中山道69次を歩こう(3)

     (5)柏原宿から三条大橋    会報「うえだ」86号(大津宿から三条大橋へ)
     (4)中津川宿から柏原宿   会報「うえだ」85号(醒井宿から大津宿まで) 
     (3)塩尻宿から落合宿   会報「うえだ」84号(河渡宿から柏原宿まで)
     (2)坂本宿から下諏訪宿  会報「うえだ」83号(大湫宿から加納宿まで)
     (1)日本橋から松井田宿  会報「うえだ」82号(中間地点から大湫宿まで)
 会報「うえだ」81号(長久保宿から宮ノ越宿まで)  会報「うえだ」80号(坂本宿から長久保宿まで)
 会報「うえだ」79号(蕨宿から横川まで)  会報「うえだ」78号(日本橋から板橋まで)
  
第15回 野尻駅から落合宿へ  (11/3/26−27)
第40次・野尻宿
 第15回は、2011年最初の旅。春まだ浅き木曽路最後の旅である。3月26日(土)12時31分、野尻駅に集合して旅が始まった。
 3月11日の東日本大震災の影響で、福島原発事故、電車の間引き運転などもあり、イベントの自粛ムードが世間の風潮になる中で、旅を取りやめにして自宅でテレビを見ているより、久しぶりに外を歩いた方が前向きの気持ちになれるのではないかということになり、予定通り行った。
 前夜から長野県一帯は雪降りの天気。朝には止んだが、塩尻駅を過ぎたあたりから雪景色になり、天気が心配だったが、電車が鳥居峠を越えると日がさして明るくなり、野尻駅に降りると、雪は山の上に残るのみであった。
野尻宿は、木曽路最大の難所羅天を控えて栄えたとのことで、奈良井宿に次ぐ長い街並み。駅を中心に京方、江戸方に七曲がりの緩やかな坂道の宿場である。
駅から、本陣の跡と脇本陣が残っているという、江戸方向に歩くと、旧脇本陣の木戸家は建て替えられてしまっていた。関札や宿場資料を保存しているとのことだが、非公開。すぐ先の本陣跡の庭には「明治天皇御休所」の石碑があり、屋敷は建て替えられていて昔の面影はない。
さらに坂道を登っていくと常夜燈と秋葉様が祀られているが、宿場の枡形はまだ先で、宿場の街並みが続いている。
枡形から引き返して、京方に歩くと、現在も旅館として営業している旅籠屋が1軒あり、古い宿場の街並みが続いている。京方の街並みは「はづれ」の屋号をかかげた旧旅籠屋まで続き、長い街並みの野尻宿であった。

第41次・三留野宿へ
 野尻宿から三留野宿までは、9.8キロ。途中に羅天の難所があり、旧中山道は国道に吸収され、歩道はあるものの、車の通行量が多く、のどかに歩ける道ではない、とのことなので、車を利用することにした。
 観光客のキャンセルが多く、干上がっていたようで、タクシーの運転手は観光ガイドをしながら三留野宿の入口まで連れて行ってくれた。
 最大の難所を避けるため、中山道の脇道として山の中を通る与川道が造られたこと、羅天の桟橋跡の下は白い花崗岩の河原でかつては木曽川の急流であったこと、蛇抜け(鉄砲水)の多発地帯であること。三留野宿本陣の梅が有名で、今頃咲いているだろうなどと、運転手の話を聞いているうちに宿場入口に着いた。
 三留野宿は、明治14年(明治13年に明治天皇が本陣で宿泊)の大火でほとんど焼失してしまったとのことで、本陣、脇本陣は跡碑のみ。旅籠屋は32軒あったというが、古い建物は数軒しか残っていない。ただ、天然記念物に指定されているという、樹齢ウン百年の本陣の枝垂れ梅が満開に咲き誇り、下に立つ人を梅の香りで包んでくれた。良く手入れがされたこの古木は、江戸から明治、・・・平成と花を咲かせ、大火の中も生き延びて香りを放っているのが素晴らしいと思った。
 宿場のはずれの常夜燈まで歩き、中山道を離れて木曽川に下り、桃介橋(国重要文化財)を渡る。この橋は、電力王といわれた福沢諭吉の娘婿・桃介が大正時代に読書発電所を造る際に架橋したもので、対岸には、発電所と川上貞奴とのロマンスの地でもある別荘があり、福沢桃介記念館として公開されている。
 蛇抜けの跡を残す、沢を見下ろす巨岩の上には「悲しめる乙女像」が座す蛇抜けの碑があり、近くの桃介記念館のイメージとは趣を異にしている。ただ、記念館も蛇抜けのために土台を残して流され、再建されたものとのこと。

第42次・妻籠宿へ
 木曽川を渡って、中山道に戻り、かつて木曽路を走っていたというD51機関車の脇を通って、山道に入る。街道沿いに苔がついた石の道標が置かれているが、「右 妻籠宿へ/下り 国道へ/左 なぎそ駅へ」などと刻まれているのを見ると、戦後のものと思われる。
 五叉路のところに、巴御前ゆかりの松といわれる「ふりそで松」の何代目かの小松が植えられている。義仲が弓を引くのに邪魔になった松を、巴御前が袖を振って倒した、とのことだが、倒した松を、なぜ植えかえて残しているのだろうか、と思った。
 脇には、木曽義仲の兜に飾っていた観音を祀ってあるという「兜観音堂」。五叉路で間違いやすい、とはいうものの、清水君の道案内と岸本さんの標識にしたがって進む。
 戦沢橋を渡ると、しばらく石畳の上り道が続く。上りきったところに、江戸から78里目の上久保の一里塚が原型のまま残っている。塚の上には、満開の梅の老木が枝を広げ、傍らの松は虫にやられたらしく立ち枯れている。三留野宿本陣の枝垂れ梅といい、この梅といい、梅は生命力が強いのかな、と思った。
 ゆるやかな下り道をしばらく歩くと、沢水を利用した池と庭のある、しろやま茶屋。山際に、良寛が修業を終えて木曽路を通って越後に行く折に詠んだという、歌碑が立てられ、前に白と薄紅色のアシビの木が植えられている。「木曽路にて この暮れの もの悲しきに わかくさの 妻よびたてて 小牡鹿鳴くも」
 ここから、また上り道。しばらく行くと大きな岩、「鯉岩」とあるが、これが鯉?と思うのも無理がない。昔は、鯉が上を向いた形だったが、明治24年の濃尾地震で横転してしまったとのこと。
 妻籠口留番所跡を過ぎ、ようやく妻籠宿恋野口の高札場に着いた。午後3時50分、急ぎ足で、今日中に見学しておきたい、脇本陣・奥谷へ入った。
 脇本陣は、酒屋、問屋も営んでいたので、その財力を使い、明治になって木曽五木の禁制が解かれたため、明治10年に総檜造りで建て替えられたとのこと。国の重要文化財に指定されている。明治13年、古い本陣でなく、脇本陣の新築の建物に、明治天皇を迎え、休憩いただいたことを大変誇りにしているようであった。
 本陣は、藤村の母の生家(島崎家)だが、明治20年代に最後の当主・島崎広助(藤村の実兄)が東京へ出、建物も取り壊されたが、跡地が町に払い下げられたのを機に、平成7年、江戸時代の間取り図により復元されたもの、とのこと。時間の制約で、内部の見学はできなかったが、外観は豪壮な造りで、板葺石置屋根は往時の姿をしのばせる。
 夕暮れ迫る宿場を歩いて、宿場の中ほどにある、旅籠「松代屋」に着いた。松代屋は妻籠宿の中では規模が大きく、かつては、中山道の旅人や御嶽講の人が多く泊ったようである。風呂は檜の浴槽。夕食は鯉の甘露煮、あらい、川魚の塩焼き、焼き豆腐の練り味噌かけ、など、など、地元の食材を使った盛りだくさんの料理で大満足だった。
(第15回一日目の歩数:14,243歩)

馬籠峠を越えて、第43次・馬籠宿へ
 まぶしい朝日をあびて、松代屋を出発。良く保存された妻籠宿の町並みを歩きながら、昭和40年代から歴史的景観を守るため、町並みを守る運動に取り組んできた町の皆さんの熱意を感じた。
 妻籠宿を抜けると、緩やかな坂道が続く。橋場集落の先にある橋を渡ろうとすると、案内役の清水君が、「是非、見ておきたいものがある」といって引き返し、橋の手前の民家の庭先にある碑に導いた。高さが3メートルもある石碑で、「飯田道」と刻んである。
 橋場は、かつて、中山道と飯田街道の分岐点として栄え、飯田や地元の商人によってこの碑が建てられたとのこと。当時の繁栄がうかがえる大きな石柱である。
 橋場の先から山道に入り、しばらく上ると大妻籠。「諸人御宿・つたむらや」などの看板をかかげた旅籠屋がならんでいる。宿には大戸と潜り戸がある。ここは、人馬が泊る旅籠屋だったようである。
 大妻籠を過ぎると、また上り道。「どうがめ澤」の石碑には「下り谷を経て馬籠峠へ」と刻んである。
 しばらく上ると、男滝・女滝のある沢へ下りる道。沢道は、たびたび増水で流されたため、江戸時代中期に、山沿いの道が造られたとのこと。私たちは、古道を歩くこととし、男滝・女滝の沢道をたどった。
 男滝は幅が広く、水量が多く、滝の音もザーザーと大きく、なるほど「男滝」と思われた。
 女滝は水量がそれほど多くなく、しなやかに流れ落ちる滝で、「女滝」の名称がピッタリである。この滝は、吉川英治『宮本武蔵』で、武蔵とお通の出会いの舞台になったところとのこと。
 沢に架かる橋を渡り、山道を上ると、滝見茶屋(無人)。ここで一休みして、また上り道に入る。サワラの林が続く。林の中は陽がささないためか、道は、一昨日降った雪が残っているので、滑らないように踏みしめて歩く。
 少し開けたところに、大きな松が枝を伸ばし、茶屋が一軒、一石栃の立場茶屋である。茶屋の住人がいなくなった後、妻籠宿の人が休憩所として管理しているとのことで、「お茶を入れるから、飲んで休んでいって」と誘う。馬籠宿までは、もうすぐ、落合宿までは下り道なのでわけない、と言われたが、先を急ぐので、と断り、さらに上ると、ようやく馬籠峠頂上(801m)に着いた。ちなみに、妻籠宿の標高は430m、標高差371mの上り道であった。
 「岐阜県・中津川市」の標識が立っている国道を横切り、旧中山道に入る。道には桜の花びらをちりばめたような舗装がしてあり、この道をたどれば迷わず馬籠宿に着くようになっている。ここからは下り道で、峠集落は強飯茶屋と牛宿で栄えたという。十返舎一九の歌碑がある。「渋皮のむけし女は見えねども 栗のこはめしここの名物」十返舎一九は、中山道を旅して『木曽街道膝栗毛』を書いた。
 少し下ると、目の前が開けて、空が広くなったように感じる。中央アルプス最南端の山、恵那山(2191m)が目の前に展望できる。
 恵那山展望台には、旧山口村が長野県から岐阜県に越県合併した記念碑が建てられている。碑には、合併の経緯と、藤村の『夜明け前』の一節が刻んである。「あの山の向こうが中津川だよ 美濃は好い国だねー」
 古代から、木曽は美濃の国であったが、中山道の交通量が増すに従い、江戸時代・元禄ごろから、信濃の国とされた、とのこと。
 馬籠宿は坂の宿場。木曽谷を抜けて、美濃の国が見渡せる位置にある。中津川市に合併したのも、見渡す景色から、生活必需品まで、ほとんどを中津川に依っていたからであろうと納得した。
 宿場の中ほどにある、藤村の生家、馬籠宿本陣は、明治28年の大火で焼失。唯一残ったのが祖父母の隠居所と井戸。本陣跡は藤村記念館となっている。
 本陣入口には、山口誓子の句碑が建てられている。「街道の坂に熟れ柿 灯を点す」馬籠宿の情景を良く表している句だと思った。
 宿場には名古屋方面からの観光客がたくさん来てにぎやかな印象だったが、お店の人の話では、震災の影響で団体客が来ず、少ない人出、とのことであった。
 宿場を出て丸山坂を下ったところに、子規の句碑が建てられている。「桑の実の 木曽路出づなむ 穂麦かな」
 そして、すぐ先に芭蕉の句碑「送られつ送りつ果は 木曽の穐」。これと同じ句碑は、平沢の木曽漆器館前、諏訪神社入り口にもあった。つまり、木曽路の南と北の入口(出口)に建てられていることになる。更科紀行の行程からすると、平沢の方が句の意に沿うように思えるのだが。
 また、新茶屋の一里塚には、藤村筆の「是より北 木曽路」の碑があり、脇には、「信濃/美濃 国境」の碑もある。
 藤村は、明治14年、9歳で遊学のため上京した。そのときの行程は、馬籠宿を出て、中山道を妻籠、三留野、野尻と、木曽路を通って、軽井沢へ、そこから馬車と鉄道で東京に行ったものと思われる。『夜明け前』の書き出しの一節は、「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたひに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いてゐる。」と、よく木曽の風土をとらえた表現である。中津川に向かって開けた馬籠宿から、反対方向の、妻籠の方に向かって木曽路を歩いて上京したので、木曽路はすべて山の中、という印象が強かったのであろう、と思った。

第44次・落合宿へ
 新茶屋の一里塚から落合宿までは、十曲峠の下り道である。約1キロにわたって、地元の人たちが修復したという、落合の石畳が続いている。大きな石の平らな面を上にして敷き並べてあり、見た目は平らに見えるが、石の隙間を水がえぐっていて、歩く人の脚、膝にはきつい下り道であった。
 石畳の終わりからは、白と茶色の陶片を埋め込んで舗装した道で歩きやすい。しばらく歩くと、医王寺、狐を助けたお礼に、狐に教わったという妙薬が売られたとのこと。境内にある枝垂れ桜が満開の時はきれいだろう、と想像する。
 平地になって歩きやすい道を行くと、落合宿の高札場跡、の碑が建てられている。
 上の枡形には井戸と常夜燈があり、ここからが落合宿の中心部。本陣は、文化年間の火災の後に建てられたもので、威容を誇る門は、加賀藩から贈られたものとのこと。
 脇本陣は碑のみ。下の枡形から、旧中山道は左手に折れ、中津川宿に続いている。中津川駅まで歩きたい、という人もいたが、十曲峠の下り道で膝に疲労がたまっていたので、今回の旅はここまでとし、車で中津川駅に向かった。
(第15回二日目の歩数:24,681歩)

第15回は、大地震などいろいろあったのですが、久しぶりに外を歩いて元気になろう、ということになり、予定通り行ってきました。参加者は、林久美子、藤巻礼子、宮下明子、山浦るみ子、山浦ひろみ、清水淳郎、関川哲、池田有美子(69期)、清水計枝の9名。


三留野宿本陣の枝垂れ梅

妻籠宿、松代屋に到着

馬籠峠頂上(クリックで拡大)

馬籠宿本陣

野尻宿・屋号はずれの旅籠屋

落合宿本陣
第14回 原野駅から大桑駅へ  (10/11/27−28)
中山道中間之地から第37次・福島宿へ
 第14回は、11月27日、28日(土、日)。2010年最後の旅である。
 原野駅に集合して中山道中間之地へ向かって歩く。人家がまばらにある畑中の道。左手には、雪化粧した木曽駒ケ岳が見える。木曽谷から仰ぎ見る山の形から「木曽駒ケ岳」の名がついた。
 以前、駒ヶ根からバスに乗り、ケーブルで千畳敷カールに行き、木曽駒ケ岳に登ったことがあるが、元々の登山道は伊那側でなく、木曽側からで、木曽谷の人々の信仰の山であった。「木曽駒ケ岳」の名の所以である。
 しばらく歩くと「中山道 中間地点」の碑。清水君が10年前に歩いた時は、大きな木製の標識だったとのこと。「江戸へ六十七里二十八町」とある。昨年、日本橋をスタートして、ようやく中間地点に到達した。「残りの半分も楽しく歩こう」と言い合った。
 正沢川に架けられた鉄の細い橋を渡り、しばらく行くと、薬師堂。すぐ先の小山の上に手習天神。木曽義仲を養育した中原兼遠が義仲のために北野天満宮を勧請したのだという。
 旧中山道の面影の残る栗本集落を過ぎると、旧道が国道と鉄道に寸断されていてわかりにくいが、かつて街道沿いに置かれていた石仏群の前を通り、国道に出る。
 国道を少し歩いたところに、創業三百余年の「蕎麦どころ・くるまや」、ここで木曽名物のすんき蕎麦を食べて昼食とした。
 しばらく国道を歩くと、前方に巨大な冠木門、支柱に描かれているは、木曽代官・山村氏の紋とのこと。
 左手に福島関所の門と番所が再建されている。中山道では碓井関所と共に重視され、女改めには1刻(約2時間)かかったという説明に、女性7人に男性2人の我々の一団が通関するのは困難だっただろう、などと、今日の旅の自由さに感謝し、冗談を言い合う。
 敷地内に、太田水穂の歌碑、「山蒼く暮れて夜霧に灯をともす 木曽福島は谷底の町」とある。関所から、下を流れる木曽川沿いに立ち並ぶ崖屋造りの家を見ると、谷底の町を実感する。
 『夜明け前』の島崎藤村の文学碑の前を通って、木曽を支配した山村代官の下屋敷へ。水の流れ落ちる池を配した庭園のある立派な屋敷で、使われていた調度類や饗応の料理見本などが並べられ、解説も懇切丁寧である。
 福島宿の中心部は昭和の大火で焼失したが、焼けなかった上ノ段には旅籠屋、商家、水場などが残っていて、ゆっくり歩けば楽しい。福島宿は木曽の中心地とはいうが、本陣1、脇本陣1、旅籠屋14軒、と規模は大きくない。
 
第38次・上松宿へ
 上松宿への道は、歩道のない国道で、歩くのは危険、とのことから、コミュニティーバスを利用した。
 福島宿からバスに乗り、木曽の桟(かけはし)跡を通り、上松宿入口の十王橋で降りて歩く。
 木曽の桟は、江戸初期に尾張藩が桟道から石垣に改修し、今はその石垣の上を国道が通っている。芭蕉が更科紀行で旅した時は、石垣に改修されていたというが、「桟や命をからむ蔦かづら 芭蕉」の句が詠まれ、桟跡に句碑が立てられている。
 上松宿は尾張藩の材木役所が置かれ、木曽の木材の集散地であった。また、木曽駒ケ岳登山口であり、寝覚ノ床の見物客もあり、本陣1、脇本陣1、旅籠屋35軒と旅人で賑わったようである。ただ、たび重なる火災で、上町(宿の江戸側入口)にのみ古い街並みが残っている。
 十王橋から歩き、古い街並みが残る上町を過ぎると、本町一里塚跡の碑。国道に出てしばらく歩き、また旧道に入る。
旧道をしばらく上ると、木曽駒ケ岳登山道の入り口の石碑と道祖神が登り道に沿って並べられている。かつては、ここが木曽駒ケ岳登山のメインロードだった。
 すぐ左手に「尾張藩 上松材木役所御陣屋跡」の碑が立ち、敷地は学校になっている。
 なだらかな上り道の旧道をしばらく歩くと寝覚ノ床入口の「たせや」。寝覚立場の茶屋本陣で、最近まで民宿を営業していたとのこと。午後4時というのにあたりは薄暗く、木曽駒ケ岳が残照に照らされ美しい。
 寝覚ノ床に隣接した「ねざめホテル」に泊り、温泉で旅の疲れを癒した。
(第14回一日目の歩数:17,434歩)

第39次・須原宿へ
 朝起きて外を見ると、木曽駒ケ岳は雲の中。ホテルの支配人によれば、山の上の雲がこちらに流れてくると、雨か雪、とのこと。昨日の好天からは予想もできない空模様である。
 小雨が降り出した中を、寝覚ノ床見物に。昔、浦島太郎が竜宮城から帰って寝ざめた後、ここで釣りをして、物思いにふけって暮らした、という浦島伝説の地。
 臨川寺の境内の奥の、寝覚ノ床の淵を見下ろすところに浦島堂があるが、寺の入り口から入ると、入場料500円を支払わなければならないが、ドライブインの脇の入り口から入るとフリー、というので、こちらから急な階段と坂道を下る。途中で、臨川寺から来た道と合流して、寝覚めの床に下り立つ。
 静寂に包まれた蒼い淵。木曽川の浸食でできたというが、庭師が並べたような灰白色の花崗岩が蒼い水に映り、何とも美しい。浦島太郎ほどでなくとも、しばらく眺めて過ごしたい気分になる。
 下りてきた道を上り、「たせや」まで。ここから、旧道を歩く。沿道には、所どころ、お茶の木が植えられ、白い花が咲いている。上田あたりより暖かいんだ、と感じる。
 国道に出てすぐのところに、かの有名な、小野の滝。広重、北斎が描いたというだけあって、高さ、水量ともにすばらしく、滝が落ちる岩の景色も良い。ただ、明治になってこの上を鉄道を通してしまったのが惜しまれる。国道を通る車の音も、滝の音に消されてしまい気にならない。しばし滝に見入った。
 しばらく国道を歩き、旧道に入るところに、荻原一里塚の跡の碑。京へ六十四里、江戸より七十三里とある。中間之地から、少し京に近づいた、と思いうれしい。
 倉本までは、旧道が国道と鉄道に分断されているが、旧中山道をたどって歩くことができた。途中の、立町立場跡には水場が保存されている。対岸の諸原とを結ぶつり橋が架けられていて、渡って見た。
倉本の庚申塔と徳本上人の石仏群を過ぎて国道に出ると、旧道はほとんどなく、大きな枝垂れ桜の根元をけずって国道が通っている。ひたすら国道を歩いて須原宿にたどり着いた。
 水舟の里・須原宿は、江戸中期の水害の後、再建された宿場町なので、街道は5間の広さがあり、ゆったりした街並みである。大木をくりぬいた水舟があちこちに置かれ、花を飾ってきれいに整えられている。
 俳句は、芭蕉でなく蕪村に倣え、と言った正岡子規だが、芭蕉の足跡を追って木曽路を旅し、須原宿で泊って、「寝ぬ夜半をいかにあかさん山里は 月出づるほどの 空だにもなし 子規」と歌っている。
 宿場の京方入口にある定勝寺は永享2年(1440)木曽親豊の創建という。桃山様式とのこと。山門、本堂、庭園いづれもすばらしく、住職の案内で中を見学させてもらった。明治天皇が全国を巡幸の折は、この寺で休まれたとのこと。本陣ではなく、寺で休んだのはなぜか、と住職に聞いたが、理由は不明であった。

岩出観音から長野立場へ
 街道の中央に宿場用水が流れる、鍵屋の坂を下り、野尻宿へ向かって歩く。英泉は、野尻宿の絵に伊奈川橋と岩出観音堂を描いている。
 旧道を2キロほど歩くと、左手の山の中腹に懸崖造りの観音堂が見えてきた。「木曽の清水寺」と言われているとのこと。伊奈川橋を渡ったところから観音堂を見ると、まさに英泉の絵の構図である。
 伊奈川橋をすぎてしばらくすると、小山が立ちはだかっている。古中山道はここからまっすぐ木曽川沿いを通っていたが、川に向かって崖が崩落して通れなくなってしまったため、旧道は左手に曲がり、小山の裾をまわって木曽川沿いをたどったようである。小山の裾を回ったところに長野立場茶屋が設けられていた。
 歩行距離が長くなり疲れていたが、長野立場を通って大桑駅までの街道沿いには、まだ紅葉が残り、サザンカや菊が咲いていて、のどかな秋の野道であった。
 予定では、野尻宿まで行くことにしていたが、歩行距離がだいぶ多くなってしまったことと、帰りの電車の時間も近づいていたので、大桑駅までとした。
 帰路の電車の中から、小野の滝、寝覚ノ床などを見て、旅の思い出に浸った。
(第14回二日目の歩数:28,828歩)

 ようやく中間地点を通過して、京の都に少し近づいた気がしています。
参加者は、清水淳郎、藤巻禮子、山浦ひろみ、山浦るみ子、宮下明子、高柳明子、関川哲、清水計枝、池田有美子の9名です。(清水)


中山道中間地点

福島関所

寝覚ノ床

小野の滝
第13回 贄川から宮ノ越宿へ  (10/10/16−17)
第33次・贄川宿へ
 第13回は、10月16日、17日(土、日)。今回は、『中山道の歩き方』(学習研究社刊)の企画・編集をした同期生、清水淳郎さんが、一緒に歩くメンバーに加わったので大船に乗った気分で、贄川駅に集合して歩く。
 清水さんは、「10年前に作った本だから」と言うが、中山道歩きの本などまだない時に、地図を調べ、地元の人に道を尋ね、実際に歩いて本にまとめた労力は大変なものと感心した。
 贄川宿からが木曽路。旧中山道は、鉄道(中央線)と奈良井川の間を通っていたというが、川が氾濫したからであろうか、今は薮になっていて通行不能。国道を歩き、関所橋を渡って贄川宿に入る。
 入口に、板葺石置屋根の贄川関所が復元されている。尾張藩の番所で、女改めと木曽木材の密移出を取り締まったとのこと。
 贄川宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠屋25軒であったが、昭和初期の大火でほとんど焼失してしまった。焼けなかった出桁造りの旅籠屋は立派な構えである。
 宿場の中ほどに火除けの神様、秋葉神社を祀っている。防火と飲料用に設けられた水場には清らかな湧き水が流れ、今も大切に保存されている。
 また、宿場のはずれには、樹齢1000年のトチの大樹が枝を小山のように茂らせていてみごと。県の天然記念物に指定されている。 
  
第34次・奈良井宿へ
 贄川宿を出てしばらくすると切り通しになっていて、小さな祠の中のお地蔵様が街道を見下ろしている。その先には、「中仙道」と刻んだ立派な石碑が立てられている。脇の銘文を読むと、昭和63年に、この地の人が還暦記念に道しるべとして立てたとのこと。志は尊いが、元禄以降は「中山道」と表記すべし、と定められ、新しい石碑はそのように刻まれているのに、何百年もあり続ける石碑に誤字を刻んだことを残念に思った。
 国道に出る手前の草原の中に、ポツンと「押込一里塚跡」の標識。塚らしいものもなく標識のみ。平地の少ない木曽谷なので、塚を削って畑にしてしまったのではないかと思った。
 国道は大型トラックがビュンビュン走行し、歩道を歩いていても恐ろしいほど。自然歩道(旧道)に入ると山道ではあるがホットする。
 旧道と国道の間に「道の駅・木曽ならかわ」があり、ここで昼食。敷地内にある「木曽くらしの工芸館」で漆器を買う。工芸館には、昔からある椀や皿の漆器だけでなく、漆器のティーカップやワイングラスなども置かれていて、現代生活に即したもの作りを指向しているようである。ちなみに、長野オリンピックのメダルは木曽の漆器で作られたとのこと。
 旧道を道なりに進むと、木曽漆器館前に芭蕉句碑「おくられつおくりつはては木曽の秋」が立つ。中山道は、句碑の前を通り、諏訪神社境内を通っていたとのこと。今年立てられた真新しい御柱の前を通り、本殿に参拝し、脇の参道を下りると漆器の里、平沢。
 漆器店が並ぶ街並みはシンと静まり返り、店の入り口の戸も閉まっていて、中に入って見るのもはばかられる雰囲気。幸い、清水さんが、10年前に『中山道の歩き方』の企画・編集のため、漆器作りの工房を取材したことを覚えていた店で、工房を見学させていただき、キノコ汁までごちそうになった。袖すりあうも多少の縁、とはいえ木曽の人の親切に感謝、感謝である。
 平沢から2キロほど歩いて奈良井駅、奈良井宿入口に着いた。「奈良井宿見学に行く前に、案内したいところがある」、と清水さん。中山道の古道は、奈良井川の山沿いを通っていて、当時の杉並木が残っている、とのこと。
 山沿いの道をしばらく上ると、うっそうと茂る杉並木の道があり、旧街道らしい趣である。また、少し上ったところの地蔵堂の前に、聖観音、千手観音、如意輪観音などの像が200体近く祀られている。明治期の国道開削、鉄道敷設の折に奈良井宿周辺から集められここに祀られたとのこと。
 奈良井宿入口には、木曽の檜造りの木曽の大橋が観光用に造られている。ふるさと創生事業の1億円にプラスして平成3年に完成した。国道を車やバスで来たたくさんの観光客の通り道になっているので、橋の床はすっかりすり減っている。
 鳥居峠を控え、奈良井千軒と呼ばれ栄えた街並みは、鉄道に裏庭を削り取られているが、往時の面影を良く残していて、通りを歩いていると昔にタイムスリップした気分になる。
 明治天皇が休憩したという上問屋は史料館になっていて、上段の間、奥の枯山水の庭などを見せていただいた。
 この日の宿、越後屋は弥次喜多も泊ったという旅籠屋で、今も旅館を営んでいる。宿泊客は私たちのグループのみという恵まれた宿で、檜造りの風呂、山川の恵みを上手に料理した品々でもてなしてくれた。
(第13回一日目の歩数:15,703歩)

鳥居峠を越えて、第35次・薮原宿へ
 木曽の五木の一つ、サワラで作られたおひつに入れて出されたホカホカご飯を、峠越えに備えてお替わりして食べて、越後屋を8時30分出発。出発前に、宿の前で若夫婦のお子さんも一緒に写真を撮った。この子は、小さいながらも接遇を教えられていて、宿に着いた時は、「いらっしゃいませ」と言って握手を求めてくる現代派。そして、宿泊客のスペースには立ち入らず、宿主の居間で祖母と本を読んだりして過ごしている。出立するときは、「ありがとうございました」と見送りする。3歳の子供にしては立派、と感心した。
 早朝の静かな奈良井宿の街並みを見ながら歩く。ひさしに付いている波を打ったような飾りは何かと尋ねると、「サルオドシ」と言い、泥棒よけなのだという。堅固に見える庇だが、組み木の工夫で、猿のような身軽な者が二階へ忍び込もうとして乗ると、崩れてしまう仕掛けになっているとのこと。
 宿場の鍵の手には、水場が復元、保存され、清水が流れている。
 宿場のはずれ、鳥居峠への登り口には鎮神社がある。神楽殿があり、夏祭りが盛大に行われるというが、森閑としている。峠越えの無事を祈って参拝した。
 しばらく歩くと、石畳の道が続き、道端には馬頭観音像が置かれているのがうれしい。沢の水音をはるか下に聞きながら上ると、中の茶屋。ここで一息入れて、しばらく歩くと「鳥居峠古戦場」の標識。
 長篠の合戦の後、再起を図る武田勝頼を、木曽義昌が破った地で、武田軍の多くの戦死者を沢に投げ込んだため「葬り沢」とも呼ばれているという。
 さらに1キロほど上ると、中利茶屋。明治期には奈良井から尾根づたいの道が開かれ、明治天皇が諸国巡幸の時は馬車で、後にはボンネットバスが走ったこともあるとのこと。ここから峠の上へ行く道は通行不能になっているので、切り通しの明治道を歩く。
 「熊よけ鈴」が設置してあるので、鳴らしながら歩く。栃の木群の中の道は平坦で、森林浴気分で歩く。
 ほどなく御嶽遥拝所。鳥居峠の名の由来となった大きな鳥居が建っている。遥拝所からは、天気に恵まれ、御嶽山を望むことができた。木曽の谷あいに暮らす人にとって、遥かかなたに見える御嶽山は神々しいものだったのであろう。
 少し下ったところに、芭蕉の句碑が二つある。
 「木曽の栃うき世の人の土産かな」(栃の木群のなかにあった巨木・「子産の栃」の木の実を煎じて飲めば、子宝に恵まれる、という言い伝えをふまえた句)
 「雲雀よりうへにやすらふ嶺(とうげ)かな」(更科紀行の中の吟詠ではないが、風光がかなっていることから、ここに立てられたのであろう、と言われている)
 ここからの下り道沿いにはカラマツが多く植えられている。戦後、森林を急いで造成するため、成長の早いカラマツが植えられ、建築用材としてあまり使われないため困っているとのこと。ただ、落葉樹のため、秋、冬は陽が差し込み、ツタウルシなどがからまって紅葉している景色は絵になる情景である。
 人家が見えてきた所に、天降社の鳥居と大モミジ、そのすぐ下に「尾州御鷹匠役所跡」の標識。尾張藩が鷹狩りの鷹を飼育するため設けたとのこと。
 中央線の線路の手前に「飛騨街道追分」の標識。薮原宿は野麦峠を越える飛騨街道の追分の宿で、かつては諏訪へ向かう女工さんたちで賑わった。
 中山道は線路で分断されているので、少し下がったところにあるガードをくぐって薮原宿に入る。
 鳥居峠側に旧旅籠屋・こめや、「米屋與左衛門」の看板がかかり、今も旅館として営業している。
 昼食時間には少し早かったが、宮ノ越までの行程を考えて、宿場の民家を改造して営業している蕎麦屋で昼食にした。ソバは細切りで香り高くおいしかったが、鳥居峠を越えてきた旅人にとっては、少々物足りない量であった。宿場中ほどで「名物・そば饅頭」の看板を見つけてお腹を満たした。
 薮原宿は、お六さんのしつこい頭痛を治したというミネバリの「お六櫛」の主産地で、最盛期には住民の6割以上が櫛で生活していたという。宿場のあちこちに櫛屋がある。元祖の看板を掲げる櫛屋に入ると、7回目の寅年(72歳)、という主人が、お六櫛の説明をしてくれ、「毎日、皆さんに櫛の使い方を実演しているおかげで、このとおり髪黒々で、染めていません」と言う言葉につられて買ってしまった。説明のポイントは、櫛で頭皮に程よい刺激を与えることで、髪は生き生きとし、頭痛にもならない、ということであった。
 薮原宿でも、「源流の里」として、水場が大切に保存されている。また、防火用の高塀の一部が残されている。どこの宿場も、火事が一番の大敵だったようだ。
 宿場のはずれに、一里塚の跡の石碑が置かれて、江戸より66里、京へ70里と刻まれている。塚はなく平坦なミニ公園にSL・D51が展示されている。かつて木曽谷に夜明けをもたらした蒸気機関車である。

第36次・宮ノ越宿へ
 一里塚を過ぎて、鉄道のガード下を通ってしばらくすると、中山道は国道に吸収されているため、国道の歩道を歩く。大型トラックが高速で走りすぎるので、歩道を歩いていても怖い。吉田洞門は、外側に現代版・棧(かけはし)が造られていて、そこを歩く。
 洞門を過ぎると、また国道の歩道を歩く。道路の反対側に権兵衛茶屋と石像群が見えるが、車が多く渡るのは危険なため、眺めながら歩く。
 しばらすると、山吹トンネル。トンネル内は危険なため、廃道になった旧国道を歩く。木曽川の流れを見ながら、しばしの歩き旅。車が通らないと、のんびり歩けるね、などと言いながら歩く。
 また国道に出ると、反対側に歩道があるが、通行量が多く渡るのが困難なため、右側を歩いたが、山吹橋までの約0.5キロは恐怖の行進であった。
 山吹橋を渡り、国道と別れて旧中山道を歩き巴橋に着いた時は、ホットして、巴淵を優雅にオシドリが戯れている姿を見ながら一休みした。古中山道は巴淵の向こう側を通っていたとのこと。「山吹も巴もいでゝ田うへ哉  許六」の句碑がある。
 巴橋を渡りしばらく歩くと、有栖川宮夫妻が、明治30年に中山道を旅し、休んだという碑が建っている、立派な構えの民家の前を通り、中山道から離れて、山寄りにある徳音寺に向かう。
 山門をくぐると、本堂の前に巴御前の颯爽とした騎馬像がある。石段を上った奥の高い所に木曽義仲の墓が建てられている。
 徳音寺の近くに、ふるさと創生資金の1億円で造ったという義仲館があり、館の前には、義仲と巴の像が並んでいる。許六が詠んだように、山吹も巴も義仲の愛妾であるが、なぜか巴のみ像が二つもある。
 木曽川を渡ると、宮ノ越宿。古い建物は残っていないが、屋号の看板を掛けた街並みが宿場らしい。本陣跡は小さな碑と明治天皇小休止の碑のみで、屋敷奥に土蔵が残っている。本陣碑の周囲にはフラワーボックスが置かれ、色とりどりの花が咲き乱れている。
 今回の旅はここで終わり、宮ノ越駅から帰路についた。
(第13回二日目の歩数:23,865歩) 

 第13回は清水淳郎さんが参加したので、道に迷うことなく、贄川から宮ノ越まで、解説付きで楽しい歩き旅でした。清水計
 参加者=宮下、山浦、藤巻、池田、林、清水淳、清水計(7人)

贄川関所

奈良井宿入口

薮原宿・お六櫛問屋

宮ノ越・義仲館
第12回 塩尻から本山宿へ  (10/8/29)
第31次・洗馬宿へ
 第12回は、8月29日(日)。例年だとこの時期の信州は涼しくなる見込みだったが、連日30℃を超える猛暑。熱中症にならないよう、帽子と飲み物を持って塩尻駅に集合した。凍らせたお茶を持ってきた人がいて、「グット・アイデア!」と感心した。
 塩尻駅から、旧中山道に出て、昭和電工の塀沿いの道を歩く。塀の中にはヒマラヤスギが植えられていて木陰があるが、道の南側は畑なので、炎天下の街道を歩く。長い長い塀が終わると、左手に平出遺跡の竪穴住居群が見え、街道沿いに、立派な松の植わった、平出一里塚が見えてきた。
 この一里塚は街道の両側に対で現存する一里塚として貴重な存在とのこと。片方は、住宅の間になってしまっているが、昔は2軒の茶屋があったという。炎天下を旅する人に一息つく木陰と茶を供していた往時を思い浮かべ、私たちも一休み。ミニトマトの差し入れを食べて元気を取り戻した。
 沿道の桔梗が原のブドウ畑ではブドウ狩りが始まっていて、甘い匂いにひきつけられて、勧められるままにブドウを試食。昼食のデザート用に一籠購入した。
 国道に出ると、ブドウ畑の先に穂高岳の稜線がくっきりと見える。しばらく国道を歩き、ガソリンスタンドのところで旧道に入り、少し歩くと雀オドリのついた古民家が見えてきた。すぐ向かい側に、細川幽斎肘懸松がある。根元の少し上のあたりが曲がっていて、そこに肘を懸けたようである。
 松の先を標識に従い、右に下ると、4m近い常夜燈が立っている。分か去れの常夜燈である。かつてはここに洗馬追分の道標も置かれていたが、少し先に移されて道祖神と一緒のところに置かれている。「右中山道 左北国往還 善光寺道」とある。芭蕉は更科紀行で、ここ洗場宿追分で中山道と分かれて、更科姥捨、善光寺へと向かったのだ、と思いをはせる。
 洗馬宿は木曽義仲の馬を洗ったところから名づけられたとのこと。その清水が「あうた(邂逅)の清水」として今も湧き出ていて、「塩尻市ふるさと名水20選」に指定されている。私たちは、ここの冷たい水と檜の木陰で元気を取り戻し、歩みを進めた。
 洗馬宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠屋29軒の宿場だったが、鉄道が開通して、本陣、脇本陣の庭は洗馬駅となり、昭和7年の大火で昔の建物はほとんど焼失してしまったとのこと。ただ、国道と外れたため、宿場の雰囲気は残っている。
 本陣、脇本陣跡の碑、焼け残った古い旅籠屋、高札場跡の碑などを見て歩き、本山宿へ向かった。
 高札場跡に芭蕉の句碑。「つゆはれてわたくし雨や雲ちぎれ 芭蕉」
 
第32次・本山宿へ
 洗馬宿から本山宿までは3.3キロの道中。しばらく歩くと、「牧野一里塚之跡」と墨書した木製の標柱が立てられている。柱には小さな屋根が付けられていて、これまで見てきた石の一里塚碑とは趣を異にしている。
 さらに歩くと、中山道本山宿の碑と秋葉神社(火防の神様)と石塔群。そして500メートルほど先に、「本山そばの里」と染めた緑色の幟旗が見えた。昼食を本山宿の蕎麦で、と決めて歩き続けてきたので、緑色の幟旗に引き寄せられるように歩みが速くなる。
 本山宿はそば切り発祥の里、とのこと。地元の主婦の方たちが経営する店は、ソバ畑に囲まれて建っている。とろろ芋やネギも畑に植わっていて、手づくりムードが漂うお店である。昼食時を過ぎているのに、駐車場は満車状態。店の中に、食べ終わって帰る人と入れ替わりに入ることができた。
 「手打ちそば、そば団子汁、そばの実、そばの若菜のおひたし、そば餅」をセットにした宿場御膳を食べた。手打ちそば以外は初めて食べる味で、どれもおいしく、そばづくしの御膳だった。
 食事の後は、静かな宿場を見て歩き。日曜日だというのに子供の姿が見えない。暑いので、家の中にいて出てこないのかな、などと話しながら歩く。
 本山宿は本陣1、脇本陣1、旅籠屋34軒の中規模の宿場。宿場の中ほどに出梁造りの旅籠屋が3軒連なっている。そこで写真を撮っていると、川口屋の御主人が、家の前に止めてあった軽トラックを車庫に入れるので、写真を撮りなおして行ってほしい、と話しかけてきた。この家は、二重の出梁造りになっている貴重な建物で、維持、保存に努めているとのことであった。
 川口屋の向かいが本陣。「明治天皇本山行在所跡」の碑が立っている。雀オドリの付いた立派な建物で、和宮様が泊ったと思われる。
 脇本陣跡は広場になっていて、中山道碑と本山宿碑が置かれている。
 本山宿は洗馬宿のような大火もなく、国道から外れているためか、古い建物が残り、屋号を掲げた家が多く、宿場の情緒を大切にしているようであった。
 本山宿を出ると、両側から山が迫り、その間を、旧中山道、国道、鉄道が通り、いよいよ木曽谷に入る、という感がある。
 しばらく歩くと、一里塚跡の標柱。「江戸より61里、京へ71里」とある。昨年、4月に日本橋を出発して随分歩いてきたが、京はまだまだ先、まだ道半ばに達していないんだ、と話しながら日出塩駅に着いた。
 日出塩駅は乗降客が減って、無人駅になってしまった、と木曽の山奥からこの地に嫁いできたという、91歳になる元気な女性が昔語りをしてくれた。
(第12回の歩数:19,132歩)

 参加者=吉田、藤巻、宮下、高柳、池田、清水、山浦るみ子(旧:大井、8組)の7名。

平出一里塚

洗馬宿・細川幽斎肘懸の松

本山そばの里、手前にそばの花、ネギ

本山宿・旅籠屋
第11回 下諏訪から塩尻へ  (10/7/4)
下諏訪から、塩尻峠を越えて塩尻へ
 第11回は、7月4日(日)。下諏訪駅に集合して、昼食用に、駅前の諏訪湖産・水産物店で「うなぎ弁当」を買い、塩尻峠へ向かって出発。
 駅から大社通り(中山道)に出て、しばらく歩くと、魁塚(相楽塚)が道路より一段高い所に作られている。偽官軍とされて下諏訪宿で処刑された、幕末の尊王攘夷派の志士、相楽総三を祀ったものだという。
 春宮大門を右に見ながら、大門通りを渡り、富士見橋では、天気が良ければ見えたであろう富士山の方角を眺める。道端にある道祖神にも4本の御柱が立てられているのが諏訪らしい。
 伊那道道標を過ぎたあたりから、旧中山道らしい雰囲気の道が続く。左右には、雀オドリのついた立派な家が並び、庭には樹齢数百年の松の古木が枝を伸ばしている。良く手入れがされていて、それぞれに風格(松格?)がある。
 東堀信号で国道を渡るとすぐに、一里塚碑が。江戸より56里とある。このあたりは、家を白壁と板で囲った「建グルミ」の家が並ぶ。
 塩尻峠道に入る手前に、今井番所跡の碑。高島藩の穀留番所で、名主の今井家が番所役を務めたとのこと。この向かい側に、うっそうとした木立に囲まれた今井茶屋本陣がある。塩尻峠を越えてきた和宮様も休まれたとのこと。
 中央道・岡谷ICを下に見て、丸山坂を上る。途中の石船観音横の鳴沢からほとばしり出る金名水でのどを潤し、山道をひたすら登る。木陰道なのがありがたい。正午を過ぎたが、峠の展望台で昼食、と決めていたので、ひたすら上る。道端にグミ、モミジイチゴ、クワの実を見つけると、小鳥になった気分で食べ、甘酸っぱい果汁で疲れを癒す。
 峠の頂上は標高1058.8m。展望台の上で、諏訪湖を見下ろしながら、持ってきたうなぎ弁当を食べた。あいにく曇っていて、英泉も絵に描いた富士山は見えなかったが、眼下に広がる諏訪湖とそれを取り巻く街並み、雲の切れ間に見える八ヶ岳の景観はすばらしい。トイレも整備されていて良かった。
 峠を少し下ったところに、築後200年という本棟造りの茶屋本陣。建物は手入れがされていて、居住している。明治天皇にお茶を出すのに使ったという井戸は今も水をたたえていた。
 少し下ると、林の中に街道を見下ろすように、2体の赤い前垂れをしたお地蔵様が並んでいる。「夜通道地蔵」とのこと。美しい娘が、夜ごと、峠を越えて岡谷の男性のもとへ通っていた伝承から名付けられたというが、「男が通うならわかるが、娘が通うのは何か事情があったにちがいない」などと話しながら歩く。
 人家や畑が見えてきた所に、東山一里塚。北側の塚は開拓のため崩され、南側の塚のみ現存している。元和2年(1616)塩尻峠が開通し、それまでの牛首峠経由で諏訪に通じていた経路が変更されて設置されたとのこと。
 長井坂を下り、塩尻宿までの街道沿いには、雀オドリのついた本棟造りの民家が並ぶ。塩尻は、縄文時代からの集落跡(平出遺跡)があり、交通の要衝でもあり、古代から豊かな地だったのだろう。
 畑の中に、首塚の碑。周囲には真っ赤な花を咲かせているスイセンノウ、赤い実をならせたイチゴなどが植えられている。武田信玄が信濃に進攻し、塩尻峠の合戦で小笠原長時を破った後、この地で首実験をして首を刎ね、800体もの死体を放置して引き揚げた。武田軍が引き揚げた後、村人がこの地に埋葬し、塚を作って弔った、とのこと。
 塩尻宿の入口近くの永福寺には藁ぶき屋根の観音堂が一段高いところに建てられている。木曽義仲ゆかりの駒形観音を祀っているとのこと。木曽義仲は木曽・宮の越で兵を挙げ、塩尻峠を越えて小県、佐久地方で募兵したという。駒形観音を祀るのは、馬が戦の主力であったからであろう。
 
第30次・塩尻宿
 長井坂を下りて、ようやく「是より西 中山道 塩尻宿」の碑。塩尻宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠屋75軒。交通の要衝で、信州の中山道最多の旅籠屋数を誇ったという。
 しばらく歩くと左側に、三州街道の碑。伊那、飯田を経て三河に至る街道で、太平洋産の表塩の入る道であった。ちなみに、「塩尻」の地名は、日本海産の裏塩と太平洋産の表塩が入る接点にあったから、という。
 右側には、「松本藩 塩尻口留番所跡」の碑。松本藩が設置した穀留番所が置かれていた。
宿場の中ほどにある、国重文の旅籠屋・小野家は保存工事中で半分が覆われていて見れないのが残念だが、大規模な旅籠屋であったことがうかがわれる。
 向かい側に、本陣跡の碑。造り酒屋を兼ねていたようで、入口に杉玉と「笑亀 醸造元」の看板が掲げてある。
 脇本陣跡には、どうやって持ってきたのであろうかと思うほどの巨石と大小さまざまな石を並べた枯山水庭園が残っている。
 塩尻宿を出たところに、国重文の堀内家住宅。18世紀末の豪農の家で、雀オドリのついた本棟造りの豪壮な家である。屋根は、板に石を載せた当時の状態を維持している。脇奥に今風の家を新築して住み、予約者に限って中を公開しているようであった。
諏訪から塩尻まで歩いて、雀オドリのついた本棟造りの建物がたくさん残っていて驚いた。しかも多くは居住している。昔の建築物の保存と、今の生活との調和についていろいろ考えさせられた旅であった。
 塩尻市には、中山道の宿場として、塩尻宿、洗馬宿、本山宿、贄川宿、奈良井宿の5つがある。また、善光寺街道の郷原宿、三州街道の小野宿を合わせると7つの宿場を有している。また、塩尻市では、明治時代からワインが造られてきて、現在、9つの醸造所があり、各種の国際コンクールで優秀な成績を収めているという。縄文時代からの歴史と伝統・文化を受け継ぎながら、新しい歴史を作っていくことを市のコンセプトにして取り組んでいるようである。
 今回の旅はここまでとし、中山道から離れて塩尻駅に向かった。 
 (第11回の歩数:21,624歩)

 第11回は、塩尻峠越え。梅雨の時期でしたが、曇り空の中を快適に歩きました。この地方特有の雀オドリのついた建物が沢山残り、今に住み継がれていることに感嘆しました。(清水)
参加者=山浦、吉田、宮下、池田、清水の5人。

今井茶屋本陣

塩尻峠展望台

塩尻宿本陣跡

雀オドリを持つ民家(国重文)
               
               


inserted by FC2 system