会報うえだ 93号(日本橋にゴール 東海道53次の旅が完結)
会報うえだ 92号(藤枝から三島) 会報うえだ 91号(二川から藤枝)
(4)小田原宿から日本橋、大阪 会報うえだ 90号(岡崎から二川)
(3)掛川宿から小田原宿 会報うえだ 89号(宮の渡しから岡崎)
(2)有松宿から掛川宿 会報うえだ 88号(土山宿から桑名宿)
(1)草津宿から鳴海宿 会報うえだ 87号(草津宿から水口宿)
番外編2 姫街道 (見附宿から嵩山宿まで、浜名湖北の陸路を歩く)
番外編 佐屋街道 (熱田から桑名へ、七里の渡しを歩く)

第5回 宮宿から鳴海宿へ

(14/5/31−6/1)

第41次・宮(熱田)宿へ
 2014年5月31日(土)、名古屋駅から地下鉄・伝馬町(てんまちょう)駅へ。「旧東海道」の標示にしたがって七里の渡し跡へ向かう。
 三叉路に道標が立てられている。四面には次のように刻まれていると説明板にある。「北 さやつしま みのち/東 江戸かいとう/北 なこやきそ道/南 京いせ七里の渡し/是より北あつた御本社弐丁」
私たちは、三叉路を左折して、七里の渡しへ向かった。国道を渡ったすぐ先にある宝勝院は、江戸初期から明治24年まで湊常夜燈を管理してきたとのこと。
 しばらく歩くと宮の渡し公園が見えてきた。湊には常夜燈と時の鐘(復元)が立っている。
 湊のすぐ側に脇本陣格の旅籠屋・伊勢久が丹羽家住宅として残っている。切妻屋根の玄関が格式の高さをうかがわせ、一軒先にある旅籠屋とは造りが違っている。袖卯建があるが、屋根上の卯建は戦災で破壊されたとのこと。
 宮宿には、本陣2、脇本陣1、旅籠屋248軒あり、伊勢参りの人など、大勢の旅人で賑わった。本陣は、赤本陣、白本陣と呼ばれ、宝勝院の近くにあったようだが、今は説明板のみ。
 三叉路まで戻り、東海道を行かずに、熱田神宮に参拝、国宝・犬山城見学、名古屋城見学の後、東海道の旅に戻る事にした。

熱田神宮参拝
 三叉路から熱田神宮はすぐ。熱田神宮は、三種の神器の一つである「草薙(くさなぎ)の剣」を納め、伊勢神宮についで由緒ある神社。本殿に向かう参道に「熱田神宮の創祀と躍進」としてパネル展示がしてあった。
 参道の入り口に巨大な燈楼が立っている。尾張御器所の城主佐久間盛次の四男勝之が海上で台風に遭った際、熱田神宮の守護を祈り難を免れたことに感謝して寄進したとのこと。高さが8.25mもある。
 境内には楠の木が沢山植えられて緑陰をもたらしているが、弘法大師お手植えの楠は樹齢1000年を超える巨木になっている。
 また、織田信長が桶狭間の合戦の際に奉納した瓦葺きの築地塀「信長塀」は、矢でも鉄砲でも大丈夫なドッシリとした姿で森の中を貫いている。
 本殿は、神明造で、屋根上の黄金色の鰹木(かつおぎ)が青空にまぶしく光っていた。
 宝物殿には重要文化財の刀剣などが多く収蔵・展示されている。2mもある太刀と、それをふりかざして戦っている絵が並べて展示されていて興味深かった。
 参拝後、木陰に設けられた休憩所で食べた「宮きしめん」がおいしかった。
 この後、国宝・犬山城見学に向かった。

国宝・犬山城見学
 犬山城の見学は、中山道を歩いていた時、鵜沼宿へ向かう道中で木曽川の対岸に見て以来の念願であった。
 犬山遊園駅で電車を下りて、木曽川沿いの道を歩くと、小高い山の上に天守閣が見えてくる。別名「白帝城」と呼ばれる。江戸時代の儒者・荻生徂徠が木曽川から望んだ城の美しさに感嘆して、李白の詩からとって命名したとのこと。
 犬山城は織田信長の叔父にあたる織田信康によって造られた。何代も城主が変わったが、尾張藩家老成瀬氏が江戸時代から今日に至るまで所有している。明治になって、天守以外の門、御殿などは取り壊されたが、天守の管理が犬山市に寄託されたのを機会に本丸鉄門が復元されて城跡らしい佇まいになっている。
 天守に上ると、眼下に木曽川が流れ、対岸に、なつかしの中山道・鵜沼宿、うとう峠が見えた。5月なのに気温が30℃を超え、真夏並みの暑さだったが、天守の上は木曽川の川風が心地よく、お城の専門家の清水淳郎君の解説も興味深く、楽しいお城見学だった。
 見学後、ミュージアムで屏風絵などの展示物を清水君の解説を聞きながら見て、城下町を歩いてホテルに向かった。沿道は町歩きを楽しめるように整備されていて、城下町散歩として楽しめた。
 残念だったことは、お城を背景に「写真撮ります隊」というシルバーの方が撮ってくれた写真がまるでひどいものだったこと。せっかくの集合写真の出来が悪いと、後々までお城の印象を悪くしてしまう。上田城にいる「シャッターマン」は写真の撮り方の講習を受けて認定された人なので、素晴らしい写真を撮ってくれた。
(第5回一日目の歩数、13,583歩)

名古屋城見学
 朝食を大急ぎで食べて、名古屋城の復元・御殿見学に出発。復元されたのはまだ半分だが、この日は、9時から先着順でこれまで公開していなかった部分まで見せてくれるとの情報が、名古屋市在住のメンバー・安武さんから寄せられていたので、入城するとまず御殿見学に向かった。見学にあたっては、ボランテイアガイドは頼まず、清水君に案内をお願いした。
 東門から入ったすぐの所が二の丸。「那(な)古野(ごや)城」跡と刻んだ大きな自然石の碑がある。信長はここで生まれ、後に、清州城に移って居城としたとのこと。
 関が原合戦の10年後、清州城主・徳川義直(家康の九男)が名古屋城築城に着手したが、家康は豊臣家の大阪城をにらんで、史上最大規模で籠城の備えがある城にした。築城にあたっては、各大名に工事を割り当てて2年ほどで完成させた、とのこと。
 また、本丸御殿に入る手前にある東南隅櫓は戦災に遭わなかったため、中に入れてあった御殿の襖や杉戸などは無事だった。御殿の襖など取り外せるものはすべて外して疎開していたため、戦禍を逃れる事が出来、復元も可能になったとのこと。
 本丸大手二の門を入ると、復元された本丸御殿の玄関が創建時の姿で建っていた。玄関に使われている檜は、樹齢300年以上のもので、無節の柱は気品が漂っている。
 玄関脇の見学者入口から中に入り、表書院、玄関などを見学。玄関の襖絵は来訪者を威圧するように虎や豹が描かれ、表書院には松や花鳥が描かれ穏やかな雰囲気になっている。天井、欄間、襖の金具など古写真や疎開して戦禍を逃れた物によって、当時と同じ技法や素材を駆使して寛永期の姿に復元されているとのこと。
 現在、復元工事が進められている、対面所、上洛殿などの工事現場も見学ルートができていて、竹を編んで壁の下地を作っている現場やこけら葺きの屋根の工事現場など、失われつつある職人作業現場を公開していた。復元工事を通じて伝統技術・技法を受け継ぎ残していくことはすばらしいことと思った。工事費の一部にするために寄付を募っていたので「上田高校64期東海道を歩く会」として1口(5万円)寄付をした。
 御殿を見学した後は、天守見学。1959年(昭和34年)に再建された。五重五階の天守は姫路城の3倍の規模である。天守に付けられている雨樋は、軒先からの雨垂れが大量なため、屋根に被害が及ばないように、樋に導き、内堀へ放水しているとのこと。
 天守の中は展示コーナーになっている。焼失を免れた襖などが展示されていて、殆どが重要文化財に指定されている。
 また、「碧水社提供」と書かれた城の古図面などが何点も掲示されていて、清水君がお城に関する専門家であることを再認識した。
 天守から出て、清正石と呼ばれている巨石を見た。ここの工事担当大名は黒田長政だが、清正が石垣名人として名高かったことから生まれた伝承とのこと。清水君の案内で、清正の担当した石垣も見に行くと、石に名前が刻んであった。苦労して持ってきた石なので記念に刻んだろうとのこと。この他にも石垣の所々に石工や産地名が刻まれていて興味深かった。
 枯山水回遊式の二の丸庭園の中を通って東門への通りに出ると、復元御殿公開一周年記念ということで、旧尾張領内の地域の物産や飲食物を販売していたので、ここで昼食を食べてから、東海道・鳴海宿へ向かうことにした。
 中津川のホウ葉寿司が懐かしかった。

第40次・鳴海宿へ
 名古屋城を後にして、宮宿から続く東海道が名鉄を横切る所にある名鉄本線・本笠寺駅から東海道を歩く。
 駅からすぐに、笠覆寺(笠寺観音)がある。天平年中、禅光上人によって開かれたとある。境内には、宮本武蔵の碑、芭蕉の碑が立てられている。
 芭蕉の『笈の小文』に「鳴海にとまりて、星崎の闇を見よとや啼く千鳥」の句がある。刻んである文字は芭蕉のもので、芭蕉存命中に立てられたものだという。宮本武蔵の碑のいわれはわからない。
 しばらく歩くと、笠寺一里塚。榎の巨木が塚全体に根を広げて緑陰を作っている。休憩するほどの距離を歩いたわけではないが、34℃の炎天下なので熱中症防止のために小休憩した。
 炎天下を歩き、天白橋を過ぎると、歩道に弥次喜多の絵のブロックが配されている。ブロックをたどりながら歩くと、鳴海宿入口の常夜燈がある。
 鳴海宿は、本陣1、脇本陣2、旅籠屋68軒で、宮宿と池鯉鮒宿の間の宿場として栄えた。所々に、旧旅籠屋らしき家が残るが、本陣跡は説明板のみ。
 ここまで歩いて来て、あまりの暑さで熱中症寸前、間の宿・有松まで2キロを歩く自信のない人は電車を利用して有松まで行くことにした。
 本陣跡から、所々に旧家が残る街並みを歩くと、江戸口の常夜燈。かまとぎ橋を渡ると、鎌研橋一里塚跡、すぐ先に祇園寺、有松宿入口である。有松は山車が街の所々に飾られていて、7月には盛大に祇園祭が催されるとのこと。
 また、有松は「有松絞」で有名で、広重の浮世絵・鳴海に描かれている場所は、有松村の絞染を商う店々である。有松絞で栄えた街は塗籠造(ぬりごめづくり)、なまこ壁、格子、虫籠窓(むしこまど)の町屋が軒を連ね、有松絞の製造は今も盛んである。
 次回、有松の街並みを歩いて、桶狭間古戦場を経て池鯉鮒宿に向かうことにして、有松で解散した。
(第5回二日目の歩数:15,414歩)



参加者=初参加・清水洋二(1)、柳沢信義(3)、林久美子(9)。奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水正宣(1)、磯村雄二(3)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、山浦るみ子(8)、清水淳郎(9)、藤巻禮子(9)、宮下明子(9)、池田有美子(69期)の14人。

 第5回東海道53次の旅に参加して

 東海道53次の旅に初めて参加しました。中山道69次の旅から始まった64期の旅は、最初は女性だけの旅として始まったので、参加を考えるべくもなかったのですが、男性陣が加わるようになってからも、一日約10キロを歩くのは体力的に不安で、もっぱら64期のホームページを観戦するにとどまっていました。
今回の旅は、53次の旅の中では、特別編のような旅だったので、参加させてもらうことにしました。特別編というのは、街道歩きは僅かで(宮宿から鳴海宿を通って間の宿の有松までのうちの約5キロ)、熱田神宮・名古屋城・犬山城といった、一度は行ってみたい城めぐり・神社めぐりの旅だったからです。
 今回の旅は宮の渡し(七里の渡し)跡から始まりました。江戸時代でも満潮時には沿岸に浮かぶ島をぬうように、干潮の時は沖まで小舟で行き帆かけ船に乗り換えて桑名に渡ったようですが、今日ではさらに埋め立てが進み、堀川をかなりさかのぼったまったく海の見えない川岸に渡しがあるのにびっくりしました。百聞は一見に如かず、やはり実際に来てみることの大事さを実感しました。
 その後、熱田神宮では、宝物館の寄進された名刀の多さに感心し、織田信長が桶狭間に出陣する際に戦勝祈願に立ち寄った故事を思い出しました。名古屋城では、昨年から一部が復元・公開されている本丸御殿の玄関・表書院を見学しましたが、その絢爛豪華さに圧倒されたばかりでなく、この御殿は将軍の上洛のおりに用いられただけで(家光以降200年以上使われなかったという)、尾張藩主は隣の二の丸御殿に住んでいたことに、幕藩制社会の支配秩序の在りようを垣間見る思いがしました。さらに犬山城には、木曽川遊歩道を散策しながら登りました。遠く三国志の時代の長江流域の丘の上にあった白帝城にちなんで別名白帝城とも呼ばれたそうですが、私には同じく丘の上に造られた近くの岐阜城が思い出されました。犬山城下は古い町並みが残っていて趣きがありましたが、時間があれば近くの明治村や日本モンキーパークにも寄ってみたいところでした。
 さて、東海道の旅の方は、名鉄桜駅から有松駅まで歩く予定でしたが、城めぐりに時間がとられた上に、33・34度という季節外れの猛暑が重なって、笠寺から鳴海までに短縮され、私の思惑以上の特別編の旅になりました。
 新参者でしたが、同期の誼みで気持よく仲間に入れてもらい、弥次喜多道中のような、高校時代にタイムスリップしたような、愉しい東海道の旅になりました。参加者の皆さん、ありがとうございました。
 次回からは一日約10キロを歩く旅に戻ることになりますが、次回の桶狭間にはただただ行ってみたいし、またこれから歩く遠江・駿河は、静岡の農業について調べていることもあって、土地勘をつけるためにもできたら歩いてみたい、という誘惑に駆られています。
 清水洋二(1組)


熱田湊常夜燈
熱田湊常夜燈

熱田神宮
熱田神宮
木曽川沿いを歩いて犬山城へ
木曽川沿いを歩いて犬山城へ向かう

犬山城
名古屋城御殿玄関
名古屋城御殿玄関
名古屋城・清正石
名古屋城・清正石
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第4回 庄野宿から桑名宿へ

(14/4/19−20)

第44次・石薬師宿へ
 2014年4月19日(土)、加佐登駅に集合して昼食後スタート。前回分を前日から歩いて来た磯村さんも合流して、桜が散り、チューリップやうの花が咲く春濫満の街道を歩く。街道は鈴鹿川から離れて、丘の上に上る道である。
 2キロ程歩くと、石薬師の一里塚があり、ここが石薬師宿の入口である。石薬師は歌人・佐々木信綱の出身地。「信綱かるた道」として沿道に36の歌額が立てられている。一里塚には、「生家にゆくと弱かりし母が我をせおひ徒渉せしか此の甲斐川を」とある。「かるた」というから、「いろはかるた」かと思って歩きながら見て行くと、石薬師寺に「蝉時雨石薬師寺は広重の画に見るがごとみどり深しも」とあり、「せ」が二つになってしまった。信綱の秀歌を36首選んで「かるた」にしたということらしい。

 街道沿いの垣根にうの花の白い花が開きかけている。教育唱歌『夏は来ぬ』の一節「うの花のにほふ垣根に、時鳥早もきなきて、忍音もらす夏は来ぬ」を思い出した。信綱の作詞である。故郷・石薬師の情景を思い浮かべて作詞したのかと思う。
 石薬師寺の本尊は土中から露出していた石に、弘法大師(空海)が彫刻したものだという。芭蕉の句碑は、「春なれや 名もなき山の 薄霞」とある。伊賀上野から奈良のお水取りに行く途中で詠んだ句で、石薬師で詠んだものではないが、芭蕉は人気者である。
 石薬師寺の境内を通って、裏門から街道に出て、しばらく行くと佐々木信綱資料館が建っている。脇にある木造二階家は、佐々木信綱生家である。

 すぐ先に、小沢本陣跡がある。門などがあったと思われる半分は建て替えられているが、連子格子の宿泊部分は残っている。
 ゆるやかな下り坂を下りると、立派な地蔵堂があり、ここが江戸側の宿場の入口。中山道は山道が多かったためか、道祖神、馬頭観音が立てられていた。東海道ではお地蔵さん、しかもお堂に入っているものが多い。
 

第43次・四日市宿へ
 浪瀬川を渡り、旧道をしばらく歩くと、また地蔵堂がある。隣に少し大きなお堂があり、中をのぞくと仏像がある。座ってお経をあげる人がいる模様である。
 国道に出て、歩道を歩くと、反対側の道路脇に「采女一里塚跡」の碑がポツンと立っているのを見つけた。

 旧道に入り、しばらく行くと「日本武尊血塚」がある。伊吹山でけがをした日本武尊が伊勢に向かう途中、脚から出た血を洗ったという井戸がある。この先の、急な下り坂は「杖衝坂」というが、日本武尊が脚を痛めて刀を杖にして歩いたところからついた、とのことである。
 また、この坂の中ほどには、「歩行ならば杖つき坂を落馬かな 芭蕉」の句碑がある。江戸から関西旅行に出た芭蕉が、日永から杖衝坂を馬で上ろうとしたが、坂が急なため馬の鞍とも落馬したことを詠んだのだという。季語がない句であるが、歩いて上ったならば落ちなかったものを、と反省の意をこめて作られ『笈の小文』に載せてある。その言い回しの妙を後世の人は「さすが俳聖芭蕉」と讃えて石碑に刻んで立てられている。芭蕉は人気者である。

 坂が少し緩やかになる所に、旧旅籠屋の建物があり「うつべ町かど博物館」の看板が架かっているが、休館。教育委員会所管の建物は土、日、祝日休館が多い。観光客でなく、地元の小中学生向けの教育施設と位置付けられているためであろう。観光客にとっては残念なことである。
 緩やかな坂道を下り、内部川を渡り、寂しげに1本で立つ旧東海道名残松を過ぎて、国道に出たところが、日永の追分である。

 伊勢参宮道と東海道の分岐点で、伊勢参宮道第二の鳥居が式年遷宮が終わると移築されている。一の鳥居は桑名の七里の渡しにあるとのこと。この地は間の宿としても栄え、旅籠が軒を並べ、茶店も多かったようだ。鳥居の脇には、今も地下水が湧き出している。
 すると、どこからともなくお茶の良い香りが漂ってくる。あたりを見回すと、表の立て看板はしまってあるが、建物の側面にお茶工場の看板がある。のぞくと、中に入れてくれ、伊勢茶を買う事が出来た。

 国道から旧道に入ると、旧東海道の名残の一本松が立っている。夕刻になり、車が増えてきた。狭い旧道の両側は、ベージュ色に塗って、「シルバーレーン」と標示されて、お年寄りに注意を喚起する看板が立てられているが、ラインを無視して車が速度を落とさずに対面通行するので、歩いていて怖い。
 日永の一里塚の碑は、家と家の隙間にたっている。すぐ先の日永神社は参道が長く立派な社殿が遥か先に見える。
 天白川を渡り、鹿化川を渡り、落合川を渡ると道が少し広くなって歩きやすくなった。このあたりから四日市宿。山の手の方に浜田城跡があり、今は鵜の森公園になっている。
 四日市は、浜田城の築城に際して、東海道を城の東側に移し、北市場・南市場を開いて四日市庭と称した事に始まるという。

 鈴木薬局(旧鈴木家製薬所)は、かつて万金丹、真妙丹などの薬を長崎に学んで伝授され、この地で営業していた。建物は、江戸時代末期に建てられたもので、通りに面して連子格子がはめられ、街道沿いの商家の趣を今も保っている。
 近鉄線のガードをくぐり、しばらく歩くと、「帰法山 宗顕精舎/丹羽文雄生誕之地」と刻まれた大きな碑がある。寺はどのようになっているのかよくわからないが、立派な石碑は丹羽文雄を顕彰するためであろう。
 あせち橋を渡った先の、旧道と国道にはさまれた地に建っている12階建のホテルがこの日の宿。
 夕食は、ホテルお勧めの「三重人」というお食事処で食べたが、桑名名物の焼き蛤と熊野地鳥の鉄板焼きがおいしかった。蛤は7、8センチもある大きなもので、直火で焼きたてを運んで来てくれた。
(第4回一日目の歩数、23,825歩)


四日市宿から第42次・桑名宿へ
 翌朝、アーケード街になっている旧道を通って桑名宿に向かう。アーケード街の入口には東海道の標示看板が架かっているのでわかりやすい。アーケードが終わった所に諏訪神社がある。青銅の鳥居が立派。手前には石の鳥居があるが、真ん中で分けて、左右に建てられている。背の高い山車を通すためらしい。
 四日市は、昔の石の道標に加えて、市で作ったと思われる案内看板が随所にあってわかりやすい。古い建物は残っていないが街道らしい雰囲気の通りである。三滝橋の上には万古焼で作った宿場地図があり、橋の脇の堤防にはタイルで街道図が描かれてある。ここで四日市宿は終わりのよう。

 しばらく歩くと川幅の広い海蔵川が流れている。昔は舟で渡ったようだが、左手にある海蔵橋を渡り、対岸の旧道に向かうと、「三ツ谷一里塚跡」と刻んだ自然石が置かれている。説明書きによれば、一里塚は海蔵川の中州にあったが、河川を改修した時に中州がなくなったため、ここに移されたとのこと。近くに住む有志の方たちが、桜のしべが散り敷いた一里塚のあるミニ公園を箒ではいてきれいにしていたのがうれしかった。

 多度神社の先からしばらく国道を歩くが、また旧道へ。志氏神社の先にまた東海道の名残の一本松、しめ縄を張り、前に花を植えたフラワーポットが置いてある。大切にされているんだ、と思った。
 地蔵堂の先に米洗川、橋のたもとに五段の石垣の上に載った常夜燈があり、LEDの灯りが点いている。たくさん常夜燈を見てきたが、灯りが点いているのは初めてである。

 茂(もち)福(ぶく)神社から、間の宿・富田(とみだ)である。新設用水道碑の脇に大小の力石が置かれている。力比べは江戸時代から昭和初期まで庶民の素朴な遊びだったとのこと。
 十四川の堤には桜が約700本植えられている。すでに花は散って、しべが川面に浮かんでいるが、花の盛りはさぞかし、と想像する。
 富田小学校正門前には近衛文麿筆の明治天皇御駐輦跡の大きな石碑が立っている。説明文によれば、明治天皇は、この地にあった広瀬五郎兵衛宅で四度にわたり御小憩されたとのこと。大変心地よい屋敷だったのだろうが、残っていないのは残念なこと。私たちもここで小休憩した。

 富田の一里塚跡は旧道沿いの建物の脇に碑が立っているだけなのだが、日永の一里塚と共に県の史跡に指定されている。保存状態で史跡に指定されているのではなく、間の宿・富田の一里塚という場所の重要性から指定されているのだろう。
 近鉄線とJR線のガードをくぐり、御厨神明神社の先に朝明川。川幅がかなり広い。橋を渡った所にある常夜燈が、道路づけのためか、だいぶ離れたところに移設されている。
 歩いていると、街道沿いに海抜を標示した看板が目につく。海抜24m、14mなど桑名宿に向かって海抜が下がっている。桑名市は伊勢湾台風の時に高潮の被害があったため、住民に注意を喚起しているようだ。

 近鉄名古屋線の踏切を渡った先に、一里塚の片方と思われる大きな榎が植わった塚。その少し先の古い民家の前に、縄生一里塚跡の碑が立てられているが、両者の関係は説明文もなくわからない。
 街道が堤防につきあたったところが町屋川、橋のたもとに「文学のなかの町屋川」という説明看板がある。江戸時代、川の中州を利用して板橋が架けられ、桑名入口の立場でもあったので大いに賑わい、茶店では街道名物の「安永餅」を売っていた。また、松ぼっくりの上で焼いた蛤は、桑名の焼き蛤として名物で、弥次喜多も食べたとのこと。安永常夜燈は石積み5段の上に立てられている。
 常夜燈の先の東海道192間(約300m)は松並木が残っていたようだが、伊勢湾台風でだめになってしまったようである。
 昼時でもあり、雨もパラついてきたので、晴雲寺の軒下を借りて昼食休憩した。晴雲寺のすぐ先の鍵形に曲がる所が、桑名宿の入口、矢田立場である。

 桑名宿は揖斐・長良・木曽の三河川の河口デルタにあり、宮宿までの七里の渡しの渡船場であるため天候待ちの旅籠屋も多く、本陣2、脇本陣4、旅籠120軒と宮宿に次いで2番目に多かった。
 桑名宿の中は、鍵形に何度も折れ曲がっているが、道標が多く迷わずに七里の渡しに着いた。渡しのすぐ手前の掘割沿いに53次公園が造られている。公園の中ほどの街道沿いには大きな青銅鳥居のある春日神社がある。

 七里の渡し跡には伊勢神宮の一の鳥居が立ち、常夜燈や石垣が残っている。伊勢湾台風後の高潮対策で、街道と船着き場跡との間に防波堤が設けられているが、堤防の上から熱田方面を見ると、揖斐・長良・木曽の三河川が合流してゆったりと流れ、「船で渡るしかなかった」と実感した。
 戊辰戦争で官軍に破壊された桑名城跡は櫓が復元されているほかは、石垣や堀を残すのみであるが、展示してある桑名城の図面ではかなりの規模であったことがうかがえる。

 旧湊に面して建つ、脇本陣駿河屋は最も格式の高い脇本陣で、現在は料理旅館「山月」の一部となっている。また、その隣にある大塚本陣跡は最高の格式をもった本陣で裏庭から直接乗船できた。建て替えられているが、料理旅館「船津屋」として営業している。
 この後、本多忠勝墓所・浄土寺、薩摩義士墓所・海蔵寺などの前を通って、桑名駅に向かい、お伊勢参りに行くグループと帰宅グループに別れた。お土産に買った安永餅は素朴な味わいでおいしかった。
 (第4回二日目の歩数:28,064歩)



参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水正宣(1)、磯村雄二(3)、石井則男(4)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、村居次雄(8)、山浦るみ子(8)、藤巻禮子(9)、宮下明子(9)、池田有美子(69期)の12人。

石薬師の一里塚跡
石薬師の一里塚跡
杖衝坂
杖衝坂
四日市アーケード街入口
四日市アーケード街入口
富田の一里塚跡
富田の一里塚跡
七里の渡し跡
七里の渡し跡
揖斐川堤防の上から熱田をのぞむ
揖斐川堤防の上から熱田をのぞむ
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第3回 関宿から庄野宿へ

(14/3/1−2)

関宿から第46次・亀山宿へ
 2014年3月1日(土)、関駅に集合してスタート。前回、鈴鹿峠を越えて関宿にたどりついたが、見学時間がとれなかったため、東海道一の宿場といわれる関宿を見学してから亀山宿に向かうことにした。
 関宿は本陣2、脇本陣2、旅籠屋42軒。東の追分は伊勢街道に分岐し、西の追分は大和街道に分岐する交通の要衝にあったため商家も多く繁栄したとのこと。

  駅から、宿場内を西の追分に向かって歩くと、街道沿いの商家、旅籠などに雛飾りが並び「東海道のおひなさま」展が行われていた。江戸期のもの、明治・大正期のもの、昭和期のものが美しく飾られている。御殿に内裏雛が飾られているものもあるが、内裏雛の並べ方は「江戸風」で雌雛が右、雄雛が左になっている。徳川親藩が支配していた土地だからであろうか。
 関地蔵院は天平3年(741)行基の創建になる寺とのことで本堂、鐘楼などは国重文に指定されている。火事の多い宿場の中にあっても被災しなかった、あるいは関宿は火事がなかったのか古い建物が良く保存されている。

 高札場跡は復元され、江戸時代の高札がかかっている。後ろは蔵造りの郵便局になっている。
 隣は、大旅籠「玉屋」で、歴史資料館になっている。入口の土間の奥の帳場に、算盤と宿帳を前に置いて座っている人形が、薄暗い行燈の明かりに照らされている。生きているようでドキッとした。
 江戸側に伊藤本陣跡と川北本陣跡がある。本陣の門は、延命寺山門として移築、脇本陣の門は福蔵寺裏門として移築されたとのこと。
 宿場中ほどには、関宿が江戸から106里余りにあることから、小公園「百六里庭」がある。通りに面した建物「眺関亭」からは関宿の建物が一望できる。
 東追分は伊勢別街道との分岐点で、20年に一度の伊勢神社式年遷宮の際、内宮宇治橋南詰から移されてきた鳥居が立っている。

  関宿を出たところに、「関の小万のもたれ松」の何代目かの松が植えられ碑が立てられている。九州久留米藩主の娘、小万が亀山城下で武術を修行して、ついに親の仇を討つ事が出来たとのこと。小万の修行ぶりは鈴鹿馬子唄に「関の小万の亀山通い、月に雪駄が25足」と唄われている。

  関宿を出て、亀山宿に向かう。小野川橋を渡った先の鈴鹿川沿いは、太岡寺畷。かつては松が植わっていたというが、今は桜が植えられた18丁(約2キロ)にも及ぶ東海道一の長畷である。
 JR関西本線を渡り、しばらく歩くと布気神社。鳥居の奥の参道にはズラリと燈楼が立ち並んでいる。
 かつては、農家だったと思われる家が並ぶのどかな街道を歩く。所々に道標の石碑が立てられている。
 「史跡 大庄屋 打田権四郎昌克宅跡」の標柱が立っているが、屋敷はなく砂利を敷いて駐車場になっている。いくつかの庄屋を束ねていたのが大庄屋で、亀山藩の統治を担っていたようである。
すぐ先に、大きな椋の樹が植わった野村一里塚が見えてきた。一里塚の先が、亀山宿入口、京口門跡の碑がある。

  亀山宿は本陣1、脇本陣1、旅籠屋21軒、石川氏6万石の城下町であった。亀山宿の中は、カラー舗装がされていて、城下町の道は折れ曲がっているがわかりやすい。森家住宅など連子格子の家並の街道をしばらく歩くと、カラー舗装から外れた先に、外堀の発掘工事跡が見えた。ここをのぞいて見た後、またカラー舗装の道をたどる。
 鍵形に道を曲がると、土蔵のある大きな商家が見えてきた。旧舘家住宅(枡屋)である。呉服商を営んでいた商家であったが、今は住む人がなく、市に寄贈され、市が管理している。この日は「東海道のおひなさま」展が行われていて、1階から2階まで、お雛様が所狭しと並べられ、つるし雛が雛段の脇に飾られ、華やかである。

  街道からそれて、亀山城の青木門跡の標柱の先にある、加藤家屋敷跡を見に行くと、立派な長屋門と土蔵が見えてきた。加藤家は亀山城主・石川家の家老職で、江戸時代武家建築の状況を示す貴重な例として史跡に指定されている。
 この後、高札場跡、大手門跡まで街道を歩き、すぐ先にある市民協働センターでお雛様を見てからホテルに向かった。
(第3回一日目の歩数、14,870歩)

亀山宿から第45次・庄野宿へ
 雨が上って、街道歩き日和の朝である。
 池の側(外堀)沿いの道を上り、亀山城見学に。池の角に石井兄弟敵討の大きな石碑がある。ここから、石垣の上に、亀山城多門櫓が見えてくる。ここの石垣は、自然石を多用した「野面積み」とのこと。中小さまざまな形の自然石を上手く組み合わせて積み上げてある。櫓は、外壁に板張りしてあったものを、平成の大修理で旧に復して白壁にしてあった。

  この後、亀山城跡(亀山城公園)の中を突き抜けて、関氏が築いた亀山古城跡がある小山の裾を通って、亀山市歴史博物館へ行き見学した。お城の専門家の清水淳郎氏によれば、この博物館は亀山の歴史文化の展示をしているのだが、亀山城復元模型がすばらしい、とのこと。
 百聞は一見にしかずというが、行ってみると、展示してある亀山城復元模型は大きいだけでなく、新旧の地割図を組み合わせて、亀山城下の新旧の様子がわかりやすくつくってある。城の裏手まで歩いて行ったかいがあった。

  ここから京口門に向かい、昨日歩いた、街道をたどった。旧舘家住宅では、ひなまつり見学者に「おしるこ」をふるまっていたので、いただいた。
 万町は坂道のためか商店街にならず、古い町屋が残っている。遍照寺の本堂は亀山城二の丸御殿の一部を移築したものだという。
 坂を上りきった所が、高札場、大手門跡。ここで街道は右に折れてゆるやかな下り道である。通りの両側は商店街になっていて、本陣、脇本陣は跡かたもない。

  江戸口門跡を左に曲がり、町屋が続く道を歩くと、左手にお城のような建物が見えてきた。「衣城 しもむら」の看板が架かっている。シャッターが下りているので何屋さんかわからない。
 この先の、本町広場は東海道と巡見道との分岐点。巡見道は江戸時代に各地の政情を視察する巡見使が通ったことからこの名がある、とのこと。巡見道はここから中山道へ通じていた。
 本町の先は、茶屋町。古い町屋と新しい住宅が立ち並ぶ街道を歩くと、ようやく和田一里塚跡が見えてきた。かつては、榎が植えられていたが、昭和59年、道路の拡幅にともなって、隣接地に復元したもの、とのこと。街道を歩いていると、一里塚を見つけるとうれしくなる。「くたびれたやつが見つける一里塚」という江戸川柳があるというが昔の旅人も同じだったのだろうと思う。私たちも、ここで一休みしてから庄野宿に向かった。

  ゆるやかな下り道を歩き、国道1号に行きあたったところで、街道は左に折れて国道沿いの道を歩く。大きな和田道標が立っている。「従是神戸・白子・若松道」と刻んである。神戸城下を通って、若松港へ続いていた。
 国道を渡り、しばらく行った所が、井田川駅。駅前に、歴史のまち亀山案内図が掲げてある。
 地福寺、地蔵堂を過ぎ、安楽川に架かる和泉橋を渡る。堤防の下にある川俣神社の境内で昼食休憩。
 庄野宿までもう一息、と思って歩くが、だんだん疲れが出てきて地図ばかり気になる。
 福萬寺、常念寺と、立派な寺が並んでいる。ようやく、右手に川俣神社。「従是西亀山領」と刻まれた領界石と「中富田一里塚跡」の石碑が並んで立てられている。
 すぐ先に「女人?跡」の碑と「従是東神戸領」の領界石が並んで立っている。安楽川の水害防止のために、神戸領主の許可なく、女衆二百余人が暗夜を選んで工事を続け、6年がかりで堤防を完成させ、美田安住の地を得た、とのこと。

  国道とバイパスの下をくぐると、庄野宿入口の標識があり、すぐ先に、川俣神社。神社の境内には、天然記念物のスダジイの巨木が枝を広げている。
 庄野宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠屋15軒の小規模な宿場だったようだが、今も宿場のあちこちに古い建物が残っている。旧小林家住宅は庄野宿資料館として整備、開放されている。内には、高札、本陣・脇本陣文書、本陣・脇本陣復元模型などの資料が展示されている。
 庄野宿東口まで歩いて山の方を見ると、浮世絵の庄野に描かれた竹林が見えた。絵のような斜面ではないが、歩いて来た道すがらにも竹林があちこちにあったので、浮世絵にしたのであろう。
 加佐登駅まで歩き、帰りの途についた。加佐登駅に着いたところに、石薬師宿の方から旗を立てて大ぜいが歩いてくるので、聞くと、大垣から東海道歩きに来た40人、3組、総勢120人の一行とのことだった。
(第3回二日目の歩数:21,143歩)


参加者=初参加・村居次雄(8)。奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水正宣(1)、平林正明(1)、石井則男(4)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、山浦るみ子(8)、清水淳郎(9)、藤巻禮子(9)、宮下明子(9)、池田有美子(69期)の13人。

 山歩きとは違った楽しみ

 今回初めて参加させていただきました。同期会などで顔を合わせている方もいらして和やかに溶け込めました。普段は山歩きをしていますが、街道歩きはまた違った楽しみがあるものだと気付きました。
 今回は関宿、亀山宿のお雛祭りイベントと重なって江戸時代の雰囲気が残る町並みを堪能できました。野村一里塚の大きなムクの木にも感動、楽しい2日間ありがとうございました。
 また参加させて頂きたいと思っています。
 村居次雄(8組)


 楽しかった街道あるき

 今回の街道あるきは本当に楽しかったです。関宿であんなに“おひな様”がみられるとは思っていませんでした。宿場が引き立って、とても感激しました。
 地蔵院と山々を背景にした関宿の眺望はとても時代がかっていて素晴らしかったです。亀山城資料館も良かった。
 ありがとうございます。
 清水正宣(1組)


 街道とお城巡りの旅に大満足!

  中仙道69次の旅に続き、『東海道53次とお城巡りの旅』という素晴らしい企画があるというので今回初参加させていただきました。
 天候にも恵まれ亀山城跡見学、東海道のひな祭りの時期に遭遇したためか立派なお雛様を見学しながらおしるこを振舞われて感激・・・。庄野宿街道歩きへと続く、歴史とロマンを感じさせられる旅となりました。
 また、都合により1日遅れて参加したにも拘わらず、幹事さんや皆さんの気配りで旅程の見直をしていただくなど温かい配慮、有り難うございました。
 平林正明(1組)



関宿・地蔵院
関宿・地蔵院
関宿・東海道のおひなさま展
関宿・東海道のおひなさま展
関宿・東追分
関宿・東追分
亀山・加藤家(家老)屋敷跡
亀山・加藤家(家老)屋敷跡
亀山城多門櫓
亀山城多門櫓(クリックして拡大)
庄野宿・小林家住宅(庄野資料館)
庄野宿・小林家住宅(庄野資料館)

第2回 水口宿から関宿へ

(13/11/16−17)

第50次・水口宿から第49次・土山宿へ
 2013年11月16日(土)、近江鉄道・水口石橋駅に集合して11人でスタート。今回初参加の磯村さんは、2日前に家を出て、京都三条大橋から大津、草津、石部宿を経て、水口城を見学中とのこと。しばらくして追いついて、12人で旅をした。

  水口石橋駅を出て踏切を渡ると、東海道の碑があり、からくり時計が設置されている。ここで道が三筋に分かれているので、前回、通らなかった右側の道を歩いて、三筋道が合流する高札場跡に向かう。今回からの参加者は、真ん中の道を歩いて高札場跡に向かった。
 高札場跡から一緒に歩き、本陣跡、脇本陣跡を通り、宿場の街並みを通り過ぎ、国道1号線を渡ったすぐ先に水口宿東見附跡がある。冠木門があり、宿場の入口らしく造られている。東海道の標識は、新しく作られたものは、ほとんどが東京からの旅人用に作られているようだ。

  山川橋を渡ると、右手の丘の上に大師寺があり、急な坂道を上る。ゆるい上り道をしばらく歩くと、八坂神社がある。
 曲がりくねった道を歩くと『街道を行く』の一節を刻んだ自然石の碑が立てられてある。「古い街道には、いにしえ人の気配がある。その曲がりくねった道筋に、路傍の道標に歴史がある。」街道歩きをしてみると、本当にその通りだと思う。
 浄土寺の脇に、榎が植えられた「今郷一里塚跡」があり、「お江戸日本橋から112里の一里塚」と書いた看板が立てられている。私たちの目的地はまだまだ先である。
 今郷一里塚のすぐ先に、「経塚」。延暦20年(801年)この辺りに出没した化け物を鎮めるために大般若経を読んで、お経を埋めて塚にした、とのこと。

  国道を渡り、今宿の街並みに入る。入口に大きな赤いエプロンをしたお地蔵さんが置かれてある。鍋屋、瓦屋、旅籠屋などの看板が架かっていて、かつての繁栄を偲ばせる。
 宿場の中ほどを国道が横切っていて、渡ったすぐ先の旅籠・小幡屋跡の碑の後ろに、「明治天皇聖跡」の大きな碑が立てられている。
 宿場の街並みが途切れた所から野洲川の流れが見渡せる。ここで一息入れて、また歩く。

  東海道反野畷の碑の先に、両側に松並木のある真っ直ぐな道。旅人にとって、真っ直ぐな道は緑陰が必要だったのだろう。先月歩いた、北脇縄手にも松並木があった。
 大日川橋を渡った先に市場一里塚跡がある。江戸から111番目とある。塚はないが、一里塚の碑を見つけるとうれしくなる。
 しばらく歩くと垂水頓宮御殿跡の碑がある。天皇が即位するたびに伊勢神宮に奉仕する皇女が、伊勢に向かう道中の宿舎とした御殿の跡、とのこと。
 街道の左手奥に地安禅寺の立派な門が見える。この辺りから、茶畑が沢山ある。中国から茶の種を持ち帰り栽培したのは臨済宗の祖栄西であることを思い出した。この辺りのお茶は、栄西がもたらしたものかもしれない。きれいに刈り込まれた葉の下に、お茶の白い花が咲いている。初冬の風景である。
 すぐ先の街道右手に瀧樹神社の大きな鳥居。神社本殿はずっと奥のようなので深入りせずに街道を歩く。

  茶畑の中の街道を歩き、白川橋で野洲川を渡る。しばらく国道を歩き、南土山の信号から旧道に入る。ここから土山宿である。
 商家や旅籠屋が建ち並ぶ古い街並み。大黒橋を渡った先に、土山宿陣屋の碑。向かい側に、土山宿問屋場跡、大黒屋本陣跡の碑があり休憩所になっているが、通りのすぐ先にお茶屋さんが見えたので、ここでお茶を買って旅館に向かうことにした。
 この辺りは「近江茶」の産地、とのことで、美味しいお茶をいれていただき、すっかりくつろいでしまった。
 この後、土山宿本陣の脇を通って、土山宿でたった1軒になってしまったという、旅館・大安で宿泊した。
(第2回一日目の歩数:17,783 歩)

土山から鈴鹿峠を越えて第48次・坂下宿へ
 旅館の御櫃を空にするほど、しっかり朝食を食べて、予定時間を少し早めて7時45分出発。
 ここから先、関宿までコンビニはないとのことなので、旅館の近くのコンビニで昼食を買って出かけた。
 土山宿本陣、二階屋脇本陣は建物が残り、現在も居住している。また、営業はしていないが、旅籠屋、問屋の建物も健在である。商家・菱屋は現在、和風茶房として営業している。大原製茶場の看板の架かる商家は間口が広く立派である。
 宿場の中ほどに白山神社がある。すぐ先のくるみ橋を渡ってしばらく歩くと、土山一里塚跡の碑。江戸から110番目の一里塚である。
 扇屋伝承文化館は、元は御六櫛を商う店だったとのこと。この他にも、三日月屋など御六櫛を扱う商家が何軒かあったようである。
 宿場の江戸口に立派な地蔵堂があり、「従是 右京都へ十五里 左江戸へ百十里」と刻んだ碑が立てられている。

 しばらく茶畑の中の道を歩き、「間の土山道の駅」でお茶の接待を受け、身支度を整えて、田村神社の大鳥居をくぐる。
 坂上田村麻呂を祀ってあるという田村神社の二番目の鳥居の脇に高札場跡がある。街道は、ここを右に曲がり、田村川に架かる橋を渡る。広重の浮世絵に画かれた田村川橋が架かっている。
 蟹が坂古戦場跡の碑の前を過ぎると、急な上り坂。そして、国道に出てからは緩やかな上り坂。「東海道 猪鼻村」と刻んだ大きな石のところで、今度は急な下り坂の旧道に入る。急な下り道はきついが、車が通らないので楽しく歩ける。
 しばらく下り坂道を歩いて、平坦な道になった所に「旅籠 中屋跡」「明治天皇聖跡」の碑が立っている。

 淨福寺の先でまた国道に出る。しばらく歩くと、山中一里塚公園。馬子と馬の石像が置かれている。ここで一休みして、また旧道を歩く。
 街道の左側に立派な地蔵堂がある。前に常夜燈が2基。嘉永6年に造られたと刻んである。
 山中橋、小田川橋を渡った所に常夜燈と馬子唄の碑があり、立ち止まって休むと心が和む。鈴鹿峠を越える馬子たちの間でいつしか唄われ始めたという馬子歌は、小諸馬子唄と同じ節とのこと。「坂は照る照る鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る」とある。
 鈴鹿峠への上り口まで約2キロ、ゆるやかな国道の上り道を歩く。途中で、鈴鹿峠を越えてきたという20人ほどの団体2組と会う。「頑張って鈴鹿峠を越えてきた」という言葉に、前途多難を思う。

  国道がトンネルに入る手前に、峠道入口の標識。標識に従って右手に入って、いよいよ峠道。急な上り道である。少し上がると大きな万人講常夜燈が見えてきた。今から270年前に、四国金毘羅神社の常夜燈として鈴鹿峠の上に建てられた、とのこと。これだけの大石を下の村から峠の上に、人力でよくぞ運びあげたものだ、と感嘆した。
 峠の上は一面の茶畑。かつては6軒の茶屋が建ち並び、峠を往来する人でにぎわっていたようである。
茶畑がなくなり、森に入った所に領界石がある。「右 滋賀県 近江の国、左 三重県 伊勢の国」とある。いよいよ伊勢の国入りである。

  森の中の急な坂道、落ち葉が積もっていて滑るので、そろそろ下る。坂道の途中の木の間から覗くと、遥か下に国道が見える。あの先まで下らないと坂下宿にはたどりつかないのだ、と気持ちを引き締める。
 馬の水飲み鉢が置かれている。傍に芭蕉の句碑が立てられている。「ほっしんの初にこゆる鈴鹿山」『猿蓑』(巻之五)にある芭蕉の句で、西行の歌「鈴鹿山浮き世をよそにふり捨てて意かになり行くわが身なるらん」を踏まえた句と言われている。芭蕉が鈴鹿峠を旅しての句ではない。
 国道の上に架かる陸橋を渡り、急な階段を下り、石畳の坂道を下る。石畳は苔むしている上に落ち葉が積り、急な下り坂。滑らないように慎重に歩みを進める。
 石畳道が終わった所に、片山神社。高い石垣の上に本殿があったようだが、平成11年に焼失し、神楽殿のみが残っている。古代、伊勢神宮に向かう斎王が休泊した鈴鹿頓宮の跡ともいわれているようである。

  かつては、神社のすぐ下が坂下宿だったが、慶安3年(1650)に大洪水で埋没したため、翌年、宿場全体が移転し、「古町」の地名が残っているのだという。宿場の跡らしい平坦な場所に、慰霊堂が建てられている。
 片山神社入り口の道標の先に、山道に向けて「東海自然歩道」の道標があり、少し上って様子を見たが、険しい山道なので引き返して、国道の側道を歩く。少し下った岩屋観音の所で山道と合流するが、旧東海道はこの険しい山道の方で、途中に荒井谷一里塚跡があるのだということがわかった。
 国道と別れて旧道に入り、上乃橋を渡った所から坂下宿である。

坂下宿から第47次・関宿へ
 
坂下宿は、難所の鈴鹿峠を控え、本陣3、脇本陣1、旅籠屋48軒のほか旅人の荷物を扱う稼業で賑わったが、明治以降、本陣などはすべて取り壊され、跡地に石碑を残すのみとなっている。
 松屋本陣の門の一部が法安寺庫裏の玄関として移築されているのが、唯一の本陣建物の遺構、とのことである。私たちは、西国三十三札所にもなっている法安寺の境内で秋の日に映える紅葉を見ながら昼食休憩した。
 金蔵院跡は、石垣のみが残る。かつては、将軍家の御殿が設けられ、休息所として使われたとのこと。
 所々に残る旅籠屋の建物は、連子格子に絵手紙が飾られ、住む人の暖かい気持ちが伝わってくる。

  関宿まで6.5キロ、予定の列車に遅れないよう歩く。下り道なので足取りは軽い。下乃橋(河原谷橋)には、かつて領界石があったというが、今はない。熟れた柿の実がたわわについた枝が橋の袂から道路に張り出している。手を伸ばしてもぎ取り、かじると、”しぶ〜い”柿だった。
 少し先に、鈴鹿馬子唄発祥の地の石碑が立てられていて、東海道の宿場名を書いた標柱が立ち並んでいる。坂下尋常小学校は立派な校舎だが、今は、生徒が減ってしまったからだろうか、「鈴鹿峠自然の家」として青少年の研修施設になっている。また、ドーム型の鈴鹿馬子唄会館が、地域文化創造施設として造られている。少し下った所には郵便局もあり、このあたりが現在の中心地のようである。
 郵便局から少し下った土手の上に、菅笠をかぶって杖を持ち、うずくまる老女がいる、と思いきや、木像だった。誰が作って置いたのか、ドキッとさせられた。

 国道と合流する対岸の石垣の上に、弁天一里塚跡の碑がある。
 道路に沿って鈴鹿川の清流が流れている。その先の山は「筆捨山」。その昔、画家の狩野元信が旅の途中でこの山を描こうとしたが、山の風景が刻々と変わってしまうので、絵に描くのを諦めて筆を投げ捨てたことからこの名がついた、といわれている。川霧と山霧が発生しやすい地形なのだろう。

  しばらく国道の歩道を歩き、市瀬で旧道に入る。市瀬橋を渡った先でまた国道の歩道を歩く。
 テニスコートの手前から旧道に入った所に、大きな石がある。巨石の周囲には玉石が敷かれ、周囲に花差し用の筒が置かれている。「転(ころび)石(いし)」といわれ、山の上から転がり落ちてきて、夜な夜な不気味な音を立てて、周辺の人々を恐れさせていたが、弘法大師が石の供養をしたところ静かになったのだという。 
 すぐ先が、西の追分。ここは、東海道と伊賀大和街道の分岐点であり、道標には、「ひだりハいかやまとみち」とある。
 関宿の見学は次回、ということになっているので、街並みを見ながら駅への道を急いだ。一階は連子格子、二階は漆喰で塗り籠めた格子窓の商家が立ち並び壮観である。
(第2回二日目の歩数:26,317歩)

参加者=初参加・磯村雄二(3)。奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水正宣(1)、石井則男(4)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、山浦るみ子(8)、清水淳郎(9)、藤巻禮子(9)、宮下明子(9)、池田有美子(69期)の12人。

 女性たちの“若さ”に脱帽

 64期の女性達主力の「中山道」歩き旅の話は以前から聞いておりました。
 上高郷土研究班の頃、中山道(信濃追分・小田井〜塩名田・茂田井)を調査に歩いたこともありました。また最初の工場勤務時には、深谷松並木通りの寮で5年も住んでいたこともあります。
 会社勤めも一段落した頃より、四国八十八札所や秩父三十四観音霊場、最近では石井さんの特別なお計らいで甲州街道を歩き、今年3月に下諏訪宿の中山道に到着し、現在は日光街道を歩いております。今秋「中山道」に続いて、「東海道東下り」を始めるとの案内を受け取りました。
 初回の草津宿からは上田64期同窓会と日程が重なったこともあり、第2回目の水口宿から仲間入りさせていただくことになりました。清水リーダー以下皆様、よろしくお願いいたします。
 中山道を完歩された街道歩きのベテランの皆様に負けないようにと意気込み、4日間の行程で京都三条大橋から出立し、前半の2日半は単独で歩き3日目の夕方日没寸前に「間(あい)の土山宿」手前のお茶畑辺りで、ようやく皆様に追いすがることができましたが、正直言って3日間で62`・92千歩ヘトヘトでした。(水口宿の三筋道を全部歩いた「1往復半」がダメージでした)。
 【女(スミマセン!)の足ならそう遠くまでは行けないから、楽に追い着けると高をくくったことを猛省しております】
 翌日は皆様と一緒に、難所?鈴鹿峠越えをして坂下・関宿まで楽しく辿り着くことができ本当に感謝しております。ありがとう!サンキュー!(お前、誰?? アリスの堀内孝雄か)。
 今回の旅で小生が最も強調したい事は、中山道を延36日間で踏破された女性達の『若さ』です。女子生徒が1割弱しか在校していなかったあの時代に、少数精鋭として至高し試百難された女性達は50年を経ても今も眩しい存在です。これから参加を予定されている男子諸君、女性達に置いてきぼりされないよう不断の訓を励んで、心して臨みましょう!
 磯村 雄二(3組)

水口宿からくり時計
水口宿からくり時計

旅館・大安
旅館・大安(クリックして拡大)

土山宿本陣
土山宿本陣
土山宿・田村川橋
土山宿・田村川橋
鈴鹿峠万人講常夜燈
鈴鹿峠万人講常夜燈
関宿の街並み
関宿の街並み

第1回 草津宿から水口宿へ

(13/10/5−6)

はじめに
 2012年12月1日、京都三条大橋に到達して中山道の旅を終えましたが、同期生と旧交を温めながらの旅は楽しく、今度は東海道を日本橋に向かって旅することになりました。
 また、東海道は名城が多いので、お城見学もしながら旅を楽しもうと考えています。お城見学には、同期生で専門家の清水淳郎さんがガイドをしてくださる予定です。
 64期生の参加を歓迎します。 (KAZU)

第52次・草津宿から第51次・石部宿へ
 2013年10月5日(土)草津駅に集まり、中山道を歩いて草津宿入口の高札場跡、草津常夜燈前で集合写真を撮る。一年前に歩いたところなので懐かしい。
 草津は中山道と東海道の分岐点。常夜燈には「右 東海道いせみち、左 中仙道美のぢ」とある。私たちは、「右 東海道いせみち」を歩く。
 草津川は天井川、とはいっても、実際に川がどうなっているのかは見た事がなかった。今回、草津川の堤防沿いの道を歩いて、草津川橋まで来て、川をみると、全く水がない。
 橋のたもとに常夜燈道標が立ち、「左 東海道伊勢道、 右 全勝志がらき道」と刻んである。橋を渡り、草津川沿いの街道を歩いてしばらく行くと、左手に「小柿村 高札場跡」の立て看板。すぐ先に「史跡老牛馬養生所址」の碑。碑の脇の説明文によれば、和迩村の庄屋岸岡長右衛門が老廃牛馬の打はぎをしているのを見て、その残酷さに驚き、これからは老牛馬であっても息のある間は打はぎすることを止めるよう呼び掛け、天保12年に老牛馬の余生を静かに過ごさせる養生所を設立した、とのことである。江戸時代にこんな篤志家がいたのかと驚いた。

 しばらく歩くと、「従是東膳所領」の碑。膳所といえば中山道の旅の折、大津・琵琶湖に面した所に膳所城があったことを思い出した。こんなところにも膳所領があったのか、と話しながら行くと、芭蕉句碑と立派な城門が建っている。説明文によれば、明治の廃藩置県で城は解体され、膳所藩領の村に多く移築された。この門は、膳所藩領の長徳寺に移築されたが、長徳寺の門が新築されたため不要になり、同じ領内だったこの地に移築されたとのこと。
 また、芭蕉句碑「草の戸や日暮れてくれし菊の酒 元禄四年重陽芭蕉 /田楽で芭蕉も飲んだ菊の水 沙弥隋縁」は、芭蕉が菊の節句の日に、目川立場に伝わる田楽料理で酒を飲み長寿を寿んだことによるようである。
 この辺りの目川立場で旅人に供された食事は地元産の食材を使った菜飯と田楽で独特の風味を有し、東海道の名物となったようである。「目川田楽 京いせや跡」、「目川田楽 こ志まや跡」、「田楽発祥の地」の碑が旧家の前に並んでいる。
 すぐ先に「従是西膳所領」の碑。膳所領はこのあたりだけらしい。このあたりは、領地が入り組んでいたようである。

 古い、落ち着いた街並みが続く街道をしばらく歩くと「東海道一里塚」の碑。すぐ先の商店のガラスケースの中に「目川の特産ひょうたん」が飾られている。かつて、沢山作られていたようで、大きいものは長さ50pほどもある。
 道標を左に曲がると、善性寺。寺の入口の説明書きによれば、文政9年、シーボルトが、兼ねてより博物学者として知っていた善性寺の僧の元を訪ねスイレンウド、タチバナ等、珍しい植物を見物した、とのこと。

 二階が土蔵造りになっている旧家の街並みを抜け、葉山川橋を渡った先に、「九代将軍 足利義尚公 鈎の陣所ゆかりの地」と刻んだ大きな碑が立てられていて、歌碑も数基立っている。
 解説書きによれば、室町幕府は応仁の乱後、勢力が衰え、社会は乱れた。幕府の勧告を聞かない近江守佐々木氏を討伐のため、時の将軍足利義尚は近江へ出陣したが、陣中で病に倒れ、25歳の若さで、この地で没したとある。歴史の教科書にもなかった史実を知り、地元の人にとっては大きな歴史的事件であったのだろうと思いを馳せた。
 少し歩いた先に「東経136度子午線」の碑が立っている。秋とは思えないような強い日差しの中をしばらく歩いて、「手原駅」で小休憩。

 手原駅前にある里中大明神の社には、明治天皇御小休所跡の碑が立つ。向かいの立派な家は、醤油「塩屋」、その隣が鍛冶屋「鍋屋」など、屋号を書いた看板を架けた古い街並みが続く。
 高速道路の手前に、趣ある建物「行者堂」がある。高架下を抜け、しばらく歩くと西厳寺。入口に大きな松があり、「肩かえの松」と刻んだ碑が立てられている。碑文によれば、旅人足等がこの松の木の下で休憩し、荷物を担う肩をかえた所、とのこと。
 染屋、両替屋、指物屋などの看板が架かる街並みを歩き、ようやく間の宿・六地蔵の一里塚に着く。目川の一里塚からだいぶ歩いたつもりだが、まだ一里。今日の目的地、石部宿はあと一里先である。

 しばらく歩くと、旧和中散本舗跡の豪壮な屋敷。中山道・柏原宿の伊吹堂や鳥居本宿の神教丸本舗も豪邸であった。簡単に医者にかかれない時代、薬は庶民が頼みにするものだったのであろう。この旧和中散本舗の庭は小堀遠州の築庭によるものと説明してあるが、公開していないのは残念だった。
 この先にある、国宝六地蔵堂を覗いてみたが、中の地蔵尊は良く見えなかった。
 新善光寺道の道標を過ぎ、名神高速道路の下を抜け、草津線の線路沿いの道をひたすら歩き、ようやく、石部宿入口の常夜燈にたどり着く。

 石部宿は「京立ち石部泊まり」と言われ、京を立った旅人の一泊目が石部宿であった。本陣2、脇本陣0。交通量の増加と共に幕末の全盛期には、旅籠屋62、商家216軒を数え、街並みは1.6キロも続いていたという。
 宿場の中に入ると、連子格子の民家が並び、鉤の手道が2か所設置されている。
 真明寺には、芭蕉が「野ざらし紀行」の途次茶店で詠んだ、「つつじいけてその陰に干鱈さく女」の句碑がある。
 真明寺のすぐ先に、本陣跡、明治天皇聖跡碑があり、広重の浮世絵・石部が置かれている。ただ、ここに描かれているのは目川の田楽茶屋・元伊勢屋である。広重の浮世絵・石部の行書版もしくは隷書版であれば石部宿の様子が伝わるのに、と思った。
 この日の旅はここまでとし、石部駅に戻り、三雲駅の近くのビジネスホテルに宿泊した。
(第1回一日目の歩数:19,980 歩)

第50次・水口宿へ
 10月6日(日)8時に国道沿いにあるホテルを出発して旧東海道を歩くと、沿道に大きな明治天皇聖跡碑。真明寺の芭蕉句碑と良く似た、茶色の自然石で造られている。この地域で採れる石だと真明寺の住職が話していたのを思い出した。
 かつての東海道は横田の渡しまで、川沿いの道をたどるが、今は、三雲駅の近くで横田橋を渡り、川沿いの道を横田渡し跡、横田常夜燈に向かって歩く。
 横田渡しは、東海道13渡しの一つで、軍事的な意味から幕府の直轄下に置かれていた。常夜燈は高さ10.5メートルもあり、地元や京都の万人講中の寄進によって建てられたという。明治期、両岸を結ぶ大きな板橋が架けられたとのこと。その遺構の石垣が残っている。

 ここから、川沿いの道を離れ、田圃の中の道に入る。しばらく歩くと、泉一里塚跡。江戸時代は、今より少し川近くにあったが、現在地に移設された、とのことだが、塚の上には大きな榎が植えられ枝を広げている。
 塚の奥は墓地になっていて、入口に道祖神6体が置かれ、その後ろに古い墓石などが整然と並べられている。番場宿で見た、北条氏供養塔の光景を思い出した。

 人家が点在する、田圃の用水沿いの道を歩く。東に向かって歩くので、朝日がまぶしく暑い。かわいらしい5体の庚申塚にはヒマワリの花が供えられている。
 すぐ先の松並木は、北脇縄手の松並木。江戸時代は、道の両側が土手になり松並木があった。田圃の中の一本道なので、当時、旅人は松の木陰に涼を取り、旅の疲れを休めたと言われている。
 田圃が終わり、集落の入口に、柏木神社の鳥居。その向かい側に、美富久酒造の建物があり、軒先に造り酒屋を示す、杉玉が下がっている。

 西見附跡のところで鉤の手に曲がり、次の角の五十鈴神社の一角に、水口一里塚の碑が立てられている。街道の両側は、水口藩士の住んだ百軒長屋。私たちは、この先の東海道歩きは後回しにして、水口城跡見学をしたのだが、水口城跡見学については、後述する。
 水口城跡見学の後、再び東海道・水口宿を歩く。水口宿は、城下町でもあるので、宿場内の道は鉤の手にいくつも曲がっている。また、町ごとに、水口神社の例大祭で使われる曳山の倉庫と、江戸時代末期の大火後に造られた愛宕神社の小さな社がある。

 水口宿は道路が狭く、人通りが多かったので、東海道はメインの道のほか、両脇にもあり、近江鉄道線路を渡った所で3筋に分かれている。私たちは、今回、真ん中の道を歩いて、本陣、脇本陣まで行き、山側の道を引き返し、次回、3本目の道を歩いて土山宿に向かうこととした。
 3筋に道が分かれるところに、からくり時計が置かれ、旧東海道の碑が立てられている。真ん中の道は、両側に旅籠屋や商家が並ぶ。大岡寺の参道が見える所に、もう一つのからくり時計が置かれ駐車場が設けてある。すぐ先に、問屋場跡がある。この辺りが宿場の中心だったのだろう。
 古い街並みが残る通りを歩き、3筋が合流する所に、高札場跡がある。そのすぐ先に本陣跡。碑文によれば、間口が一般の家の3軒分もある広大なものだったが、明治2年に天皇が泊ったのを最後に、取り壊された、とのこと。奥に、「明治天皇聖跡」と刻んだ大きな碑が立てられているのみで、本陣の面影はない。脇本陣・西村家はベンガラ格子の立派な家が残っているが、居住しているので非公開だった。

 山側の道を歩いて、3筋に分かれた所に引き返す。この通りもベンガラ格子の入った古い街並みである。山の上は、古城山・水口岡山城跡で、豊臣秀吉の命で中村一氏が築いたが、関ヶ原の戦いの後、取り壊された。
 麓にある、大岡寺は水口城主・加藤氏の祈願寺で、本尊は国重文とのこと。境内に芭蕉の句碑がある。これも、自然石に刻まれていて趣深い。「命二つ中に活きたる桜かな 翁」『野ざらし紀行』にある句で、「水口にて、二十年を経て故人に逢ふ」と前書きがある。伊賀の蕉門の第一人者である土芳と19年ぶりに再会した感慨を詠んだもの、とのこと。ただ、芭蕉が逗留していた寺は、3筋目の通り沿いにある蓮華寺だという。
 この先にある大徳寺は水口城ができるまで、家康や徳川家重臣が宿泊した寺、とのことで、立派な山門と塀に囲われている。すぐ先に、3筋の道の分岐点がある。
 水口宿歩きはここまでとし、すぐ近くの水口石橋駅から近江鉄道に乗り、帰路に着いた。

水口城跡見学
 水口城は、三代将軍・徳川家光が、寛永11年(1634)京都への上洛に先立ち、将軍の宿泊所として宿館を築かせた。これが水口城(水口御茶屋)で、築城は幕府直営で行われ、作事奉行には小堀遠州があてられたとのこと。
 水口城は将軍の宿館として築かれたので、天守閣などはなく、水掘に囲まれた本丸と二の丸からなり、京都二条城を小型にしたものだった。
 家光上洛後は、幕府の任命した城番が管理した。天和2年(1682)に加藤明友が藩主となり水口藩が成立したが、加藤家は別に城館を造り、水口城には入らなかった。
 明治維新後、廃城となり処分されたが、「ふるさと創生事業」として、掘、橋を整備し、番所跡に往時の矢倉を模した資料館を造った、とのこと。
 矢倉(資料館)の中は、水口城の模型、平面図などが展示されている。また、ビデオで、こうした歴史的経緯をわかりやすく説明するなど、興味をひく内容であった。
(第1回二日目の歩数:17,281歩)

参加者=初参加・奥村恭子(1)・石井則男(4)。清水計枝(1)、安武知子(5)、山浦るみ子(8)、清水淳郎(9)、藤巻禮子(9)、池田有美子(69期)の8人。

 「東海道53次の旅」に参加して

 清水計枝さんから「昨年までの『中山道の旅』が終わって今年から『東海道の旅』を始めます」という連絡をいただき、中山道は参加できなかったけど今度こそは行って見たいなと思って参加させていただくことにしました。
 64期の同期の仲間ということですが、ずっとご無沙汰でしかも記憶のかなたに追いやってしまっていたので不安でした。東京駅から新幹線ひかりに乗った時、5人の方々が同期ということだけで仲間としてすんなり受け入れて下さりほっとしました。
 草津駅で2人の方と合流し、いざ出発。歴史に詳しい人、地理に詳しい人、どっちにも疎いからどうしようと言うと「いいの、いいのただ付いて行くだけでいいの」と言ってくださる人がいてこれも気が楽になりました。
 草津宿右東海道の石碑の前でまず、記念写真。草津の街のアーケード街を抜け歩き始めました。狭い道を車が行き来していてこれが旧東海道なんだなと思いながら、みんなについて行きます。
 一里塚、立て札と目印の木。街道には「NPO法人街道を生かしたまちづくりの会」作成の村名、屋号、名称が書かれた大きな表札が所々にあり、楽しみながら歩けます。お寺、子午線(東経136度)拘っている、街道の街並みをキョロキョロしながらひたすら歩いては止まり、ここは名所というところで写真を撮る。
 歴史のはなし、道端にある植物の名前に詳しい人の話を聞きながら、時には人生相談?石部宿に着くころには、足は棒のようでした。三雲の宿での食事も楽しく、来てよかった。
 翌日は水口宿。東海道横田渡と大きな常夜燈を見て江戸時代の旅を思う。田園風景の中を歩きながらここが甲賀の里、イメージと全然違うね、とか、松並木に、昔の旅人はもっと歩きやすかったのかな?日陰で休憩しようというリーダーの心遣いも細やかで、安心してついて行く。
 水口城跡では、冷たいお茶を頂き、干瓢の話も。丸くて大きな夕顔にびっくり。今は栃木も干瓢で有名だけど、水口が本家というお話を聞いたり旅を楽しいと感じる。
 愛宕神社の火除けという小さな祠について、道路まで出てきて説明してくれる住民の人。等々。沢山の思い出ができました。
 三筋の町で、お昼をいただき、本陣跡、大岡寺を見たりして今回の旅はお終い。次回は、三筋のうちの残りの一本を通って鈴鹿峠にということでまた楽しみです。少しでも歩いて足を鍛えておかなければ。
 今年、夫の一周忌を済ませ、これからの人生どのようにしていこうかなと考えていましたが皆さんの前向きに楽しんでいる姿に、私もこういう企画にも参加しながら自分なりに出来ることをして、大いに楽しみながら社会を広げていきたいと前向きになりました。
 みなさん、ありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いします。
 奥村 恭子(1組)


 楽しい仲間たち

  同期生の東海道の旅に初めて参加し、気安い仲間たちで大いに楽しんできました。このHPを作成しており、これまでの中山道の旅は一緒に歩いてきたように感じています。
 街道歩きは会社のOB中心の同好会「気まま苦楽部」で、中山道、甲州街道を歩き、2013年4月から日光道中を歩いている。会の街道歩きグループは東海道を歩き終え、中山道の信州に入る所からわたしは参加し、当初は岐阜に入ったらやめようかと考えていた。やみつきになり、日本橋からの未踏部分を一人で歩いて補った。
 今は世話人もやっている。毎回30人ほどの大所帯のため、担当地域の下見をし、トイレの確認と昼食(各自持参)の場所を選び、簡単なガイドを作成して事前に郵送している。
 清水計枝さんには中山道に続き、東海道を企画していただき、絶好の機会と感謝している。緻密な案内書を作り、当日は一人でガイドをしてきたことには驚くとともに、すごい人だなと敬意を表したい。
 計画通りに歩けないかもしれないが、補いながら必ず日本橋に到達したい。
 石井則男(4組)

草津常夜燈道標
草津常夜燈道標
横田渡し常夜燈
横田渡し跡、常夜燈
水口宿高札場跡
水口宿高札場跡
水口城址
水口城跡



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