中山道69次を歩こう(4)

     (5)柏原宿から三条大橋    会報「うえだ」86号(大津宿から三条大橋へ)
     (4)中津川宿から柏原宿   会報「うえだ」85号(醒井宿から大津宿まで) 
     (3)塩尻宿から落合宿   会報「うえだ」84号(河渡宿から柏原宿まで)
     (2)坂本宿から下諏訪宿  会報「うえだ」83号(大湫宿から加納宿まで)
     (1)日本橋から松井田宿  会報「うえだ」82号(中間地点から大湫宿まで)
 会報「うえだ」81号(長久保宿から宮ノ越宿まで)  会報「うえだ」80号(坂本宿から長久保宿まで)
 会報「うえだ」79号(蕨宿から横川まで)  会報「うえだ」78号(日本橋から板橋まで)
  
第20回 垂井宿から柏原宿まで  (12/3/24−25)
第58次・関ヶ原宿へ
 2012年最初の旅。3月24日(土)、垂井駅に集合して、垂井の泉で足を止め、南宮大社大鳥居をくぐって中山道に出る。垂井宿お休み処・長浜屋(旧旅籠屋)で昼食を食べてから関ヶ原宿に向かう。
 垂井宿・西の見付を過ぎて、しばらく歩くと垂井一里塚(国史跡)。大きな塚の上に松が植わり、後ろは松林になっている。松林はお茶所跡。街道を旅してきた旅人が、この松林の下でしばしの休憩をしたようだ。
 雨があがって晴れたが、伊吹下ろしの風が強い。伊吹山は雪で真白。山の中腹にある伊富岐神社に向かう参道の入り口に大きな石の鳥居が立てられている。
 街道沿いに、間の宿・野上の立派な街並みが続く。ここの旅籠屋は飯盛り女が沢山いて、旅人や関ヶ原宿から遊びに来る商人で賑わったとのこと。宿場の中ほどに、「野上の七つ井戸」が修復され、つるべで水が汲めるように置かれている。
 少し行くと樹齢300年余りという松並木が街道の両脇に並んでいる。所どころ、若木に植えかえられているが、みごとな枝ぶりである。枝が下向きに広がっているのは、伊吹下ろしの風が影響しているのかな、などと話しながら強風の中を歩く。
 松並木の中ほどに山内一豊陣跡の碑。すぐ先の左手の山(桃配山)の中腹に徳川家康最初陣地の幟が立てられている。
 桃配山の名称は、壬申の乱の時、大海人皇子がこの山に布陣し、献上された桃を配った故事による、とのこと。
 もうすぐ関ヶ原宿、と思って、関ヶ原史跡ガイドとの待ち合わせ時間(13時30分)が気になるが、強風で早く歩けない。ガイドさんが待つ、関ヶ原町歴史民俗資料館に着いたのは14時近くになってしまった。
 推奨コースは、13kmを徒歩3時間半で回るものだが、希望にあわせてコース設定してくれる。私たちは、2時間で車で回るコースにしてもらった。
 資料館で資料をもらい、ジオラマで関ヶ原合戦の概要を見た後、古戦場めぐりに出発。
 最初に田圃(当時は原野)の中の決戦地を見た後、石田三成が陣を敷いた笹尾山の麓の島左近・蒲生郷舎陣跡へ。開戦地はすぐ下に見える天満山。北天満山(島津、小西軍)、南天満山(宇喜多軍)での開戦の状況や笹尾山麓の戦いの展開など、説明を聞き、笹尾山に上る。
 笹尾山からは、関ヶ原一帯が見渡せる。石田三成は戦術的にはベストの布陣をしたようだ。小早川軍が布陣した松尾山は天満山のはるか先、麓を中山道が通り、街道から2km(高低差200m)も上がったところである。ここから、小早川軍は山を駆け下り、中山道をこえて大谷軍を攻撃した。西軍敗戦が決定的になった時、島津軍は、後背の北国脇往還を逃げるのでなく、前面の徳川軍陣地を突破して、伊勢街道を通って伊勢から船で鹿児島に逃れた、など眼下の関ヶ原一帯を見下ろしながらの説明はわかりやすかった。
 資料館の近くまで戻り、松平忠吉・井伊直正陣跡、田中吉政陣跡、東首塚、家康最後陣跡などをめぐり、関ヶ原合戦の理解を深めて、予定時間になったのでガイドさんと別れた。
 ガイドさんと別れ、私たちだけで、本陣跡、脇本陣跡を見た後、岡山(丸山)烽火場、黒田長政・竹中重門陣跡に上り、地図で関ヶ原合戦の陣地を再確認して、一日目の旅は終わりにした。
 関ヶ原宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠屋33軒。中山道、伊勢街道が通る交通の要衝にあり、今須峠を控えていたため旅籠屋が多く賑わったようである。間の宿・野上の賑わいも、関ヶ原宿の賑わいの一環であった。
 宿泊は、旧旅籠・枡屋。枡屋は、創業900年の歴史を持つ旧旅籠屋で、関ヶ原宿に33軒あった旅籠屋のうちでただ一つ営業しているとのことであった。
(第20回一日目の歩数:14,008歩)

第59次・今須宿へ
 夜半から明け方まで雨が降って止んだが、午後から天気が悪くなるとの予報だったので早めに宿を出発した。
 所どころに旧旅籠屋の建物が残る街道(国道21号)を歩く。宿場出口の常夜燈のすぐ先に、西首塚がある。当時の領主、竹中重門が家康の命令により戦死者を埋葬した。塚の上には慰霊の石塔が並び、手前の御堂には、千手観音と馬頭観音が安置されている。塚の周囲に植えられているのは、なんと椿。咲き終わると、ポロリと花ごと落ちるので武士には嫌われた花である。
 松尾の信号で、国道と別れて旧中山道を歩く。街道沿いに、籐堂高虎・京極高知陣跡、福島正則陣跡の標示がある。福島軍が攻撃した南天満山の宇喜多陣地は松尾の信号から500mほどである。
 すぐ先に、不破の関跡、不破関守址が再建されている。向かい側にある不破関資料館には、関所跡からの出土品などが展示されているとのこと。
 街道は坂を下り、壬申の乱の戦場藤古川を越える。川の手前に井上神社(大海人皇子を祀る)。川を越え、上り道を行くと、大谷吉継陣跡の標識。大谷軍は、街道右手の山の中腹、若宮八幡神社(大友の皇子を祀る)の上に布陣し、街道をへだてて向かい側の松尾山に布陣した小早川軍と松尾山山麓に布陣した脇坂軍の攻撃を受け、自害して果てた。大谷吉継の墓は山の上(街道から600m)にあるとのこと。
 黒血川(壬申の乱の戦死者の血で川底が黒くなった)を渡った先の、鶯の滝の道端に地蔵堂が3つ並んでいる。交通の要衝であり、幾たびも合戦の場になった地ゆえ、住民は信心深いのだろう、などと話しながら歩く。
 国道を渡り、新幹線の下を過ぎたところに、常盤御前の墓がある。常盤御前は、源義朝の愛妾。平治の乱の後、平清盛の愛妾となったが、寺に預けられた牛若丸が逃げ出したことを聞き、後を追ってここまで来て山賊に殺された。里人が憐れんで、菩提を弔ったとのこと。墓の五輪塔の後ろに芭蕉の句碑がある。「義ともの心に似たり秋の風 芭蕉」
 墓の前には、生花が供えられ、しおれた花はない。里人の温かい気持ちが伝わってくるようである。周辺は、子供の遊び場になっているようで、小さな滑り台が置かれている。年寄りと一緒に遊びに来た子供に、常盤御前の悲劇が語り伝えられ、里人の慰霊の心が子供に伝えられてゆくのだろう。
 東海道線の踏切を過ぎると、今須峠への上り道。鉄道はトンネルで峠の下を通過している。昔、山賊が出たほどの今須峠、と身構えて上ると、1kmほどで峠の上の標識があり、500mほど下ると峠の口に着いてしまった。碓氷峠に始まって数々の峠を越えてきた私たちにとっては、ナーンダ、といったところだった。
 峠を越えて、国道を横断した先に、今須一里塚の南塚が残っている。
 今須川を渡ると宿場の入口の常夜燈があり、静かな佇まいの街路が続く。伊吹山の雪に悩まされた地で、本陣1で、脇本陣が2軒あった。本陣、脇本陣は、小・中学校敷地になり、校門の脇にある紅梅の古木は本陣のものだった、とのこと。
 旅籠屋13軒のほか、問屋も多く、広い間口の問屋場が今も残る街並みは往時をしのばせる。
 宿場のはずれあたりから、雪交じりの強い風に向かって歩く。国境への上り道に、車返し地蔵。ここらで休みたいところだが、風雪をさえぎるところもないので、ひたすら歩く。
 しばらく歩くと、句碑群。一番大きな自然石の碑には、「正月に美濃と近江や閑月」とあるが作者はわからない。他に、真新しい、芭蕉の句碑が二つ。「年暮れぬ笠着て草鞋はきながら」(野ざらし紀行より)、「蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ」(奥の細道より)。

第60次・近江、柏原宿へ
 美濃、近江国境の川は、幅30cmほど。かつては50cmほどの小川で、両側に旅籠屋が建ち、旅人が寝ながら話ができたとのことで、「寝物語の里」の碑が立てられている。
 この里を過ぎると、楓の巨木が両側に植えられた、楓並木が続く。これほどの楓の巨木は見たことがない。
 並木を過ぎると、中央に融雪装置が埋められた、カラー舗装の柏原宿。伊吹山麓の雪深い地、というだけあって、この日も雪が降りしきっていた。
 本陣1、脇本陣1、旅籠屋22軒。雪深い伊吹山で良質のヨモギが採れたため、もぐさ屋が9軒もあり、大いに栄えた。
 今も営業している、伊吹堂亀屋左京商店は、江戸時代に吉原で「亀屋左京の切り艾」とCMソングを作って唄わせ評判になった、とのこと。
 宿内には、問屋場、煮売茶屋、造酒屋、医師年寄宅などが残り往時の宿場の繁栄を伺わせる。
 また、市に寄贈されたという旧家の建物を、柏原宿歴史館として、宿場資料を保存、展示しているだけでなく、入口に喫茶、ショップを設け、昼食などもできるようになっている。これまで、中山道を旅してきて、食事をするところに困ったことが多かったので、名物やいとうどん、を食べて、雪の降る柏原宿で元気を取り戻した。
(第20回二日目の歩数:13,688歩)


参加者=初参加の清水正宣(1組)ほか、関川哲(4)安武知子(5)山浦ひろみ(5)山浦るみ子(8)林久美子(9)宮下明子(9)池田有美子(69期)清水計枝(1)山浦ひの従兄・安藤−10人。

<童心にかえった楽しい旅>
 24日は垂井駅に昼前集合。風冷たく、ながれる雲は早く、ときおり青空から伊吹山の真っ白な山頂がのぞく良いお天気の中、車のまったく通らない旧中山道の集落を、ときには線路を渡り、ときには大きな松並木の道を縫って、先頭集団と50メートルちかくも離れたのんびりマイペース集団とあるきました。野に咲く“踊子草”の名を教わったり、<桃を配った人がいたから桃配山と名がついたのよ>と珍説を披露されたりして時間を気にするリーダー隊を尻目?に無邪気な幼稚園児にかえった気分で大の男であることも忘れて笑ってしまいました。6キロほどあるいて関ヶ原に到着。赤い陣羽織の地元ガイドさんの案内で合戦の地をあるいて気分はいっぱしの戦国武将。夜はイノシシは共食いになるとばかりに豚鍋とビールの大宴会。火除けの神を祭る神は「秋葉山」「三峰神社」のふたつあることも学習する。
 25日は荒れた天気になり、真冬に逆戻りで外の気温は5度、おまけに雪もときおり降ってきて、信州顔負けのお天気に閉口して、ひとあし先に柏原歴史館・併設軽喫茶店内で待つこと一時間。8キロをあるいてたどりついた強者(つわもの)歴女(れきじょ)一行とお昼に再会(笑)。ぼたん雪のふる中しんみりと旧街道を、一夜妻の野上の飯盛り女もこんなだったのだろうか、とは考えず、後朝(きぬぎぬ)のわかれの男女を想い浮かべながら500メートルを歩いて柏原駅でお別れしました。

          関ヶ原 尽きぬはなしの
               一夜明け
                   歩けば 雪の柏原

 清水計枝さんの周到な企画には只々感謝、感謝でしたが、わたしはどちらかといえばおバカキャラでのんびりマイペース集団に大いなるシンパシーを感じて胸が熱くなりました。
 初回でこんなに楽しい旅になるとは・・・皆さんありがとう。     (1組 清水正宣)
 

関ヶ原古戦場・石田三成陣跡
(クリックで拡大)

今須宿の街並み

美濃、近江国境

雪の降る、柏原宿歴史館
第19回 西岐阜駅から垂井宿まで  (11/11/26−27)
第54次・河渡宿へ
 11月26日(土)、西岐阜駅に集合して中山道へ向かう。中山道に出ると、袖ウダツのついた旧家が所々に残っている。長良川を舟で運ばれてきた物資はこの先の鏡島湊から、中山道を通って加納宿に運ばれたとのこと。
 鏡島地区は鏡島湊で栄えた街で、所々に往時の面影を残すような町並みが見られる。 
 湊跡から河渡橋を渡る。橋の上から長良川の上流の方を見ると、金華山の上に再建された岐阜城が見える。
 橋の下を見ると、川の浅瀬に鷺の群れがいる。小舟で投げ網漁をしているので見ていると、川魚が網の中で光っている。合渡の渡しでは、古くから夏は鵜飼いが行われていて、英泉の河渡の浮世絵にも鵜飼の様子が描かれている。
 橋を渡りきったところから、堤防沿いに100メートルほど下流へ歩いたところが合渡の渡し場で、馬頭観音堂がある。かつて観音堂は、長良川河畔に建てられ、舟待ちの休憩所になっていた。
 河渡宿は長良川の渡しで栄えたという。第二次大戦による焼失などで、往時を偲ばせるような旧家は残っていないが、宿場らしい面影がある町並みである。宿場の中ほどにある河渡宿一里塚の先に河渡宿改修碑が立てられている。長良川の水害に悩まされ、江戸後期に幕府の援助で宿全体を盛り土した。
 今は、見上げるような高い堤防と水門がこの地域を守っているようである。

第55次・美江寺宿へ
 慶応橋を渡り、条里地割が残り、道路や田が直交する道を歩く。北へ向かう道との分岐点に小さな地蔵堂が建てられ街道を見下ろしている。馬場の石地蔵とある。
 「中山道」の標識が所々に立てられていてわかりやすい。糸貫橋を渡ったところに、「南無延命地蔵尊」と朱書きされた幟旗が参道に立て並べられた大きなお堂、本田延命地蔵である。江戸時代に建てられ、旅人たちが無事を祈って参詣してきた、とのこと。
 本田地区は、河渡宿と美江寺宿の間にあって、茶屋や旅籠があったとのことで、古い町並みが残り、代官役所跡、高札場跡がある。
 しばらく歩くと、五六橋。この橋の名称は、江戸、日本橋から56番目の美江寺宿へ入る手前の橋なので命名されたとのこと。
 橋を渡り、樽見鉄道(旧国鉄、樽見線)の踏切を越えたところが、美江寺宿の東口で、一里塚跡の碑が立てられている。
 かつて、五六橋と宿場入口の間には、見事な松並木があったが、昭和18年に松根油を飛行機の燃料にするという理由で切り倒されたとのこと。
 美江寺宿は明治24年の濃尾地震の震源に近かったため被害が大きく、本陣をはじめとして、ほとんどが倒壊した。元禄9年(1696年)創業の、造り酒屋「布屋」は唯一倒壊せずに残った。今も健在の建物を見ると、太い柱と梁が、この家を支えているようであった。
 街道は、条里地割に沿って宿の中で直角に曲がっている。角にあるのは、美江寺跡で、ここには現在、美江神社と観音堂が建てられており、観音堂には和田家(旧美江城主子孫)に伝わる観音像が祀られている。
 美江寺一帯は大小河川が集中する水害の常襲地であった。これを観音菩薩の御利益で守ってもらおうと十一面観音を勧進し美江寺を建てた。ところが、観音像は、戦国時代に斎籐道三によって稲葉山城下の守護として現岐阜市の美江寺に移されてしまった、とのこと。
 美江神社の角を曲がると、和田家の豪壮な建物。和田家は旧美江城主末裔とのこと。
 本陣跡を過ぎて、道はまた、直角に曲がる。犀川の手前が美江寺宿の西口で、「下の観音堂」と言われている観音堂があり、千手観音が祀られている。
 また、美江寺は富有柿の誕生の地、とのことで、通り沿いの民家で格安に売られていた。
 第一日目の旅は、ここまでとし、美江寺駅から電車で揖斐川を渡り、大垣のビジネスホテルで宿泊した。
(第19回一日目の歩数:16,053歩)

第56次・赤坂宿へ
 大垣駅から近鉄養老線に乗り、中山道と交わっている東赤坂駅で降りて、赤坂宿に向かって中山道を歩く。
 青木の一里塚跡の碑の脇には、小さな松とエノキが植えられている。
 杭瀬川の橋の手前に、交通安全の常夜燈が置かれている。「左なかせんどう」「右おおがきみち」とある。
 橋を渡ると、赤坂港跡。立派な川燈台に昔の繁栄が偲ばれる。赤坂港跡には赤坂港会館が造られていて、かつての赤坂港や金生山の石灰石採掘、運搬の写真が展示してある。
 宿場の中ほどに、本陣跡。公園になっていて、入口には和宮碑、中ほどに幕末の志士、所郁太郎像が座している。
 本陣公園の先に脇本陣跡の碑が立っているが、明治以降は旅館として営業していたとのこと。
 矢橋家住宅(国有形文化財建造物)の裏手に、お茶屋屋敷がある。徳川家康の命で、岐阜城の御殿を移築して造られ、将軍上洛の宿として使われた。四方を土塁で囲み、空掘りがある豪壮な邸宅である。今は、元造り酒屋で、後に金生山の石灰岩事業で財をなした矢橋家の所有となって、庭園が無料で開放されている。ボタン園が有名で、冬ボタンが所々に咲いていた。ボタンの花の時期(春)は見渡す限りのボタンの花の饗宴になるのだろう。
 赤坂宿のはずれに、兜塚がある。ここは、関ヶ原の合戦の前哨戦として杭瀬川の戦い(1600年9月14日)で戦死した東軍、中村隊の武将の鎧兜を葬ったとのこと。

第57次・垂井宿へ
 赤坂宿を過ぎて、田圃の中の街道を歩く。前方右手に雪化粧した伊吹山(1377m)がくっきりと見える。
 しばらく歩くと、「国分寺」の大きな立て看板が田圃の中に立っている。中山道から少し外れるが、見に行くことに。
 立て看板の国分寺は、江戸初期に再興され、山麓に建っているが、その前方一帯に広がる「史跡美濃国分寺跡」の伽藍の大きさに驚いた。塔の基壇を復元して配置してあるが、上田の信濃国分寺跡より何倍も広大である。美濃の国の国力の大きさを示すものである。
 中山道に復し、しばらく歩くと、追分の道標。ここは、中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点で、道標には「右東海道大垣みち、左木曽街道たにぐみみち」とある。
 すぐ先の相川を渡ると、垂井宿・東の見附である。
 相川は、川越えの鯉のぼりが泳ぐことで有名とのこと。河川敷を含めるとかなりの川幅があり、この両岸を結んで幾筋もの鯉のぼりが泳ぐさまは、想像しただけでも楽しい。
 関ヶ原町在住の同期生、北村夫妻が垂井宿・東の見附に来てくれたので、一緒に食事処「いっしょう」で昼食を食べた。岐阜名物の、味噌カツがおいしかった。
 昼食後、垂井宿を西の見附まで歩く。街道がカギ形に曲がるところに、今も営業している旅籠亀丸屋。二階の格子窓が風情がある。その脇には小さな子窓がある。鉄砲隠しの窓とのこと。
 向かいが問屋場・金岩家。問屋、庄屋を勤め、手広く運送業を営んでいた。
 本陣、脇本陣は跡の碑のみだが、宿場の所々に旧家が残り、建て替えてしまった家にも屋号の看板が掛けられている。「垂井宿の歴史と文化を守る会」が修理、保存に取り組んでいるようである。
 「垂井」の名の由来となった、垂井の泉は、今も豊富な水が湧き出している。古来、旅人の喉を潤し、地元の人々の生活用水に利用されてきた。泉の脇に芭蕉の句碑「葱白く 洗ひあげたる 寒さかな」がある。芭蕉は、垂井の本龍寺の住職を訪ねて、ここで冬を過ごし「作り木の庭をいさめる時雨かな」などを詠んだ。
 宿場の中ほどには南宮大社の大きな石鳥居がある。徳川家光が上洛の際に寄進して社殿が再建されたとき造られたとのこと。
 八重垣神社は、文和2年(1353)創建の勅願の宮で、境内には、君が代の歌詞に詠われた「さざれ石」がしめ縄を掛けて祀られている。また、八重垣神社の例大祭(5月)では、3輌の曳山の舞台で子供歌舞伎が演じられる。
 鯉のぼり、子供歌舞伎、子供あっての行事が今も続いていることは、古い宿場の元気であろう。
 今年最後の中山道の旅は、ここで終わりとした。
(第19回二日目の歩数:18,574歩)


参加者は、1日目が、藤巻禮子、山浦ひろみ、宮下明子、清水淳郎、清水計枝、池田有美子(69期)、杉本(藤巻友人・大垣在住)の7人。
2日目が、藤巻、山浦、宮下、清水淳、清水計、安武知子、池田、安藤(山浦従兄・大垣在住)、北村央子夫妻(垂井宿のみ)の10人でにぎやかでした。安藤さんは、赤坂宿、垂井宿に来たことがあるが、街道を歩いてみたい、と参加しました。宿場案内をしてくれて参考になりました。
第20回は、3月24、25日です。

 

河渡宿一里塚

濃尾地震で唯一倒壊しなかった造り酒屋

赤坂港跡の川燈台

垂井宿(クリックで拡大)
第18回 日本ライン駅から加納宿まで  (11/10/22−23)
第51次・太田宿へ
 10月22日(土)、「日本ライン駅」に集合して、中山道を歩き、太田の渡し跡今渡へ向かう。
 道を教えてくれた、自転車屋の古老が、「私の子供の頃は、堤防の上に、広重の浮世絵にある三本松があり、渡し船が通っていました」と言っていたが、太田橋のたもとの渡し場跡公園には立派な枝ぶりの松が一本、植えられていて、橋の下の堤防は川石の石畳の遊歩道になっている。
 太田の渡しは、「木曽の桟橋 太田の渡し 碓氷峠がなくばよい」と馬子唄に謡われた難所の一つであった。太田橋を渡りながら下を見ると、川幅広く、木曽川の激流が流れている。日本ライン舟下りの乗船場が太田橋の下にあるが、急流で、ライン川より舟足が早い。
 太田橋を渡り、しばらく行くと、飛騨街道追分の碑があり、太田宿の町並みに入る。
 国道が宿場の外を通ったため、太田宿は昔の姿のままに街道を保っている。米問屋の看板を掲げた商家の脇には、かつて米撞きに活躍した水車が回り、旅籠屋、問屋などの古い建物が立ち並んでいる。
 太田宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠屋20軒で、太田の渡しが難所、というわりには旅籠屋の数はそれほど多くない。
 脇本陣・林家は脇本陣としては最大規模で、美しい卯建があり、国の重要文化財に指定されている。現在は、隠居所のみ公開されている。
 本陣は、和宮が泊った時に造られた本陣門のみが移築されて残っている。本陣は、明治時代には太田町役場がおかれていたとのことで、旧本陣の面影はない。
 播隆上人は太田宿脇本陣にて寂したとのことで、裕泉寺に墓がある。
 宿場の桝形を過ぎたところに虚空蔵堂がある。文豪坪内逍遥は、尾張藩代官所の役人の子として少年時代を太田で過ごし、代官所の近くの虚空蔵堂を遊び場としていたとのこと。

第52次・鵜沼宿へ
 虚空蔵堂を過ぎると、中山道は国道に吸収されていて、車の行き交う国道の歩道を歩くことになった。ただ、木曽川の堤防の上が「日本ラインロマンチック街道」となっていて、木曽川の流れと舟下りの舟を見ながら歩く方が快適ではなかったかと思う。
 ロマンチック街道の終点からしばらくして、国道を離れ、岩屋観音の参道となった道を上ると、眼下に木曽川の激流が流れ、絶景である。
 また、しばらく国道の歩道を歩き、JR高山本線の下をくぐり、うとう峠へと向かう道に入る。石畳の上り道は、濡れた落ち葉が滑りやすいが、国道の歩道より歩きやすい。ただ、曇り空で薄暗い道、ところどころに「まむし注意」の看板があり、一人では歩きたくない道である。
 1キロほど上ると、「中山道うとう峠一里塚」の標識が薄暗い林の中に立っていた。ところが、このすぐ先は、新興住宅団地になっていて中山道の雰囲気は全くない。
 鵜沼宿に向かって坂を下って行くと、目の前に犬山城がそびえたっている。
 東見附の地蔵堂の脇を曲がって鵜沼宿に入る。大安寺川には木の欄干の橋が架かっていて宿場情緒たっぷりである。
 鵜沼宿は濃尾地震の被害が大きく、古い建物は「茗荷屋」の周辺3軒のみ、とのこと。
 ただ、近年、本陣は鵜沼宿町屋館として再建され、脇本陣も再建中であった。宿場を整備して、観光地化を計画している様子。すぐ目の前に犬山城が見え、名古屋からの電車が同じ路線の隣駅、県は違うが一緒にPRすれば効果的だろうと思う。
 芭蕉が数度立ち寄ったという脇本陣には、芭蕉の句碑が立てられている。一つは、貞亨5年(1688)7月、岐阜で鵜飼見物の後に訪れ「汲溜の水泡立つや蝉の声」と詠んだもの。二つは、同年8月、1か月早い菊花酒の供応を受けて「ふぐ汁も食えば食わせよ菊の酒」と詠んだ。三つは、8月11日に鵜沼宿から更科紀行の旅に出たが、美濃を離れる時、美濃の俳人たちと別れを惜しみ「送られつ送りつ果は木曽の秋」と詠んだという。そしてこの年の中秋の名月の17日には姨捨に着き、月見をしている。鵜沼、姨捨間は約270キロあるから、一日約39キロ歩いたことになる。更科紀行に「道とほく日数すくなければ、夜に出でて暮れに草枕す」とある。そして、中秋の名月の夜、ようやく更科に着いた。 
 鵜沼宿から、間の宿新加納との間の各務原は、かつては原野で、旅人に茶菓を売る二十軒茶屋跡、六軒茶屋跡の地名が昔をしのばせる。大正時代に飛行場ができ、周辺に航空機工業が立地したとのこと。現在は、航空自衛隊の基地と工場群で、中山道の面影はない。
 私たちは、中山道と並行して運行している電車に乗り、各務原市役所近くのビジネスホテルで宿泊した。
(第18回1日目の歩数:24,449歩)

間の宿・新加納へ
 旧中山道沿いにあるビジネスホテル観月を出発し、新加納に向かって歩く。旧道は、六軒の一里塚から、国道と別れているので、交通量が比較的少なく歩きやすい。新加納は、鵜沼宿と加納宿の間が16.8キロと長いので、間の宿として設けられた。
 2キロほど歩くと、新加納一里塚跡。ここから間の宿・新加納に入る。まっすぐに進み、道がカギ形に曲がったところが、旧御殿医・今尾家の広大な屋敷。現在は、今尾医院として営業している。
 ここを右に行くのが中山道。今尾家の黒板塀に沿って左に行き、塀に沿って右折すると旗本・坪内家陣屋跡。正面は、少林寺、右折すると善休寺。
 坪内氏は、関ヶ原合戦の戦功により6000石を与えられ、新加納を陣屋として幕末まで11代続いたとのこと。少林寺には坪内家の墓所があり、立派な墓石が立ち並び、市指定史跡になっている。
 
第53次・加納宿へ
 新加納から田圃の中の道を1キロほど歩くと、一級河川・境川。川の土手には桜が植わり、土手の草刈りを付近の住民がボランティアでしていた。住民の話では、桜花の時期はぼんぼりを下げて、華やかに桜祭りをするとのこと。また、この近くにある「手力雄神社」のお祭りは竹筒花火とお神輿が有名、とのこと。
 しばらく行くと、木曽路道標と手力雄神社の一の鳥居があり、中山道沿いには神社参詣の客向けの商店が並んでいる。大きな鳥居をくぐって、神社本殿を見に何人かが行ったが、本殿まで500メートルほどもあったとのこと。
 切通陣屋跡を通り、漢方薬の看板の架かる商家の前を過ぎると、細畑一里塚が道の両側にある。明治になって一度壊されたが、復元したとのこと。エノキが植えられ、大きく育っている。
 しばらく行くと、二股路。角に地蔵堂と道標がある。「木曽路京道・伊勢ちかみち」とあり、私たちは、右手の木曽路京道を歩いた。
 加納宿の入口手前には、小さな秋葉神社が祀られてあり、名鉄の踏切を渡ると、茶所駅。駅の入口に加納宿入口の碑が立っている。
 「左 御鮨街道(岐阜街道・尾張街道)」の碑の先から加納宿の町並みが続く。
 加納宿は本陣1、脇本陣1、旅籠屋35軒で、美濃路では大井宿に次ぐ宿場である。
 徳川家康は、関が原の戦いの後、西国大名の反乱に備え、岐阜城の石垣を運んで加納城を築き、宿場町を兼ねて中山道の警備にあたらせたとのこと。城主には、娘(亀姫)婿の奥平信昌が就いた。
 西への備えのためか、宿場はカギ形にいくつも曲がり、わかりにくい。わかりやすいようにと、宿場の通りを黄土色にカラー舗装してあり、曲がり角には案内標識が立てられている。
 加納城大手門跡の碑から加納城本丸跡までの間には、岐阜大学、付属小中学校、市立小学校、幼稚園、ろう学校などが建てられ、本丸は石垣が残るのみであった。崩れかけた石垣の上に上ると、遥かかなたの金華山の上に再建された岐阜城が見える。
 本陣跡には和宮の歌碑が立てられている。「遠ざかる都としれば旅衣一夜の宿も立ちうかりけり」
 この歌は大湫宿の本陣跡にもあったが、どちらで作られたものであろう。
 この日の昼食は、旧旅籠二文字屋で食べた。二文字屋は、本陣に泊った和宮の本膳を再現し、求めに応じているとのことであったが、価格的に一般向けではないので、分相応の昼食にした。
 また、岐阜県に住んでいる64期生の北村(旧興津)さんが、ご夫婦で二文字屋に来てくれ、いっしょに昼食を楽しみ交友した。
 昼食後、岐阜駅まで歩き、駅前にそびえたつ、織田信長の金ぴか像を見て旅の終わりとした。 
(第18回2日目の歩数:20,981歩)


 参加者は、初参加の安武知子(吉田、5組、名古屋在住)、山浦ひろみ、藤巻禮子、山浦るみ子、宮下明子、関川哲、池田有美子(69期)、清水計枝の8名。北村央子(興津、1組、岐阜在住)夫妻が加納宿に来て、一緒に昼食、歓談しました。

 安武さんの感想
  10月22日〜23日、「中山道69次を歩く会」に初参加し、日本ライン今渡駅から岐阜駅まで歩きました。ほとんどの方とは45年ぶりの再会でしたが、互いに相手の顔を見て過ぎ去った月日の長さに思いが至ったことと思います。
 今回のウォーキングで,かつての宿場町を3つ通りましたが、それぞれ全く異なった印象でした。美濃太田宿は、江戸時代の面影を残した鄙びた町並みが残っていました。黄昏どきの鵜沼宿は、豊富な予算をかけて道路や町並みがピカピカに再建されていました。岐阜市内に位置する加納宿は、宿場の面影はほとんどなく、旧旅籠二文字屋と本陣跡の碑などが残っているだけでしたが、近くの加納城址で休憩していると、上田高校のお堀の内側の斜面をなつかしく思い出しました。
 2日間とも雨という天気予報であったにも関わらず、雨はほとんど降らず、季節外れの暖かい天候に恵まれ、参加者の日頃の行いの良さのためであろうと喜びました。お食事は1日目の夕食(イタリアン)、2日目の朝食(ビジネスホテルの和定食)、昼食(旧旅籠二文字屋の懐石料理)それぞれを堪能しました。
 私は、日頃、仕事や家事で身体をよく動かしており、歩く速度は早いのですが、運動は好きではないので心配でしたが、アドヴァイスをいただきながら、皆さんの足を引っ張らずに歩けたと思っています。特に、山浦(大井)るみ子さんには休憩時間に整体処置をしていただき感謝しています。参加したおかげで身体がリセットされたような感じです。
 それにしても皆さんの健脚ぶりには脱帽でした。高校時代とは、体型はさすがに変っていますが、歩き方や立ち居振る舞いは変らず、それで本人確認ができるということが分かりました。安武(吉田)知子

太田宿脇本陣(国重文)

鵜沼宿茗荷屋

新加納・御殿医今尾家

加納宿旧旅籠二文字屋(クリックで拡大)
第17回 大湫宿から伏見宿まで  (11/6/4−5)
第48次・細久手宿へ
 6月4日(土)、大湫宿のコミュニテー センター前の休憩所で各自持参した昼食を食べ、神明神社に参拝して、細久手宿に向けて歩く。神明宮の池にはアメンボウが泳ぎ、山にはナンジャモンジャ(ヒトツバタゴ)の白い花が咲いて、のどかな街道歩き旅である。
 少し歩くと、高さ1メートルほどの石が二つ並び、上に馬頭観音が祀られている。「小坂の馬頭様」と呼ばれているようである。
 その先に、休憩所があり、若者二人が並んで休んでいるので通り過ぎようとすると、木曽街道六十九次「大久手宿」を画いた広重の浮世絵の看板がある。この看板の位置から大久手宿の方を見ると、絵の構図にある大小の岩がむきだしになった山肌と街道が望める。現在は、山に木が生い茂り、大小の岩も隠れがちだが、かつては山肌に岩がむき出しになっていて印象的な光景だったのだろうと想像する。
 すぐ先に、弁慶が運んできたと言われている巨石が二つ、街道にせりだしている。男岩と女岩とのこと。石が大きすぎて写真におさまらない。広重も石が大きすぎて絵にしなかったのかと思った。
 大湫病院の先に「琵琶峠東上り口」の碑。日本一長い(全長約730m)という石畳の道を上る。急坂ではあるが、石の角がとれていて、脚へのあたりが柔らかく歩きやすい。
 峠の頂上は標高558m、美濃路で一番高いところにある。頂上には、和宮歌碑と馬頭観音。歌碑「住み馴れし都路出でてけふいくひ 急ぐもつらき東路の旅」
 頂上から少し下ったところに八瀬沢一里塚。陽が当たる方の塚にはワラビが生え、日陰の方の塚にはシダが生え、ササユリの蕾がふくらんでいる。江戸へ91里、京都へ43里、だいぶ京都に近づいた。
 少し下り、舗装道路を横断し、さらに林の中の石畳の道を下ると、民家が見え、「琵琶峠西上り口」の碑。
 石畳が終わり、舗装された道(県道)を歩くと、鶏の鳴く声。すごい騒音なのでこんな山の中でないと飼えないのだろう、などと言いながら鶏舎の脇を歩く。
 「旧中山道 細久手宿2.7km」の標識の先に、弁財天の池。カキツバタとスイレンが咲き、石橋の先の小島に弁財天の祠が静かにたたずんでいる。池は手入れがされているようで、雑草もなく、スイレンの葉の周囲をメダカが泳いでいる。昔の旅人はここに必ず立ち寄った、とのこと。私たちも池の土手に腰をおろして、趣ある風情にひたった。
 ゆるやかな坂を上ると、街道の両側に奥野田一里塚。坂を下って行くと、小広場の入口に「日吉第二小学校跡」の碑。かつては子どもが多く、小学校が2つ、あったということか。
 少し下ると、細久手宿入口に高札場跡と庚申堂がある。庚申堂の参道を上ると宿場が一望できる、といっても、本陣1、脇本陣1、旅籠屋24軒、という往時の町並みはない。
 庚申堂は、寛政10(1798)年の大火の後、宿の鬼門除けとして再建され、信仰を集めたとのことで、境内には石造物が多く残っている。
 本陣、脇本陣は碑のみ。唯一残るのは、尾州家定本陣で、今も旅館として営業している大黒屋。大黒屋には、本卯建・玄関門・式台・上段の間なども往時のままに残っている。私たちは、この大黒屋の上段の間で食事をし、二階に泊った。
(第17回一日目の歩数:15,729歩)

第49次・御嵩宿へ
 御嵩宿までは約12キロ、4時間の歩き道、とのこと。いつもより早めの8時に出発。
 細久手宿を出て、しばらく国道を歩くと右側法面の上に小さな石窟があり、中に観音様が祀られている。「細久手坂の穴観音」とのこと。
 国道と別れて県道を進むと、「旧中仙道くじ場址」の碑。石垣の上に「公事場」の建物があったような雰囲気だが、宿場から離れた場所にあったのはなぜだろう、などと話しながら進む。
 しばらくすると、「中山道西の坂」の碑があり、歩道に入る。坂の途中の石垣の上に、秋葉坂三尊石窟。右が三面六臂の馬頭観音立像、中央が一面六臂の観音坐像、左が風化の進んだ石仏とある。石窟の上の小高い所には秋葉神社の石の小社が祀られてある。「秋葉坂」の地名は、この秋葉神社に由来しているのだろう。
 なだらかな坂道を下ると、「右 旧鎌倉街道迄一里余」の碑があり、道祖神の碑が立てられている。
 木漏れ日の中の下り道をしばらく歩くと、エノキが植えられた鴻之巣一里塚。江戸時代、一里塚を造るにあたって、家康が「エエ木(良い木)を植えよ」と言ったので、一里塚にはエノキが植えられた、というが、エノキが植えられて現存する塚は少ない。昔の旅人の気分で、ここで小休憩。
 なだらかな林の中の下り道。木漏れ日の中を気持ち良く歩く。目の前が開けて、舗装道路に出る手前に、城跡のような石垣が積んである。「山内嘉助屋敷跡」の碑。江戸時代、造り酒屋を営んでいたとのこと。今は石垣のみだが、立派な屋敷を構えていたのだろう。
 しばらく舗装された人家のある道を歩き、「中山道 至御殿場」の標識にしたがって、竹林の中の坂道を上る。上りきったところが御殿場。和宮様が休憩する御殿が造られたところ。御殿場跡に上ってみると、東屋が造られていて、樹木が落葉した冬には、恵那山が見えるとのこと。
 道を下っていくと、森のケーキ工房、ラ・プロバンスというカフェ・レストランが営業していて、若い二人連れの車が坂道を上ってくる。中山道のイメージではないが、森の中にハーブガーデンとしゃれたカフェテラスが造られていて、時間があれば寄ってみたい雰囲気である。
 しばらくして、この車道と別れ、中山道・物見峠を下ると、「唄清水」の碑。水が湧き出る小さな池に近づくと、馬子唄のようなさわやかな音を立てて水が湧き出ていて、不思議な気分になる。
 坂道を下りて、県道と合流したところに、一呑清水の泉がある。和宮下向の折、この水を飲んでたいそう気にいり、後に上洛の際、多治見に泊り、この清水を取り寄せて点茶をしたとのこと。
 謡坂十本木一里塚(復元)、十本木立場(広重の御嵩宿の絵になったところ)を過ぎ、謡坂石畳を下る。石畳は約300メートルほどだが、急な坂道のため、昔の旅人が謡をうたいながら歩いたことから、「謡坂」と言われるようになったという。
 坂の途中に、隠れキリシタン遺跡がある、という標示。すぐそばかと思って案内表示にしたがって行ってみると、200メートルも先に、マリア像が立てられていた。
 このあたりには、仏教の墓石である五輪塔がいくつか立てられていたが、昭和58年、道路工事のため、五輪塔の移転が行われた際、土中から数点の十字架を彫った自然石が見つかり、仏教の墓地を利用したキリシタン遺跡であったことがわかった、とのこと。中山道をとおって、京、岐阜などからキリスト教がこの地に伝わっていたようだ。
 謡坂を下り、石畳の切れたところで県道に合流して、坂道を下ると、耳の病気にご利益があるという「耳神社」。
 あまりに急な坂道だったため、牛の鼻が欠けてしまうほどだったという「牛の鼻欠け坂」を下り、人家の点在する畑中の道を急ぐ。時刻は、12時近い。
 国道に合流したところに和泉式部廟所がある。和泉式部は、東山道を旅していて、この地で病に倒れ没したという。田圃に囲まれた壁なしの建屋の中に「いづみ式部廟所」と刻まれた2メートルほどの石碑が置かれ、脇に地蔵菩薩3体が並んでいる。碑には「ひとりさえ渡ればしずむうきはしにあとなる人はしばしとどまれ」という歌が刻まれている。
 山道は中山道の風情があり、楽しく歩いてきたが、国道、県道の歩道歩きは疲れる。1キロほど歩いて、「右御嵩宿」の道標をみつけると、歩くスピードが自然と速まる。それでも、御嵩宿本陣に着いた時は午後1時近かった。
 御嵩宿は、弘仁6年(815)、最澄によって創建されたという古刹・願興寺の門前町として栄え、本陣1、脇本陣1、旅籠屋28軒の宿場。本陣は再建されて当時の面影を伝えている。脇本陣跡には中山道みたけ館が建てられ、宿場資料や和宮一行から下賜された御所人形、キリシタン遺跡の埋蔵物など、御嵩の歴史と文化にふれることができる。
  
第50次・伏見宿へ
 伏見宿へは、国道21号の歩道を歩くことになるので、排気ガスを避け、国道に沿って通る名鉄広見線を利用した。
 かつての伏見宿は、木曽川の河港に近く、栄えた。新村湊は大正時代まで、大田の渡しは昭和5年まであったという。飯盛り女も多かったようで、女郎塚が造られている。今は、国道が宿場の中を通り、車の通行は多いが、町並みは閑散としてかつての賑わいはない。
 本陣1、脇本陣1、旅籠屋29軒。伏見公民館の入口に、「伏見宿本陣之跡」の碑と、「是よ里東尾州領」の碑が立っている。
 宿場の中ほどに、「中山道伏見宿、お休み処・駱駝」の看板のかかった喫茶店。ここは、もと「松屋」といい、ペルシャから輸入されたラクダが3泊し、評判になったという。
 古い旅籠屋の建物が並ぶ通りをしばらく歩くと、常夜燈と秋葉様の小社。宿場のはずれの坂道を下る途中に「播隆上人名号」碑。播隆上人は、富山の生まれ、槍ヶ岳の開山に尽力した人。伏見宿に名号碑があるのはなぜか。町の観光ガイドにも載っていないのでわからなかった。
 今回の旅は、ここで終わりとし、名鉄広見線・明智駅から帰路に着いた。
(第17回二日目の歩数:28,214歩)


 暑からず、寒からず、お天気に恵まれ、のどかな美濃路の旅でした。3宿を見て、それぞれの宿場の今昔の違いを実感しました。
 参加者は、山浦ひろみ、藤巻禮子、山浦るみ子、宮下明子、関川哲、林久美子(日帰り)、池田有美子(69期)、清水計枝の8名。

美濃路の最高地点、琵琶峠を上る

カキツバタとスイレンの咲く弁財天の池

細久手宿、尾州家定本陣・大黒屋(泊)

御嵩宿本陣
第16回 中津川宿から大湫宿まで  (11/4/23−24)
第45次・中津川宿
 4月23日(土)、山にコブシが咲く木曽路を抜けると、美濃路は新緑になり始めている。低気圧の通過で、激しく雨の降る中津川宿。広重の浮世絵も「雨の中津川宿」、これも何かの因縁か。
 落合宿方の宿場入口にある茶屋坂に高札場が復元してある。しかも当時の行書体の文字を明朝体にしてあって読みやすい。
 栗菓子で有名な、「すや」の前を通って少し行くと、桂小五郎隠れ家入口、の標示。細い路地を入ってゆくと、立派な門と塀のある旧料亭。塀の隙間から見ると、良く手入れされた庭園が見える。幕末、長州藩主に尊王攘夷を説くため、中津川宿の料亭に潜んで待ち、説得したとのこと。
 四ツ目川橋を渡ると、宿場町本町。街道右側に中津川本陣跡の碑。ここで長州藩の中津川会議が開かれ、藩論は倒幕に傾いたという。
 本陣の向かい側に脇本陣跡の碑があり、中津川市中山道歴史資料館が設置されている。なかには宿場絵図や本陣を務めた市岡家に残る文書「風説留」などが展示・解説してある。資料館の裏手には、脇本陣の上段の間を復元、展示してある。土蔵のなかには、街道図、家具・調度品などが展示さされている。街道図は、宿場から送られた説明文書に基づいて、江戸の絵師が描いたのだというが、宿場の周囲の城や寺社まで良く描かれていて感心した。〈江戸の絵師、見てきたように絵図を画き〉である。
 資料館の隣にある中津川宿庄屋・肥田家は、大きな卯建が上がり、奥行きの深い豪邸。
 恵那山道分岐点は枡形になっていて、杉玉の下がる造酒屋など、卯建のある家が軒を並べている。
 中津川を渡る手前で、雨が激しくなったこともあり、タクシーを呼んだ。

第46次・大井宿へ
 大井宿への旧中山道は、一部を除いて県道になっているので、タクシーに乗ったが旧道を歩いた気分だった。
 中津川を渡って1キロほど行くと、双頭一身の珍しい古い道祖神があり、中津川市の有形文化財に指定されている。ここの道を山側へ上ると、苗木城跡があるとのこと。
 すぐ先に、上宿一里塚(北塚のみ)。小石塚立場で国道に合流。1キロほど行くと、また旧中山道(県道)に入る。
 田圃の中の道を行くと、立派な建物が茄子川茶屋本陣、和宮様が休憩されたとのこと。
 甚平坂を上ったところに小公園が造られていて、雪道を行く広重の大井宿の絵の碑が置かれている。晴れた日には、正面に御嶽山が望めるとのこと。ここの根津神社には、根津甚平の供養塔がある。
 中央自動車道を渡ったところで車を降り、寺坂を下って、石仏が並ぶ上宿から大井宿に入る。五妙坂に高札場が復元してある。
 大井宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠屋41軒で、旅籠屋は美濃16宿最多で、繁栄した。東美濃の戦略的要衝にあり、6か所に枡形が造られていた。本陣も枡形にあり、江戸初期に造られたという表門が現存している。
 大井宿の有力な商家で、大井村の庄屋を務めた「ひし屋」古山家が、「中山道ひし屋資料館」として整備されている。古雛が飾られ、当主がたしなんだ俳諧の短冊なども展示されていて興味深い。
 斜向かいに、本陣の分家で、明治天皇行在所にもなったという宿役人の豪壮な家がある。
 この後、中山道広重美術館を見学した。ここには、世界的にも数少ない、広重の木曽海道六拾九次の浮世絵(田中コレクション)が収蔵されている。ところが、このコレクションの展観は9月1日から10月2日のみとのこと。代わりに、ミニサイズの複写が展示してあった。また、田中コレクションの「行書東海道」が展示してあり、これはこれで広重の浮世絵の魅力に触れることができ、興味深いのだが、自分たちが歩いてきた街道ではないため、絵画的な鑑賞にとどまった。
 一日目の旅は、ここまでとし、旅館「いち川」へ向かった。この旅館は、本町の枡形にあり、「角屋」と呼ばれた旧旅籠で、三代の「おかみ」がそろって迎えてくれた。
(第16回一日目の歩数:7,430歩)

十三峠を越えて、第47次・大湫(おおくて)宿へ
 上天気の歩き日和。8時30分に宿を出ると、JRのさわやかウォーキングの人たちが恵那駅から本陣の方へ向かって歩いてくる。私たちは、この流れとは逆に、大井村庄屋・古屋家の間口15間(約27m)もある塀沿いの道を歩き、枡形を曲がり、大井橋の木曽海道六十九次の陶板画を見ながら歩く。
 商店街では、ふるさと祭りの準備が進んでいる。五平餅を食べたいと思ったが、販売はまだ、とのこと。
 商店街を抜けて、旧中山道を歩くと、「西行硯水公園」。西行は、最晩年に奥州行脚の帰路、木曽路を経て、この地に3年滞在して旅の疲れを癒した。ここに湧き出る泉の水で墨をすり、歌を書きとめたとのこと。
碑には、「道の辺に清水ながるる柳蔭しばしとてこそ立ちどまりつれ 西行」と、新古今集に採られた歌が刻んである。
 田圃の中の道を、春の陽光をあびて歩くと、上り坂の入口に「是より西 十三峠」の碑。ゆるやかなアップダウンの道だが、13におまけが7つ、と言われ、難儀な山道、と聞いていたので気合を入れて上り始める。
 すぐに、西行坂。西行塚の上には、室町時代に造られたという五輪塔が立っている。西行を供養して造られたというが、地元では、西行は奥州からの帰路、この地で入寂したと伝えられている。
 しばらく上ると、槙ケ根一里塚。すぐ先に、西行の森公園。街道の南側の山の斜面に種々の桜が植えられている。八重桜は満開、白い桜も咲いている。いろいろな桜を植えてあるので、長い期間、花を楽しめる。「願はくは花の本にて春死なむその如月の望月のころ」という歌を詠むほど桜花を愛した西行伝説を記念して公園を造ったようである。
 槙が根追分は、伊勢道の分岐点でにぎわい、かつては9戸の茶屋があったとのこと。
 姫御殿跡は、江戸時代に将軍家に嫁いだ楽宮や和宮の休憩所がおかれたところ。休憩所とはいえ、漆塗りのお休み処だったという。
 坂を下ると、乱橋。坂道で息が切れ、行列が乱れたから、とのことだが、のどかな棚田の風景が目の前に開け、前方に紅坂一里塚が見える。塚の上には満開の桜の木が枝を広げている。
 一里塚を過ぎると、また山道。坂を下ると集落があり、赤く塗られた鳥居がいくつも立てられ参道が造られている。祀ってある石碑を見ると、佐倉宗五郎供養塔。村の庄屋が直訴し処罰されたが、村人は佐倉惣五郎に似た義民として祀ったとのこと。
 川沿いの小高い所に藤村高札場が復元されている。12時になり、そろそろ休みたいところだが、トイレが設けられた休憩所にはバスが停車していて、昼食中の先客がいたので、もう少し歩き、路傍の陽だまりで、旅館で作ってもらったお握りを食べた。
 いつまで続くのかと思いながら起伏のある山道を歩くと、大久後。山間に数軒の集落と観音堂がある。観音堂は鍵がかかっているが、中には小さな金色の観音像が据えられている。
 急坂を上ると、石畳の残る山間に権現山一里塚。南北に塚が残っている。
 さらに山道を上っていくと、山の中で人の声がする。見ると、街道の左右がゴルフ場になっていて、プレーをしている。ここからは、ゆるやかな下り道。
 しばらく下ると、石室の中に33体の石仏を祀った阿波屋観音。大湫宿の飛脚問屋が造って奉納したとのこと。ここからは、かなりの急坂。大湫宿から上ってくる飛脚にとっては難儀な坂道だったろうと思う。
 清水が流れる尻冷し地蔵のある坂を下ると、大湫の標識があり、十三峠最後の寺坂。眼下に大湫宿が見える。
 大湫宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠屋30軒の山間の宿場。今も、古い町並みが残り、歩いていると昔の旅人のような気分になる。
 高台にあった本陣は、かつて和宮様も泊ったというが、今は小学校になっていて、和宮様の歌碑が立てられている。
 「遠ざかる都と知れば旅衣一夜の宿も立ちうかりけり」
 「思いきや雲井の袂ぬぎかえてうき旅衣袖しぼるとは」
 京の都から遠く離れて、心細い心境が吐露されている歌。
 脇本陣は、表門と母屋が残っており、母屋の正面の壁に桔梗の家紋が入れられている。居住のため、非公開で、門の外からのぞきみた。
 宿場の町並みが終わったところに、神明神社。樹齢1300年の杉の巨木にはしめ縄が張られ、根元には神明水が湧く池があり、旅の疲れを忘れて、さわやかな気分になる。
 宿場のはずれの高札場で、今回の旅は終わりにして、タクシーで釜戸駅に向かった。
(第16回二日目の歩数:25,077歩)


 参加者は、藤巻礼子、宮下明子、山浦るみ子、山浦ひろみ、清水淳郎、池田有美子(69期)、清水計枝の7名。

雨の中津川宿高札場

大井宿旧旅籠「角屋」(泊)

西行塚への道

大湫宿・神明神社
               
               


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