追加旅の経緯
東海道は日本橋から京三条までの「53次」として、広重や北斎の浮世絵に描かれて一般に知られているが、江戸幕府が管理していた東海道は57次であった。このことを、蒲原宿の東海道町民資料館に寄った時に、館長の志田さんから聞き、宿場資料を見せていただいた。
慶長20年(1615)の大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡すると幕府は東海道の大阪延伸を決め、大津から伏見経由で大阪に至る街道を東海道として整備し、伏見宿、淀宿、枚方宿、守山宿の4宿を設けた。東海道の終端は大阪高麗橋で、ここに里程元標が設置されている。この地点は、中国街道、紀州街道などの起点であり、西国大名の参勤交代の通過地であった。
そこで、大阪高麗橋までの追加57次の旅をするとともに、大阪城見学と真田丸史跡見学をすることになった。
髭茶屋追分から第54次・伏見宿へ
2016年11月19日(土)、京阪・追分駅で昼食を食べてから出発。
階段を上がると、大津からの東海道が通る懐かしい道。京都方面へ歩くと、すぐに髭茶屋追分。「みぎ京/ひだり宇治」と刻んだ道標が立っている。
左の道に進む。髭茶屋屋敷町が旧道沿いに続く。国道・東海道を横切り、新幹線の下を通ってしばらく歩くと、大宅の一里塚跡がある。石垣で囲んだ塚の上に、小さな祠と大きな榎の切り株があり、大切に保存されている。
一里塚のすぐ前に名神高速道の高架が見える。下をくぐって、なだらかな上り道をたどる。
地下鉄東西線・小野駅を過ぎ、勧修寺の鬱蒼と木が茂る境内を右に見ながら旧道を上ると、今度は、名神高速道沿いの上り道になる。江戸時代、西国大名が参勤交代で通った道。西国大名の苦労が偲ばれた。
高速道路と別れたところから下り道になり、深草谷口町を過ぎたところでJR奈良線を渡る。すぐ先が、JR藤森駅。
藤森神社の先が、京阪・墨染駅。伏見宿の入口である。伏見税務署のすぐ先に、「廓入口」の石柱が立っている。大石内蔵助が遊興した事で有名な遊郭とのことだが、当時の雰囲気は全く残っていない。
伏見宿は街道沿いの町であると同時に淀川水運の中継地でもあった。江戸時代は、幕府の直轄地で伏見奉行が支配する大きな町で、東西1キロ、南北4.6キロ、人口2万4千人、本陣4、脇本陣2、旅籠39軒であった。
両替町通、京町通、大手筋通を歩いて、黄桜酒造に立ち寄る。龍馬通りを通って、寺田屋事件で有名な寺田屋へ。寺田屋の前は豪川で舟着き場がある。この川は、宇治川を経て淀川に通じていて、かつては京都と大阪を結ぶ水運の拠点であった。
伏見宿から第55次・淀宿、第56次・枚方宿へ
伏見から淀宿までの街道は、淀川沿いの京阪国道になっている。夕暮れが迫っていたので、伏見宿のはずれにある中書島駅から京阪本線の電車に乗り、淀駅で下車。
淀宿は、本陣0、脇本陣0、旅籠16軒の小さな宿場であった。
淀君がいた淀城は関ヶ原後に取り壊され、場所も定かでない。家康の時代になって造られた新淀城の石垣が残っているが、城や宿場は戊辰戦争の戦火で焼けてしまった。江戸時代は稲葉氏10万石の居城で、朝鮮通信使が淀川を舟で来て、淀湊で上陸して江戸に向かった。通信使の宿所も設けられていたとのこと。
淀城跡の入口に与杼(よど)神社がある。拝殿は慶長12年(1607)に建造されたもので国重文。
淀駅から京阪本線に乗り、枚方市駅で下車。駅近くの、ひらかたサンプラザホテルで宿泊した。
(一日目の歩数、25,743歩)
枚方宿から第57次・守口宿へ
枚方市駅の前に枚方宿を示す道標がある。右手の淀宿方面を見ると、米穀店の前に「八重原米」の旗が立っている。「信州の山奥に伝わる隠し田伝説」と添え書きがしてある。
八重原は、江戸時代に小諸藩が蓼科山の湧き水を標高差を利用して導水して新田開発した所で、隠し田ではない。
枚方宿は、本陣1、脇本陣0、旅籠69軒のほか、船宿や商人、職人の家が並ぶ賑やかな宿場であり、また、三十石船が寄港する淀川の川湊でもあった。三十石船が寄港すると茶舟が「酒喰らわんか」「餅喰らわんか」と飲食を勧め、茶舟は「くらわんか舟」と呼ばれるようになった、とのこと。
枚方橋の標柱と並んで、枚方宿東見付跡の碑が立っている。宿内に入って行くと、左近の辻、という場所に「右 大坂みち」と刻まれた道標が立っている。道標の示す方に右折して進む。宿場内は、電柱が撤去され、カラー舗装がされていて、虫籠窓、漆喰壁の旧家があちこちにある。本陣跡は、入口に石灯籠と標柱があり、三矢公園になっている。
漆喰の壁に袖卯建のある建物は、享保年間から続く塩熊商店の邸宅で、今は「くらわんかギャラリー」として公開している。
桝形にあるのは淨念寺(西御坊)、京阪線を挟んで反対側にある寺が願生坊(東御坊)で、浄土真宗が東西に分裂したため、このようになったよう。
次の角を曲がると、枚方問屋役人木南喜右衛門家(四葉粉屋)の重厚な建物がある。
その先には、船宿・鍵屋が枚方宿鍵屋資料館として公開されている。ただ、開館時間が9時30分からとのことで中に入れてもらえなかった。
資料館の先の交差点の角が西見附で、宿場の案内板が立っていた。くらわんか舟の様子を描いた浮世絵が面白い。
廃校になった高校が、スポーツセンターになっていたので、小休憩させてもらった。
旧道らしい道を進むと、蓮如上人が腰を掛けて説法したという丸い石が置かれた一角がある。きれいに清掃されていてごみなどは落ちていない。
さらに進むと、淀川の堤防の上の道に。大阪府の街道歩きのマップでは、京阪国道ではなく、堤防の上の道がお勧めのコース。堤防の上は、人と自転車の専用道になっていて歩きやすい。下は、淀川河川公園で、野球場、パターゴルフ、ランニングコースなどになっていて、それぞれ運動を楽しむ人でいっぱい。その先を、淀川がとうとうと流れている。
仁和寺大橋有料道路の下を通り、大阪モノレールの通る橋の先で、堤防の上の道を下りてしばらくすると守口宿入口。
守口宿は、本陣1、脇本陣0、旅籠27軒で、大阪から近かったため宿泊は少なく、淀川舟運も寄らなかったため徐々に衰退したよう。
守口宿から大阪高麗橋へ
守口から国道を進むと大坂高麗橋に到達するのだが、歩かずに、ほぼ同じコースを通る京阪本線を利用して、守口市駅から北浜駅まで行き、土佐堀通りを少し戻って高麗橋に到達した。里程元標跡の標柱が立ち、橋は高速道路の下になってしまっているが、橋のたもとの常夜燈は立派。夜になると灯りが点くのかな。
土佐堀通りをさらに戻ると、天神橋の先に、八軒屋浜船着き場跡に常夜燈が復元されている。江戸時代、8軒の船宿と旅籠、問屋、飛脚屋が並び、三十石船が発着して賑わった。
この後、大阪城に向かい、城郭に詳しい清水淳郎さんの解説を聞きながら見学した。
大阪城見学
豊臣秀吉が天下統一の拠点として築城した大坂城は大坂夏の陣で落城した後は破壊され、同じ場所に盛り土をして徳川秀忠が築城した。天守はその後、落雷によって焼失し、昭和6年に約260年ぶりに再建された。再建は全額大阪市民の寄付でまかなわれたとのこと。
大手門を入り、大手口桝形には巨石が積まれているが、4番目の大石だという。1番はどれほどの大きさなのか見るのが楽しみになる。
大手口桝形の石垣上の細長い長屋形式の櫓は多聞櫓というが、内部特別公開されているというので見学した。内部は予想外に広く、槍落とし、銃眼など大手口を守る様々な工夫がされた建物である。
大手口を北側から守る位置にあるのが千貫櫓で、櫓の窓から大手口土橋が見える。窓や銃眼から外に向かって撃ちかけたのであろう。
石垣づたいに進み、乾櫓の先で公開していたのが、焔硝蔵。壁の厚さ2.4mの花崗岩でできた火薬庫。壁、天井、床のすべてが石造りで、いかにも火薬庫、といった感がある。
翌日は、森の宮駅口から入り、ロードトレインに乗って、外堀、内堀の石垣と櫓を見た後、桜門を入ると、枡形に大坂城一番の巨石(蛸石)がそそり立っている。
天守閣は五重八階の巨大なもの。平成9年に大改修がされ、一番上の階は豊臣時代のように黒と金で装飾されている。内部は、大坂夏の陣図屏風や武具などの資料が展示してあり、一日では見きれないほどである。
(二日目の歩数、31,139歩)
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