(5)柏原宿から三条大橋 | 会報「うえだ」86号(大津宿から三条大橋へ) |
(4)中津川宿から柏原宿 | 会報「うえだ」85号(醒井宿から大津宿まで) |
(3)塩尻宿から落合宿 | 会報「うえだ」84号(河渡宿から柏原宿まで) |
(2)坂本宿から下諏訪宿 | 会報「うえだ」83号(大湫宿から加納宿まで) |
(1)日本橋から松井田宿 | 会報「うえだ」82号(中間地点から大湫宿まで) |
会報「うえだ」81号(長久保宿から宮ノ越宿まで) | 会報「うえだ」80号(坂本宿から長久保宿まで) |
会報「うえだ」79号(蕨宿から横川まで) | 会報「うえだ」78号(日本橋から板橋まで) |
第21回 柏原宿から高宮宿まで (12/4/21−22) | ||
第61次・醒井宿へ 4月21日(土)、柏原駅に集合して、柏原宿の街並みをなつかしく思い出しながら歩く。1カ月前は雪、今回は桜が満開。伊吹堂の福助像をガラス戸越しに見ることができた。 宿場のはずれの仲井川橋の脇に一里塚が移設されている。川沿いは桜並木になっていて満開を少し過ぎたところで、時折、花吹雪が舞い美しい。街道沿いは、松と楓の並木になっている。芭蕉の句、「行く春を近江の人と惜しみける」を思いながら歩く。 右手の小高い山の上り口に、北畠具行墓の標識。後醍醐天皇の倒幕に参加したが敗戦、処刑され、ここに葬られた。 同行の清水淳郎氏によれば、更にこの奥の徳源院には佐々木京極氏墓所があり、佐々木道誉など歴代の宝篋印塔が建ち並ぶ有様はみごと。また、丸亀藩主京極高豊が寄進した三重の塔が建てられているとのこと。 小川の関碑のそばのカフェテラスで昼食。小川坂は、杉林の中の廃道に近い道。道の真ん中はぬかるみで歩ける状態ではないので、道路脇の杉の枯れ枝葉の上を歩いて進む。 坂を下ると梓川沿いの舗装道路。松並木が街道歩きの気分にさせる。 しばらく歩くと、一里塚の跡の碑。旅人が都の方を眺めて休憩したという、仏心水、鶯ケ端がある。能因法師は、「旅やどり ゆめ醒井の かたほとり 初音もたかし 鶯ケ端」と詠んだとのこと。 醒井宿に入る。宿場入口の桜は花びらが散り、しべ桜になっていたが、花びらが「居醒の清水」の水面に浮かび、えも言われぬ美しさ。 日本武尊が伊吹山の大蛇退治に行って正気を失ったが、この清水を飲んで覚醒したという居醒の清水は、石の間からこんこんと清冽な水が豊富に湧きだし、宿場の中を流れている。清流にはバイカモが生え、小さな白い蕾が見える。清流にしか棲まないというハリヨという小魚が生息しているとのこと。 醒井宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠屋11軒の比較的小規模な宿場だが、問屋場は7か所もあったという。 本陣跡は樋口山という料理屋になっていて、本陣門だけが江龍家の門として移築されて残っている。問屋場は資料館となっているが、脇本陣、旅籠屋は残っていない。ヤマキ醤油屋が健在で営業している。お土産に「伊吹産大豆、長浜産小麦、醒井の名水使用」という本醸造醤油の小ビンを買って帰った。味わいのある醤油であった。 宿場を歩くと、十王堂があったところに十王水、西行が立ち寄ったところに西行水、と清らかな水が湧き出し、水の流れが昔も今も変わらない宿場である。 第62次・番場宿へ 醒井宿を出ると、旧中山道は国道に吸収され、しばらく国道を歩く。名神高速道路米原インターに向かう車だろうか、トラックが高速で走り、歩いているのが怖いほどである。「中山道」の標識が指し示す旧道に入るとホットして話をしながら楽しく歩く。 途中の樋口立場は、昔、茶屋があり、宿場と宿場の間のお休み処。ここは霊仙山からの小川が流れている。 国道を渡り、三吉集落を過ぎ、高速道路・米原ジャンクションの下をぬけると、大きな中山道の石碑、久禮の一里塚である。 右手が山、左手が田畑の街道情緒のあるゆるやかな上り道を歩くと、花の盛りを過ぎてはいるが、みごとな枝垂れ桜と楓の並木。自然木に「番場宿」と書いた看板があり、ここから宿場の街並みが始まる。 番場宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠屋10軒の小宿だが、米原湊を経て琵琶湖の水運に通じる宿として設けられた。 本陣、脇本陣は跡の碑のみだが、問屋場跡の碑が数か所あり、それぞれ古い建物が残っている。 宿場の中ほどにある、南北朝の古戦場・蓮華寺入口の標識から、山際にある蓮華寺に向かう。寺は、一向上人を開山上人と仰ぎ、歴代天皇の帰依厚く勅使門がある。勅使門のすぐ手前を高速道路が通っている。別のルートにできなかったのかと、寺に替わって憤慨した。 また、1333年、京都を追われ鎌倉へ向かった北条仲時以下432名がこの地で自刃した。境内の奥に430余の大小さまざまな五輪塔の供養墓碑が並ぶ。 番場宿といえば、長谷川伸の小説の主人公、番場の忠太郎の出身地である。寺の境内の奥の山際のミツバツツジの花に囲まれて、忠太郎地蔵尊がたっている。長谷川伸が建立したとのこと。 ここから、深坂道を通って、米原宿の旅館に向かい宿泊した。米原宿の入口に、「右中山道 左北陸道」と刻んだ石碑が立っている。 米原宿は米原湊が開かれ、湖上交通の要衝として賑わった。江戸時代に始まった曳山祭りは「山を見るなら長浜、芸を見るなら米原」と言われるほどだった。今も、10月におこなわれているとのこと。 (第21回一日目の歩数:23,299歩) 第63次・鳥居本宿へ 朝起きると雨。予報では、午後は激しく降るとのことだったので、早めに出発した。 昨日、通った深坂道を引き返し、番場宿の中を過ぎ、名神高速道路脇の付け替え道路を通り、摺針峠上り口までタクシーで進む。 上り口にある中山道道標の示す方に向かって歩くと、摺針集落。ゆるやかな上り坂の両側に古い家が立ち並び、背後に山が迫る。 急坂の上に、琵琶湖を見下ろす中山道第一の景勝地といわれた望湖堂が建つ。火災で焼失し、建て替えたものとのこと。見下ろすと、雨に煙って琵琶湖がかすかに見える。晴れていればさぞかし、と思う。 「旧中山道」の標識にしたがって急坂をソロソロ下ると、「おいでやす 彦根市」と側面に刻み、上に旅人と近江商人像がのった3つの石柱が迎えてくれた。ここから鳥居本宿。土蔵造りの商家、藁ぶき屋根の家、合羽屋の看板を掲げた家などが並んでいるが、閑散とした街並みである。 名物赤玉の薬屋は神教丸本舗が一軒だけ残り、今も売っているという。豪壮な建物が往時の繁盛をうかがわせる。 天候が急変するため、旅人に合羽が良く売れたとのことで、合羽屋が何軒もあったようだ。現在は、看板が残るのみ。 本陣1、脇本陣1、旅籠屋35軒で宿場としては規模が大きかったが、今は、本陣門の扉が物置の扉になっていて痛々しい。宿場資料館などもなく、人気もなく、さびしい宿場である。 風雨ともに激しくなってきたので、鳥居本駅から電車で高宮宿に向かうこととした。 第64次・高宮宿へ 高宮宿は、本陣1、脇本陣2、旅籠屋23軒、宿内人口3560人で本庄宿に次ぐ中山道第二の大宿であったとのこと。 多賀大社の門前町として賑わい、また、高宮上布の集散地として、豊かな経済力を誇っていた。ベンガラ格子や袖卯建を持つ家が多く見られる。 宿の中ほどに多賀大社一の鳥居が建っている。「どうやって組み立てて建てたんだろう」と思うほどの石の大鳥居である。 本陣は門が現存している。その向かい側に、脇本陣、その隣の円照寺には家康が大阪夏の陣の時に休憩したという石がある。 宿場のはずれの犬上川(高宮川)に架かる、むちん橋のたもとには無賃橋地蔵が祀られている。天保3年に地元有志が通行無料の橋を架けたことから「むちんはし(無賃橋)」と呼ばれ、昭和7年にコンクリートの橋に架け替える時に、橋脚の下からお地蔵様が出てきたので、お堂を作って祀ってあるとのこと。通行量の多さと地元商人の財力がうかがえる。 高宮宿は芭蕉にゆかりの深い土地で、高宮神社には「をりをりに伊吹を見てや冬籠る」という芭蕉の句碑が残り、小林家には芭蕉が着ていた紙子を埋めた「紙子塚」があり、芭蕉はここで「たのむぞよ寝酒なき夜の古紙子」と詠んでいる。 高宮宿はかつての商家を宿駅にしたり、高宮駅をコミュニテイーセンターにするなど、宿場歩きを楽しめるように整備してあり、また、町の人も「おいでやす」の気持ち溢れる人が多く、ゆっくりしたいところだったが、午後、彦根城を見学する予定にしていたので、電車で彦根駅に向かった。 彦根城見学 彦根城は、お城に詳しく著書もある、清水淳郎さんが見どころを案内してくれた。 中堀の沿道の、いろは松を眺めながら表門橋に向かう。城内に入る前に、橋の手前の、堀沿いの道を50mほど行ったところにある、井伊直弼・青春時代の館、を見る。14男として誕生した直弼は、17歳から32歳までの15年間ここで暮らした。「世の中をよそに見つつも埋れ木の埋もれておらむ心なき身は」と詠み、文武両道の修練に励んだとのこと。 彦根城内の表御殿が博物館になっていて、ちょうど国宝・彦根屏風が公開されていた。ので鑑賞した。当時の遊里の様子が微細に描かれた風俗画である。 博物館(表御殿)には、寛政12年に造られた能舞台が修理・復元されていて、毎年能や狂言の会が開催されている。また、井伊の赤備えを始めとした武具、能衣装、家具調度品が展示されていて、時代を越えて伝わる本物の迫力がある。 国宝・天守は三階三重の屋根の組み合わせが美しい。ただ、急な階段を上らなくてはならず、足腰が弱った人にはきつい。また、彦根城は、彦根山の上に造られているので、天守入口にたどりつくまでに、彦根山を喘ぎながら上らなければならない。 天守の上からは、眼下に琵琶湖が見え、三成が築城した佐和山も間近に見える。 天守閣を下りて、彦根山を下り、内堀に架かる黒門橋を渡り、玄宮園に向かう。近江八景を模して造ったという回遊式庭園で、ここから見上げる彦根城の眺めはすばらしい。 この後、現在は開国記念館になっている佐和口多聞櫓などを見て、第21回の旅は終わりとした。 (第21回二日目の歩数:14,464歩) |
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参加者=藤巻、宮下、安武、山浦ひろみ、山浦るみ子、清水計枝、清水淳郎、清水正宣、池田の9人。 天気が悪い、との予報だったが、1日目は曇りで快適な中山道ウォーク。1カ月前の柏原宿は吹雪、今回は桜が満開。醒井宿に向かうと、花びらが散って、しべが残った状態、しべ桜、というのだと教わった。花びらが水面、踏み石、石灯籠の上に散り敷いた景色は、芭蕉が詠んだ「行く春」の風情。翌日、風雨強い中を摺針峠に上るとほぼ満開の桜。彦根城の桜は散って、しべ桜。1週間前までは、満開で桜祭りだったとのこと。ただ、道中の山中には山桜が咲き、ここはまだ春よ、と言っているよう。季節の移ろいと、行く春を感じながらの近江路の旅でした。KAZU・清水 |
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醒井宿・居醒の清水 |
番場忠太郎地蔵 |
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高宮宿・多賀大社一の鳥居 |
彦根城 |