中山道69次を歩こう(5)

     (5)柏原宿から三条大橋    会報「うえだ」86号(大津宿から三条大橋へ)
     (4)中津川宿から柏原宿   会報「うえだ」85号(醒井宿から大津宿まで) 
     (3)塩尻宿から落合宿   会報「うえだ」84号(河渡宿から柏原宿まで)
     (2)坂本宿から下諏訪宿  会報「うえだ」83号(大湫宿から加納宿まで)
     (1)日本橋から松井田宿  会報「うえだ」82号(中間地点から大湫宿まで)
 会報「うえだ」81号(長久保宿から宮ノ越宿まで)  会報「うえだ」80号(坂本宿から長久保宿まで)
 会報「うえだ」79号(蕨宿から横川まで)  会報「うえだ」78号(日本橋から板橋まで)
  
第24回 大津宿から三条大橋へ  (12/12/1−2)
京都三条大橋へ
 12月1日(土)、大津駅に集合して、昼食後、京都に向けて最後の旅。以前に歩いた友人から、「しっかり歩かないと、日暮れまでに京都に着かない」と言われていたので気持ちを引き締めてスタート。
 国道161号を歩いてしばらく行くと、京阪電鉄線が右手から国道沿いに出てくる。線路の踏切を渡った先に石の鳥居があり、奥には立派な舞殿が見える。関蝉丸神社下社で、平安時代の琵琶法師・蝉丸を祀っている。
 逢坂山への上り道を行くと、安養寺の山門前に「逢坂」の石碑が立っている。ここから、上り道が急坂になる。逢坂は畿内と近江を結ぶ交通の要衝、急坂を少しでも緩和しようと、何度か掘り下げられたため、道の両側は石垣の絶壁になっている。
 坂の途中の、山の中腹に赤い鳥居の関蝉丸神社上社が建っている。蝉丸は、逢坂山に庵室を作って住んでいたとのこと。「これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関 蝉丸」は百人一首で良く知られている。逢坂の関の情景を良く表している歌だと思う。
 ちなみに、百人一首にはこのほかに次の2首が採られている。「名にし負わば逢坂山のさねかずら 人に知られで来るよしもがな 三条右大臣」「夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関は許さじ 清少納言」。
 逢坂山弘法大師堂の先で、これまで国道に沿っていた京阪電鉄線はトンネルに入ってしまう。石垣の上の紅葉を眺めながら、ひたすら歩き、上りきったところに、「逢坂山関址」の碑が立っている。ここから旧道に入る。
 「日本一のうなぎ料理」の看板を掲げて、香ばしい匂いを漂わせている店の前を通り過ぎると、右手に立派な「蝉丸神社」の境内がある。琵琶法師・蝉丸を祀り、音曲芸能の神として信仰されている。参道の入り口には車石が置かれている。
 車石は、大津、京都三条大橋間の東海道12キロに、物資運搬のために花崗岩の切り石を敷き詰めて、牛車専用道を作った名残。江戸時代に一万両の工費をかけて造られたとのこと。今は、逢坂山を掘り下げ、自動車の通る舗装道路になったため、不要となり、沿道のあちこちに置かれている。
 大谷茶屋のところで歩道橋を渡り、国道の歩道を歩く。国道(東海道)と高速道路と京阪電鉄線が並んで走り、両側は山である。地名も、「大谷町」「竹鼻忠兵衛谷」「竹鼻火打谷」など、「谷」の地形を表している。
 しばらく行くと、平安時代から知られる「走井の泉」があり、明治天皇も休息したという月心寺。
 名神高速道路の高架下を潜った先を左折して国道と別れ、旧道に入る。地名も「追分町」になり、佛立寺の先に、追分道標がある。「ひだりハふしみみち みぎハ京のみち」と刻まれていて、その脇には「京都市・大津市」境界標識が立てられている。いよいよ京都である。
 古い町屋が所々に残る通りを歩き、国道に突き当たると、旧東海道を歩いている人はこの跨線橋を渡ってください、と書いた看板が立てられている。旧道を歩く人が多く、ここで戸惑うのだろう。
 渡った先をしばらく歩くと、山科駅が見えてきた。山科までくれば、あと一息、と思ったが、まだ中間地点である。
 三条通りとの交差点の先で東海道本線のガードをくぐり、天智天皇陵へ続く道のすぐ手前を左折して、日ノ岡峠への細い道を上る。逢坂山と並び称された難所、というだけあって、きつい上り坂道である。車がかろうじて一台通れるほどの細い道だが、「東海道」の碑が立てられているので旧道に間違いない。
 車が行き交う三条通りに合流した所が休憩所になっている。休憩所の真ん中に、車石を敷いた上に、俵を積んだ荷車が置かれている。蝉丸神社の入口で車石を見た時に、敷き石の傍らに、溝のついた石柱があり、牛を繋いだ石かしら、と言い合ったが、荷車を置いて休むための石だったことがわかった。
 三条通りを500メートルほど行くと、九条山の信号。ここから道は下り道になる。下って行くと、地下鉄東西線・蹴上駅の上に、レンガ造りの隧道がある。明治時代に建設されたインクラインの遺構である。
 蹴上で三条通りは左に曲がり、三条大橋に続いている。三条通りは新旧の町屋が建ち並んで人通りも多い。左側に、知恩院入口、の看板。しばらく歩くと、右側に平安神宮の赤い鳥居が見える。
 白川橋を渡ると、三条大橋が見えてくる。左手には、御所に向かって遥拝する勤王の志士・高山彦九郎像。三条大橋の手前で記念撮影してから橋を渡る。
 弥次喜多像のところで、上田高校の旗を持った64期生が出迎えてくれた。上田から松木俊明、松崎照二さん、小諸から吉田満子さん、大阪から宮坂昌之さんの4名である。上田高校の旗は、同期の縁で結ばれて旅をしてきたので懐かしく、感無量だった。
 この後、宿泊するホテルに移動し、夕食、懇親会で夜が更けた。懇親会には、仕事で遅くなったが清水洋二さんも駆けつけてくれた。
 翌日は、早朝、西本願寺に特別参拝し、白書院、黒書院、飛雲閣、唐門などの桃山時代の建造物を見せていただいた。この後、グループに分かれて京都の秋を楽しんだ。 
(第24回一日目の歩数:19,416歩)
 
 「中山道69次の旅」は、2009年4月25日に日本橋をスタートし、2012年12月1日まで、36日間の旅であった。参加実人員は26人、延べ人員は271人。歩いた歩数は733,513歩。楽しく、街道の今昔を見ながら、交友を深めた旅であった。


参加者=初参加、柳澤信義さん(3組)。清水計枝(1)、清水正宣(1)、関川哲(4)、山浦ひろみ(5)、安武知子(5)、山浦るみ子(8)、藤巻禮子(9)、宮下明子(9)、林久美子(9)、池田有美子(69期)の11人。出迎えと懇親会は松木俊明(1)、松崎照二(1)、宮坂昌之(1)、清水洋二(1)、吉田満子(8)(敬称略)

  <初参加の柳澤さん(3組)
 以前より中山道69次の旅が続けられている事を知っていましたが、機会が合わず、今回最終回の京都の上がりで初めて参加しました。しかし、振り出しが無くて上がりだけというのも旅の構成上で変かな?と考えて、東京に住む私は日本橋から品川宿までの2里半を歩いてから品川駅で新幹線に乗って京都に向かいました。(私だけ東海道53次の旅のつもりです。)
 大津駅からは皆さんと一緒に歩いて京都三条に向かいましたが、女8人に男3人でしたので(多くの男子は京都で参加者の到着を待っていた事が後ほど分かりましたが、道中は女子が中心なので)、色々なキャンデーが廻ってきたり、どこそこの歴史よりもスイ―ツの話題で盛り上がったりで、やはり女の子の旅行だな、と思いました。男子にとっては歩幅や話題の違いからやや居場所がそぐわないような感じもあるかもですが、私は一人でじっくり史跡の詩文を読んだり、撮影したり、旅の風情に十分に浸ることができて大変満足な旅でした。(途中小雨がありましたがこの旅で雨は珍しいことだそうで、初参加の私がその原因にされた時以外には特に注目されることもなく、ひっそりと後尾に付いて行きましたので。)
 京都三条に到着すると、橋のたもとになにやら赤いちゃんちゃんこをきた花咲爺さんのような変な一団が目に入りましたが、良く見ると真田六連銭の旗と陣羽織を持ってわざわざ上田市から駆けつけてくれた真田勇士だったと気付いて大変驚きました。そして、京都の夜は平安ホテルで大歓迎会、旅の打ち上げでした。クラスが違ってもやはり同期なので、在校時に会ったことが無くても話題の共通性や思い出しがたくさんあって楽しかったです。
 また今回の旅行では、思いがけず感動的な同期の助け合いの場面にも遭遇して、ふと我々の絆は何かな?どこから来るのかな?など思いました。(やはり我々は今も団塊の同期生であるので、いつもの学年よりクラスの人数が多いため12人制の野球チームを作って全員で遊んだ時のように、爺さん婆さんになっても全員で助け合う世代なのかな?と思います。)
 2日目は西本願寺の特別参観コースに参加させていただきました。藤巻さんのお計らいだそうですが普通には見れない場所まで見れて良かったです。清水計枝さんには旅のご案内、報告文、写真送付等、隅々までお世話していただき有難うございました。
 

逢坂山関跡

京都三条大橋・弥次喜多像

京都三条大橋 (女性)

京都三条大橋(男性)

懇親会(クリックで拡大)

西本願寺・唐門
第23回 草津宿から大津宿まで  (12/10/13−14)
第68次・草津宿へ
 10月13日(土)、前回到達した、今宿一里塚の少し先にある、栗東(りっとう)駅に集合して、中山道を少し戻り、大宝神社からスタート。大宝年間の創建という格式ある神社。神社の狛犬(国宝)は、創建時のものは木製のため、京都国立博物館に保管されているとのことで、写真を見せていただいた。
 また、境内入口の公園に芭蕉の句碑がある。「へそむらのまだ麦青し春のくれ はせを」、町名標示板にある「栗東市綣」を何と読むんだろうと言い合っていたが、この句碑で読みが判明した。この辺りは、栗東市になる前は、「綣村(へそむら)」だったとのこと。
 久しぶりの中山道歩きのうえ、天気も良かったので、一時間も歩かないうちに「休憩したい」という声があがる。平坦な道で、今は両側が住宅街になっているので、木陰のある、休むのに適当なところが見当たらない。木陰があったら、と言いながらしばらく歩くと、入口に「水準点」が設置された小公園があったので、緑陰はないが小休憩。
 少し元気を取り戻して、しばらく歩くと東海道本線を電車が通るのが見えてきた。草津はもうすぐ、と思うと足取りも軽くなる。「中山道→」の標示にしたがって鉄道の下を通り、線路沿いの道を行くと、伊砂砂神社。草津駅前を通り、アーケード街を抜け、草津川(天井川)の下の隊道を抜けると、右手に「草津宿高札場跡」が、左手に草津追分道標が見えた。
 草津宿は、中山道と東海道が合流するところのため、本陣2、脇本陣2、旅籠屋72軒の大きな宿場であった。
 現在、田中七左衛門本陣が国史跡に指定され、修復、公開されている。本陣屋敷は、建坪468坪と、五街道の本陣の中で最大級の規模とのこと。
 表には、この日の宿泊者を示す関札が掲げられ、表門を入ると、左手に番所が置かれ、中央に式台を持った玄関、その先には長い畳廊下が延びている。畳廊下の両側に従者、最も奥に主客の休泊する上段の間、その向かい側が向上段の間、その奥に主客専用の湯殿、雪隠を配している。
 和宮が江戸に向かった時、ここで昼食休憩したとのこと。その時の、料理の膳が展示してある。豪華昼食である。
 少し先にある、草津宿街道交流館では街道、宿場の資料展示のほか、「中山道踏破証」を草津市長名で発行している。私たちも申請して、発行してもらったが、3年余の旅を思い出し、感無量であった。
 草津宿を出てしばらくすると、野路一里塚跡。ミニ公園になっていて、塚はないが、草花が植えられ、若い松が生き生きとしていて、将来、大きく育つのが楽しみな一里塚である。
 すぐ先に、野路萩の玉川。鎌倉時代に宿場が草津に移るまで宿駅として賑わい、萩が川沿いにたくさん植えられていたとのこと。ボランティアの男性二人が掃除をしていた。花の時季を過ぎた萩の枝は切って整備されていて、「萩の玉川」らしい風情をだしている。
 道なりに進むと、弁天島が浮かぶ弁天池。池を過ぎてしばらく歩いたところで旧道を右折して、国道沿いにある、ニューびわこホテルで宿泊した。窓から琵琶湖が見える、天然温泉のあるホテルだった。
(第23回一日目の歩数:15,545歩)

第69次・大津宿へ
 10月14日(日)、8時にホテルを出て、旧道を歩く。月輪池のところに立場碑があるが「東海道立場跡」と刻んである。草津追分道標のところまでが中山道、そこから京都までは東海道らしいが、私たちの「中山道69次の旅」は、京都三条大橋まで続く。
 人家を縫うように続く旧道を歩く。所どころに「←旧東海道」の標示がありわかりやすい。
 しばらく歩くと「一里塚趾」の大きな石碑。松の植わった塚が明治末期まで残り、この辺りの「一里山」の町名はこの一里塚からきているとのこと。
 信号を渡って、旧道に入る所に「道標」が置かれている。「三条大橋迄五里余り、江戸日本橋迄百二十二里余り」とある。京都まであと一息、と思うとうきうきする。
 道なりに下ると、一級河川・高橋川に架かる、朱色の欄干の和田一号橋を渡る。左手の小高い丘の上が建部大社なので朱塗りの橋が架けられているのだろうが、橋の名称が「和田一号橋」とは何と平凡な、と思った。
 古い商家が並ぶ通りを下って行くと、瀬田川にかかる瀬田唐橋に着いた。交通の要衝にあったため、戦乱のたびに焼け落ちその都度架け替えられた。鎌倉時代に架け替えられた時に唐橋のデザインを取り入れ「唐橋」と言われるようになったとのこと。
 瀬田川のゆったりした流れを眺めて、はしのたもとでしばし休憩した。ボート、カヌー、カヤックが静かな流れを上へ、下へと漕いで行く情景はのどかで疲れを忘れた。
 瀬田唐橋を渡ると大津市内。京阪電車の踏切を渡った先を右折し、明治天皇御小休所の碑の前を過ぎて商店街を行く。旧道は東海道本線・石山駅に行きあたる。石山駅を通りすぎたところが、粟津ケ原。
 街道を少しそれて、今井兼平の墓に立ち寄った。今井兼平は木曽義仲の重臣。粟津原合戦で敗れた義仲に最後まで従い、壮絶な最期を遂げた。一角には兼平の墓のほか、粟津原合戦史跡顕影碑が立てられ、勝海舟、紅葉などの文が刻まれている。墓所を掃除して休憩している老人グループに挨拶すると、どこから来たのか聞かれ、信州出身だと言うと、長野県の人が良く来る、と言っていた。
 大津市内は城下町のため、道が鍵形に何度も曲がりわかりにくいが、要所要所に「←東海道」の標示があるので、それをたよりに進む。
 曲がり角の民家の前に、膳所城(ぜぜじょう)勢多口総門跡の碑があり、脇に小さな祠がある。所どころに古い民家があり、街道の雰囲気がある街並みがいい。
 京阪電車の踏切を渡ると、右手に若宮八幡神社。679年創建の歴史の古い神社。鳥居の先の表門は、明治3年に廃城になった膳所城本丸の犬走り門を移築したものとのこと。
 京阪電車瓦ケ浜駅の踏切を渡り、鍵形に曲がる道をしばらく行くと、右手に膳所城跡公園の入口の門が見える。
 膳所城は1601年、家康の命で籐堂高虎の縄張りで築いた城。琵琶湖に面して天守閣が築かれていた。膳所城跡を見学した後、少し早いが、うどん屋で昼食を食べ、旧道に戻った。
 「←東海道」の標識をたよりに、神社や寺の多い道を歩く。和田神社、響忍寺、石坐神社、など、地図を見ながら道をたどると、「膳所城北総門跡」の碑。膳所城は琵琶湖の岸に沿って、細長い城だったことを実感した。
 住宅地の中の道を歩き、ようやく「義仲寺(ぎちゅうじ)」に着いた。境内の中心に、ここ粟津ケ原で討ち死にした木曽義仲の墓所がある。手前に、小さな巴塚。巴御前は、後年、尼僧となって、この墓所の近くに草庵を結び、ねんごろに供養した。尼没後、この庵は無明庵と呼ばれていたとのこと。
 その後、寺は荒廃してしまったが、戦国時代、近江国守佐々木氏が再建し、貞享年間(1684〜8)に大修理がされた。この頃、芭蕉がしきりに来訪し、無明庵に滞在していた芭蕉を、元禄4年9月に訪ねた俳人又玄(ゆうげん)が詠んだ句「木曽殿と背中合わせの寒さかな」は有名である。義仲の墓の後ろ側に無明庵があるので、ここに泊った又幻が「背中合わせ」と表現したのであろう。
 芭蕉は、元禄7年、大阪で亡くなり、「骸は木曽塚に送るべし」と遺言したので、門人たちによりここに葬られた。芭蕉翁墓は木曽塚の右手に並んで葬られている。「行春をあふみの人とおしみける 芭蕉桃青」の句碑が山門を入ってすぐ右手に置かれ、側にバショウの木が植えられている。
 義仲の側女山吹御前の塚、山吹塚は、もとはJR大津駅前にあったが、駅の拡張工事に伴い、この寺に移されている。
 所々に、古い商家があり、旧道の趣の残る道をひたすら歩く。2万歩を越えると、足取りが重くなってくる。左手、坂の突き当たりに、とんがり帽子を載せたような滋賀県庁が見える。少し先に、「此附近露国皇太子遭難之地」碑。歴史教科書で教わった大津事件の碑である。
 その先の、国道161号線に突き当たったところが、かつて高札場が置かれていた「札の辻」である。残念ながら、札の辻は住居表示に残るのみで碑などはない。
 大津宿は、琵琶湖舟運の港町としても栄えた。本陣2、脇本陣1、旅籠屋71軒。旅籠屋の数は、中山道では、深谷(80)、塩尻(75)、草津(72)に次いで多かった。
 現在の大津宿は、旧道の所々に点在する旧商家のみで、本陣、脇本陣などの遺構はなく、札の辻に至っては、町名に残るのみで「碑」もない。
 旧道は、札の辻を左折して、国道161号線を進み、京都に向かうが、今回の旅は、春日町信号までとし、信号を左折して大津駅に向かった。次回は、いよいよ旅の終着、京都である。
(第23回二日目の歩数:24,708歩)


参加者=初参加、平林正明さん(1組)。藤巻、山浦るみ子、山浦ひろみ、宮下、清水計枝、清水正宣、関川、清水淳郎、池田の10人。

  <初参加の平林さん(1組)
 天候にも恵まれて素晴らしい旅になりありがとうございました。通算20km以上も歩いたにも拘わらず今のところ筋肉痛もでていません。名所、旧跡巡りとおしゃべりで同級生の元気な様子も確認できほっとしています。今後のお城巡りの参考となる本を清水さんからいただいたのも感謝です。いつも車での移動ばかりなので今回ゆっくり歩けたのが何よりのお土産。今後、東海道53次の旅を始めるようでしたら是非、またお誘いください。多謝・・・。
 

大宝神社

草津宿本陣

瀬田の唐橋 

義仲寺(クリックで拡大)
第22回 愛知川宿から守山宿まで  (12/6/2−3)
第65次・愛知川宿へ
  6月2日(土)、梅雨入り前で、天気を心配したが、薄曇りで歩き日和。
 近江鉄道・豊郷駅に集合して中山道を高宮宿方向へ向かう。豊郷駅近くの立派な「豊郷病院」は、事業家として成功した伊藤長兵衛が創設したとのこと。
 しばらく歩くと、石畑一里塚の片方が八幡神社の境内に見える。この辺りは、間の宿・石畑として栄えたところ。
 すぐ先に、旧「豊郷小学校」の校舎群。大学の校舎かと思われるほど立派な白亜のコンクリート校舎である。1937年、伊藤忠商事前身の伊藤忠兵衛商店専務・古川鉄次郎がアメリカ人建築家に設計させた当時としては珍しいコンクリート校舎と講堂を建設・寄贈したもの。現在、小学校はこの建物の後ろに新築され、旧校舎は町の図書館、コミュニテイーセンターとして保存・使用されている。
 この校舎を見た後、中山道を引き返し、愛知川宿に向かった。
 豊郷駅入口を過ぎてしばらくすると、「くれなゐ園」、公園奥の中央に伊藤忠兵衛を顕彰する胸像が立てられている。商社丸紅が造園したとのこと。
 隣の伊藤長兵衛家屋敷跡には自然石の碑と黒御影石に7代目伊藤長兵衛の偉業として豊郷病院を私財を投じて創業したことが刻まれている。
 その隣の古い旧家は、伊藤忠兵衛屋敷で中を公開している。現在も、伊藤忠商事の新入社員研修では、この家を見学し、近江商人の初心を忘れないようにしている、と説明があった。
 古い旧家が点在する街道をしばらく歩くと、「金田池・水の香る郷」の標識。井戸をのぞくと水の気配はない。かつては、豊かな湧水をたたえた池があり、田畑の用水や旅人の喉を潤していたようだ。
 その先、右側に「又十屋敷」の立て看板。蝦夷松前で活躍し財をなした藤野喜兵衛(屋号又十)の屋敷。現在は資料館として有料開放されている。入口から建物の奥を見ると、立派な庭園が見え、涼しげで、一休みしたくなったが、先を急いだ。
 千樹寺に隣接した通り沿いに、「江州音頭発祥地」の碑。寺が焼失し、藤野喜兵衛(又十)によって再建されたとき、余興で、経文に節を付け身振り、手振りで踊ったのが始まりだという。
 宇曾川にかかる歌詰橋を渡り、しばらく歩いて、ようやく「中山道 愛知川宿」と書かれたゲートが見えてきた。
 近江商人の郷、というだけあって卯建のある商家など、立派な家が建ち並んでいる。大きな蔵のある近江商人屋敷には「近江商人亭」という看板がかかり料亭になっている。旧旅籠屋は料理旅館になっていて、この旧旅籠屋・竹平楼には明治天皇が泊ったとのことで、「明治天皇御聖蹟」の碑が入口脇に立てられている。
 愛知川宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠屋28軒だったが、本陣跡は日本生命ビルになり、脇本陣跡は標識もなくどこかわからない。商人屋敷などが立派に残っているのと対照的な宿場の現状は、やはり「商人の町」だからであろうか。
 宿場の中ほどに、小さな「愛知川宿公園」が造られていて、広重の浮世絵をはめ込んだ碑と明治4年郵便創業時と同じものを再生した黒塗りの書状集箱が設置してある。この書状集箱は現在もポストとして機能しているので、郵便物の投函可能、と書いてあるが、実際に利用する人がいるかどうかは不明。
 平将門の首を洗った、という不飲川に架かる橋を渡ると、愛知川宿出口のゲート。
 
第66次・武佐宿へ
 愛知川宿を出て、国道に合流し、しばらく歩くと、右手奥の空き地に、中山道122番目の「一里塚跡」の碑がポツンと立っている。
 愛知川の手前に祇園神社。入り口の角に立派な常夜燈が立てられている。川の対岸にも同じ常夜燈があり、昔は、この2つの常夜燈を結ぶところに、地元の有力者らが資金を出して「むちん橋」が架けられていた。明治天皇行幸のとき、馬車が通れる新しい「御幸橋」に架け替えられたとのこと。
 御幸橋を渡り、対岸の常夜燈のところから旧中山道に入る。街道の土産として売られていたという小幡人形屋が1軒。ショーウインドウの中には、年賀切手に採用されたという干支の人形や大黒さまの人形などが飾られている。往時は数軒が店を並べていたという。
 両側に立派な家が建ち並ぶ旧中山道を歩く。このあたり五個荘は近江商人輩出地の一つで、財をなした商人たちの豪邸が多い。近江商人博物館には天秤をかついだ近江商人像が置かれているとのこと。
 用水路沿いの道をしばらく歩くと、門の外に大きな梵鐘が置かれた家。西沢梵鐘鋳造所で300年の歴史がある。塀の中をのぞくと作業所が見えた。
 家並みが途切れた先の田圃の角に常夜燈が立っている。「左いせ、右京道」と刻まれている。伊勢神宮と多賀大社を結ぶ道の標識のようである。
 北町屋集落には入る。右側に「わがまち一番」の看板のかかった豪邸。江戸時代から呉服繊維商として活躍した市田家、とのこと。
 県道を横断した先に、美しい茅葺屋根の旧家。家の角に金毘羅大権現常夜燈が置かれている。旧ういろう屋で、かつては街道をゆく大名や公家が休憩したようである。
 国道と合流する手前に、天秤をかついでいる近江商人像が置かれている。ここまでが「てんびんの里」といわれる近江商人輩出地である。
 国道を渡って旧道に入ったところが清水鼻立場で、旅人の喉を潤した清水鼻の名水が今も湧き出している。甘くおいしい水で渇きを癒して、しばらく行くと、また国道に合流し、トラックが行き交う道を歩く。
 新幹線ガード下をくぐり、しばらくすると前方にうっそうとした森が見えてきた。の森である。
 昔、この辺りは水が湧き出す湿地で人が住めなかった。石辺大連翁が松、杉、檜などの苗を植えたところたちまち大森林になった。大連は百数十歳を過ぎても若く元気だったことから「老蘇」と称され、この森を「老蘇の森」と呼ぶようになった、とのこと。
 この森の中にある神社本殿は織田信長が柴田家久に造営させたもので、国重文に指定されている。
 生垣のきれいな住宅街を進むと、こんもりとした木立の手前に武佐宿「大門跡」の標識。木立の森は「牟佐神社」。常夜燈の脇に東の「高札場跡」の標識。後ろはゴミステーションの小屋、というのが現代風である。
 武佐宿は本陣1、脇本陣1、旅籠屋23軒の宿場。京から武佐宿まで11里、健脚の旅人の1泊目の宿として利用されたようである。
 宿場通りは旧家が残り、宿場情緒がただよう。脇本陣跡には大きな木戸門が立ち、奥は武佐町会館になっている。本陣門・屋敷は健在で、小学生が作ったという案内標識が架けられているのがうれしい。
 残念なのは、本陣向かい側にあった、宿場内にただ一つ残っていた旧旅籠・旅館中村屋が2年前に漏電による火事で全焼してしまったこと。中村屋の跡地には、こじんまりとした家が建てられていて、老夫人が庭に植えた草花に水を遣っていた。聞けば、古い宿場資料を保存していたが、築200年の家は瞬く間に火がまわり、すべて焼けてしまい、持ち出したものは御主人の携帯電話一つだったとのこと。「声をかけてくれてありがとう」と言われた温かい言葉が胸に残る。
 武佐宿泊りはできなくなったので、この日の宿、近江八幡ステーションホテルに向かった。武佐駅で電車に乗り合わせた、元武佐宿商工会長さんが、翌朝、武佐宿のパンフレットを持ってホテルに来てくれ、後日、普及に取り組んでいる「ムシャリンドウ」の種を送ってくださるとのこと。武佐宿のもてなしの心に感激した。
(第22回一日目の歩数:26,045歩)

第67次・守山宿へ
 6月3日(日)、近江八幡駅からタクシーで中山道に出て、横関橋を渡り、鏡神社で降りる。
 鏡地区は東山道・鏡宿として賑わったが、江戸時代に間の宿に格下げされた。かつて、牛若丸は、鞍馬山を出て奥州平泉に向かう途中、鏡宿の旅籠・白木屋に宿泊した時、前髪を落として元服し、源義経と名乗った。元服の後、鏡神社に参拝して奥州平泉に向かったとのこと。
 鏡神社は日本書紀に記されている、天日槍王子を祀った神社で、本殿は国重文に指定されている重厚な造り。参道の途中に、元服の後、義経が参拝した時に烏帽子をかけたという松が、明治6年に台風で倒れたため、幹の一部分を保存している「烏帽子掛けの松」がある。また、参道下には、元服の時使った水をくんだという「元服の池」が保存されている。
 神社下の国道をしばらく歩き、横断歩道のないところを小走りに渡って旧道を進む。
 野洲市に入り、少し行くと、平宗盛卿終焉の地、蛙不鳴池および首洗い池、の案内板があり、事業所の境界柵沿いの細い道を進むと、林の中に苔蒸した石仏と石塚が並び、「平宗盛卿終焉の地」の碑が立っている。石仏と石塚の前には、枯れた花、水の入ったコップ、供物などが散乱している。以前に立ち寄った常盤御前の墓はきれいに整えられていたのに、と違いを思う。近くに事業所も人家もあるのに、たまに訪れる人はあっても、日常的に整える人はいないのか、と哀れに思った。
 壇ノ浦合戦で平家が敗れた際、建礼門院、平宗盛親子と平時忠は捕えられた。宗盛親子は源義経に連れられて鎌倉に下ったが、頼朝に追い返され京へ向かった。義経は、京まで一日となった、この地で親子を切り、胴を埋めて塚を立てた、とのこと。
 国道を歩くと、左手に大きな池。東池と西池。東西に長い堤は雄略天皇のころ築堤されたとのこと。
 「小堤」バス停で国道と別れ、旧道を歩く。川新橋を渡ると、こんもりとした森の中に篠原神社の鳥居が見える。周囲の柵に寄進者の名前が刻まれている。堤○○、という名前が多いのは、西武鉄道の創業者、堤家はこの地の出身、とのこと。
 道なりに進むと、左側の丘陵地帯は「国史跡大岩山古墳群 史跡公園」との標識がある。一番手前にある「甲山古墳」に上って見ると、古墳(円墳)の中に入ることができ、大きな石棺が置かれてある。肥後産の石をくり抜いて作られたもの、とのこと。これだけ大きな石をくり抜き、熊本から運んだということは大きな権力者の墓なのだろう。大岩山丘陵には、この他、計8基の古墳があるとのこと。
 すぐ先に、銅鐸博物館。入口の庇の上に銅鐸が置かれている。この付近で、弥生時代の銅鐸が24個も出土しているとのこと。中を見たいが、予定の行程を考えて進んだ。
 旧道は車がほとんど通らず歩きやすい。藁葺屋根の造り酒屋が旧道らしい趣。その先の城門のような門構えの民家は、このあたりの旧家なのだろうか。
 新幹線のガードをくぐると、野洲小学校。校門の前に、野洲宿の碑がある。ここから守山宿までまだ3キロある。ベンチに座って一息入れてから出発した。
 校庭のフェンス沿いに進むと、T字路に朝鮮人街道の標識。朝鮮通信使は、ここで中山道と別れて、彦根城下を経由し、鳥居本宿の手前で中山道に合流したようである。
 中山道の矢印にしたがって進むと、小さなお堂に、大小二体のお地蔵さんが立っている。「背比べ地蔵」とのこと。
 すぐ先の曲がり角に、茅葺屋根の寺、唯心寺。商店街を進み、東海道本線のガードをくぐると、野洲川が見えてきた。
 12時少し前だが、橋の手前のレストランで昼食。急いで食べて、守山宿をめざして歩く。
 長い野洲川橋を渡り、守山市に入る。道なりに進むと、宿場のような街並みになったので、守山宿に入ったのかと思っていると、三叉路に「中山道・高札場跡」の案内板があり、見ると、この辺りは吉身といい、江戸時代、守山宿の加宿であった、とある。
 守山宿で説明を聞くと、「京発ち守山泊り」と言われ、京を出発した旅人の最初の宿泊地として繁栄し、東側の「吉身」と西側の「今宿」が加宿となり、さらに発展した、とのこと。京から守山まで32.1キロ、これが標準的な旅人の一日に歩く距離だった。健脚の人は武佐宿まで行った、ということは、さらに13.7キロ歩いたということ。すご〜い、などと話しながら歩く。
 吉身地区を過ぎるとようやく守山宿。街路灯に「中山道守山宿」の看板が付けられている。造り酒屋・宇野家には、かつての宿場の模型が置かれていて、ていねいに説明をしてくれた。
 すぐ先に、本陣推定地、の碑。高札場跡には「右 中山道・美濃路、左 鏡織寺四十五丁 このはまみち」と刻まれた碑が立っている。
 道なりに進むと、東門院守山寺の大きな黒門。守山寺は比叡山の東門として設けられたので「東門院」、比叡山を守る寺なので「守山寺」、地名は「守山」とされたとのこと。境内には石造五重塔が3基あり、国重文に指定されている。
 門を入ったすぐのところに、蛙の親子像が置かれている。なぜ、ここに蛙の親子像があるのか、説明文がないのでわからないが、愛らしく、いわくありげである。
 境川に架かる土橋を渡ると、加宿として栄えた「今宿」の街並みが続く。今宿の外れにあるのが、今宿一里塚。南塚のみが残り、昭和中頃に枯れた先代の榎の脇芽が成長して大きくなったという榎が塚を覆うように枝を広げている。日本橋から128番目とのこと。
 第22回の旅はここまでとし、守山駅に向かった。 
(第22回二日目の歩数:19,820歩)


参加者=藤巻、山浦るみ子、山浦ひろみ、宮下、林、安武、清水計枝、清水正宣、池田の9人。

  <人との出会い  宮下明子(9組)
 中山道歩きも後2回。ゴールが待ち遠しかったり、まだずっと続いてほしかったりいろいろな気持ちが入り混じる。何かと忙しい生活の中で中山道歩きは最優先。完全にはまってしまった。清水計枝さんに感謝。
 歴史の学びや深まる興味心・目を見張る日本の四季の美しさはもちろんだが、人との出会いがおもしろい。
 今回は武佐宿から近江八幡駅への電車の中で声をかけてくれたおじさん。武佐宿の有名人・武者(むしゃ)りんどうの保護会員であった。武者りんどうの祭りや種や花のことを熱く語ってくれた。
 愛知川宿からかなり歩いてやっとたどり着いた宿場で疲れを癒してくれた草花ではあるが、茎は高さ30pあるかないか、花も華やかでない形や薄紫色。こんな地味な花で祭りが成り立つのか不思議な気がした。
美味しい近江牛のお店を教えてもらって、駅で別れを告げた。
 ところが、翌日朝食に降りてきたら、ロビーにあのおじさんが待っていてくれた。早起きして「武佐宿」のパンフレットを持ってきてくれたのだ。以前のTV番組の“タイムショック”で、1千万円を獲得した話を聞きながら、朝食を共にした。武佐宿を愛してやまないおじさんのお陰で、読み方も知らなかった“武佐宿”がぐんと身近なものになった。 いつの日か私達それぞれの家に武者りんどうの種が送られてくるはずである。
 後日談・・・同行の池田さんの調査では「リンドウ科でなくシソ科。北海道に自生するのみの絶滅危惧種」とのこと。そうするとあの武佐の“武者りんどうは”?
 早めの解散だったため、おまけで限定1時間の近江八幡巡りを実施した。中山道沿いではないし、駅からも離れているため心を残しながら通過して行った場所だ。
 駅で“小型タクシー”に4人で乗り込んだ。車の運転手さんは女性だった。観光地近江八幡にはタクシーは常駐していず、駅から呼ばなければならないとのこと。「これでは、15分も居られない。」と焦っていたら、その運転手さん、車で“るるぶ”に載っている主な建物を解説付きで巡ってくれた。よくテレビに出てくる八幡堀をミニ散策させてくれ、お土産も買い込めた。電車の時刻に余裕を持って到着してくれた運転手さんは、近江八幡のタクシーで唯一の女性ドライバーとのこと。自然と、また来て、ゆっくり歩いて、お土産もたくさん買って、近江八幡のために貢献したくなった。
 名古屋から我が家へは、高速バス。なんとこの高速バスの運転手さんも女性であった。高速バス愛用の私も初めてであった。小柄な後ろで長い髪を束ねてお化粧っけもない。でもアナウンスがきれいで心地よい。あの方がパンクしたらバスのタイヤをひとりで交換するのだろうか、チェーンもひとりで巻くのだろうか、満員の客を乗せてあんな大きなバスを運転する彼女に時節柄、エールを送った。バス停案内が子守歌・・。バス停到着時刻も、電車並みにぴったりだった。お見事!
 よく眠り、疲れも取れ、家に到着。
 今回も、いい旅だった。
 

豊郷小学校

武佐宿本陣

鏡神社 (クリックで拡大)

今宿一里塚
第21回 柏原宿から高宮宿まで  (12/4/21−22)
第61次・醒井宿へ
 4月21日(土)、柏原駅に集合して、柏原宿の街並みをなつかしく思い出しながら歩く。1カ月前は雪、今回は桜が満開。伊吹堂の福助像をガラス戸越しに見ることができた。
 宿場のはずれの仲井川橋の脇に一里塚が移設されている。川沿いは桜並木になっていて満開を少し過ぎたところで、時折、花吹雪が舞い美しい。街道沿いは、松と楓の並木になっている。芭蕉の句、「行く春を近江の人と惜しみける」を思いながら歩く。
 右手の小高い山の上り口に、北畠具行墓の標識。後醍醐天皇の倒幕に参加したが敗戦、処刑され、ここに葬られた。
 同行の清水淳郎氏によれば、更にこの奥の徳源院には佐々木京極氏墓所があり、佐々木道誉など歴代の宝篋印塔が建ち並ぶ有様はみごと。また、丸亀藩主京極高豊が寄進した三重の塔が建てられているとのこと。
 小川の関碑のそばのカフェテラスで昼食。小川坂は、杉林の中の廃道に近い道。道の真ん中はぬかるみで歩ける状態ではないので、道路脇の杉の枯れ枝葉の上を歩いて進む。
 坂を下ると梓川沿いの舗装道路。松並木が街道歩きの気分にさせる。
 しばらく歩くと、一里塚の跡の碑。旅人が都の方を眺めて休憩したという、仏心水、鶯ケ端がある。能因法師は、「旅やどり ゆめ醒井の かたほとり 初音もたかし 鶯ケ端」と詠んだとのこと。
 醒井宿に入る。宿場入口の桜は花びらが散り、しべ桜になっていたが、花びらが「居醒の清水」の水面に浮かび、えも言われぬ美しさ。
 日本武尊が伊吹山の大蛇退治に行って正気を失ったが、この清水を飲んで覚醒したという居醒の清水は、石の間からこんこんと清冽な水が豊富に湧きだし、宿場の中を流れている。清流にはバイカモが生え、小さな白い蕾が見える。清流にしか棲まないというハリヨという小魚が生息しているとのこと。
 醒井宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠屋11軒の比較的小規模な宿場だが、問屋場は7か所もあったという。
 本陣跡は樋口山という料理屋になっていて、本陣門だけが江龍家の門として移築されて残っている。問屋場は資料館となっているが、脇本陣、旅籠屋は残っていない。ヤマキ醤油屋が健在で営業している。お土産に「伊吹産大豆、長浜産小麦、醒井の名水使用」という本醸造醤油の小ビンを買って帰った。味わいのある醤油であった。
 宿場を歩くと、十王堂があったところに十王水、西行が立ち寄ったところに西行水、と清らかな水が湧き出し、水の流れが昔も今も変わらない宿場である。

第62次・番場宿へ
 醒井宿を出ると、旧中山道は国道に吸収され、しばらく国道を歩く。名神高速道路米原インターに向かう車だろうか、トラックが高速で走り、歩いているのが怖いほどである。「中山道」の標識が指し示す旧道に入るとホットして話をしながら楽しく歩く。
 途中の樋口立場は、昔、茶屋があり、宿場と宿場の間のお休み処。ここは霊仙山からの小川が流れている。
 国道を渡り、三吉集落を過ぎ、高速道路・米原ジャンクションの下をぬけると、大きな中山道の石碑、久禮の一里塚である。
 右手が山、左手が田畑の街道情緒のあるゆるやかな上り道を歩くと、花の盛りを過ぎてはいるが、みごとな枝垂れ桜と楓の並木。自然木に「番場宿」と書いた看板があり、ここから宿場の街並みが始まる。
 番場宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠屋10軒の小宿だが、米原湊を経て琵琶湖の水運に通じる宿として設けられた。
 本陣、脇本陣は跡の碑のみだが、問屋場跡の碑が数か所あり、それぞれ古い建物が残っている。
 宿場の中ほどにある、南北朝の古戦場・蓮華寺入口の標識から、山際にある蓮華寺に向かう。寺は、一向上人を開山上人と仰ぎ、歴代天皇の帰依厚く勅使門がある。勅使門のすぐ手前を高速道路が通っている。別のルートにできなかったのかと、寺に替わって憤慨した。
 また、1333年、京都を追われ鎌倉へ向かった北条仲時以下432名がこの地で自刃した。境内の奥に430余の大小さまざまな五輪塔の供養墓碑が並ぶ。
 番場宿といえば、長谷川伸の小説の主人公、番場の忠太郎の出身地である。寺の境内の奥の山際のミツバツツジの花に囲まれて、忠太郎地蔵尊がたっている。長谷川伸が建立したとのこと。
 ここから、深坂道を通って、米原宿の旅館に向かい宿泊した。米原宿の入口に、「右中山道 左北陸道」と刻んだ石碑が立っている。
 米原宿は米原湊が開かれ、湖上交通の要衝として賑わった。江戸時代に始まった曳山祭りは「山を見るなら長浜、芸を見るなら米原」と言われるほどだった。今も、10月におこなわれているとのこと。
 (第21回一日目の歩数:23,299歩)

第63次・鳥居本宿へ
 朝起きると雨。予報では、午後は激しく降るとのことだったので、早めに出発した。
 昨日、通った深坂道を引き返し、番場宿の中を過ぎ、名神高速道路脇の付け替え道路を通り、摺針峠上り口までタクシーで進む。
 上り口にある中山道道標の示す方に向かって歩くと、摺針集落。ゆるやかな上り坂の両側に古い家が立ち並び、背後に山が迫る。
 急坂の上に、琵琶湖を見下ろす中山道第一の景勝地といわれた望湖堂が建つ。火災で焼失し、建て替えたものとのこと。見下ろすと、雨に煙って琵琶湖がかすかに見える。晴れていればさぞかし、と思う。
 「旧中山道」の標識にしたがって急坂をソロソロ下ると、「おいでやす 彦根市」と側面に刻み、上に旅人と近江商人像がのった3つの石柱が迎えてくれた。ここから鳥居本宿。土蔵造りの商家、藁ぶき屋根の家、合羽屋の看板を掲げた家などが並んでいるが、閑散とした街並みである。
 名物赤玉の薬屋は神教丸本舗が一軒だけ残り、今も売っているという。豪壮な建物が往時の繁盛をうかがわせる。
 天候が急変するため、旅人に合羽が良く売れたとのことで、合羽屋が何軒もあったようだ。現在は、看板が残るのみ。
 本陣1、脇本陣1、旅籠屋35軒で宿場としては規模が大きかったが、今は、本陣門の扉が物置の扉になっていて痛々しい。宿場資料館などもなく、人気もなく、さびしい宿場である。
 風雨ともに激しくなってきたので、鳥居本駅から電車で高宮宿に向かうこととした。

第64次・高宮宿へ
 高宮宿は、本陣1、脇本陣2、旅籠屋23軒、宿内人口3560人で本庄宿に次ぐ中山道第二の大宿であったとのこと。
 多賀大社の門前町として賑わい、また、高宮上布の集散地として、豊かな経済力を誇っていた。ベンガラ格子や袖卯建を持つ家が多く見られる。
 宿の中ほどに多賀大社一の鳥居が建っている。「どうやって組み立てて建てたんだろう」と思うほどの石の大鳥居である。
 本陣は門が現存している。その向かい側に、脇本陣、その隣の円照寺には家康が大阪夏の陣の時に休憩したという石がある。
 宿場のはずれの犬上川(高宮川)に架かる、むちん橋のたもとには無賃橋地蔵が祀られている。天保3年に地元有志が通行無料の橋を架けたことから「むちんはし(無賃橋)」と呼ばれ、昭和7年にコンクリートの橋に架け替える時に、橋脚の下からお地蔵様が出てきたので、お堂を作って祀ってあるとのこと。通行量の多さと地元商人の財力がうかがえる。
 高宮宿は芭蕉にゆかりの深い土地で、高宮神社には「をりをりに伊吹を見てや冬籠る」という芭蕉の句碑が残り、小林家には芭蕉が着ていた紙子を埋めた「紙子塚」があり、芭蕉はここで「たのむぞよ寝酒なき夜の古紙子」と詠んでいる。
 高宮宿はかつての商家を宿駅にしたり、高宮駅をコミュニテイーセンターにするなど、宿場歩きを楽しめるように整備してあり、また、町の人も「おいでやす」の気持ち溢れる人が多く、ゆっくりしたいところだったが、午後、彦根城を見学する予定にしていたので、電車で彦根駅に向かった。

彦根城見学
 
彦根城は、お城に詳しく著書もある、清水淳郎さんが見どころを案内してくれた。
 中堀の沿道の、いろは松を眺めながら表門橋に向かう。城内に入る前に、橋の手前の、堀沿いの道を50mほど行ったところにある、井伊直弼・青春時代の館、を見る。14男として誕生した直弼は、17歳から32歳までの15年間ここで暮らした。「世の中をよそに見つつも埋れ木の埋もれておらむ心なき身は」と詠み、文武両道の修練に励んだとのこと。
 彦根城内の表御殿が博物館になっていて、ちょうど国宝・彦根屏風が公開されていた。ので鑑賞した。当時の遊里の様子が微細に描かれた風俗画である。
 博物館(表御殿)には、寛政12年に造られた能舞台が修理・復元されていて、毎年能や狂言の会が開催されている。また、井伊の赤備えを始めとした武具、能衣装、家具調度品が展示されていて、時代を越えて伝わる本物の迫力がある。
 国宝・天守は三階三重の屋根の組み合わせが美しい。ただ、急な階段を上らなくてはならず、足腰が弱った人にはきつい。また、彦根城は、彦根山の上に造られているので、天守入口にたどりつくまでに、彦根山を喘ぎながら上らなければならない。
 天守の上からは、眼下に琵琶湖が見え、三成が築城した佐和山も間近に見える。
 天守閣を下りて、彦根山を下り、内堀に架かる黒門橋を渡り、玄宮園に向かう。近江八景を模して造ったという回遊式庭園で、ここから見上げる彦根城の眺めはすばらしい。
 この後、現在は開国記念館になっている佐和口多聞櫓などを見て、第21回の旅は終わりとした。
(第21回二日目の歩数:14,464歩)


参加者=藤巻、宮下、安武、山浦ひろみ、山浦るみ子、清水計枝、清水淳郎、清水正宣、池田の9人。

 天気が悪い、との予報だったが、1日目は曇りで快適な中山道ウォーク。1カ月前の柏原宿は吹雪、今回は桜が満開。醒井宿に向かうと、花びらが散って、しべが残った状態、しべ桜、というのだと教わった。花びらが水面、踏み石、石灯籠の上に散り敷いた景色は、芭蕉が詠んだ「行く春」の風情。翌日、風雨強い中を摺針峠に上るとほぼ満開の桜。彦根城の桜は散って、しべ桜。1週間前までは、満開で桜祭りだったとのこと。ただ、道中の山中には山桜が咲き、ここはまだ春よ、と言っているよう。季節の移ろいと、行く春を感じながらの近江路の旅でした。KAZU・清水
 

醒井宿・居醒の清水

番場忠太郎地蔵

高宮宿・多賀大社一の鳥居

彦根城
               
               

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