会報うえだ 93号(日本橋にゴール 東海道53次の旅が完結)
会報うえだ 92号(藤枝から三島) 会報うえだ 91号(二川から藤枝)
(4)小田原宿から日本橋、大阪 会報うえだ 90号(岡崎から二川)
(3)掛川宿から小田原宿 会報うえだ 89号(宮の渡しから岡崎)
(2)有松宿から掛川宿 会報うえだ 88号(土山宿から桑名宿)
(1)草津宿から鳴海宿 会報うえだ 87号(草津宿から水口宿)
番外編2 姫街道 (見附宿から嵩山宿まで、浜名湖北の陸路を歩く)
番外編 佐屋街道 (熱田から桑名へ、七里の渡しを歩く)

第10回 浜松宿から掛川宿へ

(15/5/30−31)

天竜川を越えて第28次・見付宿へ
 2015年5月30日(土)、前回解散した浜松駅に集まって、天竜川をめざして歩く。
 浜松駅前には、徳川家康400年忌と浜名湖花祭りを記念して、ツゲで作った「家康くん」のトピアリーが置かれている。
 東海道をしばらく歩くと、「外木戸跡(馬込橋東)」の標識が立てられ、ヒマワリが植えられている。国道の歩道歩きは、上下から熱気が伝わりきついけれど、植栽があると気持ちがなごむ。
相生町に、馬込一里塚跡。この辺りは、江戸時代は「向宿村」だったので、向宿一里塚ともいわれている、とのこと。
 「子安」の信号で、国道と別れ旧道に入る。車の通行量が少なくなり、歩きやすいが、舗装された道の歩道で、緑陰が無く暑い。
 浜松アリーナの先の、六所神社の隣の児童公園で昼食休憩。天竜川を見ながら昼食、と思っていたが、暑さで歩調が遅くなり、到達できなかった。

 昼食後、元気になって、所々に東海道の名残の松並木がある旧道を歩く。安間川を渡った先に、安間一里塚跡の標識が立てられている。ここから、本坂越え道(姫街道)が別れていたようで、起点の標識が立てられている。晩秋に、この姫街道を歩こう、との提案があった。
 すぐ先の、大きな屋敷が、金原明善の生家。通りの向かいが、明善記念館になっている。天竜川の治水、植林事業に一生をささげた郷土の偉人、として顕彰されている。
 この辺りは、「中野町」。江戸と京都へ約60里、東海道のちょうど真ん中であることからこの名がついたとのことで、江戸時代は「中の町」といわれていたと、十返舎一九の東海道中膝栗毛に記されているようである。天竜川の手前にある六所神社の前に「東海道中間地点」の標識が今も残されている。また、町の中ほどには、かやんば高札場跡の標識もある。
 中野町は天竜川の水運を利用した物資の流通拠点として栄えた町で、白い波模様が特徴の「伊豆石の蔵」が多く残されている。これは、木材を江戸へ運んだ廻船が、帰りに伊豆で積み込み流通させたものとのこと。
 天竜川は、江戸時代は渡船が使われていた。明治7年に小舟を並べた「舟橋」が、同9年には「木橋」ができ、昭和8年にようやく鉄橋の天竜川橋が完成した。
私たちは、新天竜川橋(約1200m)に設けられた歩道を、強い川風に帽子を飛ばされないようにして歩いて渡った。

 橋を渡って、川沿いに少し下ったところに「天竜川橋跡」の石碑が立てられている。これは、明治9年に架けられた木橋の位置を末永くとどめるために建てた、とのこと。
天竜川沿いの道を左折して、しばらく歩くと、長森立場跡。東海道の松並木の名残の松が所々にある旧道を2キロほど歩くと、彫刻の施された秋葉山常夜燈があり、すぐ先に宮之一色一里塚跡。片方の塚が残り、上に松が植えられている。
高砂香料の工場の脇を通って、ゆるやかな大乗院坂を上ると、中泉。古い町並みが所々に残る、見付宿の入口である。宿場の桝形のところにある、IWATAステーションホテルがこの日の宿。旅の途中で採った野生のビワを夕食のデザートに食べて、明日の旅に備えた。
(第10回一日目の歩数、25,468歩)

磐田・見付宿から第27次・袋井宿へ
 朝、磐田駅前の樹齢700年というクスノキの前で記念写真を撮ってスタート。
 ジュビロード商店街(旧東海道)を100mほど歩くと、右側に府八幡宮、左側に東江国分寺跡がある。
府八幡宮は奈良時代の創建の神社で、本殿は徳川二代将軍秀忠の娘・東福門院の寄進とのことで、修復工事中であった。
 東江国分寺跡は、発掘調査で、寺域180m四方と推定され、本堂跡、塔跡などの礎石が並べられて当時をしのばせている。地元の方の話では、七重の塔の図面が見つかっているので、復元をのぞむ動きがあるとのこと。
 加茂川を渡った所が、木戸跡。ここから左に行く道が姫街道、右は東海道である。
 見付宿は「あばれ天竜」を控えた川越宿場として繁昌し、本陣2、脇本陣1、旅籠屋56軒を擁していたとのこと。当時の建物としては、脇本陣の薬師門が移設されて残っているぐらいで、本陣跡、脇本陣跡、問屋場跡などは標識のみである。

 ただ、旧見付学校は、明治8年に建てられた現存する日本最古の木造擬洋風小学校舎。基礎の石垣は遠州横須賀城のものを使い、正面は伊豆石の石段で、玄関はエンタシス様式に近似した飾り柱を配している。館内には、明治期の授業風景を再現してあり、教科書や児童の作品なども展示されていて興味深かった。展示資料だけでなく、学芸員の方の説明も興味深かったので、予定外の時間を過ごしてしまったが、今後、この施設見学のためだけに来る事は無いと思い、見学した。
見学後、袋井宿への道を急ぐ。阿多古山一里塚跡の脇に見付宿木戸跡。一里塚の上に十王堂があるというが、見ずに先を急ぐ。

 しばらく歩くと、旧東海道松並木が残り、松の根元にはアジサイ、ペチュニア、ベコニアなどが植えられている。誰からともなく「休憩しよう」ということになって、一休みした。
 休憩後、暑いが、足取りも軽くなり、歩くと、三ケ野公会堂の脇に「従是鎌田山薬師道」の碑。少し先に、「江戸の古道」の碑があり、この道をたどる。明治の道、大正の道、鎌倉時代の道が別れ、「三ケ野七つ道」と言われ、わかりにくい場所のようである。
 急坂を下りると、旧東海道松並木が両側にある。後世、補植されたため、距離は短いが両側に残っているのは、歩く者にとってはうれしい。
 ここで、時計を見ると10時30分、袋井宿に着く予定時刻を1時間過ぎている。旧見付学校見学に時間を費やし過ぎたようだ。
 太田川を渡り、木原畷を過ぎ、郷社許禰神社の先に、ようやく木原一里塚跡。阿多古山一里塚から、まだ一里しか歩いていない、とは思えない。暑さのせいだろう。「疲れたやつが見付ける一里塚」である。

 1キロほど歩くと、ようやく袋井西小学校。袋井宿に近づいたようで、足取りが速くなる。
 御幸橋を渡ると、「従是袋井宿」の標識が立ち、高札場跡が復元してある。宿場の中ほどには、袋井宿場公園が設けてある。中に入って一休みしたくなるが、到着予定時間を2時間オーバーなので、どまんなか茶屋をめざして歩く。
 袋井宿は本陣3、旅籠50軒で、諸大名の参勤交代を始め、商人、秋葉への参拝客で賑わう宿場町だった。また、袋井宿は東海道53次のちょうど真ん中にあるので「どまん中」の宿場として、「東海道どまん中茶屋」を建てて、湯茶の接待をしている。
 茶屋に着くと、東海道を歩いている事を知った、上田高校の72期生の小林君(袋井市在住)が、可睡斎名物の、ぼたん餅をどっさり、持って待っていてくれた。茶屋のサービスのお茶とぼたん餅をお腹いっぱい食べて元気になった。茶屋には囲炉裏も設けられていて、地元の方々による湯茶のもてなしの心尽くしは歩き旅の疲れを癒してくれた。新茶の時季なので、お茶もおいしい。
 袋井宿到着が2時間遅れになってしまったため、掛川城の見学時間が、帰りの新幹線の時間を考えると、わずかになってしまうため、予定通りの新幹線で帰りたい人は、掛川駅まで電車を利用し、帰りの時間に余裕のある人は、掛川城まで歩くこととして、2組に別れた。

第26次・掛川宿へ
 歩き組は、袋井宿を出ると、掛川城までの9.6キロを、ぼたん餅の力もあって約2時間半で歩き、掛川城に着いた。
途中、秋葉燈籠、可睡斎道標、東海道松並木、久津部一里塚跡、大池一里塚跡を通過して、掛川城着。電車組と合流した。
広重の浮世絵に描かれている秋葉山一の鳥居(唐銅製)は、戦時中に供出されて今は無いのは寂しい。
 電車組は、袋井駅から掛川駅まで電車で移動し、掛川駅から掛川城まで歩き、掛川城跡と御殿をゆっくり見学した。天守閣、御殿(国重文)ともにボランティアガイドが配置されていて懇切丁寧な説明をしてくれた。

 掛川城は、1854年、安政の東海大地震によって大半が倒壊したが、御殿は再建され、明治元年まで掛川藩で使われた。現存する城郭御殿としては、京都・二条城など全国4か所しかない貴重な建築物とのこと。
 御殿は、7棟よりなる書院造で、部屋はそれぞれの用途に応じ20部屋に別れている。床面積は287坪(創建時330坪)あり、この他に奥御殿(現在は博物館)がある。
 掛川城の拡張や城下の整備を行い、初めて天守閣を造ったのは山内一豊だが、関ヶ原の戦いの後は、掛川城は、譜代大名が城主を務め、将軍の上洛などの時の宿泊所としての役割も果たしたようである。
 天守閣は、平成6年に木造で再建されたとのこと。外観3層、内部4階からなり、総床面積92.25坪で大きくはないが、軒の唐破風や火燈窓は、風格がある。
 掛川宿は、次回の東海道の旅で歩くことにして、掛川駅から帰路についた。
(第10回二日目の歩数:24,015歩)


参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、磯村雄二(3)、柳澤信義(3)、石井則男(4)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、村居次雄(8)、山浦るみ子(8)、清水淳郎(9)、林久美子(9)、池田有美子(69期)の12人。

 戦略的踏破主義
 私は、この東海道53次の旅の常連ではありませんが、今回は東海道の丁度真ん中の宿場であり東海道全体を押さえる上で戦略的に最も重要ではなかろうかと考えて参加しました。(後から全体に追いつくことが絶望的な場合、全体踏破は諦めて、効率的に踏破することだけを考えます。これを戦略的踏破主義と呼びます。)

 旅ゆけ〜ばぁ〜 駿河の国に〜茶の香り〜、名代なる東海道ぉ名所古跡の多い所ぉ〜
 ご存知の広沢虎三の浪曲、遠州は森の石松の一節であるが、今回の旅はこの遠州は浜松から掛川までのおよそ8里の旅でした。朝から歩けば1日で歩ける距離ですが、我々はのんびり2日を掛けて道草を食いながら(文字どおり路傍の木の実を喰いながら)歩きました。そして季節は初夏、季節の草木、花などの自然を満喫しました。
 東海道は古代より日本の幹線道路であり、名所古跡の見どころが満載であろうと思いますが、現存しないものが多く、現在在る城郭、神社仏閣などは昭和に再建したようです。
 浜松では、浜松城、掛川では、掛川城などを見ることができました。
 それから明治初期のものですが、金原明善記念館や旧見付学校を見学することができました。どちらでも、親切な説明ガイドが展示でその成立ちを詳しく説明していただいくことができて大変勉強になりました。

 沿道の風景は、季節は初夏で、5月末の沿道は花と緑が盛んでした。
 浜松はさすがに花の博覧会が開催された場所であって広場や沿道には立派な花壇がたくさん飾られていた。そして見付宿に至るまでこの地方の沿道にはやはり花壇や植木、りっぱな庭がある家が多く見られたが、沿道には庭木がしげるに任せた家もあって、きんかんやびわなど木の実がびっしりと実をつけていたので、それをみんなで勝手に採っていただいた。我々が小学生の頃は貧しかったせいか、おやつがわりに、ぐみ、すぐり、くわのみ、あんずなど庭先や山野の木になる実を食べて育ったのであるが、その習性がまだ残っているようで、その姿、いと可笑しかった。
 あそこにクチナシの花があると言われて見るとそれらしき白い花があった。クチナシの花〜は歌で有名であるが、私は実際に見たことがあったかどうか記憶が定かで無い。あらためて調べてみるとクチナシは静岡県以西に分布し5月に白い花が咲くと書かれているので、今回の旅だから見ることができたのだと納得した。
 遠江国分寺跡近くの府八幡宮の境内で、ナギの木を見つけたと指差す人がいた。この葉は横に裂けず縦に裂けることが特徴であるとのこと。見ると葉脈が主脈を中心にして横に拡がっておらず、縦方向に一直線に並んでいる。珍しい植物なので、後日図鑑で調べてみるとナギは広葉樹ではなく、銀杏と同様に針葉樹に分類されていた。
 旅は、場所と季節の出会い、いろいろな植物との出会いの場だと思います。

 東海道の旅は、どの場所でも時間と空間が重なり合って存在しているように思います。
東海道の過去と現在を同時に見ることもできます。例えば、見付本陣跡から愛宕山入口と書かれた坂道を登ると、見付の名木松とか花壇があり、更に進むと「三ヶ野坂の七つ道」に至る。ここは時代により道路が少しずつ位置を変えていることが良く分かる場所のようです。この「三ヶ野坂の七つ道」は、それを端的に表しており、掲示板の地図によれば、奈良の古道、鎌倉の古道、江戸の古道があったが、明治の道からは、明治、大正、昭和、平成の道が次々とできて、だんだんと変化がスピードアップしているようである。
 少し進むと東海道の松並木がわずかに残されている場所があったが、松のみどり(新芽)が伸び放題で、ほとんど手入れはされていないようだ。旧東海道の標識はあるが、史跡として大事に保存されてはいないように思う。太田川を渡ると木原に入り、木原の一里塚があったが、少し先に一里塚跡と標識が立ってそこには民家が建っているので、どうやら住宅建設を優先して一里塚を移動したのではないかと推測せざるを得ない。こんなことが本当にあって良いのかと思う。

 安藤広重の東海道の風景には行き交う旅人の姿が大勢描かれているが、現在は時々中学生が自転車で通学する姿しか見られなかった。これは時代の変化なので仕方はないが、いつ頃から変わったかと思うと、ごく最近になって、急速に変化しているように思う。
 人影の少ない街道、閉じた商店が多い中で、介護施設や整体医院が多く目立っていたが、これは過疎化、高齢化が進行するどこにもある地方都市の特徴であろう。
 国道脇でも都市部より地価が安いためか、空き地に古紙回収やステンレス製品など広大なリサイクルセンターが建設されていた。自動車の整備工場の前には、車検、修理ができますなどとポルトガル語かスペイン語で書かれた看板があったが、この付近では南米から働きに来た人達が多いのであろうか。これも最近に増えた風景である。こうなると近い将来、東海道の風景は日本から完全になくなるのではないかと思われる。

 町並みを外れるとあたりは広々と田園風景であるが、水のない水田(減反政策のため?)皐月が終わる日にサノ神様は山に帰るとされるが、この日は5月末日にまだ稲の苗が田植されない様子を見ては、サノ神様もさぞかし不安で山に帰れないのではなかろうか。
 木原畷古戦場跡は、徳川軍、武田軍が激しく争った場所のようだ。敗軍の将の霊を鎮めるために木原念仏踊りが始まったようである。いつの時代も庶民は平和を願っているようだ。木原権現社の境内には徳川家康の腰掛石などがあったが、この近くの氏子達が平成7年に神社に寄進したものであろうか、石の置物と石碑があった。石碑には「平和50年を六蛙(迎える)」と刻まれていて、その隣の6匹の蛙の誇らしげに下から見上げている姿が平和でユーモラスであった。しかし、今年から数年後にその隣に「平和70年でひっくりかえる」の碑が建ったとしたら、これはもう笑ってはいられないのではと思った。
 以上、纏まらない雑多な感想でした。

お礼
 袋井は、東海道53次のど真ん中の宿場ということである。木原からまもなく袋井のはずれには至ったが、歩けど歩けど袋井のど真ん中には到着せず、夏の暑さにバテ気味でしたが、ようやくど真ん中に到着したところ、幹事の清水さんの親戚の方がここにお住まいとのことで思いがけずのお出迎えを受けて、名物のぼたん餅や冷たいお茶のおもてなしをいただき、生き返ることができました。
 清水さん、その他いろいろとお世話いただき有難うございました。

柳澤信義(3組)

金原明善生家
金原明善生家
天竜川・舟橋跡
天竜川・舟橋跡

天竜橋(木橋)跡
天竜橋(木橋)跡

見付学校
見付学校
袋井宿どまん中茶屋
袋井宿どまん中茶屋
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掛川城跡
掛川城跡
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第9回 二川宿から浜松宿へ

(15/4/23−24)

二川から第32次・白須賀宿へ
 2015年4月23日(木)、前回解散した二川駅に集まって、白須賀宿をめざして歩く。
 前回、参加できなかった人は、二川宿本陣をのぞき見。時間があれば、もう一度、みんなで見学したいほどだが、外から見て先を急いだ。
 本陣の少し先に、脇本陣跡があるが石碑のみ。宿場の東の桝形にある東駒屋(味噌屋)は、母屋に続く味噌蔵も含めて、現在修復中で、秋には公開されるとのこと。
 新橋を渡ったところに、二川八幡神社。その少し先に、二川一里塚跡の碑。建物は、二川宿の案内所になっている。
 東海道線をくぐり、梅田川に架かる筋違橋を渡り、東海道新幹線を潜りぬけると国道1号に合流する。タマネギ畑を見ながら、国道の歩道をひたすら歩く。ウイークデイなので、トラックなどの車が多く、のんびり街道歩き、という気分にはなれない。

 3キロほど歩いたところに鬱蒼とした樹木に覆われた一里山一里塚の片側が残っている。東西11m、高さ3mもある、小山のように大きな塚で、これほどの規模のものは珍しい。
 一里山東の信号の先で、ようやく国道1号と別れ、境川を渡ると静岡県湖西市。白須賀宿の西側に加宿として設けられた境宿に入る。入口には、高札場跡。少し先に、庚申堂がある。リアルな猿の像が置かれていて気味が悪い。
 白須賀宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠27軒で、海岸沿いにあったが、宝永4年(1707)の地震・津波により大きく被災したため、潮見坂下から坂上に移転させたとのこと。
 本陣跡も脇本陣跡も、碑のみだが、潮見坂公園までは緩い上り坂で、宿場らしい町並みが続いている。
 宿場中央部には曲尺手(かねんて)(枡形)が設けられ、大名同士が鉢合わせしないように配慮している。
 坂を上りきったところにある潮見坂公園からは遠州灘が眺められ感動的であった。地元の人の話では、昨日までは風が強く、波が荒かったようだが、この日は、波穏やかで、遠州灘を眺めて一休みした。
 ここから潮見坂下までは、急な下り道を600mルほど。つま先が痛くなるほどの急坂で、江戸方面からの旅人にとっては難儀だっただろう。

第31次・荒井宿へ
 坂下からは、遠州灘に沿った平坦な道をひたすら歩く。白須賀一里塚跡を過ぎ、火鎮神社が山の中腹に見える。所々に、山の方に向かって「←津波避難路」の標識が立てられている。かつて、このあたりは、津波に襲われ、宿場は山の上に移転したとはいうが、月日がたてば、街道沿い故に、人家が立ち並ぶようになっている。
 荒井宿との中間地点の立場跡には緑陰があったので、私たちも一休み。立ててある説明書きを見ると、立場では旅人を見ると湯茶をすすめたので、ある殿様が「立場立場と水飲め飲めと鮒や金魚じゃあるまいに」という戯歌を詠んだという話が残っている、と書いてある。籠に乗って移動している殿様と、炎天下を歩いて渇き水を飲む旅人の気持ちの違いを感じた逸話である。

 旧東海道松並木を過ぎ、国道に合流するところにある教恩寺は立派な山門がある。国道の歩道をしばらく歩き、橋本の信号を左折すると、荒井宿の入口・棒鼻跡。この 少し先に、新居一里塚跡の碑が民家の塀の前に立っている。
 寄馬跡の碑の先に、疋田八郎衛本陣跡の碑。隣の飯田武兵衛本陣跡には、建物と玄関の屋根の一部が残っている。
 荒井宿は、本陣3、脇本陣0、旅籠26軒で、「今切りの渡」、「新居関所」があり、吉田藩が管理していた。
 新居の関所は慶長5年(1600)創設で、全国で唯一、現存する江戸期関所建築である。面番所や女改長屋、武器などを公開している。資料館も併設され、展示内容も充実している。また、最近、関所の大御門が復元され、「今切の渡」の渡船場跡も復元されているので、江戸時代にタイムスリップした気分になる。
 見学後、新居町駅から電車に乗り、今切りの渡しを電車で渡り、弁天島駅の近くのホテル「開春楼」で宿泊した。ホテルの部屋からは、弁天島の赤い鳥居が見え、旅人気分で一夜を過ごした。
(第9回一日目の歩数、27,087歩)

第30次・舞坂宿へ
 翌朝、赤く塗られた弁天橋を渡り舞坂宿を目指した。
 橋を渡ると、舞坂宿入口の常夜燈が立てられている。すぐ先に、渡船場跡・北雁木がある。
 雁木は北、本、南の3か所に分けられ、利用は厳密に区分されたとのこと。北雁木は公家、大名、役人など高貴な人のみ、本雁木は武家用、南雁木は町民や貨物用だった。現在、渡船場として復元してあるのは、北雁木のみで、他は漁港として使われている。この日も、漁港に「しらす」が上った、と町内放送があった。

 西町常夜燈の角を曲がると、本陣跡の碑があり、向かい側に、脇本陣がある。旧東海道では唯一の脇本陣の遺構で、開館前の時間であったが、開館準備をしているところで、開館を手伝って見学させてもらった。
 舞坂宿脇本陣は、間口5間、奥行15間あり、上段の間からは庭が望める。また、上湯殿には漆塗りの風呂桶が置かれている。大名の多くは風呂桶を持って旅したようである。
 舞坂宿は本陣2、脇本陣1、旅籠28軒であった。渡船は朝4時から夕4時までだったので、渡船に間に合わない旅人はここで宿泊せざるをえなかったようである。
 舞坂宿の町並みはほとんど残っていないが、宿場の中ほどにある舞阪一里塚跡には、舞坂宿の町並みを記録した碑が立てられている。
 宿場の外れには、見附跡が残っている。見附は宿場の出入り口に設けられた見張り所であるが、見附の石垣が道の両側に残っているのは舞坂宿だけ、とのこと。

第29次・浜松宿へ
 舞坂宿の見附を過ぎると、道の両側約700メートルにわたり東海道松並木が復元してあり、松並木の所々に東海道53次の碑が置かれている。宿場名をたどりながら歩くと、日本橋まではまだ30もあり、旅はまだ道半ばである。
 松並木を過ぎて、旧道を歩くと、町毎に秋葉山の常夜燈が建てられている。秋葉神社参詣の道にあったような、木造のしっかりした作り。しめ縄が張られ、町会毎に大切にされている様子である。
 秋葉常夜燈籠を見ながらしばらく旧道を歩くと、愛宕神社の鳥居があり、入口には秋葉常夜燈籠が建てられている。愛宕神社は京都の火伏せの神様、秋葉神社は三河の火伏せの神様、一緒に祀られているのは東海道が東西交通の幹線だったからだろうか。
 篠原一里塚跡は説明板のみ。高札場跡も説明板のみで、旧道の面影はない。

 ここで、昨日泊ったホテルでは、「アサリの酒蒸し」は食べたが、鰻は食べなかったので、浜松名物の鰻の昼食を食べよう、ということになり、旧東海道を離れて、雄踏街道沿いの鰻料理屋へ。「かねりん鰻店」で食べた鰻の蒲焼は、香ばしくて、柔らかくて、忘れられない味である。
 昼食後、雄踏街道をしばらく歩き、菅原町で旧東海道に入り、浜松宿に向かった。
浜松宿は、本陣6、脇本陣0、旅籠94軒で、飯盛り女も多く、繁盛したが、浜松は、太平洋戦争で大きく被災し、宿場らしきものは見られない。旅籠町には、梅屋本陣跡、伝馬町には川口本陣跡の説明板が立てられている。すぐ先に、杉浦本陣跡、高札場跡の説明板。連尺町で本坂越え道・姫街道と合流し、旧東海道は右折するが、私たちは、曲がらずに浜松城大手門跡を通って浜松城跡へ向かった。
 浜松城天守閣は昭和33年に再建された簡素なもので、現在、発掘調査中とのこと。家康が若き時代に苦労しつつ実力を蓄えた城で、2代将軍秀忠の産湯の井戸などもある。
 第9回の旅はここまでとして、浜松駅から帰路に着いた。
(第9回二日目の歩数:28,689歩)


参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、平林正昭(1)、磯村雄二(3)、石井則男(4)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、村居次雄(8)、山浦るみ子(8)、清水淳郎(9)、藤巻禮子(9)、池田有美子(69期)の12人。

  三河から遠江へ初夏の旅
 二川宿から浜松宿までの旧東海道は、国境(くにざかい)になっている潮見坂付近を除くと幹線道路に呑み込まれていて昔の面影に乏しい。残念ながら、宿場跡の看板、本陣跡の標識、一里塚の道標の他、往時を忍ばせるものはあまりない。静岡県に入ると、海岸に近い土地のため、海抜の表示や避難経路の看板が目につく。白須賀宿は津波の襲来の後に移転した歴史をもっていた。
 今回の旅のハイライトは「新居関(別名今切関)跡」と「舞阪宿脇本陣(茗荷屋)」で、どちらも「現存する唯一の」という説明書きの付いた貴重な史跡である。前者は全国で唯一現存する関所建物で1955年に国の特別史跡に指定されている。後者は旧東海道では唯一の脇本陣の遺構である。二つとも明治以降取り壊しの対象となったものの、たまたま役場や学校として使用されたため残ったという。舞阪宿脇本陣では、朝早く観覧時間より30分も前に到着した我々一行のために特別に開けて詳しい解説をしていただいた。宿から江戸に向かって続く松並木もよく保存されていた。
 温暖な気候のため作物がよく育ち、お茶以外にも柑橘類が有名で、引佐町の三ケ日みかんは日本一美味しいと評判である。春は街道沿いのあちこちにも金柑や夏みかんがたわわに実っている。食いしん坊の旅人が通ったら急激に果実数を減らした木もあったような…「私が取るだけならいいのに、みんなが真似するんだから…」という台詞が聞こえました。
 その他、印象的だったのは街道沿いの案内所で振舞われたお茶や、浜松西郵便局の近くのお店で食べた鰻が美味しかったこと、どの施設でも係の方がフレンドリーで親切だったこと、車が比較的ゆったりと走っていて歩行者に恐怖を感じさせない走りをしていたこと。
 旅の最後は、浜松宿へ向かった本隊と別れて、4人で浜松駅前の「浜松市楽器博物館」を訪れ、短い時間でしたが、古今東西の素晴らしい展示品の量と質の素晴らしさに感動しました。
 安武(5組)


一里山一里塚跡

潮見坂公園からの遠州灘


新居関所跡


舞坂宿入口、浜名湖弁天島の鳥居
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舞坂宿脇本陣


浜松城大手門跡

第8回 吉田宿から二川宿へ

(15/3/28−29)

豊川稲荷参拝
 2015年の初歩き。日本三大稲荷として名高い豊川稲荷を参拝してから旅を始めることとした。
 3月28日(土)、豊川駅に集合して豊川稲荷へ向かう。豊川稲荷は正月三が日だけで100万人を超える参拝者があるという。稲荷神社と思っていたが、門を入ったところにガイドがいて説明を受けた。
 「豊川稲荷」は通称で、1441年(室町時代前期)に開創された「豊川閣妙厳寺」という曹洞宗の名刹で、千手観音菩薩が本尊とのこと。鎮守として、通称豊川稲荷で親しまれる狐を祀っているが、神社ではない。ご本殿は、総ケヤキ造りの堂々たる建物。回廊を廻らし、宝雲殿、法堂、書院、立願所をつないでいる。奥の院の先に、霊狐塚があり、赤い前垂れをした狐像が立ち並んでいる。
 なお、豊川稲荷は、功績が認められて西大平藩主になった大岡越前守忠相が霊験新たかなりとして、江戸・赤坂見付の屋敷近くに分祀して、今も尊崇されている。
 参拝後、門前に立ち並ぶお店で、豊川稲荷寿司、菜飯、田楽などの昼食を食べて、豊川駅に戻る。電車に乗り、旧東海道と交わる小坂井駅で降りて、吉田宿に向かって歩いた。

第34次・吉田宿へ
 御油宿から国道1号に沿った旧東海道を6キロ程歩くと、小坂井駅に至る。
 豊川稲荷に寄り道せずに、断固、東海道を歩きたい、と言う人は、一足先に、前回の終点だった御油追分に向かい、そこから旧道を歩いてきて、豊川稲荷参拝組と小坂井駅で合流した。
 1キロ程歩いて、豊川放水路に架かる高橋の手前に、「子だが橋」と刻んだ碑が立てられている。見ると、千年ほど前、兎足神社には人身御供があり、春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする習慣があった。ある年の事、村人の前を若い娘が通った、見れば我が子であったが神の威光に逆らえず、生贄にして神に奉った、とのこと。それ以来、この橋の事を、子だが橋、と呼ぶようになった。現在、兎足神社では、12羽の雀を生贄に替えておこなわれている、とある。なんとも悲しい話である。

  旧道沿いには、ポツンと東海道松並木の名残の松があったり、古い旧家があったりするが、〈東海道〉の道標が所々にあるのが一番ありがたい。
 潟с}サンの大きな看板の先に、下地一里塚跡の碑。江戸日本橋より74里、とある。日本橋までまだ300キロもあるのだ。
 しばらく歩くと、聖眼寺。門の前に植えられた桜が3分咲き程になっている。
豊川の手前の一角に「豊川稲荷 遥拝所」と刻んだ石碑が立てられている。ここから豊川稲荷が見えるのかもしれないが、この日は霞んで見えない。

 豊橋を渡ると、「船町と高札場」と書かれた看板が立っている。豊川吉田橋は広重の浮世絵にも描かれていて、矢作橋、瀬田の唐橋とともに東海道三大橋の一つである。今の豊橋の下流70mの所に架かっていた、とのこと。
 また、吉田湊は伊勢や江戸への航路の起点として栄え、当時三河における最大の湊であった。
 吉田宿は、本陣2、脇本陣1、旅籠65軒、宿内人口は5000人を超え、大変賑わった。当時の里謡に「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振袖が」とあり、遊女も大勢いたという。
 宿場の入口にある神明社の前に芭蕉の句碑がある。『笈の小文』にある、三河豊橋に弟子の杜国を訪ねて来た時の句である。「寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき」「ごを焼いて手拭あぶる寒さ哉」の2句が刻んである。
 宿場内の街道は鉤の手に曲げられているが、曲がり角には〈東海道〉の標識が立てられていてわかりやすい。3つ目の角を曲がると、吉田宿・西惣門跡。門の下側を切って、台の上に置いてあり、なんとも悲しい門の姿である。
 次の角を曲がると脇本陣跡の碑と本陣跡の碑が道路の左右に立っている。吉田宿の本陣は2軒が並んであった、とのこと。現在、本陣の跡は鰻料理屋になっていた。

 路面電車が通る道を渡った所に、吉田宿問屋場跡の碑。すぐ先に、吉田城大手門跡の碑。正面に豊橋市役所の庁舎が建っている。その脇が吉田城跡である。
 旧陸軍駐屯地の名残の門を入ると、桜が五分咲きになっていて、木の下では、お花見準備のブルーシートを敷いて場所取りをしている。私たちは、空掘りを渡り、本丸跡へ進んだ。
 吉田城跡は、堀、石垣が残り、復元された隅櫓が建っている。櫓の下は豊川が流れ、城に船で荷物が運び込めるように、水門が設けられている。水門跡まで下りて、隅櫓を見上げると、櫓に咲き始めた桜が映えて美しい。
 一日目の旅はここまでとして、路面電車に乗って豊橋駅まで行き、豊橋ステーションホテルに泊った。
 (第8回一日目の歩数、19,404歩)

吉田宿から第33次・二川宿へ
 3月29日(日)、駅から路面電車で昨日歩いた問屋場跡まで行こうとしたが、豊橋公園(吉田城跡)でハーフマラソン大会があるため、公園に向かう路面電車乗り場は長蛇の列。やむを得ず歩いて向かう。問屋場跡を通り過ぎて角を2つ曲がった所に、史跡曲尺手門跡の碑。旧吉田城の巽の方位にあった城門跡とのこと。吉田宿の碑も立てられている。
 少し歩いて国道に出たところが、吉田宿東惣門跡。この門も、下の部分を切って、土盛りした上に置いてある。歴史的建造物をチョン切ってしまうなんて、ひどい、と憤慨したが、すぐ側にある和菓子屋の窓に「草かしわ」の張り紙を見つけて、広重の浮世絵にも二川宿の名物として描かれている柏餅を食べてまた歩き始めた。

 国道の交差点の角には、秋葉神社の燈が広いスペースをとって立てられている。
 歩道橋を渡り、国道の歩道を歩く事2.5キロ、山中橋を渡り、旧道に入る所に飯村一里塚跡。「江戸日本橋より七十三里」とある。殿田橋を渡ると、所々に旧家が残る東海道らしい道が続く。
 火打坂を下った所で旧東海道を右に曲がり、岩屋観音に寄って行くことにした。岩屋観音入口には桜が植えられ、花見客がいっぱい来ている。この日、参道は車進入禁止になっていたので、ゆっくり歩いて観音参りをする事が出来た。
 岩屋観音は昔から観音霊場として知られ、行基作の千手観音像を祀っている。岩山には大小の石仏が祀られ、山頂に青銅の観音像が立っている。この観音像は、明和2年江戸下谷講中から寄進されたが、戦時中供出して無くなっていたが、昭和26年再建されたとのこと。

 旧東海道に引き返し、しばらく歩くと二川駅。時計は11時半近くになっていたが、東惣門のところで柏餅を食べて、お腹が持ちそうだったので、二川宿本陣の見学を先にすることにした。
 「二川宿」と染めたのれんの架かる街並みを歩き、二川宿本陣跡へ。二川宿本陣は、旧東海道筋の宿場には2か所しか現存していない貴重な建物で、資料館が併設されている。明治3年に本陣が廃止されるまで約60年間本陣職を勤めた馬場家から、昭和60年に豊橋市に寄付され、改修復原工事を行い公開されている。
 馬場家は、酒造業や穀物商を営み、宿内でも有数な商家であった。文化3年(1806)の宿場火災の後、本陣職を代官所の命により勤める事になったとのこと。
 大名が出入りする表門・式台、荷物を運びこむ主屋、上段の間がある書院棟、上段の間に面した奥庭など見応えがある。また隣に復原されている旅籠屋「清明屋」は武士や町人などの宿であるが、大名が本陣に泊る時は、家老など上級武士の宿泊所にされたとのことで、入口は旅籠屋風の造りになっているが、奥座敷、奥次の間などもある。
 資料館は、「東海道」「二川宿」「本陣」の3つのコーナーがあり、江戸時代の街道や宿場、本陣、大名行列などについてわかりやすく説明・展示してある。十分な時間がとれなかったことが残念である。
 駅近くの、旧家をおしゃれに改装したレストランで昼食をとり、帰路に着いた。
 (第8回二日目の歩数:22,119歩)



参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水正宣(1)、清水洋二(1)、磯村雄二(3)、石井則男(4)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、山浦るみ子(8)、清水淳郎(9)、林久美子(9)、藤巻禮子(9)、宮下明子(9)、池田有美子(69期)の14人。

 桜ほころぶ、豊川から豊橋へ

☆吉田宿・・・豊橋は想像以上の大都会。西総門・東総門はミニチュア化され門もくぐれなかったし、本陣跡などの標識も見落としそうなものでさびしかった。「大都市の宿命か。」 と あきらめた。でも、吉田城の石垣と桜と角櫓の三点セットのバランスは見事であった。門から入るとき三分咲きだった桜が、1時間後に出るときは、満開近くになって私達を応援してくれているようだった。

☆二川宿・・・車の多い国道続きや、岩がごつごつの急斜面の岩屋観音で疲れを感じ、その上おなかがぺこぺこなのに食べる所がない。
 そんな体調を吹き飛ばしてくれたのが二川宿だった。本陣・本陣資料館・旅籠を見事に改修復元した建物だった。
 街道や大名行列を学びたかったら資料館をぜひお勧めする。模型、写真、地図を展示し子どもでもわかるようにしながら、遊び心もあり、実に奥が深い。私も初めて知ることや、「ああそうだったのか!」と再発見することも多かった。時間を忘れて見入ってしまった。
 本陣の13代当主馬場氏がガイドブックの中で語っていた。「広いばかりで住みにくい。プライバシーがない。採光も悪く昼間も電気をつけていた。冷暖房もきかない、雨漏りも凄いが、瓦一枚も特注品なので修理代がかさみ替えられない。天井裏から蛇が落ちてくる。」
 「快適なのは天井裏のねずみだけだったのでは。」
 寄付することを決断→本陣の復元→資料館の建設→景観保全の活動が活発化→地域全体が盛り上がると進んだのだそうだ。
 ここまでくるのにどれだけの人の知恵や知識や力や技や資金や協力があったことだろう。
 維持の難しさで取り壊されてしまうものが多い中、こうして後世に繋げていってくれる人たちに感謝や尊敬を抱く。
 豊橋市が大好きになった。
 宮下(9組)


おんしらばったに・・・

 快晴の下、今年も東海道歩きが始まった。皆冬眠から覚めたように元気で嬉しい。
 先ずは豊川稲荷から。飲食店や土産物店が並ぶ参道を抜ける。周囲からの美味しそうな匂いに食欲を刺激させられる。そう、ここは稲荷ずしが名物なのだ。でもグッとがまん。参拝に向かう。案内人のおじさんから説明書をいただく。びっくり、ここは曹洞宗の寺院とのこと。そう言えば山門を潜ったんだと納得。信州の人達が寄進した大きな石燈籠を見上げ、信州との深い縁を思う。
 本堂で呪文「おんしらばったにりうんそわか」を唱えるが、7回も唱えれば忘れないと言い合っていたのに、3分もしたら忘れている。I嬢と大笑いしながらさらなる記憶力の低下に愕然となる。
 願掛けの幟旗がひしめく様に、これをみな聞き届けるのはお稲荷様も楽では無いなと思いながら後にした。もちろん美味しい稲荷ずしやきしめん、八丁味噌だれの豆腐田楽に舌鼓。S氏が奥様から田楽の食べ方の世話をやかれている様子にほほ笑ましさも感じた。
 吉田城の満開の桜。二川宿の本陣跡など見所満載の一日でした。
 林(9組)


豊川閣妙厳寺本堂

吉田宿・西惣門跡


吉田城隅櫓


岩屋観音

二川宿本陣(クリックして拡大)


二川宿本陣・上段の間

第7回 岡崎宿から御油宿へ

(14/11/15−16)

第38次・岡崎宿から第37次・藤川宿へ
 2014年11月15日(土)、前回解散した中岡崎駅に集合して岡崎城見学、の予定だったが、早朝、新横浜駅で事故があり、一時間遅れで運転再開したものの、停車駅変更などで、1時間半ほど遅れてしまった。先に着いていた3人は岡崎城を見学済みだったので、3人の道案内で岡崎城へ。
 岡崎城は家康生誕の城で、産湯の井戸やえな塚が残っている。天守閣は明治維新後、取り壊されていたが、昭和34年(1959)に古写真などによりほぼ昔どおりの外観に復興された。
 岡崎城は伊賀川と乙川が合流する三角形の地に造られていて、内堀と深い空掘り(青海堀)が周囲を囲んでいる。
 岡崎城跡は現在、岡崎公園となっていて、園内には、三河武士のやかた家康館、家康銅像、からくり時計塔、などがあり、見どころが多い。また、東隅櫓が木造で復元されているとのこと。時間が無くて見学できなかったのは残念だった。

 岡崎城跡を急ぎ足で見た後、「岡崎の27曲がり」として知られる岡崎宿を歩いた。
 岡崎宿は本陣3、脇本陣3、旅籠112軒で、大きな宿場であった。宿場の長さは1里51間あり、27か所の桝形があった。
 岡崎城下の東海道は、お城の近くを通らないように曲げられ、角に標石が立てられている。また、金のわらじが上に載った案内柱も立てられ、何番目の角かわかるように、いろはの文字が書かれている。
 大正6年に建てられたという、赤レンガと御影石のレトロな建物は、岡崎信用金庫資料館。国の有形文化財に指定されている。この先の角にある標石には「西 京いせ道/東 京みち」とある。
 この角を曲がった所が、西本陣跡。通りの向かい側は古い商家が並び、角に備前屋という老舗のお菓子屋。おいしそうなお菓子が並び、セルフサービスのお茶付きで試食させているので、旅が始まったばかりというのに、試食して買ってしまった。

 少し先に「左 信州道」の標石。中山道から善光寺に通じているのかと思い懐かしい。
 根石原観音堂の先に、ようやく「岡崎城御入口」の標石。この角を曲がった先に冠木門が見えてきて、ようやく岡崎宿江戸口に着いた。直線距離にすれば大した距離ではないが、27もの曲がり道を歩いて、1里51間(約4.02キロ)の長旅であった。

 藤川宿に向かう道は、旧道が多く歩きやすい。松並木が残る部分もある。村社八幡宮の先に、大平一里塚跡がある。榎が植えられた塚が片側のみ残っている。
 少し先に、大岡越前守陣屋跡。大岡越前守が功績により1万石の大名になって西大平藩主大岡家の陣屋が置かれていたとのこと。
 秋葉神社常夜燈や東海道碑が並ぶ旧道を歩くが、乙川(大平川)を渡る橋がないので、国道に迂回して大平橋を渡り、また旧道に復して歩く。
 日没が近づいて来たので脚を速める。坂下橋を渡った先から国道の歩道を歩くが、車の通行量が多く、空気が悪い。

 ようやく前方に藤川宿入口の看板と松並木が見えてきた。旧道に入り、松並木の道を歩く。名鉄の線路を越えた先に、吉良道を示す道標が立っている。ここから南に向かって海に近いところに吉良町があるとのこと。
 松並木の先の、民家の生垣と石の間に、藤川一里塚跡の小さな木碑が立てられている。
 すぐ先の向かい側に十王堂と芭蕉の句碑。「ここも三河むらさき麦のかきつばた」とある。五月頃にこの辺りは紫色に染まる麦がみごとで、近年、藤川宿資料館の近くの畑に復元したとのこと。
 藤川小学校の門の脇に、藤川宿の入口を示す、西棒鼻跡が復元されている。
 日が暮れて薄暗い宿場の街並みを歩き、藤川宿資料館へ。かつては、脇本陣・橘屋だったという。享保4年に建てたという門が残り、建物は資料館になっていて、高札、本陣文書などが展示されている。
 隣が本陣跡で、高札場と冠木門が復元されている。敷地裏側の石垣を見ると、往時はかなりの規模だったようである。

 ここから藤川駅に引き返し、電車に乗って宿泊地の赤坂駅に向かった。
 宿泊した大橋屋は広重の浮世絵にも描かれた大旅籠で、東海道で唯一営業を続けているが、館主の病気のため、来年3月で営業を止めるとのこと。
 大橋屋は表に掛けてある大提灯、中庭の石灯籠、二階へ上る階段、古い行燈など昔の面影を残していて、江戸時代の旅人になった気分で宿泊した。芭蕉も大橋屋に宿泊して、「夏の月 御油より出でて 赤坂や」の句を残している。
  (第7回一日目の歩数、20,662歩)

本宿から第36次赤坂宿へ
 11月16日(日)近くのコンビニで朝食を食べて、電車で本宿駅まで引き返した。
 駅のすぐ近くに、本宿一里塚跡がある。江戸より77里、京へ47里。日本橋はまだまだ先。本宿町集会所の脇に、十王堂跡の看板が立っている。
 すぐ先に、「本宿陣屋跡と代官屋敷」の看板。元禄11年、旗本柴田勝門(柴田勝家子孫)が知行所支配のため、ここに陣屋を設け、代官職は富田家が世襲していたとのこと。代官屋敷は建て替えられているが、屋敷の一部と蔵が残っていた。

 法蔵寺橋を渡ると右手奥に法蔵寺の山門が見える。家康が幼少の頃修業した寺で、家康ゆかりの寺宝も多く納められているとのこと。立派な本堂があり、左手には六角堂、山の上には東照宮が建てられ、徳川家の墓所になっている。
 また、山腹には新撰組隊長・近藤勇の首塚が祀られている。京・三条大橋に晒された近藤の首を、旧隊士が盗み出して、近藤が尊敬していた住職がいるこの寺に葬ったのだという。近藤の故郷(東)の方を向いて胸像が立てられている。

 古い建物が所々に残る街並みを歩くと、国道との合流地点に「東海道ルネッサンス、本宿道標」が立てられ、国道沿いには本宿・江戸口の冠木門が立てられている。また、すぐ側の川沿いに、秋桜(あきざくら)が咲いて、ここだけ春の雰囲気である。
 国道1号の歩道を1キロほど歩き、関屋の信号から旧道に入る。秋葉神社の常夜燈があり、道が少し蛇行して、東海道の雰囲気がある。誰が立てたのか、石の小さな観世音菩薩像が置かれている。古い民家も所々に残っている。
 旧道を2キロほど歩いたところに、長沢一里塚跡の木碑が土手の上に立っている。塚は削られて畑になってしまったようだ。
 少し先の山の手に八王子神社があるようで、石碑が立っている。碑の前に「善光寺分身如来道」と書かれた石碑が立てられている。信州の善光寺と何か関係があるのかな、などと言いながら通り過ぎた。

 すぐ先の中学校の柵に、海抜47.2mの標示板が付けられている。南海トラフ地震津波を意識して付けられているのだろうか。
 中学校の先が赤坂宿入口。高札場跡、向かい側に赤坂宿場資料室・休憩所が設けられている。
赤坂宿は、本陣3、脇本陣1、旅籠62軒で、招婦が多く遊興の宿場として知られ賑わった。
 赤坂陣屋入口址の隣が、昨夜泊った、旅籠・大橋屋である。その向かい側の尾崎屋は軒下に看板が架けられているところから、商家だったようである。
 隣の淨泉寺にある大きなソテツは、広重の浮世絵に描かれているもので、旅籠屋にあったが、道路の拡幅のため寺に移植されたとのこと。
 本陣跡は門のみ、問屋場(伝馬所)跡は看板のみである。宿場の江戸口に関川神社があり、入口に芭蕉の句碑が立てられている。「夏の月御油よりいでて赤坂や」とある。

第35次御油宿へ
 赤坂宿を出て、天王川を渡ると、御油の松並木。天然記念物の指定を受けるだけあって、松の大きさ、規模ともに日本一なのだという。約600mにわたって、300本の松の大木が並び、壮観である。ちょうどお祭りをやっていて、松並木は車を止めて人のみが歩けるようになっていて、街道を歩く気分は最高であった。
 御油宿は、本陣4、脇本陣0、旅籠62軒で、赤坂宿とともに招婦が多く賑わったとのこと。
 本陣跡は碑のみだが、連子格子の家並みが残り、かつての賑わいが偲ばれる。
 御油松並木資料館は、御油宿の町並みの復元模型や浮世絵版画、旅資料などを展示していて興味深く見学した。

 御油の追分は、東海道と姫街道の分岐点で、常夜燈が置かれている。姫街道は、豊川、嵩山、本坂峠、三ケ日宿、気賀宿を経て見附宿で東海道と合流するとのこと。また、「秋葉山三尺坊大権現道」の道標もあり、ここから秋葉神社に道が通じているようである。
 少し行くと、御油一里塚跡の石碑がある。すぐ先にある大社神社は大国主命を祀り、夏祭りには町内から山車や歌舞伎行列が東海道を練り歩くとのこと。
 今回の旅はここまでとし、名電・国府駅に向かった。
   (第7回二日目の歩数:22,190歩)

参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水洋二(1)、磯村雄二(3)、石井則男(4)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、村居次雄(8)、山浦るみ子(8)、清水淳郎(9)、林久美子(9)、藤巻禮子(9)、宮下明子(9)、池田有美子(69期)の14人。

 東海道を歩いて

 当日朝のニュースで新幹線が運休を伝えていた。ハプニングはいつもあるが、ちょっと心配になったが、誰からも連絡がないので、東京駅へ向かった。一時間遅れで動きだしていて、なんとか出発できてホッと一安心。
 前回駅から眺めた岡崎城を見学、赤坂宿の旅籠の大橋屋の宿泊も風情のある体験ができ良かったです。芭蕉はじめ多くの旅人の歴史が黒塗りの柱に刻まれていた。夕食は特別開けていただいたレストランで心温まる品々を頂き皆さん大満足。
 次の日またそのレストランで昼食を頂いた時、ハプニング。店を後にして歩きだしてしばらくしてSさんがマフラーを忘れて来たことに気がついて、100パーセント諦めて、あきらめ節を呟いていたら後ろから声が!なんとお店の方が息をきらせて持ってきて下さったのです。本物のおもてなしに接した瞬間でした。
 地元の収穫祭で豚汁を食べたり、ミカンの詰め放題をやったり、別メニューもなかなか楽しめた。次回までには健脚の皆さんに少しでも近づけるようトレーニングしていきます!
 藤巻(9組)


岡崎城


岡崎城江戸口(クリックして拡大)


藤川宿脇本陣(藤川資料館)

旅籠・大橋屋

喜ら里にて乾杯
町カフェ 喜ら里にて(クリックして拡大)

名鉄の広告に
大橋屋は名鉄の広告に

法蔵寺・近藤勇首塚


御油松並木(クリックして拡大)

第6回 有松宿から岡崎宿へ

(14/10/18−19)

第39次・池鯉鮒宿へ
 2014年10月18日(土)、有松駅に集合して間の宿・有松の街並みを歩くと、有松絞の店が並んでいる。覗いてみると、つい買いたくなってしまう。
 広重の浮世絵・鳴海宿に描かれているのは、間の宿・有松の有松絞を売る店である。江戸時代、竹田庄九郎が作り始め、東海道を往来する旅人に売っていたというが、昔も今も絞染は美しく人を魅了するのであろう。毎年、6月の第一・土日は絞祭りが行われ、絞染の製品を買い求める人で通りが埋まるにぎわいとのことである。

 有松の街並みを過ぎ、国道を1キロ程歩くと、「→桶狭間古戦場跡」の案内板がある。案内板が示す方に行くと、樹木が植えられた公園になっていて、「とよあけ桶狭間ガイドボランテイア」の旗が立って数人のボランテイアガイドらしき人が待ち構えている。
 ガイドの案内で、桶狭間の戦いの様子などを聞き、今川義元の墓、おばけ地蔵などの史跡を見る。また、「桶狭間の古碑」の前では、碑文を読んで資料を調べた結果、桶狭間合戦の新説を著したという太田輝夫氏が、古碑を読みながら解説してくれた。
 桶狭間山の上にある高徳院には「今川義元本陣跡」の碑が立てられている。芭蕉の句碑「あかあかと日はつれなくも秋の風」は、寺の片隅にひっそりと崩れかけていた。
この日は、天気に恵まれ、秋の日差しが肌を照らし、時折吹く秋の風がなければバテててしまうところであった。

 しばらく国道を歩いて、旧東海道に入るが、歩道があるので歩きやすい。
 右側に、東海道の松並木の名残の一本だという大きな松が枝を広げている。そのすぐ先に、阿野一里塚跡。道の両側に塚が残る希少な一里塚である。何代目かの榎が植えられていて、一休みしたくなる緑陰がある。
 一里塚の先で国道に合流し、しばらく国道を歩く。豊明駅を過ぎたところで旧道に入り、しばらく歩くと境橋のたもとに狂歌碑「うち渡す尾張の国の境橋 これやにかわの継目なるらん  光廣」とある。この橋は、江戸時代に尾張と三河の立ち合いで架けられ、中ほどの境から西は板橋、東は土橋だった。狂歌はこうした橋のことを詠んだようだ。

 月悪水路の先で、国道下の地下道をくぐって反対側へ出て、また旧道を歩く。
 いもかわうどん発祥の地の小さな碑が小さな常夜燈の脇にある。このすぐ先に、立派な松が植えられた、洞林寺。この寺には、知立宿で争って命を落とした中津藩士2人の墓がある。2人の墓は、生前の恨みからよく反対側に傾いていたとのこと。この日も傾いていた。
 寺の少し先から、国道を歩く。一里山一里塚は、小さな碑のみで、気付かずに通り過ぎてしまいそう。
国道と別れ、逢妻橋を渡って、池鯉鮒(ちりふ)宿への道に入る。知立神社道標から知立神社参道に入る。花菖蒲の池の端に芭蕉の句碑が立てられてある。「不断堂川 池鯉鮒の 宿農 木綿市 芭蕉」
 知立神社は、熱田神宮、三島大社と並び東海道三社に数えられていた。大鳥居の右手には、1509年建立の国・重文の多宝塔がある。社殿は江戸後期の造営。毎年5月の例祭には豪華な五台の山車が並び、文楽やからくりが奉納されるとのこと。

 池鯉鮒宿入口には浄土宗了運寺、本堂も山門も立派である。
 向かい側に、知立古城址。桶狭間の戦いで落城し、江戸時代は、将軍の休泊用の御殿が建てられていたが、元禄12年の大地震で倒壊したとのこと。
 街道沿いの小松屋で、知立名物のあんまきを食べて小休憩。問屋場の跡は、ひっそりと碑が立つのみ。
 中町の6叉路で東海道と別れ、宿泊するアイリスイン知立へ。夕食は、近くの重兵衛鮨で盛りだくさんの料理を楽しんだ。
 この日歩いたあたりに住んでいる安武さんが、夕食を一緒に、とやって来て、聞いてわかった事。桶狭間古戦場に関する場所は、豊明市と名古屋市の2か所にあるということ。
 私たちが見学したのは、豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」で、これとは別に名古屋市の「桶狭間古戦場公園」があり、ここには桶狭間の戦い当時の地形を表したジオラマなどもあり、規模も大きいようだ。そういえば、ボランテイアガイドの方が、「義元は鎌倉街道を進軍したと考えられるので、街道沿いにあるここが古戦場と思われる」と言っていたことを思い出した。
(第6回一日目の歩数、20,370歩)

池鯉鮒宿から岡崎へ
 翌日、中町の6叉路に戻り、「←東海道→」の標示を確かめて歩く。沿道には、かつての常夜燈があったり、「←東海道→」の標示があったりで、所々に残る古い街並みを楽しみながら歩いた。
 国道と交差する手前に、池鯉鮒宿の江戸側の入口の標識が立っている。地下道を渡った先には、両側にみごとな松並木が続く東海道が見える。そして、国道の反対側には、巨大なサン・マリ大聖堂が建っている。日本のものとは思えないほど立派な大聖堂である。
 松並木は500メートルも続き壮観。100メートルほど歩いたところに、馬市の句碑「かきつばた 名に八ツ橋のなつかしく 蝶つばめ 馬市たてしあととめて」と、万葉の歌碑「引馬野に にほふはりはら いりみだれ 衣にほはせ たびのしるしに」が立てられている。傍らには、広重の馬市を描いた浮世絵のパネル。一茶の歌碑には「初雪やちりふの市の銭叺(ぜにかます)」とある。池鯉鮒宿は木綿の集散地で馬が運搬に使われた関係で馬市が栄えたと言われている。
 松並木の終わり近くに、「旧東海道三拾九番目の宿 池鯉鮒/江戸日本橋 八拾四里拾七町」と刻んだ碑が立っている。
 遊歩道の終わりには明治用水の説明板がある。明治13年に農業用水として遠く矢作川から取水して造られたが、今は遊歩道の下に埋められた管水路となっている、とのこと。

 この先を左に行くと、かきつばたで有名な無量寿寺、在原寺がある、と刻んだ古い碑が立っているが、かきつばたの季節は5月なので寄り道せずに前に進んだ。
 しばらく歩くと、右手に大きな松が植わった来迎寺一里塚跡がある。道の反対側の公民館の後ろにも松が植わった一里塚跡があり、左右揃った一里塚は阿野一里塚跡とここだけとのことである。
 来迎寺町信号の先には、御鍬神社があり、秋祭りが行われている。向かい側にある来迎寺公園で小休憩。公園の一角に「玉の井」と刻んだ碑と古井戸の跡があるが、かつては水が湧き出していたのであろう、と想像した。
 緩やかな坂を下ると、猿渡川の橋の欄干には松のレリーフがはめ込まれていて、街道歩き気分になる。
 所々に、東海道松並木の松が散見される旧道をひたすら歩く。秋の日差しが照りつけて、右の頬がひりひりする。

 里町に入ると、所々に松並木が残り、松の根元に、「除草剤をかけないでください」と書いた看板がつけられている。長野で、200メートルも離れた畑でまいた除草剤のために、庭の立派な松の木が枯れてしまった、と聞いた事がある。松並木の手入れに除草剤を使うのだけは止めてほしいと願う。
 松並木が途切れたところに、明治川神社の大きな鳥居と明治用水碑がある。碑の脇には小さなお地蔵様が祀られてある。
 すぐ先の永安寺は貧しい村人の助郷役免除を願い出て刑死した庄屋・柴田助太夫の霊を祀る寺。そこに植えられた松は上に伸びず、枝が地を這うように伸びた姿を形容して「雲龍の松」と呼ばれている、とのこと。樹齢は300〜400年と推定される。太い枝がうねる松の姿は雲龍と譬えられるように不気味であった。

 少し先のコンビニで昼食を買い、熊野神社の境内の木陰で食べた。
 神社の入口の左側に、真新しい尾崎一里塚跡の碑が立っている。右側には、立派な「予科練の碑」が立てられている。かつて、神社の裏手は第一岡崎海軍航空隊の飛行場で、予科練の訓練が行われ6000人もの若者がここから戦地に飛び立っていったとのこと。
 尾崎町公民館の先の、柿崎町の沿道には松並木が残り、所々に小さい松の木が補植されて景観をとどめている。
 国道に合流する所で、松並木は終わり、安城市に入る。交通量の多い国道の歩道を、秋の日差しに焼かれて歩くこと2キロ。

 旧道に入りしばらく行くと、誓願寺と十王堂。十王堂の扉が少し開いているので中をのぞくと、十王様が並び、壁には地獄の入口の絵が描かれている。ゾッとするような絵だが良く描けていると見ていると、「お賽銭をあげて先を急ごう」というメンバーの声に促された。矢作川までの旧道添いには連子格子のある旧家が残っていて、街道歩きが楽しめる。
 矢作川の堤防の手前に、矢作一里塚と勝蓮寺がある。勝蓮寺は家康の長男・信康の遺品などを保管している由緒ある寺、とのこと。
 矢作橋のたもとには、蜂須賀小六と日吉丸の出会いの像が立てられている。矢作橋は、広重の浮世絵にも描かれ、長さが208間(約374m)あり、東海道の最長の橋だった。
 矢作橋を渡り、八丁往還通りに入る。八丁味噌の蔵が並ぶ通りを歩き、岡崎宿入口までで今回の旅は終わり。「まるや八丁味噌」を見学して帰路についた。
(第6回二日目の歩数:23,512歩)

参加者=清水計枝(1)、清水正宣(1)、平林正昭(1)、磯村雄二(3)、山浦ひろみ(5)、山浦るみ子(8)、藤巻禮子(9)、宮下明子(9)、池田有美子(69期)の9人。

 東海道歩き6回によせて

  今回のハイライトは、有松の絞り、池鯉鮒の松並木と、ミカン大福でした。
 ここ有松は昔の街並みが今でも保存されています。毎年6月の第1土曜日と日曜日のお祭りには街道沿いに沢山の店が立ちます。絞りの反物が畳の上に並べられ、竿掛けられ、仕立てられた浴衣、洋服、小物が所狭しと置かれます。
 それは「広重版画」そのままなのです。
 その浮世絵には買い入れた絞りを供のものに持たせていく女、店に入ろうか相談している女、など有松絞に興味を持つ女たちが描かれています。
 というわけで・・・・・我々女性群はそれぞれの店に散りました。その間、男性達は待ちぼうけ!
 次の日・・・・・リーダーの清水さん藤巻さん池田さんは有松絞を素敵に着こなし、池鯉鮒宿から岡崎へGO。
 広重の東海道浮世絵には必ずといってよいほど「松」が描かれています。徳川家康が街道沿いに植えるよう命令したようです。池鯉鮒にはその松並木が500m程残されています。その見事さに脱帽、ほっとする一時でした。
 そして、冷凍ミカンが丸ごと1個入っている大福の美味しかったこと、中山道歩きの時大津あたりで食べたイチジクが丸ごと1個入った道明寺と共に両横綱です。(食べた者のみがわかる)
 東海道歩きになってから男性達が何人か参加してくれるようになりました。地図を片手に道先案内を陰に日向にしてくれます。おかげで私達は、より、のんびり気ままに、歩けるようになりました
 そして、帰りの「こだま」では楽しく宴会です。特にI氏が参加するときは、盛り上がるようです。
 やまうら(5組)

有松宿
有松宿

桶狭間古戦場跡桶狭間古戦場跡(クリックして拡大)

知立神社
知立神社
知立松並木
知立松並木
来迎寺一里塚跡(右塚)
来迎寺一里塚跡(右塚)

八丁味噌蔵通り
八丁味噌蔵通り




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