためて調べてみるとクチナシは静岡県以西に分布し5月に白い花が咲くと書かれているので、今回の旅だから見ることができたのだと納得した。
遠江国分寺跡近くの府八幡宮の境内で、ナギの木を見つけたと指差す人がいた。この葉は横に裂けず縦に裂けることが特徴であるとのこと。見ると葉脈が主脈を中心にして横に拡がっておらず、縦方向に一直線に並んでいる。珍しい植物なので、後日図鑑で調べてみるとナギは広葉樹ではなく、銀杏と同様に針葉樹に分類されていた。
旅は、場所と季節の出会い、いろいろな植物との出会いの場だと思います。
東海道の旅は、どの場所でも時間と空間が重なり合って存在しているように思います。
東海道の過去と現在を同時に見ることもできます。例えば、見付本陣跡から愛宕山入口と書かれた坂道を登ると、見付の名木松とか花壇があり、更に進むと「三ヶ野坂の七つ道」に至る。ここは時代により道路が少しずつ位置を変えていることが良く分かる場所のようです。この「三ヶ野坂の七つ道」は、それを端的に表しており、掲示板の地図によれば、奈良の古道、鎌倉の古道、江戸の古道があったが、明治の道からは、明治、大正、昭和、平成の道が次々とできて、だんだんと変化がスピードアップしているようである。
少し進むと東海道の松並木がわずかに残されている場所があったが、松のみどり(新芽)が伸び放題で、ほとんど手入れはされていないようだ。旧東海道の標識はあるが、史跡として大事に保存されてはいないように思う。太田川を渡ると木原に入り、木原の一里塚があったが、少し先に一里塚跡と標識が立ってそこには民家が建っているので、どうやら住宅建設を優先して一里塚を移動したのではないかと推測せざるを得ない。こんなことが本当にあって良いのかと思う。
安藤広重の東海道の風景には行き交う旅人の姿が大勢描かれているが、現在は時々中学生が自転車で通学する姿しか見られなかった。これは時代の変化なので仕方はないが、いつ頃から変わったかと思うと、ごく最近になって、急速に変化しているように思う。
人影の少ない街道、閉じた商店が多い中で、介護施設や整体医院が多く目立っていたが、これは過疎化、高齢化が進行するどこにもある地方都市の特徴であろう。
国道脇でも都市部より地価が安いためか、空き地に古紙回収やステンレス製品など広大なリサイクルセンターが建設されていた。自動車の整備工場の前には、車検、修理ができますなどとポルトガル語かスペイン語で書かれた看板があったが、この付近では南米から働きに来た人達が多いのであろうか。これも最近に増えた風景である。こうなると近い将来、東海道の風景は日本から完全になくなるのではないかと思われる。
町並みを外れるとあたりは広々と田園風景であるが、水のない水田(減反政策のため?)皐月が終わる日にサノ神様は山に帰るとされるが、この日は5月末日にまだ稲の苗が田植されない様子を見ては、サノ神様もさぞかし不安で山に帰れないのではなかろうか。
木原畷古戦場跡は、徳川軍、武田軍が激しく争った場所のようだ。敗軍の将の霊を鎮めるために木原念仏踊りが始まったようである。いつの時代も庶民は平和を願っているようだ。木原権現社の境内には徳川家康の腰掛石などがあったが、この近くの氏子達が平成7年に神社に寄進したものであろうか、石の置物と石碑があった。石碑には「平和50年を六蛙(迎える)」と刻まれていて、その隣の6匹の蛙の誇らしげに下から見上げている姿が平和でユーモラスであった。しかし、今年から数年後にその隣に「平和70年でひっくりかえる」の碑が建ったとしたら、これはもう笑ってはいられないのではと思った。
以上、纏まらない雑多な感想でした。
お礼
袋井は、東海道53次のど真ん中の宿場ということである。木原からまもなく袋井のはずれには至ったが、歩けど歩けど袋井のど真ん中には到着せず、夏の暑さにバテ気味でしたが、ようやくど真ん中に到着したところ、幹事の清水さんの親戚の方がここにお住まいとのことで思いがけずのお出迎えを受けて、名物のぼたん餅や冷たいお茶のおもてなしをいただき、生き返ることができました。
清水さん、その他いろいろとお世話いただき有難うございました。
柳澤信義(3組) |