春日山城跡見学
2018年10月20日(土)春日山駅から、謙信公銅像の下までタクシーで移動。車が入れるのはここまでなので、天守台を目指して歩く。急な上り道だが、道が整備され、標識も立てられていて歩きやすい。
直ぐに、三の丸。ここには、米倉と上杉景虎の屋敷があった。さらに上ると二の丸。ここから御成街道を行くと、上杉景勝の屋敷跡に至るとのことだが、上り道を行き天守閣跡にたどり着く。ここからは頸城平野と日本海が一望でき、彼方には米山も見える。戦国時代の支配者の居城としては絶好の場所といえる。
空堀を渡り、本丸へ。少し下ったところに毘沙門堂がある。上杉謙信が出陣前に戦勝を祈願したところ。堂の中には毘沙門天像が安置してある。
さらに下ると直江兼続の屋敷跡。その下にある千貫門までは、ひな壇状に家臣の屋敷跡と空堀が続き、春日山神社にたどり着く。春日山神社では結婚式が行われていて、「静粛に」とお願いされた。
愛宕谷の道を下り、林泉寺へ。この寺は長尾氏の菩提寺。謙信はこの寺で7歳から14歳まで修行を積んだため、信仰心が深かった。惣門は春日山城の搦手門を移築したもの。墓地には謙信の墓、川中島合戦の死者の供養塔がある、とのこと。
林泉寺から春日山城ものがたり館へ向かう。御川に架かる橋を渡り、土塁と堀が復元してある史跡広場の中の道をたどると、ものがたり館はすぐだった。
ものがたり館の前で待っていてくれたタクシーで直江津港へ。
車は関川沿いの道を通り、春日新田宿へ。北国街道を歩いた時に昼食休憩した春日神社の脇を通り過ぎると、直にフェリーターミナルに着いた。
直江津港から小木港、相川へ
直江津港からフェリーで1時間40分の船旅で小木港に着く。この日は、風が強く、港外に出るとかなりの揺れで、事前に酔い止め薬を飲んでいた人は一眠りの船旅、飲まなかった人は苦痛の船旅だった。
小木港からバスで1時間30分、佐渡市相川支所に着く。ここから、ホテルの迎えのバスで、「ホテルファミーリオ佐渡相川」に着いた。18時近かったので外は真っ暗。波の音が聞こえるので海の近くだろうと想像して、夕食をいただく。佐渡牛のローストビーフ、サザエの壺焼き、ノドグロの刺身など地元の食材を使った料理に大満足。また、佐渡の地酒5種の飲み比べを、一夜干しのイカの塩辛をつまみにしたことも楽しい思い出。
(第1日目の歩数、8,014歩)
相川金山、佐渡奉行所跡見学
10月21日(日)。朝、目を覚ますと、ホテルの前は広い芝生で、その先は日本海。海に突き出た岩には、白い石英の層が見える。こんもりとした芝生の先には砲台跡がある。幕末期、外国船の接近に備えて造られたとのこと。
朝食後、ホテルのバスで佐渡金山へ。坑道の入口は、江戸期のものと明治期以降のものと2つある。
最初に、江戸期の坑道、宗太夫坑を見学した。坑道跡に入って行くと、「佐渡金山絵巻」に描かれた採掘作業を人形を使って再現してある。人形は身体を動かしたり声を出したりするリアルなもので良くできている。
坑道も、少し掘ったが鉱脈が尽きて放棄した短いものや坑夫の休憩所などがあり興味深かった。
続いて、明治から平成元年の操業休止まで約100年使用された、道遊坑を見学。坑道内にはトロッコ、機械類を当時のまま保存、展示してある。そして、ここを出ると、「道遊の割戸」が目の前にそびえている。慶長6年(1601)、山師・渡部儀兵衛他2名がここに金銀山を発見し、相川金山が始まったと言われている。三角型の山が、頂上から堀進んだため、真っ二つに削られ、巨大な岩肌を露出している。
次の見学は、相川郷土博物館。明治期になると金銀山は国営になり、御料局が管理した。博物館は旧御料局佐渡支庁の建物を使用しているため、屋根瓦には菊花紋章がついている。佐渡小判、千両箱、水揚げ器、鉱具絵馬など金山関係の資料が展示されている。
博物館を出て、佐渡奉行所跡に向かう坂道の途中から、北沢浮遊選鉱場跡が見渡せる。この施設は、昭和15年に建設され、月産5万トンの鉱石処理が可能であった。当時坑内鉱が不足していたので、鉱山から流れ落ちたり埋め立てられて海岸に堆積していた浜石の採掘も行われ、この施設でその処理が行われた、とのこと。
佐渡奉行所跡に来ると、佐渡出身の茶人・鈍翁(三井物産の創業者、益田孝)を記念した茶会が奉行所の建物を貸し切りにして行われていたため中には入れなかった。佐渡奉行・大久保長安が建てさせた建物を復元した物であるが、国指定史跡になっている。この建物を、日曜日に茶会のために貸し切りにして観光客を入れないとは、通常は考えられないこと。佐渡の人たちにとって、鈍翁は観光客より大切な人と思われているのだろう。
奉行所の建物内は入れないが、復元した勝場(せりば)の見学ができると言われ、解説付で見学した。
勝場(寄勝場)とは、採掘した鉱石を細かく砕いて金、銀を選鉱する工場で、宝暦9年(1759)から奉行所の敷地内に設けられた。鉱石を扣石(たたきいし)で粉砕し石臼で粉にして、比重選鉱によって金銀分をより分けた。相川町中に散在していた勝場を一カ所に集めて管理した、とのこと。
女手では持ち上がらないほど重い鉄槌で鉱石を砕き、石磨で粉状になるまで磨りつぶし、汰板(ゆりいた)を使って金銀を採取し、最後は「ねこ流し」にかけて木綿に付着した金銀を残らず回収していた。
なお、真田氏との争いに敗れて家康の元へ逃げた「室賀氏」の子孫(室賀図書正明)は62代佐渡奉行を勤めたと記録されていた。
佐渡奉行所跡から、御金荷を運んだであろうと思われる幅の広いゆるやかな石の階段を下り、街道へ出たところでバスに乗り西三川へ向かった。
西三川ゴールドパークへ
西三川では、砂金が採れると平安時代の『今昔物語集』に記述がある。砂金山の開発が本格的に行われたのは、15世紀(室町時代)。上杉氏が1589年から佐渡を支配し、虎丸山を掘り崩して砂金を採取した。
1600年から佐渡を徳川領として、西三川の五社屋山などで砂金を採取した。相川で金銀山が発見されると、1603年に大久保長安が佐渡代官に就任して、相川金銀山の採掘を本格化した。
私たちは、バスの時間の制約があったので、砂金山跡の見学はしないで、西三川ゴールドパークで砂金山の歴史資料展示を見た後、砂金採取体験をした。
係員から、金は比重が重く、川底に沈んでいるので、プラスチック製の「汰板(ゆりいた)」を使って砂金を採取する方法を教わって、体験した。2粒から、多い人は12粒を採取して、ペンダント、カードなどに加工してもらった。
ここからバスに乗って、佐渡の中心部の真野新町にある、旅館伊藤屋に泊まった。
旅館には、高校時代の恩師・本間先生が来てくださって、翌日の行程についてアドバイスをいただいた。
アドバイス@本陣山本家の当主とは高校教員時代の知り合いなので、話をしてくれるよう頼んでおく、A尾畑酒造見学後、8キロ歩くより、一つ前のバスで小木に向かった方が良い、倉谷の大わらじは、バスの中から見える、B千石船と宿根木の町は見応えがあるので時間を取った方が良い、C木崎神社は奉納された船絵馬がみごたえがあるので宮司が友人なので頼んであげる、であった。
旅館は民芸品が所狭しと並べてある情緒豊かな宿。食事も、カニ、刺身、佐渡牛の鍋など佐渡の味覚を堪能した。
(第2日目の歩数、7,945歩)
本陣・山本家訪問
10月22日(月)。早朝にもかかわらず、山本家にはすでに本間先生が来て、私たちの訪問を当主と一緒に待っていた。
玄関に入ると、天井から、「山本家の自家用車」だったという駕籠がつり下がっている。壁面には、佐渡奉行が宿泊した時の宿札が架かっている。
ご厚意により、奥の座敷まで上がって見せていただいた。庭には、樹齢600年という大ソテツの木があり、宿泊した歌人に印象深かったのだろう、歌が庭の石碑に刻んである。
大蘇鉄 いつ雪囲ひ とかれけん 楸邨
まづ見しは 蘇鉄の青き照葉なり 誓子
山本家の祖は越前藩士山本清九郎で、遠祖は山本勘助といわれている。寛永7年(1630)佐渡に渡り相川金山の山師として稼ぎ、滝脇鉱山を採掘、一方で酒造や廻船の業を起こした。2代半右衛門のとき本陣となり初めて奉行が宿泊した、とある。
また、柏原宿本陣中村家と親戚で、中村家から贈られたという一茶の自画讃の書がある。
外ケ浜 けふからは日本の雁ぞ楽に寝よ
一茶
山本家は廻船業をしていたので、家のすぐ裏は港になっている。真野湾の彼方には大佐渡山地の山並みが見える。
港を見た後、向かい側にある尾畑酒造の酒蔵見学。エールフランスの機内で提供されているという酒は、さっぱりとした味。金賞受賞の酒は、重口の味。何種類か試飲して酔ってしまった。
予定より一つ前のバスで行くことにして、元気な人は4キロ先の豊田一里塚跡のバス停まで歩いた。
豊田一里塚跡、小立一里塚跡を過ぎた先の、倉谷集落入口に「倉谷の大わらじ」がある。バスの中から、見て過ぎた。
この大わらじは、春の行事として正月に大わらじを作り、集落の両端に飾る風習が残っているもの。あるとき、賊がこの大わらじを見て、「こんな大わらじをはく大男がいてはかなわない」と逃走したと言われている。 疫病や悪人よけの一種の道祖神である。毎年、3月に大わらじを作り、掛け替えていることがすばらしいと思った。
終点の小木でバスを下り、昼食後、バスで宿根木へ向かう。
宿根木へ
バスを、佐渡国小木民族博物館前で降りて、千石船の見学。
展示館の中に入ると、千石船・白山丸が目の前にそびえ立っている。この船は、安政5年(1858)宿根木で建造された「幸栄丸」の復元(実物大)で、地元の白山神社にちなんで「白山丸」と名付けられた。全長23.75m、最大幅7.24m、積石数512石積、帆の大きさ約155畳で、大船渡の船大工たちが、新潟の木材や特注して作られた船釘などを使って、復元、建造したもの。制作過程をビデオ映像で見た後、船に上って内部を見学した。展示館の中にあるので、帆は畳んであるが、宿根木祭りの時は展示館の外に引き出して帆を立てて広げるとのこと。155畳の帆を広げた姿を一度、見てみたいものだと思った。
博物館から100m程歩いたところから十王坂を下ると、宿根木の鎮守・白山神社がある。本殿は寛文元年(1661)若狭小浜の大工、牛田治兵衛による。石鳥居は尾道産の花崗岩とのこと。
神社の前にある念仏橋は、北前船が運んできた大きな花崗岩で造られている。この橋を渡り、集落に入る。
集落は、約1ヘクタールの土地に110棟の建造物(主屋、納屋、土蔵)が林立していて、道路に合わせて造られた三角屋もある。この三角屋は吉永小百合のポスターで有名になった。
清九郎家は幕末から明治にかけて財をなした船主の居宅で、現在一般公開されている。中は立派で、柱、梁、天井、建具に漆塗りが施されている。
本間先生が車で宿根木まで来てくださって、一緒に散策したのは楽しい思い出である。
この後、バスで小木に戻り、御金荷の佐渡での到着地、木崎神社に向かう。
木崎神社へ
木崎神社の宮司さんと友人の、本間先生の案内で、本殿に上がり、奉納された、たくさんの船絵馬を見た。小木港に寄港する廻船が安全を祈り奉納した船絵馬の数々を見ると、佐渡のかつての繁栄が想像された。
北国街道は善光寺への参詣の道であり、佐渡の金銀を運ぶ道でもあった。信濃追分を出発して、出雲崎、そして佐渡相川金銀山から小木木崎神社まで旅をして、私たちの「北国街道の旅」は終わりとした。
佐渡の3日間の旅は、バスを利用したため、歩く歩数は少なかったが、内容的には一番充実していたと思う。
佐渡の旅に当たっては、関川宿資料館の館長さん、佐渡市役所観光課のHさん、真野新町本陣山本家当主、本間先生などたくさんの方々にご教示いただきました。佐渡国の人の厚情をありがたく感謝しています。
(第3日目の歩数、8,014歩) |