会報うえだ 93号(日本橋にゴール 東海道53次の旅が完結)
会報うえだ 92号(藤枝から三島) 会報うえだ 91号(二川から藤枝)
(4)小田原宿から日本橋、大阪 会報うえだ 90号(岡崎から二川)
(3)掛川宿から小田原宿 会報うえだ 89号(宮の渡しから岡崎)
(2)有松宿から掛川宿 会報うえだ 88号(土山宿から桑名宿)
(1)草津宿から鳴海宿 会報うえだ 87号(草津宿から水口宿)
番外編2 姫街道 (見附宿から嵩山宿まで、浜名湖北の陸路を歩く)
番外編 佐屋街道 (熱田から桑名へ、七里の渡しを歩く)

東海道57次番外編

『大坂の陣:真田丸ゆかりの史跡』見学ツアー  (16/11/21)

 東海道57次の京街道(伏見街道)を大阪高麗橋まで歩いた翌日に、番外編としてNHK大河ドラマの「大坂の陣:真田丸ゆかりの史跡等」の見学を行った。
 前日夜「東海道57次を歩き終えた打上げ」をした帰りに、新世界の通天閣に登る。高層ビルの谷間に顔を覗かせているライトアップされた大坂城と、通天閣の足元に広がる漆黒の天王寺公園内の茶臼山辺りを確認。大坂「冬の陣」ではこの距離(約1里強=5㌔)で徳川軍と豊臣軍が対峙していたのだと確認する。

茶臼山、一心寺
 当日ホテルから、仕込み準備で忙しいジャンジャン横丁を抜けて通天閣の下まで再度行き、昨夜見逃した『残念石』(大坂城の石垣用に切り出されたが使われなかった石を指す)や王将碑を見てから、天王寺公園新世界口から茶臼山に向かう。河底池にかかる赤い欄干の橋を渡った先の木々が茂る小高い丘(標高26㍍・元々は古墳跡?の伝承もあるとか)が茶臼山である。この茶臼山一帯が大坂「冬の陣」では徳川家康が本陣として、また「夏の陣」では真田信繁が最後の戦いに臨んだ際の本陣と言われている。今ここからはビル群で遮れて大坂城は見ることは到底出来ないが、その当時は上町台地北端の大阪城がこの高台の茶臼山からははっきりと見通せたことと想像すると、臨場感が湧いて興味深かった。
 茶臼山の一心寺側の麓に「大坂の陣史跡茶臼山」の大きな碑がある。一心寺が大坂夏の陣400年供養として昨年秋に建立し、大阪市に寄進したとある。天王寺公園茶臼山口を出て、目の前の歴史散策案内所(一心寺存牟堂)で、大坂の陣のビデオ放映を見ながらしばし休憩。遅れてきたYa氏ともここで合流し、すぐ横の坂松山高岳院一心寺に向かう。この一心寺は徳川家康との関係が深く、山号額『坂松山』は家康公直筆で寺宝となっているそうです。
 また家康公の八男仙千代の墓(初代尾張藩主の徳川義直の同腹兄・戒名が高岳院、これから一心寺の院号になる)や、徳川四天王本多平八郎忠勝【真田信幸(之)正妻の小松姫の実父】の次男本多忠朝の墓もある。忠朝は「夏の陣」天王寺の戦いにて、徳川方先鋒として豊臣方毛利勝永勢と激突し奮戦の末に討たれた、とのこと。
 一心寺の山号「坂松山」らしくここの本堂は小高い丘にあり北門への坂を下がった辺りに、「霧降りの松」跡碑と枯れた松の幹がある。「夏の陣」で信繁が家康を追い詰めた際に、この松から霧がたちこめて家康の姿を隠して窮地を救った松、とのこと。(私見だが、大御所徳川家康や将軍徳川秀忠、頼宣、義直の御一門勢はかなり後方に布陣しており、信繁が旗本勢を突破して家康陣に再三肉薄したとしても、まだ豊臣勢支配下の茶臼山後方の一心寺方向には逃げ込まなかったように思う。やはり【真田幸村公】ならではの英雄伝説の逸話かと)

安居神社
 一心寺北門を出た道路の反対側に安居神社(安居天満宮)がある。この神社で力尽きた信繁が越前藩松平忠直(家康の次男結城秀康の長男で、家康の孫)部隊により最期を迎えた場所として、「真田幸村公戦死跡之碑」と、近年建てられた「真田幸村公之像」が並んである。幸村公之像は兜を外し、太刀も傍らに置き、立膝あぐらで軍扇らしきものを両手で持って遠くを見つめている姿。『やる事は全てやった』という安堵の表情にも見えて少しセンチになる。その後ろには信繁が傷の手当てをして休息していたという通称「さなだ松」(?代目だそうです)がある。碑の前には、地元の天王寺地域限定の酒「真田丸」「真田の陣」や、故郷信州上田の酒「六文銭」などの樽が供えられていて【真田幸村公】人気の歴史フアンの多さを感じた。
 今回宿泊ホテルの場所の関係で、大坂の陣史跡めぐりは時計の針を逆回転させて「夏の陣」(1615年)から見てきており、ここからは「冬の陣」(1614年)へとさらに遡ってゆく。安居天神社を出てから坂道を少し登って上町台地の上に出る。ここから谷町筋を北へ大阪城に向け徳川軍になったつもりで進軍開始。しばらく行くと四天王寺西門前を通る。信心深いSM氏は朝早くホテルを出て参拝してきたそうだ。ここ四天王寺は「夏の陣」では毛利勝永軍が南門近くに布陣し、本多忠朝軍と対峙した場所、とのこと。

心眼寺、三光神社
 当初は「冬の陣」真田丸跡・大坂城までは距離も僅かで歩く予定だったが、一昨日昨日の街道歩きの疲れや、連夜の食べ過ぎ飲み過ぎの影響かご一行様のペースが上がらない。やむなく地下鉄に乗る。少し遠回りもしたが、大坂城南惣構堀跡の空堀通りを真田丸跡方向に向かう。善福寺(どんどろ大師)から心眼寺坂を上ってゆく左手に、門前に新しい「真田幸村出丸城跡」碑がある心眼寺に出た。この心眼寺は、真田氏ゆかりの海野氏の発願助力で元和8年(1622年)、信繁・大助父子の供養するため創建された、とのこと。山号は「真田山」、寺の定紋は「六文銭」で門扉に六文銭の浮彫がある。
 なお真田丸跡一帯は戦後徳川幕府の直轄地として戦略上多くの寺が集められた。当然ながら真田父子の墓は建てることはできなかったとのことで、一昨年(2014年)幸村・大助400回忌に際し信繁の墓が建てられた。「従五位下 真田左衛門左豊臣信繁ノ墓」と刻まれている。 なお、元和8年は奇しくも真田信之が上田から松代に移封された年で、何かしらの因果を感じさせられた。心眼寺門前の道路反対側(明星中高学園)に、今年2月に建てられた真田丸顕彰碑があった。
 坂を下って元来た道に戻り、右手に宰相山公園を見ながら進むと三光神社の鳥居が見える。鳥居をくぐり階段を上がった境内には、甲冑姿で采配を振るう陣中指揮の真田幸村公之像が凛々しい。そのさらに奥には真田の抜け穴(大坂城と真田丸との連絡通路とか)もある。秋の真田祭の際には年に1度だが扉をひらくそうです。そういえば上田城址の真田神社横にも真田井戸があり太郎山に通じていたとか、雌伏の地の九度山にも、真田庵(善名称院)の近くに真田古墳があり、信繁達はこの穴から大坂に向け脱出したので真田の抜け穴とも言われているとか、とにかく【幸村英雄伝説】はすごいことだと感心する。

大阪城
 この後は、地下鉄組と徒歩組に別れて大坂城玉造口に向けて出発する。途中玉造稲荷神社の前を通ったが、ここにある豊臣秀頼公の像は見逃してしまった。噴水広場での昼食をはさんで、大阪城天守閣見学、天守閣後ろの山里丸で「秀頼公・淀殿ら自刃の跡」石碑、刻印石広場の片隅の内濠石垣傍にひっそりとある小さな地蔵堂(真田大助はじめ自害された人々を供養しているとのこと)をお参りした後、極楽橋を渡り青屋口(城の搦め手)から出て、水上バス乗場がある寝屋川沿いにJR大阪城公園駅まで行き、各自帰路に就いた次第です。
  磯村雄二(3)記

参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水正宣(1)、清水洋二(1)、平林正明(1)、磯村雄二(3)、柳澤信義(3)、石井則男(4)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、村居次雄(8)、清水淳郎(9)、林久美子(9)、藤巻禮子(9)、宮下明子(9)、池田有美子(69期)の16人。

 

大阪の陣史跡茶臼山碑
大阪の陣史跡茶臼山碑
安居神社入口
安居神社入口
幸村像と最期跡碑
幸村像と最期跡碑
心眼寺門前
心眼寺門前
真田丸顕彰碑
真田丸顕彰碑
 (クリックして拡大)
極楽橋から大阪城
極楽橋から大阪城

第19回 東海道・追加57次の旅

髭茶屋追分から大阪高麗橋へ  (16/11/19-20)

追加旅の経緯
 東海道は日本橋から京三条までの「53次」として、広重や北斎の浮世絵に描かれて一般に知られているが、江戸幕府が管理していた東海道は57次であった。このことを、蒲原宿の東海道町民資料館に寄った時に、館長の志田さんから聞き、宿場資料を見せていただいた。
 慶長20年(1615)の大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡すると幕府は東海道の大阪延伸を決め、大津から伏見経由で大阪に至る街道を東海道として整備し、伏見宿、淀宿、枚方宿、守山宿の4宿を設けた。東海道の終端は大阪高麗橋で、ここに里程元標が設置されている。この地点は、中国街道、紀州街道などの起点であり、西国大名の参勤交代の通過地であった。
 そこで、大阪高麗橋までの追加57次の旅をするとともに、大阪城見学と真田丸史跡見学をすることになった。

髭茶屋追分から第54次・伏見宿へ
 2016年11月19日(土)、京阪・追分駅で昼食を食べてから出発。
 階段を上がると、大津からの東海道が通る懐かしい道。京都方面へ歩くと、すぐに髭茶屋追分。「みぎ京/ひだり宇治」と刻んだ道標が立っている。
 左の道に進む。髭茶屋屋敷町が旧道沿いに続く。国道・東海道を横切り、新幹線の下を通ってしばらく歩くと、大宅の一里塚跡がある。石垣で囲んだ塚の上に、小さな祠と大きな榎の切り株があり、大切に保存されている。
 一里塚のすぐ前に名神高速道の高架が見える。下をくぐって、なだらかな上り道をたどる。
 地下鉄東西線・小野駅を過ぎ、勧修寺の鬱蒼と木が茂る境内を右に見ながら旧道を上ると、今度は、名神高速道沿いの上り道になる。江戸時代、西国大名が参勤交代で通った道。西国大名の苦労が偲ばれた。
 高速道路と別れたところから下り道になり、深草谷口町を過ぎたところでJR奈良線を渡る。すぐ先が、JR藤森駅。

 藤森神社の先が、京阪・墨染駅。伏見宿の入口である。伏見税務署のすぐ先に、「廓入口」の石柱が立っている。大石内蔵助が遊興した事で有名な遊郭とのことだが、当時の雰囲気は全く残っていない。
伏見宿は街道沿いの町であると同時に淀川水運の中継地でもあった。江戸時代は、幕府の直轄地で伏見奉行が支配する大きな町で、東西1キロ、南北4.6キロ、人口2万4千人、本陣4、脇本陣2、旅籠39軒であった。
 両替町通、京町通、大手筋通を歩いて、黄桜酒造に立ち寄る。龍馬通りを通って、寺田屋事件で有名な寺田屋へ。寺田屋の前は豪川で舟着き場がある。この川は、宇治川を経て淀川に通じていて、かつては京都と大阪を結ぶ水運の拠点であった。

伏見宿から第55次・淀宿、第56次・枚方宿へ
 伏見から淀宿までの街道は、淀川沿いの京阪国道になっている。夕暮れが迫っていたので、伏見宿のはずれにある中書島駅から京阪本線の電車に乗り、淀駅で下車。
 淀宿は、本陣0、脇本陣0、旅籠16軒の小さな宿場であった。
 淀君がいた淀城は関ヶ原後に取り壊され、場所も定かでない。家康の時代になって造られた新淀城の石垣が残っているが、城や宿場は戊辰戦争の戦火で焼けてしまった。江戸時代は稲葉氏10万石の居城で、朝鮮通信使が淀川を舟で来て、淀湊で上陸して江戸に向かった。通信使の宿所も設けられていたとのこと。
 淀城跡の入口に与杼(よど)神社がある。拝殿は慶長12年(1607)に建造されたもので国重文。
 淀駅から京阪本線に乗り、枚方市駅で下車。駅近くの、ひらかたサンプラザホテルで宿泊した。
(一日目の歩数、25,743歩)

枚方宿から第57次・守口宿へ
 枚方市駅の前に枚方宿を示す道標がある。右手の淀宿方面を見ると、米穀店の前に「八重原米」の旗が立っている。「信州の山奥に伝わる隠し田伝説」と添え書きがしてある。
 八重原は、江戸時代に小諸藩が蓼科山の湧き水を標高差を利用して導水して新田開発した所で、隠し田ではない。
 枚方宿は、本陣1、脇本陣0、旅籠69軒のほか、船宿や商人、職人の家が並ぶ賑やかな宿場であり、また、三十石船が寄港する淀川の川湊でもあった。三十石船が寄港すると茶舟が「酒喰らわんか」「餅喰らわんか」と飲食を勧め、茶舟は「くらわんか舟」と呼ばれるようになった、とのこと。
 枚方橋の標柱と並んで、枚方宿東見付跡の碑が立っている。宿内に入って行くと、左近の辻、という場所に「右 大坂みち」と刻まれた道標が立っている。道標の示す方に右折して進む。宿場内は、電柱が撤去され、カラー舗装がされていて、虫籠窓、漆喰壁の旧家があちこちにある。本陣跡は、入口に石灯籠と標柱があり、三矢公園になっている。
 漆喰の壁に袖卯建のある建物は、享保年間から続く塩熊商店の邸宅で、今は「くらわんかギャラリー」として公開している。
 桝形にあるのは淨念寺(西御坊)、京阪線を挟んで反対側にある寺が願生坊(東御坊)で、浄土真宗が東西に分裂したため、このようになったよう。
 次の角を曲がると、枚方問屋役人木南喜右衛門家(四葉粉屋)の重厚な建物がある。
その先には、船宿・鍵屋が枚方宿鍵屋資料館として公開されている。ただ、開館時間が9時30分からとのことで中に入れてもらえなかった。
 資料館の先の交差点の角が西見附で、宿場の案内板が立っていた。くらわんか舟の様子を描いた浮世絵が面白い。

 廃校になった高校が、スポーツセンターになっていたので、小休憩させてもらった。
 旧道らしい道を進むと、蓮如上人が腰を掛けて説法したという丸い石が置かれた一角がある。きれいに清掃されていてごみなどは落ちていない。
 さらに進むと、淀川の堤防の上の道に。大阪府の街道歩きのマップでは、京阪国道ではなく、堤防の上の道がお勧めのコース。堤防の上は、人と自転車の専用道になっていて歩きやすい。下は、淀川河川公園で、野球場、パターゴルフ、ランニングコースなどになっていて、それぞれ運動を楽しむ人でいっぱい。その先を、淀川がとうとうと流れている。
 仁和寺大橋有料道路の下を通り、大阪モノレールの通る橋の先で、堤防の上の道を下りてしばらくすると守口宿入口。
 守口宿は、本陣1、脇本陣0、旅籠27軒で、大阪から近かったため宿泊は少なく、淀川舟運も寄らなかったため徐々に衰退したよう。

守口宿から大阪高麗橋へ 
 守口から国道を進むと大坂高麗橋に到達するのだが、歩かずに、ほぼ同じコースを通る京阪本線を利用して、守口市駅から北浜駅まで行き、土佐堀通りを少し戻って高麗橋に到達した。里程元標跡の標柱が立ち、橋は高速道路の下になってしまっているが、橋のたもとの常夜燈は立派。夜になると灯りが点くのかな。
 土佐堀通りをさらに戻ると、天神橋の先に、八軒屋浜船着き場跡に常夜燈が復元されている。江戸時代、8軒の船宿と旅籠、問屋、飛脚屋が並び、三十石船が発着して賑わった。
この後、大阪城に向かい、城郭に詳しい清水淳郎さんの解説を聞きながら見学した。

大阪城見学 
 豊臣秀吉が天下統一の拠点として築城した大坂城は大坂夏の陣で落城した後は破壊され、同じ場所に盛り土をして徳川秀忠が築城した。天守はその後、落雷によって焼失し、昭和6年に約260年ぶりに再建された。再建は全額大阪市民の寄付でまかなわれたとのこと。
 大手門を入り、大手口桝形には巨石が積まれているが、4番目の大石だという。1番はどれほどの大きさなのか見るのが楽しみになる。
 大手口桝形の石垣上の細長い長屋形式の櫓は多聞櫓というが、内部特別公開されているというので見学した。内部は予想外に広く、槍落とし、銃眼など大手口を守る様々な工夫がされた建物である。
大手口を北側から守る位置にあるのが千貫櫓で、櫓の窓から大手口土橋が見える。窓や銃眼から外に向かって撃ちかけたのであろう。
 石垣づたいに進み、乾櫓の先で公開していたのが、焔硝蔵。壁の厚さ2.4mの花崗岩でできた火薬庫。壁、天井、床のすべてが石造りで、いかにも火薬庫、といった感がある。
 翌日は、森の宮駅口から入り、ロードトレインに乗って、外堀、内堀の石垣と櫓を見た後、桜門を入ると、枡形に大坂城一番の巨石(蛸石)がそそり立っている。
 天守閣は五重八階の巨大なもの。平成9年に大改修がされ、一番上の階は豊臣時代のように黒と金で装飾されている。内部は、大坂夏の陣図屏風や武具などの資料が展示してあり、一日では見きれないほどである。
(二日目の歩数、31,139歩) 

参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水正宣(1)、清水洋二(1)、平林正明(1)、磯村雄二(3)、柳澤信義(3)、石井則男(4)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、村居次雄(8)、山浦るみ子(8)、清水淳郎(9)、林久美子(9)、藤巻禮子(9)、宮下明子(9)、池田有美子(69期)の17人。

 

髭茶屋追分
髭茶屋追分
伏見・旅籠寺田屋
伏見・旅籠寺田屋
枚方宿鍵屋資料館
枚方宿鍵屋資料館
大阪高麗橋
大阪高麗橋
 (クリックして拡大)
大阪城土橋
大阪城土橋
 (クリックして拡大)
大阪城蛸石
大阪城蛸石

第18回 東神奈川から日本橋へ

(16/10/15-16)

東神奈川から第2次・川崎宿へ
 2016年10月15日(土)、前回解散した東神奈川駅に集まる。空は快晴、すぐに暑くなって、上着を脱いで歩く。
 第一京浜国道の歩道は広くて歩きやすいが、自転車の通行が多いので気を使って歩く。500mほど歩いたところにある良泉寺の前に、神奈川歴史の道、の解説板が立ててある。幕末、外国の領事館などにされることを回避するために、本堂の屋根をはがして、修理中のため貸せないと断った、とある。そういう断り方もあるのだ、と住職の気持ちを思った。

 新子安駅を過ぎたところに、東子安一里塚跡の説明板がある。かつては、北側の塚には榎、南側の塚には松が植えられていた、とのこと。
 キリンビールの工場の所で旧道に入る。現在、首都高速の工事中のため、ここにあった生麦事件の碑は500mほど先に移設されていた。
 さらに500mほど行くと、「生麦事件発生現場」の看板が民家の塀に付けられている。つまり、ここで殺傷事件が発生し、切りつけられたイギリス人一行は、1キロほど走って逃げ、イギリス商人リチャードソンが生麦事件の碑のあった場所で落命したということである。
 道念稲荷の先は、魚屋さんが並ぶ、生麦魚河岸通り。海が近いので、この辺りに魚河岸があったようだ。

 京急鶴見駅を過ぎたところに、信楽茶屋跡の看板が立っている。東海道の立場として栄えた。
 鶴見橋の手前にある、鶴見橋関門旧跡は、幕末、警備のために設けられた見張り番所の一つ。
 鶴見川を渡った先に、市場一里塚跡がある。江戸から5里目の一里塚、いよいよゴールが近づいた気がする。
 市場銀座商店街を通り、八丁畷駅の手前に、無縁塚がある。江戸時代、川崎宿は度々、大火、洪水、飢饉などの災害に襲われ、災害で亡くなった身元不明の人々を、川崎宿の外れのこの地に埋葬したものと思われる、とのこと。

 八丁畷駅の踏切を渡ったすぐ先に、芭蕉の句碑がある。元禄7年5月、江戸を発ち、郷里伊賀への帰途、川崎宿に立ち寄り「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」の句を詠んだ。この年の10月、「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」という辞世の句を残して51歳の生涯を閉じた。私たちは、還暦を過ぎて、街道歩きの楽しさに惹かれて、旅を続けているが、健康なればこそ、と思った。
 すぐ先のビルの脇に、川崎宿京口跡の説明板が立っている。

 川崎宿は、本陣2、脇本陣0、旅籠72軒で、六郷川(多摩川)の渡し場があり、川会所も置かれていた。
 小土呂橋の先に佐藤本陣跡があるが、今は銀行になっていて、向かい側に、この家で生まれ、大正から昭和にかけて活躍した佐藤惣之助の碑が立っている。佐藤惣之助は、「六甲おろし」「人生劇場」などの作詞をした人。
 中の本陣跡、問屋場跡の解説板を読みながら、いさご通り商店街を歩く。
 宗三寺は鎌倉時代創建の古い寺。境内の奥には川崎宿の遊女の供養塔がある、とのこと。
 宿場の中程に、かわさき宿交流館が設けられていて、1階は休憩所、2階は宿場資料の展示室になっている。1階でゆっくり休み過ぎて、2階の展示を見る時間が少なくなってしまった。解説員もいて、説明をしたいようだったが、資料をいただいて、ザっとみて出発した。ただ、資料は良くできていて、江戸時代の川崎宿の街並みを想定し描いたイラストと現代の航空写真を見比べるようになっている。見どころの解説もありわかりやすい。

 京急大師線のガードをすぎると、六郷の渡し場跡。家康は川崎大師に参詣するため、慶長5年(1600)に六郷大橋を架けたが、洪水の都度破損・流失したため、元禄元年(1688)以降は渡船とした。明治天皇が通る際は、船橋を架けたとのことで、その様子がモニュメントに刻んである。
 多摩川(六郷川)を渡ると、東京都大田区。川を渡ったところにある六郷神社から日本橋までは17キロ。
 蒲田駅の踏切はなくなって、高架になっていた。羽田空港への輸送量が増えたため、高架にせざるを得なかったよう。
 梅屋敷公園を過ぎ、大森町駅入口の信号の先で旧道に入る。50mほど歩いて内川橋の手前に大森一里塚跡があるはずなのだが見当たらない。
 今日の旅はここまで。すぐ近くのホテルに荷物を下ろして、ファミリーレストランで夕食。明日は、いよいよ日本橋にゴールと思うと、ワクワクしてしまう。
(一日目の歩数、30,050歩)

大森町から第1次・品川宿へ
 昨日、到達した内川橋からスタート。三原商店街を歩いていると、早朝なのでシャッターが下りているが、海苔屋の看板が目につく。近くの海岸は海苔の産地だったよう。
 商店街を抜けたところからまた国道の歩道を歩く。1キロほど歩いて旧道に入ると鈴が森刑場跡。慰霊堂、慰霊碑などがあるが、磔や火炙に使用された台石なども並んでいて長くは止まりたくない雰囲気。かつては、間口40間、奥行き9間もあった。八百屋お七、天一坊らがここで処刑された。
 すぐ先の、立会川に架かる橋は、別名、涙橋と呼ばれたとのこと。刑場に護送されてくる罪人の親族らがひそかに見送りに来て、この橋の上で共に涙を流しながら別れたことから、こう呼ばれるようになった。

 品川宿は、本陣1、脇本陣2、旅籠93軒、幕末には戸数1600戸に及ぶ大規模宿場だった。寺社を除くと往時の建造物は残っていないが、通りはカラー舗装がされ商店街として賑わっている。
 品川宿に入った所に、土佐藩の下屋敷があったとのことで、跡地に坂本龍馬像が立てられていた。
 品川寺(ほんせんじ)は大同年間(806~810)に開設された品川区内最古の寺院。山門は江戸時代の建立。六地蔵、梵鐘なども由緒あるもので、境内は播き清められていてさわやか。
 向かい側にあるのが、脇本陣・釜屋跡。街道松の広場が設けられ、目黒川のたもとの、かつて高札場があったところには常夜燈が立てられ宿場の雰囲気を出している。本陣跡は聖蹟公園になっている。大旅籠・土蔵相模跡の碑、問答河岸の跡の碑などをたどって歴史に思いを馳せながら品川宿を後にした。
 また、三代将軍・家光に請われて、沢庵和尚が創建した東海寺に足を伸ばしたが、かつての壮大な寺院の面影は無くなっていた。

  品川宿から日本橋へ
 八つ山橋を渡り、第一京浜国道の歩道を歩く。品川駅前の雑踏を過ぎて、泉岳寺に向かう。山門を入ると、正面が本堂、左手に赤穂義士墓所がある。墓所の入口には、吉良上野介の首を洗ったといわれる、首洗井戸。墓所の門を入った所に、浅野内匠頭の墓所、奥に赤穂義士の墓所がある。毎年12月14日には盛大に義士祭が行われる。日曜日のためか、墓に線香を手向ける人が訪れていた。
 国道に戻り、泉岳寺の信号を渡って、右側歩道を歩いて行くと、高輪大木戸跡の石垣が残っている。江戸の主要出入り口4か所に大木戸が設けられていたが、現存するのはここだけ。

 札の辻交差点を過ぎ、JR田町駅の先の三田薩摩藩邸跡に、「江戸開城/西郷南洲/勝海舟/会見之地」と書かれた丸い石が置かれている。ここで江戸城無血開城が決定され、翌日に予定されていた官軍の江戸城総攻撃は中止された。
 大門交差点から、増上寺への参道にはいる。コンクリート製の大門をくぐり、三解脱門(三門)へ。江戸初期の建造で国の重要文化財に指定されている。本堂は結婚式のため中に入れず残念。奥の徳川将軍家墓所が公開されていたので見学。徳川将軍家霊廟は、当時の最高の技術が駆使された壮麗なもので、戦前国宝に指定されていたが、昭和20年の空襲で殆どが消失してしまった、とのこと。
 ただ、台徳院殿霊廟模型(二代将軍秀忠の御霊屋の10分の1スケール模型)を宝物館で展示していたので見ることにした。これは、明治期にイギリス国王に献上されたものだが、修復のため日本に一時帰国して展示されているもの。高村光雲などの専門家を動員して作ったとのことで、彫刻や絵画が10分の1で華麗に施されていて、本物を彷彿とさせるすばらしいものである。一緒に展示されている、明治の陶芸家・宮川香山の作品も素晴らしいものだった。

 増上寺から0.5キロほどで新橋。銀座通りに入る。道路脇に、銀座の柳2世が植えられた小公園があり、歌碑が立てられている。
 銀座通りは、日曜日の歩行者天国になっているので、銀ブラを楽しみながら京橋へ。銀座一丁目交番の脇に京橋の親柱が残っている。放送局がいくつか取材に来ていて、インタビューを受けたメンバーもいた。
 S氏御用達の帽子屋の前を通り、高島屋を過ぎると、「日本橋」の標示板が付けられた高速道路が見える。
 高速道路手前が、高札場跡で日本橋由来碑が立てられている。向かい側は、晒し場跡。広重の日本橋の浮世絵は、ここの情景を描いたもの。

 高速道路の下になってしまった日本橋を渡ると、東京市道路元標のところで、64期生の、野村さん、小松さんが迎えてくれて、手を取り合って喜びを共にした。青春時代を共にした同期生はいいものだ。
 2009年4月に日本橋を出発して、中山道を歩いて京都三条大橋へ、そして、東海道を歩いて日本橋に戻る約1100キロの旅であった。年月を数えると長いが、旅する先々に名所、旧跡があり、名物、名産品があり、興味深く、美味しく、楽しい旅であった。
 この後、近くの居酒屋で盛大な懇親会をして、旅の思い出を語り合った。そして、11月19日~21日に行うことになった、東海道4宿追加旅と大阪・真田丸史跡見学を楽しみに別れた。
 (二日目の歩数、33,947歩)

参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水正宣(1)、清水洋二(1)、平林正明(1)、磯村雄二(3)、柳澤信義(3)、石井則男(4)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、村居次雄(8)、山浦るみ子(8)、清水淳郎(9)、藤巻禮子(9)、宮下明子(9)、池田有美子(69期)の16人。

 

生麦事件の碑
生麦事件の碑
 (クリックして拡大)
かわさき宿交流館
かわさき宿交流館
品川宿・高札場跡
品川宿・高札場跡
増上寺三門
増上寺三門
銀座歩行者天国
銀座歩行者天国
日本橋
日本橋
 (クリックして拡大)

第17回 藤沢宿から神奈川宿へ

(16/9/24-25)

藤沢宿から第5次・戸塚宿へ
 2016年9月24日(土)、藤沢駅に集まって、前回、解散した東海道・白旗交差点に向かう。藤沢在住の古賀さんが遊行寺まで一緒に歩いて案内して下さった。
 街道脇の本町公園に、義経首洗い井戸がある。腰越海岸で首実験された後に捨てられたが、潮にのって境川をさかのぼり、この地の里人に拾われて、井戸で洗われ、すぐ上にある白旗神社に祀られているとのこと。
 次に向かったのは永勝寺。藤沢宿は参詣人も多く賑わったので、飯盛り女を抱える旅籠屋も多かった。旅籠屋の主人小松屋源蔵は寺に飯盛り女の墓39基を造り、48人の法名を刻んで弔い続けたとのこと。中山道・伏見宿には女郎塚があったが投げ込み塚である。「生まれては苦界、死しては淨閑寺」と言われた吉原の女郎も投げ込まれ供養塔に葬られている。墓を造り、法名を刻み弔うとはなかなかできないことで小松屋の温情がしのばれた。

 蒔田本陣跡は、ラーメン店の前に看板のみ。本陣の奥の山の手には、将軍の宿泊所として、藤沢御殿が設けられていたようだが、今は、御殿辺公園と市民病院になっている、とのこと。
 街道沿いに並んでいた商家は、戦災で焼け呉服店と紙問屋の蔵が残るのみ。
 遊行寺橋を渡ると、遊行寺の門前にふじさわ宿交流館が造られ、脇に高札場が復元されている。交流館は、できたばかりで、紅白の幕が張られていた。中には、藤沢宿の模型や浮世絵が飾られ、お休み処も設けてある。
 遊行寺は時宗の総本山で正式には、藤沢山無量光院清淨寺といい、藤沢の町はこの寺の門前町として発展。東海道の宿場、江の島参詣の宿として賑わった。
 遊行寺の奥には、長生院小栗堂がある。歌舞伎の小栗判官・照手姫物語のゆかりの建物で、境内には江戸時代の商人が建立した標柱がある。

 ふじさわ宿交流館で昼食休憩した後、戸塚宿に向かう。遊行寺坂を上ると、坂の中ほどに、遊行寺一里塚跡。
 遊行寺坂を上ると、旧東海道松並木が残っているが、桜が植えられていて桜並木の観である。鉄砲宿の看板があり、住居表示が横浜市・戸塚区になっている。
 このあたりから雨が激しくなり、大運寺の軒下を借りて小休憩。寺の入口に、法然の幼少の座像と「月かげのいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ 法然上人御歌」と刻んだ石碑が置かれている。お寺の軒下に腰を下ろして休み、元気を取り戻して出発。
 なだらかな上り坂の途中に原宿一里塚の標柱が立っている。当時は一里塚に松の木が植えられていたが、幹線道路として拡幅され無くなってしまったようである。
 坂を上り、松並木の名残がある道の脇に、お軽勘平の碑が立てられている。「東海道 戸塚山中道行の場」と刻んである。歌舞伎鑑賞が趣味の池田さんが解説して下さったが、歩く事に気をとられていて、後でまとめて解説してもらうことになった。

 この先で、東海道は新道(国道1号)と旧道に別れるのだが、雨の中で標識を見落として、歩道のない新道を歩いてしまった。気がつくと、戸塚駅入口、の表示が見えてきた。
 戸塚駅から、旧道を戻り、宿場入口まで行くことにする。100m程行くと、澤邊本陣跡の標柱が立っている。澤邊家は建て替わっているが、門柱の奥に、江戸時代に勧請したという羽黒山神社の分社が残っている。
 この先にあるのが、「戸塚」の名前の由来になったという、富塚(とつか)八幡神社。参道の上り口に芭蕉の句碑が立てられている。「鎌倉をいきて出けむ初鰹」とある。
 すぐ向かい側に、戸塚宿・上方見付跡。かつての見付あたりを写した写真がプリントされた標柱が立てられている。脇には、何十年か後には写真に写っている松の木のようになることを願ってか、松の幼木が植えられている。

 この後、戸塚駅の山の手にある、清源院を見学。家康の側室・お万の方を火葬したという場所に、慰霊碑が立っている。芭蕉の句碑には「世の人の見つけぬ花や軒の栗」とある。『奥の細道』にある句。
 お万の方、について。家康の側室、お万の方は3人いた。結城秀康の生母、紀伊・頼宣と水戸・頼房の生母が知られている。清源院は家康の愛妾であったが、40歳になり子がなかったため側室を辞していたところ、家康の体調すぐれない事を聞き、駿府城に見舞いに行くと家康は大変喜び、阿弥陀如来像を与えた。翌年、家康が死去すると、清源院を開いた。亡くなると、この地で火葬され、高野山に埋葬された。家康から戴いた阿弥陀如来像は清源院の本尊として、年1回御開帳されている、とのこと。
 戸塚宿は、本陣2、脇本陣3、旅籠75軒。日本橋から10里半(約41キロ)で、一日目の宿泊にちょうど良かったため、宿泊者が多く賑わったようである。
 第一日目の旅はここまでとし、相模湾で捕れた新鮮な魚料理が売りのお店で楽しい夕食にした。
(一日目の歩数、27,121歩)

戸塚宿から第4次・保土ヶ谷宿へ
 朝のうちに小雨が降り心配したが、8時に出発する頃は回復して、歩き日和になった。
 2日目から参加の2名が加わって、16名で歩く。この日のコースは、横浜市在住の村居さんが一度歩いた道、とのことで、先導は村居さんにお任せ。
 開かずの踏切、で有名だった戸塚駅のJR踏切は、真新しい横断橋ができていた。通りを歩いて、広重の浮世絵に描かれた吉田大橋にさしかかる。橋を渡った所が鎌倉道の分岐点。橋の欄干に広重の絵が掲げてある。
 すぐ先に戸塚一里塚。ファミリーレストランVOLKSの前に、戸塚江戸見付跡の標柱が立っている。いよいよ、戸塚宿を出て、保土ヶ谷宿への道である。
 左手に、イオンのショッピングセンターができている。その先は、ブリジストンの工場。ブリジストン前から旧道に入る。
 国道に合流したところの塚の上に、大きなモチの木が枝を広げている。樹齢300年の巨木で、横浜市の天然記念物に指定されている。
 山崎製パンの工場の先でまた旧道に入る。国道と合流したところが赤関橋。デイリーヤマザキのコンビニがあるので小休憩。早朝に家を出て、参加したメンバーはここで朝食。

 しばらく川沿いの旧道を歩き、東戸塚駅入口の信号を渡り、柏尾川沿いの道を歩く。川と別れると、急な上り坂になる。品濃坂、とある。坂の途中で、環状2号線の陸橋を渡り、さらに上ると、柿やぶどうが植わった田舎道。道路の左側の環状2号線の向こうは高層マンション群である。
 なだらかにカーブした道を歩いて行くと、切通しのようになった道の両側に小高い丘の上に樹木が茂る塚、品濃一里塚がある。日本橋から9番目の一里塚である。
 一里塚から坂を下り、橋を渡ると今度は上り坂。坂の途中に、焼餅坂の標柱。別名、牡丹餅坂といわれ、坂の傍らの茶店で焼き牡丹餅を売っていたのでこのように呼ばれた、とのこと。
 坂を上りきった所が、相模の国と武蔵の国の国境。武相国境・境木の立場があったところで、武相国境の木、が立てられている。脇には、境木地蔵尊が祀られ、隣には立場で明治天皇が小休憩したという立派な門構えの家がある。眼下に海が見え、休憩するには絶好の地である。

 境木小学校の先を左折して、権太坂に入る。江戸から来ると、権太坂の上りは特に険しかったので、このあたりで行き倒れる人も多く、行き倒れた人を弔う石仏と投げ込み塚が残っている。私たちは、上方から来ているので、権太坂は下り道。上り程ではないが、下り道でも足の腿に負担がかかる急坂である。
 坂を下りた先で国道沿いの歩道を歩く。歩道に松が植えられ、松並木の復元を目指しているようである。
 歩道を歩いて行くと、一里塚跡と保土ヶ谷宿・上方見附跡の説明板があり、見附の石垣と竹垣が復元してある。保土ヶ谷宿は、本陣1、脇本陣3、旅籠67軒で、金沢道、八王子道の分岐点で賑わったようである。ただ、後に、戸塚宿が宿場に指定されると、両宿間で泊り客の取り合いがあったようで、弥次喜多の狂歌に「おとまりはよい程ヶ谷と とめおんな とつかまえては 離さざりけり」という一首がある。

 少し歩くと、旅籠屋(本金子屋)跡、の標柱。明治2年に立て替えられたとのことだが、江戸時代の雰囲気が残る旅籠屋である。すぐ先に、脇本陣(水屋)跡の標柱。
 隣は、苅部本陣跡、街道に面して本陣の通用門が残っている。
 東海道本線の踏切を渡り、保土ヶ谷宿の商店街に入る。10mほどいったところに、石碑が4基並んで立っている。右端の石碑は、円海山之道とあり、側面に、かなざわかまくらへ通りぬけ、とある。二番目は、かなざわ かまくら道と刻んである。三番目は、程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花 其瓜。四番目は、富岡山芋大明神社の道。ここは、金沢・浦賀往還への出入り口であったため、道標が4基も立てられたようである。

 少し先に、問屋場跡の看板がある。車道と歩道の境に立てられたポールの上には、裃を着たちょんまげ頭の小像が載っていて、裃の背中には「ハマ」と書かれている。横浜市の管理する旧東海道であることを示しているようである。
 保土ヶ谷橋の上からは、横浜のランドマークタワーが遠望できる。商店街が終わるあたりに、江戸方見附跡の看板が立っている。
 商店街の突きあたりが相模鉄道の天王町駅。駅の手前に、暗渠になってしまった帷子川に架かっていた帷子橋が復元してある。
 天王町駅を過ぎて、駅前商店街が終わったと思ったら、「松原商店街入口」。路上にまではみ出して野菜、果物、雑貨を売る店が500mほど続く。通りは、買い物客でごった返していて、お店の人の呼び声も活気がある。この買い物客はどこから来ているのだろう、と思った。

保土ヶ谷宿から第3次・神奈川宿へ 
 商店街を過ぎて、住宅街の中の道を歩く。「追分」の標柱があり、見ると、八王子道 となっている。八王子街道への別れ道のようである。
 浅間町の住居表示の住宅街を歩く。浅間神社の赤い鳥居が丘の中程に見える。浅間下交差点を渡ると、住居表示は、南軽井沢。長野県の軽井沢と関係があるのかな、などと言いながら歩く。
 高速道路の下をくぐると、急な上り道。坂の上に、神奈川宿歴史の道、の看板が立っている。この先の、下り坂道は、かつて神奈川の台、と呼ばれ、神奈川湊を見下ろす景勝の地だったとのこと。
坂を少し下った所に、神奈川台関門跡、の碑。幕末に幕府が横浜周辺の警備体制を強化するために設けた関門のうちの西側の関門、とのこと。

 坂の中ほどに、「文久三年 田中屋」、の看板の料亭がある。広重の浮世絵に描かれた「さくらや」が幕末、料亭・田中屋となり、竜馬の妻・おりょうがその英語力をかわれて働いていたことがある、とのこと。
坂を下り、青木橋の交差点の山の手に、本覚寺がある。ここは、アメリカ領事館がおかれていた寺。
青木橋を渡り、商店街を歩くと、洲崎大神が鬱蒼とした森の中にある。源頼朝が安房神社の霊を移して祀ったことに始まる古い社、とのこと。鳥居の脇にお神輿の蔵がある。
 第一京浜に出て、歩道を歩く。国道の向こう側は、神奈川公園になっているが、かつては神奈川湊だった。神奈川宿は、本陣2、脇本陣0、旅籠58軒。
 青木本陣跡は説明板のみだが、かつて青木町の周辺には、旅籠屋や茶店が軒を連ねて賑わっていたようである。
 横浜に港が開港後は、神奈川宿の淨瀧寺には英国領事館が、慶運寺(浦島寺)にはフランス領事館がおかれるなど、神奈川が長崎に代わる国際都市として知られるようになったが、トラブルも多くなったようである。
 今回の旅はここまでとして、近くの東神奈川駅から帰路に着いた。
(二日目の歩数、28,131歩) 

参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水正宣(1)、清水洋二(1)、磯村雄二(3)、柳澤信義(3)、石井則男(4)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、村居次雄(8)、山浦るみ子(8)、清水淳郎(9)、林久美子(9)、藤巻禮子(9)、宮下明子(9)、池田有美子(69期)の16人。

あ~あ勿体ない

 広重の「東海道五十三次」の版画の中の「神奈川」は魅力的な絵だ。画面の半分以上が海で舟が数艘浮かんでいる。水平線の向こうに小さく見えるのは富士山だろうか。画面右端に急坂、坂を登る数人の人、この坂の海側に家並、旅籠だろうか、二階建ての大きな家が坂の上まで幾棟も続いている。
 この絵は神奈川台町を描いたもので、景色の良い所として知られていたそうだが、五十三次の中で最も好きな版画だ。
 ところが、この台町の坂が大変貌していて仰天した。膨大な数のマンションが両サイドに延々と連なる、長大なマンション通りと化していた。人生で初めて目にした光景だった。二十数年前、新宿副都心の高層ビルの足元に初めて立った時と同種の怖れが湧いてきて、あたりの光景を正視せぬようにして、この坂を通り抜けた。
 だが今になって後悔している。表面の強烈さに驚いてあのマンション通りをスルーしてしまった事に後悔しきりだ。あれだけのマンション数だ。膨大な数の人々が生活している。にもかかわらず、ゴミゴミ感が全く無い。穏やかで静か、空気が軽やかだった。旅人にこの様な印象を与える地域には、底知れぬ叡知の存在がある。そこに到らず、何ひとつ見てこなかった。あーあ、勿体ない事をしてしまった。
  山浦るみ子(8組)

ふじさわ宿交流館
ふじさわ宿交流館
戸塚宿・澤邊本陣跡
戸塚宿・澤邊本陣跡
品濃一里塚
品濃一里塚
 (クリックして拡大)
武相国境之木
武相国境之木
保土ヶ谷宿・苅部本陣跡
保土ヶ谷宿・苅部本陣跡
神奈川宿・青木本陣跡
神奈川宿・青木本陣跡

第16回 小田原宿から藤沢宿へ

(16/6/4-5)

小田原城見学
  2016年6月4日(土)、小田原駅に集まって、耐震改修工事が終わって公開が始まったばかりの小田原城を見学。この日は、城閣専門家の清水淳郎君の案内で見学することもあって、上田市在住の同期生、倉沢さんも参加した。
 お城には、正面入り口の馬山門土橋を渡り、馬出門(2009年復元)から入場した。
 明治維新後、小田原城は廃城、解体・売却されて、御用邸として用いられていたが、関東大震災を期に小田原町(小田原市)へ払い下げられた。小田原市民のお城に寄せる思いは強く、戦前に隅櫓復興(1934年)、戦後に天守閣復興(1950年)、常盤木門復興(1971年)、銅門復元(1997年)、馬出門復元(2009年)、そして、たびたび地震の被害にあっている天守閣の耐震改修工事を2016年に行っている。
 案内役の清水淳郎君は、「小田原評定衆・清水太郎左衛門尉康英」の名刺を持っている。小田原評定衆とは、戦国時代に小田原北条氏が政務を合意決裁するために設けた組織で、”小田原評定”というマイナスイメージとは全く逆の、合意を重んじた民主的な北条氏の姿であった。
 馬出門を入って、住吉橋を渡り、銅門をくぐると二の丸。ここに設置されている歴史見聞館は、模型や映像で小田原城の歴史がわかりやすく解説されていて、見入って時間を費やしてしまった人も多い。
 本丸入口の常盤木門をくぐると、3重4階の天守閣がそびえ立っている。天守閣の内部には、甲冑・刀剣・絵図・古文書などの小田原城や小田原北条氏の歴史を伝える資料や、江戸時代の美術品(魔利支天像、杉戸絵)などが展示されていて興味深い。また、天守最上階に設けられている展望デッキからの眺望は、相模湾や箱根山など四方を見ることができ、時のたつのを忘れてしまう。
 この後、小田原城箱根口門を出て、東海道の旅を続けた。

小田原宿から第8次・大磯宿へ
 箱根口に出ると、すぐに外郎家の八つ棟造りの家。信号を渡り、道路の右側を歩くと、外郎家の建物が周囲の町屋を圧倒している。
 本町の碑が立っている。この辺りが箱根宿の中心だったよう。小路を入った所に大きな「明治天皇聖蹟」の碑が立っている。ここは、片岡本陣跡との説明板がある。入口の本陣跡と思しきところでは、発掘調査がされていた。
 すぐ先の、旧網問屋を改装した、小田原宿なりわい交流館で昼食休憩。
 休憩後、旧道をしばらく歩くと、庭の奥の木立に囲まれた所に「明治天皇宮前行在所跡」の碑と清水本陣跡の説明板。隣の建物の入口には「小田原宿脇本陣古清水旅館」の看板があり、2階に戦災で焼き尽くされた小田原の町の写真が展示してあるとのこと。
 高梨町の碑には、東海道から北へ向かう甲州道の起点にあたり、下の問屋場が置かれていたとある。
 新宿町の碑のすぐ先が、江戸口見付跡。塚の上に、「江戸口見付 並 一里塚跡」の碑が立てられている。

 江戸口見付から約1.5キロ、国道の歩道を歩く。常剱寺入口の信号を右に入ると、東海道松並木がある道。右手の道を入ると、新田義貞の首塚がある、と案内板が立っているので、走って見に行って来た元気な人もいた。松並木の道の先には、かつて酒匂川の渡し場があったようだが、今は、小田原総合ビジネス高等学校になっていては入れない。
 ビジネス高校の信号を渡り、酒匂川の堤防に突き当たる道をたどる。堤防の一角が小公園になっていて、小田原城主大久保忠真が二宮金次郎を表彰した地、と刻んだ石碑が立っている。
 国道に戻り、酒匂橋を渡る。酒匂橋からは、箱根の双子山と富士山が見えるというが、あいにく富士山は見えない。
 所々に東海道松並木の松が残る道を歩く。双体道祖神などが所々にあり、街道らしさを感じる。
 国府津駅を過ぎて1キロほど歩くと、大山神社の常夜燈と「従是大山道」と刻んだ石碑が並んでいる。石碑の上には閻魔様が刻まれている。いや、大山は神社だから閻魔様ではなくて、祭神の大雷神であろうか。

 押切橋を渡った先で国道と別れて旧道の緩やかな坂道を上った所に、松屋本陣の跡、と墨で書かれた木の碑が立てられ、脇に説明板がある。小田原宿と大磯宿の間は約16キロと長いので、間の宿が設けられ、松屋本陣のほかに、多くの茶屋や商店が軒を並べて梅沢の立場として賑わった、とのこと。
 すぐ先の国道と合流する所に、梅沢一里塚跡がある。少し先で、また旧道に入る。道路脇に、道祖神などの石碑がまとめて置かれている。国道を造る時に旧道にあったものをまとめて置いたと思われる。かつては街道を旅する人を見守っていた道祖神が、車社会では邪魔もの扱い。かといって、放置するわけにもゆかず、まとめて置いた、ということか。
 旧道は、緩やかな坂道。左手の丘の上に等覚院(藤巻寺)がある。藤の名木があり、三代将軍が上洛の折にご覧になったという。
 また国道に出て、絶え間なく走行する車の風圧と、時折、東海道本線を通る列車の音を感じながら歩く。大磯警察署の手前で旧道に入った時は、ホットした。
 中丸一里塚跡が、旧道の脇に片側だけ残っている。道の左側は森。県立大磯城山公園とある。中世の小磯城一帯を整備した県立公園である。

 公園の先で、また国道の歩道歩きになる。1キロほど歩いたところに、伊藤公滄浪閣之旧蹟の碑が立てられている。伊藤博文の旧居だったようだが、今は、クラブハウスのようである。
 伊藤博文の旧居の先は、東海道松並木が残っている。街道の両側に残る松並木の中を国道が通り、歩道は松並木の脇に設けられている。松並木が終わった所に、大磯宿上方見附跡の説明板が立てられている。
 大磯宿は、本陣3、脇本陣0、旅籠66軒だったが、旧道の大半が国道1号になり、昔の面影は見られない。
 ただ、気候温暖な景勝地で、「湘南」と呼ばれ、東京に近い事もあって、伊藤博文の別邸だけでなく別荘を持つ人が多かったよう。島崎藤村も、晩年、別荘として建てられた家を借りて住み、「静の草屋」として気に入っていたようである。現在、この旧居は、大磯町に寄贈され、公開されている。また、近くの地福寺には藤村の墓所がある。

 松並木の外れにある、茅葺屋根の建物は、「鴫立庵」。かつて、大磯の風景を、西行が、「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」と詠んだことにちなみ、小田原の商人、崇雪が草庵を造り、鴫立庵、とした。今も、俳諧道場として句会が開かれているとのこと。
 高札場跡、南組問屋場跡の説明板を見ながら歩くと、西行まんちゆう、の看板を掲げた、新杵、という和菓子屋さんの古い建物がある。西行まんちゆう、を買って食べたいところだが、このすぐ先の大内館が本日のお宿。夕食をおいしくいただくために、甘いものは自粛した。
 大内館は、入口にがっしりした伊豆石の土蔵がある。旧本陣だったとのこと。お風呂につかって汗を流してから夕食。
 夕食は、サザエの壺焼き、白魚の小鉢など海の幸たっぷりで大満足。小田原城見学などの感想を交えて楽しいひと時であった。食事をした広間には、渋沢栄一が宿泊した時に揮毫したという扁額がかかっていた。「徳不孤必有隣」という孔子の言葉。格調高い、元本陣旅館であった。
(一日目の歩数、34,053歩)

大磯宿から第7次・平塚宿へ
  朝から小雨。気象庁が、関東まで「梅雨入りした」と発表したよう。しとしと降って欲しい、と願う。
 北組問屋場跡を過ぎると、国道から離れて、車がほとんど通らない化粧坂(けわいざか)入口。旅館の女将が、「いつも車で、急いで国道を通ってしまうが、たまには化粧坂を歩いてみたいと思っています。とても情緒ある道です」といっていた。みごとな松並木が旧道の両側に残り、海からの風の影響だろうか、左側に傾いていて、昔の旅人の気分になる。
 江戸見附跡の説明板の先に、大磯八景の大きな石碑。「雨の夜は静けかりけり化粧坂 松の雫の音はかりして 敬之」と刻んである。隣には、広重の大磯の浮世絵の看板が立てられている。絵の下に説明が書いてある。「右手は高麗山の麓、虎御前と曽我兄弟との悲恋伝説も、雨にぬれそぼってわびしい」。今日も雨、大磯に雨は付き物なのか、ドシャブリでないので良し、としよう。
 少し先に、化粧坂の一里塚跡。向かい側には、虎御前の化粧井戸が残っている。
 1キロほどの化粧坂が終わり、また国道の歩道歩き。虚空蔵尊のお堂の隣に、「高来神社」入口の鳥居。すぐ先に、茅葺屋根の古い家がある。手入れがされているので、いわれがある家なのだろうが、説明板がないのでわからない。

 金目川に架かる花水橋を渡った所に、平成の一里塚が造られている。説明板には、広重の平塚宿の浮世絵が印刷されている。この浮世絵に描かれている景色が、高麗山をバックにした花水川、とのこと。私たちも、ここで高麗山をバックに写真を撮った。
 古花水橋の信号から平塚市。国道から市街に入る所が平塚宿入口。京方見附の石垣で囲った土塁の片側が残っている。
 平塚宿は本陣1、脇本陣1、旅籠54軒で、女性や足の弱い者は、江戸からの第2夜を平塚泊まりとしたようである。戦災で宿場の面影はないが、七夕祭りは有名。この日も、市内を踊るイベントがあるようで、おもいおもいの服装をした若者たちが集まっていた。
 また、戦災で宿場は焼けてしまったが、本陣跡、脇本陣跡、問屋場跡、高札場跡などに碑を立てて表示してある。また、江戸見附跡には、石垣を積んだ上に竹矢来を組んだ見附を復元している。復元した見附の脇には、平塚宿史跡絵地図を掲示して、市内の史跡を紹介している。通り過ぎて来てしまったが、歌舞伎『加々見山旧錦絵』の義女・お初の墓と顕忠碑もあるようだ。

平塚宿から第6次・藤沢宿へ
 平塚宿を後にして、藤沢宿へ向かう。七夕祭で有名な商店街を歩き、町はずれの馬入一里塚跡で国道1号に合流する。ここから藤沢宿の入口まで国道の歩道を歩くことになる。
 相模川に架かる馬入橋を渡る。遠くに丹沢山系が見える。
 橋を渡った所に、池の中に杭が立っているスポットがあるので立ち寄った。関東大震災の折、液状化現象で、田圃の中に埋まっていた旧相模川の橋脚が出てきたもの、とのこと。津波が来ない所でも、恐るべきは液状化。
 茅ヶ崎市に入り、新湘南バイパスを過ぎたところに、赤い大きな鳥居が見えてきた。鶴峯神社鳥居とのこと。山側に神社があるようだ。
 反対側の鳥井戸橋のたもとに、「南湖の左富士之碑」が立っている。吉原の左富士が有名だが、ここからも左に富士が見えるとのこと。あいにくの雨で、富士山の姿は見えなかった。
 2キロほど歩いたところで、茅ヶ崎駅近くのイトーヨーカドーに入り、昼食休憩。店内で買ったものを飲食できるコーナーが設けてあり、トイレも使えるのでありがたい。

 休憩後、国道・東海道に戻り、少し歩くと、茅ヶ崎一里塚が片側だけ残っている。江戸から14里、とある。道路標識では、日本橋から55キロである。
 茅ヶ崎松並木は、両側に松並木が残り、車の通行量は多いが、街道歩きの気分になれる。
 所々に東海道松並木が残る道を歩いて、大山道入口を過ぎ、江戸時代は、二軒茶店があったという二ッ谷まで来ると、稲荷と庚申供養塔が公民館の脇にある。ここに茶店が有ったのだろうか、と想像してみる。
 すぐ先の、道路の交差する所に、四谷一里塚跡。大山道道標の脇に四ツ谷不動の祠が立てられている。かつては、ここに多くの茶店が建ち並んでいたとのこと。
 ここで、国道1号と別れ、藤沢宿に向かう旧道に入る。メルシャンのワイン醸造塔が立ち並ぶ工場の脇を、ワインの匂いがする、と言い交わしながら歩く。
 湘南高校を過ぎたところが、藤沢宿・京見附。藤沢宿は中世、遊行寺の門前町として発展。東海道の宿駅に制定され、本陣1、脇本陣1、旅籠45軒だった。また、江の島、鎌倉、大山参詣の足場としても賑わった。

 小田急江ノ島線の跨線橋を渡った先の小路を入った所に、義経の首洗い井戸と首塚がある。腰越海岸で首実験された後に捨てられ、境川をさかのぼってこの地に流れ着いた、とのこと。
 旧道沿いが藤沢市の市街地で、通り沿いに、本陣跡などの説明板が立てられている。江戸時代からの紙問屋の建物は、分厚い防火扉が付けられていて、戦災を生き残ったようである。
 境川には赤い欄干の遊行寺橋が架かっている。この橋は、次回、渡って遊行寺に向かう事になっているので、ここまでで旅は終わりとして、江の島弁財天道標の前の江の島道を通ってJR藤沢駅に向かい、帰路に就いた。
   (二日目の歩数、32,246歩)

参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水正宣(1)、清水洋二(1)、磯村雄二(3)、柳澤信義(3)、石井則男(4)、倉沢直彦(5)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、村居次雄(8)、山浦るみ子(8)、清水淳郎(9)、林久美子(9)、藤巻禮子(9)、宮下明子(9)、池田有美子(69期)の17人。

 念願の小田原城見学

 2月に偶々上京中に開催された関東同期会に出席させていただいた際、清水計枝さんから東海道を歩く旅の途中で6月にお城の権威清水淳郎さんの案内で小田原城へ立ち寄るとのお話を伺いました。
真田が挫いた関八州の精鋭を掌握した要であり、武田や上杉の侵攻を交わした中世城郭史上に例のない戦国最大といわれる堅固な巨城・小田原城へはいつか行ってみたいと思っていました。またお城の大改修が出来上がったばかりということもあり、是非にという思いで今回は小田原城だけでしたがご一緒させていただくことになりました。
 清水淳郎さんの特別通行手形をいただき城内を見学した後、皆さんは次の宿場を目指して出立されましたが、私はここでお別れをしてもう一度城内をぐるりとしたあと、秀吉により一夜城が築かれた石垣山へ向かいました。秀吉はここに淀殿を呼び寄せたり能や茶会を開いたりと、3か月もの時間をかけて北条を攻め落としたといわれています。石垣や土塁など様々な遺構は見られましたが、今や強者どもが夢のあとといった感じで時の流れを感じ、大戦が行われた時代の重みに浸ることができました。
一夜城と小田原城の関係は、ドラマや映画ではまるで目の前に突然現れるかのように描かれますが、石垣山の物見台からみた小田原城はかなり小さく近隣の建物にも埋もれているため 探すのがちょっと大変でした。(写真をクリックしてください
 「真田丸」は今まさにこの小田原攻めが舞台です。一層興味を持って楽しみたいと思います。
 お世話になりました清水計枝さん、ご一緒いただいた五組の山浦さん、安武さんはじめ皆さんありがとうございました。「東海道53次を歩く旅」も次回は最終の日本橋を目指す旅になるようですが、無事にゴールされますようお祈りいたしております。
 倉沢直彦(5組)


小田原から藤沢

道中
 家に帰って思い出してみても、頭に浮かぶ景色は、左に車の列、右に普通の家、その間の歩道は前の人のお尻や傘の模様やナップザックにかけられたレインカバーがわりの“45ℓゴミ袋”の文字だ。たまにある松並木と棒のような「本陣跡」などの標識は、薄い味付け程度だ。私が目を輝かせる史跡は何もなかった6万歩の旅であった。
 だからといってつまらなかったのではない。仲間と歩きながらの他愛もないおしゃべりは心が和む。箱根駅伝の様子を思い浮かべ無心にゴールを目指す心境(比べられるものでもないが)も味わった。歴史道ととらえるのではなく体力維持の運動と発想を転換したら、2桁になった日本橋までの数字がじわじわと減っていくのも快感だった。楽しみは結構あったのでご心配なく。
小田原城
 2日間の中で、言うまでもなく圧巻は小田原城であった。天守閣が昨年7月からの大改修が終わり、私たちの日程に合わせてくれたように5月1日にリニューアルオープンされた。下から見上げた天守閣の白壁は姫路城に劣らぬほど美しくかっこよかった。
 内部は誰にでもわかりやすい展示方法や映像や漫画やクイズなど、1日いても興味はつきないと思う。「小田原城を知ってほしい。」「後世に残したい。」という熱意やメッセージがひしひしと伝わってきた。
 早速、大の城好きの孫2人に、「とても面白いよ。早く来なさいね。」とメールを送っておいた。
 清水淳郎氏の実績で、私たち全員が「小田原評定衆」の名刺を頂戴できたのも、お得情報でした。
 城繋がりで思い起こすのは熊本城である。平成人の知恵と技術と努力の結集でなんとか再生してほしいと願わずにはいられない。400年後の人々が「昔の人ってすごかったんだね~。」と驚嘆するくらいの熊本城を再建してほしい。
 現代や未来を生きる者たちの誇りと希望のためにも。
 仲間がいるから歩ける。いろいろあって楽しい。感謝しています。
  宮下明子(9組)

小田原城馬出門
小田原城馬出門(2009年復元)、後ろは隅櫓
(1934年復興) (クリックして拡大)
耐震改修を終えた天守閣
耐震改修を終えた天守閣
 (クリックして拡大)
元本陣旅館・大内館
元本陣旅館・大内館
化粧坂入口
化粧坂入口
平成の一里塚
平成の一里塚で、後ろは高麗山
平塚宿・江戸見附
平塚宿・江戸見附
藤沢宿・蒔田本陣跡
藤沢宿・蒔田本陣跡
藤沢宿・紙問屋
藤沢宿・紙問屋

番外 「箱根八里」完全踏破、再挑戦編 磯村

山中城跡~箱根宿本陣 ・ 奥湯本~三枚橋~小田原宿板橋見附 約12㌔
(16/6/3-4)

 第15回(4/16-17)の東海道歩きは、1日目は『三島宿』から箱根峠を越えて箱根関所がある『箱根宿』へ、2日目は間の宿『畑宿』を通り北条五代の本拠地小田原城下の『小田原宿』をめざす計画でした。いずれも遊軍と本隊に分けての進軍だった。
 本隊は出発が遅れたことに加え、途中計画していた街道が通れず迂回することも重なり、三島と箱根とのほぼ中間にある北条氏方最前線の「山中城」に執り付く頃には午後の陽もかなり廻っていた。この山中城は、岱崎出丸と本城の間を『東海道』が通るように仕組まれており、この城を落とさなければ小田原城下には一歩も入れさせない押さえの出城。本隊はこの北条流築城技術を結集した見事な曲輪造りと土塁、さらには深い堀障子(障子堀・畝堀)に見惚れて、ただただ感心してあちこち歩き廻るだけの大苦戦。結局はこの城を攻略できずに一時休戦状態でその先への進攻は見合わせた。
 一方の遊軍は、城郭研究の第一人者“あつお指揮官”のもと、堅固な出城の山中城には構わず、一気に小田原本城攻略を目指し箱根峠に向け進攻開始。が本隊の到着を待たずの進攻だった為に、峠付近で道に迷い箱根山中でこちらも停滞。そんなこんなで遊軍・本隊とも中途半端な行軍で終わり、当日の宿営地「元箱根」での再集結を余儀なくされた。
 翌日は雲行きが怪しい中、小田原城下『小田原宿』へ進軍開始。“正月の箱根駅伝「花の6区」と同じ距離の下りなので、楽に行けるわよ”との総指揮官訓示を受けて元箱根を出立。ところが途中から前線通過で雨風とも強くなる大荒れの天候に。箱根東坂の下りの石畳は濡れて滑り易く慎重な足取りを余儀なくされたうえ、街道の至る所に雨水が走る最悪な状況に、雨宿り休憩を繰返したのち「箱根湯本」手前の奥湯本あたりで街道を逸れ進軍は中止に至った。そんな訳で「箱根八里」のうち未踏歩部分がかなり残った。
 第16回(6/4-5)前日の6月3日に、志願兵を募り未踏部分を踏破して完全踏破をめざす再挑戦を試みました。 以下がその道中記です。

6月3日(山中城跡~箱根宿本陣・奥湯本~三枚橋)
 朝三島宿に再度集結し(早出組は楽寿園内の「楽寿館」を見学した)バスにて前回停滞した山中城へ直行。まずは山中城三の丸跡にある宗閑寺で山中城攻防での戦死者菩提を弔った後、隣りにある諏訪神社の鳥居横で軽い昼食を摂り街道歩きを開始。
 国道から逸れると箱根西坂(箱根峠から三島宿までの総称で、箱根峠から箱根湯本までは箱根東坂)が再び始まる。徳利が刻まれた雲助の墓からは整備された「大枯木坂」が始まる。平らな石の石畳で両側には松や下枝を打った杉の並木が続き、適当な日陰もあり快適な登り坂が続く。途中国道開通により通行不能になった廃道付近では、民家への私道の様な小道を進み庭先をかすめて進む場所もある。念仏岩がある「石原坂」を登り、兜岩を過ぎると国道手前に『山中一里塚(江戸26里)』。一旦国道を迂回して「兜石坂」を登ると兜石跡の碑がある。先程見てきた兜石が元はここに有ったとの事で納得。
 箱根八里記念碑を過ぎるとゴルフ場への専用道路に出て登りも終わり峠茶屋に到着。大型トラックなどが停車している駐車場横には「新箱根八里記念碑」があり小休止。国道と再合流する手前に形ばかりの木戸がある。このあたりが箱根峠の頂上で横断歩道を渡り「脚気地蔵」を見た後、同じ横断歩道を渡って引き返す。この先国道が左折するので、交通量が多くまた歩道も無い道路を横断する危険を事前に避けての判断だったが…。
 ところが地図に無い新道(箱根新道への分岐)が左側に現れて後ろからの車にヒヤヒヤしながら国道を更に進むと、突然右手に旧街道の入口が現れたので車の往来の空きを見て横断する。ここからまた旧街道で挾石坂だが、両側から笹薮が垂れ下がり細くて急な階段のうえ、杉の巨木で鬱蒼として少々心細いが、階段がきれ傾斜が緩くなり道幅も広い石畳になり一安心。ただ今までの石畳と違い山蔭なので苔むしており、滑らないように注意しながら歩く(前回歩いた元箱根~畑宿までの箱根東坂と同じ)。
 向坂を過ぎると「芦川の石仏石塔」がある。この先の「駒形神社」過ぎると国道に再び合流して正月風物詩の箱根駅伝ゴール地点や本陣跡がある箱根町(箱根宿)の中心に到着。この先の街道は前回歩いているので、ここから旧街道廻りのバスに乗る。お玉が池・甘酒茶屋・見晴茶屋・畑宿や雨宿りした場所などを車窓から眺めて奥湯本バス停で降りる。

 ここから再び旧街道を箱根湯本の三枚橋まで約3㌔の下り坂道を歩くのだが、前回歩いた方はお判りでしょうが、旧街道は道幅狭くカーブもあり交通量も多く危険なので、姫君は今夜の宿に直行する事にして奴二人で再出発。箱根観音がある福寿院・馬立場の馬の水飲み場・湯本一里塚址碑(22)を過ぎると曽我兄弟の逸話がある正眼寺(鎌倉時代には湯本の地蔵堂と言われており、安置されている地蔵菩薩立像(俗称;曽我五郎地蔵)胎内文書である康元元年1256年銘の「地蔵・阿弥陀・観音混合印仏」から知ることができる)。このあたりが中宿で道の両側は旅館街で、宿泊客の車や旅館の送迎車も増えて歩くのはヒヤヒヤもの。
 ようやく立派な山門の早雲寺(北条一門の香火所)境内に着き車の騒音から逃れてホッと一息。山門は江戸時代初期に再建された時のもので、掲げられている「金湯山」という扁額は、寛永二十年(1643)朝鮮通信使写字官の雪峰(金義信)の揮毫によるものとの解説がある。ここを出て街道に戻り下ると下宿で、郵便局や共同浴場があり所々に歩道もある。前方に早川が見え三枚橋で渡り国道に到着して本日の「歩きゴール」とした。ここから湯本駅まで歩く。更に、前回雨を避けて奥湯本から滝通りを歩き、途中お昼で立ち寄ったお蕎麦屋さんに教えて頂いた巡回バスに乗れず湯本駅まで歩いた(ひとりだけは巡回バスに乗れたが)須雲川通りを逆に遡って行き、姫の待つ今夜の訳アリの宿に入った。

6月4日(三枚橋~小田原宿板橋見附)
 当日は、宿から大手を振って巡回バスに乗り込み湯本駅へ。前日ゴール地点「湯本三枚橋」から小田原城を目指して出発。しばらくは右手に早川を見て国道(1号線)に沿って進むが土曜日なので交通量が多いうえに日差しが強い。山崎ノ古戦場跡碑は「戊辰戦争山崎の戦い」のもので、慶応四年の幕府遊撃隊と小田原藩を先鋒隊とする官軍との交戦の場に建てられた碑だが道路改修で新しいものになっていた。箱根登山鉄道入生田駅手前から国道を逸れて旧街道を進むと招太寺(小田原城主稲葉一族の菩提寺)・風祭一里塚(21)の標識と道祖神が並んで立っている。
 再び箱根登山鉄道を渡り国道に合流する手前に日蓮聖人霊廟跡がある。国道を進むが「小田原用水取入口」付近で旧街道は別れて板橋村に入ってゆく。板橋地蔵尊・電力王の松永記念館(老欅莊)入口案内板前で「小田原上水」(気が付かないで一旦通り過ぎた程の小さな川)を渡る。由緒ありそうな古い店や蔵の前を通り新幹線ガードをくぐると板橋見附跡で国道と三度合流。この先の街道は、前回強風の中を歩いた小田原城下の通りなので、外郎(ういろう)屋手前の箱根口を曲がって箱根口門跡から三の丸を通り小田原城二の丸広場で本隊をお出迎えした次第。

 以上で前回の1日半と今回の1日と2時間程での「箱根八里(三島宿~小田原宿)」の完全踏破を終えたが、噂によるとこの後続々と後続部隊が踏破を計画しているとか。有名な秀吉の「石垣山一夜城」は小田原駅からひとつ先の早川駅、または箱根登山鉄道入生田駅から徒歩1時間程度の山登りで行けますのでチャレンジしてみてください。(磯村)

参加者=磯村雄二(3)、石井則男(4)、山浦ひろみ(5)


箱根西坂(兜石坂付近)
箱根西坂(兜石坂付近)
山中一里塚
山中一里塚
峠茶屋付近
峠茶屋付近
芦川の駒形神社
芦川の駒形神社
湯元一里塚
湯元一里塚
早雲寺山門
早雲寺山門
小田原用水(板橋地蔵尊辺り)
小田原用水(板橋地蔵尊辺り)
風祭一里塚と地蔵尊
風祭一里塚と地蔵尊



inserted by FC2 system