第50次・水口宿から第49次・土山宿へ
2013年11月16日(土)、近江鉄道・水口石橋駅に集合して11人でスタート。今回初参加の磯村さんは、2日前に家を出て、京都三条大橋から大津、草津、石部宿を経て、水口城を見学中とのこと。しばらくして追いついて、12人で旅をした。
水口石橋駅を出て踏切を渡ると、東海道の碑があり、からくり時計が設置されている。ここで道が三筋に分かれているので、前回、通らなかった右側の道を歩いて、三筋道が合流する高札場跡に向かう。今回からの参加者は、真ん中の道を歩いて高札場跡に向かった。
高札場跡から一緒に歩き、本陣跡、脇本陣跡を通り、宿場の街並みを通り過ぎ、国道1号線を渡ったすぐ先に水口宿東見附跡がある。冠木門があり、宿場の入口らしく造られている。東海道の標識は、新しく作られたものは、ほとんどが東京からの旅人用に作られているようだ。
山川橋を渡ると、右手の丘の上に大師寺があり、急な坂道を上る。ゆるい上り道をしばらく歩くと、八坂神社がある。
曲がりくねった道を歩くと『街道を行く』の一節を刻んだ自然石の碑が立てられてある。「古い街道には、いにしえ人の気配がある。その曲がりくねった道筋に、路傍の道標に歴史がある。」街道歩きをしてみると、本当にその通りだと思う。
浄土寺の脇に、榎が植えられた「今郷一里塚跡」があり、「お江戸日本橋から112里の一里塚」と書いた看板が立てられている。私たちの目的地はまだまだ先である。
今郷一里塚のすぐ先に、「経塚」。延暦20年(801年)この辺りに出没した化け物を鎮めるために大般若経を読んで、お経を埋めて塚にした、とのこと。
国道を渡り、今宿の街並みに入る。入口に大きな赤いエプロンをしたお地蔵さんが置かれてある。鍋屋、瓦屋、旅籠屋などの看板が架かっていて、かつての繁栄を偲ばせる。
宿場の中ほどを国道が横切っていて、渡ったすぐ先の旅籠・小幡屋跡の碑の後ろに、「明治天皇聖跡」の大きな碑が立てられている。
宿場の街並みが途切れた所から野洲川の流れが見渡せる。ここで一息入れて、また歩く。
東海道反野畷の碑の先に、両側に松並木のある真っ直ぐな道。旅人にとって、真っ直ぐな道は緑陰が必要だったのだろう。先月歩いた、北脇縄手にも松並木があった。
大日川橋を渡った先に市場一里塚跡がある。江戸から111番目とある。塚はないが、一里塚の碑を見つけるとうれしくなる。
しばらく歩くと垂水頓宮御殿跡の碑がある。天皇が即位するたびに伊勢神宮に奉仕する皇女が、伊勢に向かう道中の宿舎とした御殿の跡、とのこと。
街道の左手奥に地安禅寺の立派な門が見える。この辺りから、茶畑が沢山ある。中国から茶の種を持ち帰り栽培したのは臨済宗の祖栄西であることを思い出した。この辺りのお茶は、栄西がもたらしたものかもしれない。きれいに刈り込まれた葉の下に、お茶の白い花が咲いている。初冬の風景である。
すぐ先の街道右手に瀧樹神社の大きな鳥居。神社本殿はずっと奥のようなので深入りせずに街道を歩く。
茶畑の中の街道を歩き、白川橋で野洲川を渡る。しばらく国道を歩き、南土山の信号から旧道に入る。ここから土山宿である。
商家や旅籠屋が建ち並ぶ古い街並み。大黒橋を渡った先に、土山宿陣屋の碑。向かい側に、土山宿問屋場跡、大黒屋本陣跡の碑があり休憩所になっているが、通りのすぐ先にお茶屋さんが見えたので、ここでお茶を買って旅館に向かうことにした。
この辺りは「近江茶」の産地、とのことで、美味しいお茶をいれていただき、すっかりくつろいでしまった。
この後、土山宿本陣の脇を通って、土山宿でたった1軒になってしまったという、旅館・大安で宿泊した。
(第2回一日目の歩数:17,783 歩)
土山から鈴鹿峠を越えて第48次・坂下宿へ
旅館の御櫃を空にするほど、しっかり朝食を食べて、予定時間を少し早めて7時45分出発。
ここから先、関宿までコンビニはないとのことなので、旅館の近くのコンビニで昼食を買って出かけた。
土山宿本陣、二階屋脇本陣は建物が残り、現在も居住している。また、営業はしていないが、旅籠屋、問屋の建物も健在である。商家・菱屋は現在、和風茶房として営業している。大原製茶場の看板の架かる商家は間口が広く立派である。
宿場の中ほどに白山神社がある。すぐ先のくるみ橋を渡ってしばらく歩くと、土山一里塚跡の碑。江戸から110番目の一里塚である。
扇屋伝承文化館は、元は御六櫛を商う店だったとのこと。この他にも、三日月屋など御六櫛を扱う商家が何軒かあったようである。
宿場の江戸口に立派な地蔵堂があり、「従是 右京都へ十五里 左江戸へ百十里」と刻んだ碑が立てられている。
しばらく茶畑の中の道を歩き、「間の土山道の駅」でお茶の接待を受け、身支度を整えて、田村神社の大鳥居をくぐる。
坂上田村麻呂を祀ってあるという田村神社の二番目の鳥居の脇に高札場跡がある。街道は、ここを右に曲がり、田村川に架かる橋を渡る。広重の浮世絵に画かれた田村川橋が架かっている。
蟹が坂古戦場跡の碑の前を過ぎると、急な上り坂。そして、国道に出てからは緩やかな上り坂。「東海道 猪鼻村」と刻んだ大きな石のところで、今度は急な下り坂の旧道に入る。急な下り道はきついが、車が通らないので楽しく歩ける。
しばらく下り坂道を歩いて、平坦な道になった所に「旅籠 中屋跡」「明治天皇聖跡」の碑が立っている。
淨福寺の先でまた国道に出る。しばらく歩くと、山中一里塚公園。馬子と馬の石像が置かれている。ここで一休みして、また旧道を歩く。
街道の左側に立派な地蔵堂がある。前に常夜燈が2基。嘉永6年に造られたと刻んである。
山中橋、小田川橋を渡った所に常夜燈と馬子唄の碑があり、立ち止まって休むと心が和む。鈴鹿峠を越える馬子たちの間でいつしか唄われ始めたという馬子歌は、小諸馬子唄と同じ節とのこと。「坂は照る照る鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る」とある。
鈴鹿峠への上り口まで約2キロ、ゆるやかな国道の上り道を歩く。途中で、鈴鹿峠を越えてきたという20人ほどの団体2組と会う。「頑張って鈴鹿峠を越えてきた」という言葉に、前途多難を思う。
国道がトンネルに入る手前に、峠道入口の標識。標識に従って右手に入って、いよいよ峠道。急な上り道である。少し上がると大きな万人講常夜燈が見えてきた。今から270年前に、四国金毘羅神社の常夜燈として鈴鹿峠の上に建てられた、とのこと。これだけの大石を下の村から峠の上に、人力でよくぞ運びあげたものだ、と感嘆した。
峠の上は一面の茶畑。かつては6軒の茶屋が建ち並び、峠を往来する人でにぎわっていたようである。
茶畑がなくなり、森に入った所に領界石がある。「右 滋賀県 近江の国、左 三重県 伊勢の国」とある。いよいよ伊勢の国入りである。
森の中の急な坂道、落ち葉が積もっていて滑るので、そろそろ下る。坂道の途中の木の間から覗くと、遥か下に国道が見える。あの先まで下らないと坂下宿にはたどりつかないのだ、と気持ちを引き締める。
馬の水飲み鉢が置かれている。傍に芭蕉の句碑が立てられている。「ほっしんの初にこゆる鈴鹿山」『猿蓑』(巻之五)にある芭蕉の句で、西行の歌「鈴鹿山浮き世をよそにふり捨てて意かになり行くわが身なるらん」を踏まえた句と言われている。芭蕉が鈴鹿峠を旅しての句ではない。
国道の上に架かる陸橋を渡り、急な階段を下り、石畳の坂道を下る。石畳は苔むしている上に落ち葉が積り、急な下り坂。滑らないように慎重に歩みを進める。
石畳道が終わった所に、片山神社。高い石垣の上に本殿があったようだが、平成11年に焼失し、神楽殿のみが残っている。古代、伊勢神宮に向かう斎王が休泊した鈴鹿頓宮の跡ともいわれているようである。
かつては、神社のすぐ下が坂下宿だったが、慶安3年(1650)に大洪水で埋没したため、翌年、宿場全体が移転し、「古町」の地名が残っているのだという。宿場の跡らしい平坦な場所に、慰霊堂が建てられている。
片山神社入り口の道標の先に、山道に向けて「東海自然歩道」の道標があり、少し上って様子を見たが、険しい山道なので引き返して、国道の側道を歩く。少し下った岩屋観音の所で山道と合流するが、旧東海道はこの険しい山道の方で、途中に荒井谷一里塚跡があるのだということがわかった。
国道と別れて旧道に入り、上乃橋を渡った所から坂下宿である。
坂下宿から第47次・関宿へ
坂下宿は、難所の鈴鹿峠を控え、本陣3、脇本陣1、旅籠屋48軒のほか旅人の荷物を扱う稼業で賑わったが、明治以降、本陣などはすべて取り壊され、跡地に石碑を残すのみとなっている。
松屋本陣の門の一部が法安寺庫裏の玄関として移築されているのが、唯一の本陣建物の遺構、とのことである。私たちは、西国三十三札所にもなっている法安寺の境内で秋の日に映える紅葉を見ながら昼食休憩した。
金蔵院跡は、石垣のみが残る。かつては、将軍家の御殿が設けられ、休息所として使われたとのこと。
所々に残る旅籠屋の建物は、連子格子に絵手紙が飾られ、住む人の暖かい気持ちが伝わってくる。
関宿まで6.5キロ、予定の列車に遅れないよう歩く。下り道なので足取りは軽い。下乃橋(河原谷橋)には、かつて領界石があったというが、今はない。熟れた柿の実がたわわについた枝が橋の袂から道路に張り出している。手を伸ばしてもぎ取り、かじると、”しぶ〜い”柿だった。
少し先に、鈴鹿馬子唄発祥の地の石碑が立てられていて、東海道の宿場名を書いた標柱が立ち並んでいる。坂下尋常小学校は立派な校舎だが、今は、生徒が減ってしまったからだろうか、「鈴鹿峠自然の家」として青少年の研修施設になっている。また、ドーム型の鈴鹿馬子唄会館が、地域文化創造施設として造られている。少し下った所には郵便局もあり、このあたりが現在の中心地のようである。
郵便局から少し下った土手の上に、菅笠をかぶって杖を持ち、うずくまる老女がいる、と思いきや、木像だった。誰が作って置いたのか、ドキッとさせられた。
国道と合流する対岸の石垣の上に、弁天一里塚跡の碑がある。
道路に沿って鈴鹿川の清流が流れている。その先の山は「筆捨山」。その昔、画家の狩野元信が旅の途中でこの山を描こうとしたが、山の風景が刻々と変わってしまうので、絵に描くのを諦めて筆を投げ捨てたことからこの名がついた、といわれている。川霧と山霧が発生しやすい地形なのだろう。
しばらく国道の歩道を歩き、市瀬で旧道に入る。市瀬橋を渡った先でまた国道の歩道を歩く。
テニスコートの手前から旧道に入った所に、大きな石がある。巨石の周囲には玉石が敷かれ、周囲に花差し用の筒が置かれている。「転(ころび)石(いし)」といわれ、山の上から転がり落ちてきて、夜な夜な不気味な音を立てて、周辺の人々を恐れさせていたが、弘法大師が石の供養をしたところ静かになったのだという。
すぐ先が、西の追分。ここは、東海道と伊賀大和街道の分岐点であり、道標には、「ひだりハいかやまとみち」とある。
関宿の見学は次回、ということになっているので、街並みを見ながら駅への道を急いだ。一階は連子格子、二階は漆喰で塗り籠めた格子窓の商家が立ち並び壮観である。
(第2回二日目の歩数:26,317歩)
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