信濃毎日新聞に掲載 19.6.15 会報うえだ 97号(妙高高原駅から出雲崎)
会報うえだ 98号(佐渡国・御金荷の道) 会報うえだ 96号(黒姫駅から関川宿 )
(2)妙高高原駅から出雲崎宿、佐渡 会報うえだ 95号(大屋駅から柏原宿へ)
(1)信濃追分から上原宿 会報うえだ 94号(追分から海野宿、ネパール)

第10回 春日山城から佐渡へ

(18/10/20−22)

春日山城跡見学
 2018年10月20日(土)春日山駅から、謙信公銅像の下までタクシーで移動。車が入れるのはここまでなので、天守台を目指して歩く。急な上り道だが、道が整備され、標識も立てられていて歩きやすい。
 直ぐに、三の丸。ここには、米倉と上杉景虎の屋敷があった。さらに上ると二の丸。ここから御成街道を行くと、上杉景勝の屋敷跡に至るとのことだが、上り道を行き天守閣跡にたどり着く。ここからは頸城平野と日本海が一望でき、彼方には米山も見える。戦国時代の支配者の居城としては絶好の場所といえる。
 空堀を渡り、本丸へ。少し下ったところに毘沙門堂がある。上杉謙信が出陣前に戦勝を祈願したところ。堂の中には毘沙門天像が安置してある。
 さらに下ると直江兼続の屋敷跡。その下にある千貫門までは、ひな壇状に家臣の屋敷跡と空堀が続き、春日山神社にたどり着く。春日山神社では結婚式が行われていて、「静粛に」とお願いされた。
 愛宕谷の道を下り、林泉寺へ。この寺は長尾氏の菩提寺。謙信はこの寺で7歳から14歳まで修行を積んだため、信仰心が深かった。惣門は春日山城の搦手門を移築したもの。墓地には謙信の墓、川中島合戦の死者の供養塔がある、とのこと。
 林泉寺から春日山城ものがたり館へ向かう。御川に架かる橋を渡り、土塁と堀が復元してある史跡広場の中の道をたどると、ものがたり館はすぐだった。
 ものがたり館の前で待っていてくれたタクシーで直江津港へ。
 車は関川沿いの道を通り、春日新田宿へ。北国街道を歩いた時に昼食休憩した春日神社の脇を通り過ぎると、直にフェリーターミナルに着いた。
 
直江津港から小木港、相川へ
 直江津港からフェリーで1時間40分の船旅で小木港に着く。この日は、風が強く、港外に出るとかなりの揺れで、事前に酔い止め薬を飲んでいた人は一眠りの船旅、飲まなかった人は苦痛の船旅だった。
 小木港からバスで1時間30分、佐渡市相川支所に着く。ここから、ホテルの迎えのバスで、「ホテルファミーリオ佐渡相川」に着いた。18時近かったので外は真っ暗。波の音が聞こえるので海の近くだろうと想像して、夕食をいただく。佐渡牛のローストビーフ、サザエの壺焼き、ノドグロの刺身など地元の食材を使った料理に大満足。また、佐渡の地酒5種の飲み比べを、一夜干しのイカの塩辛をつまみにしたことも楽しい思い出。
(第1日目の歩数、8,014歩)

相川金山、佐渡奉行所跡見学
 10月21日(日)。朝、目を覚ますと、ホテルの前は広い芝生で、その先は日本海。海に突き出た岩には、白い石英の層が見える。こんもりとした芝生の先には砲台跡がある。幕末期、外国船の接近に備えて造られたとのこと。
 朝食後、ホテルのバスで佐渡金山へ。坑道の入口は、江戸期のものと明治期以降のものと2つある。
 最初に、江戸期の坑道、宗太夫坑を見学した。坑道跡に入って行くと、「佐渡金山絵巻」に描かれた採掘作業を人形を使って再現してある。人形は身体を動かしたり声を出したりするリアルなもので良くできている。
 坑道も、少し掘ったが鉱脈が尽きて放棄した短いものや坑夫の休憩所などがあり興味深かった。
 続いて、明治から平成元年の操業休止まで約100年使用された、道遊坑を見学。坑道内にはトロッコ、機械類を当時のまま保存、展示してある。そして、ここを出ると、「道遊の割戸」が目の前にそびえている。慶長6年(1601)、山師・渡部儀兵衛他2名がここに金銀山を発見し、相川金山が始まったと言われている。三角型の山が、頂上から堀進んだため、真っ二つに削られ、巨大な岩肌を露出している。
 次の見学は、相川郷土博物館。明治期になると金銀山は国営になり、御料局が管理した。博物館は旧御料局佐渡支庁の建物を使用しているため、屋根瓦には菊花紋章がついている。佐渡小判、千両箱、水揚げ器、鉱具絵馬など金山関係の資料が展示されている。
 博物館を出て、佐渡奉行所跡に向かう坂道の途中から、北沢浮遊選鉱場跡が見渡せる。この施設は、昭和15年に建設され、月産5万トンの鉱石処理が可能であった。当時坑内鉱が不足していたので、鉱山から流れ落ちたり埋め立てられて海岸に堆積していた浜石の採掘も行われ、この施設でその処理が行われた、とのこと。
 佐渡奉行所跡に来ると、佐渡出身の茶人・鈍翁(三井物産の創業者、益田孝)を記念した茶会が奉行所の建物を貸し切りにして行われていたため中には入れなかった。佐渡奉行・大久保長安が建てさせた建物を復元した物であるが、国指定史跡になっている。この建物を、日曜日に茶会のために貸し切りにして観光客を入れないとは、通常は考えられないこと。佐渡の人たちにとって、鈍翁は観光客より大切な人と思われているのだろう。
 奉行所の建物内は入れないが、復元した勝場(せりば)の見学ができると言われ、解説付で見学した。
 勝場(寄勝場)とは、採掘した鉱石を細かく砕いて金、銀を選鉱する工場で、宝暦9年(1759)から奉行所の敷地内に設けられた。鉱石を扣石(たたきいし)で粉砕し石臼で粉にして、比重選鉱によって金銀分をより分けた。相川町中に散在していた勝場を一カ所に集めて管理した、とのこと。
 女手では持ち上がらないほど重い鉄槌で鉱石を砕き、石磨で粉状になるまで磨りつぶし、汰板(ゆりいた)を使って金銀を採取し、最後は「ねこ流し」にかけて木綿に付着した金銀を残らず回収していた。
 なお、真田氏との争いに敗れて家康の元へ逃げた「室賀氏」の子孫(室賀図書正明)は62代佐渡奉行を勤めたと記録されていた。
 佐渡奉行所跡から、御金荷を運んだであろうと思われる幅の広いゆるやかな石の階段を下り、街道へ出たところでバスに乗り西三川へ向かった。

西三川ゴールドパークへ
 西三川では、砂金が採れると平安時代の『今昔物語集』に記述がある。砂金山の開発が本格的に行われたのは、15世紀(室町時代)。上杉氏が1589年から佐渡を支配し、虎丸山を掘り崩して砂金を採取した。
 1600年から佐渡を徳川領として、西三川の五社屋山などで砂金を採取した。相川で金銀山が発見されると、1603年に大久保長安が佐渡代官に就任して、相川金銀山の採掘を本格化した。
 私たちは、バスの時間の制約があったので、砂金山跡の見学はしないで、西三川ゴールドパークで砂金山の歴史資料展示を見た後、砂金採取体験をした。
 係員から、金は比重が重く、川底に沈んでいるので、プラスチック製の「汰板(ゆりいた)」を使って砂金を採取する方法を教わって、体験した。2粒から、多い人は12粒を採取して、ペンダント、カードなどに加工してもらった。
 ここからバスに乗って、佐渡の中心部の真野新町にある、旅館伊藤屋に泊まった。
 旅館には、高校時代の恩師・本間先生が来てくださって、翌日の行程についてアドバイスをいただいた。
 アドバイス@本陣山本家の当主とは高校教員時代の知り合いなので、話をしてくれるよう頼んでおく、A尾畑酒造見学後、8キロ歩くより、一つ前のバスで小木に向かった方が良い、倉谷の大わらじは、バスの中から見える、B千石船と宿根木の町は見応えがあるので時間を取った方が良い、C木崎神社は奉納された船絵馬がみごたえがあるので宮司が友人なので頼んであげる、であった。
 旅館は民芸品が所狭しと並べてある情緒豊かな宿。食事も、カニ、刺身、佐渡牛の鍋など佐渡の味覚を堪能した。
(第2日目の歩数、7,945歩)

本陣・山本家訪問
 10月22日(月)。早朝にもかかわらず、山本家にはすでに本間先生が来て、私たちの訪問を当主と一緒に待っていた。
 玄関に入ると、天井から、「山本家の自家用車」だったという駕籠がつり下がっている。壁面には、佐渡奉行が宿泊した時の宿札が架かっている。
 ご厚意により、奥の座敷まで上がって見せていただいた。庭には、樹齢600年という大ソテツの木があり、宿泊した歌人に印象深かったのだろう、歌が庭の石碑に刻んである。
 大蘇鉄 いつ雪囲ひ とかれけん 楸邨
 まづ見しは 蘇鉄の青き照葉なり 誓子
 山本家の祖は越前藩士山本清九郎で、遠祖は山本勘助といわれている。寛永7年(1630)佐渡に渡り相川金山の山師として稼ぎ、滝脇鉱山を採掘、一方で酒造や廻船の業を起こした。2代半右衛門のとき本陣となり初めて奉行が宿泊した、とある。
 また、柏原宿本陣中村家と親戚で、中村家から贈られたという一茶の自画讃の書がある。
 外ケ浜 けふからは日本の雁ぞ楽に寝よ   一茶
 山本家は廻船業をしていたので、家のすぐ裏は港になっている。真野湾の彼方には大佐渡山地の山並みが見える。
 港を見た後、向かい側にある尾畑酒造の酒蔵見学。エールフランスの機内で提供されているという酒は、さっぱりとした味。金賞受賞の酒は、重口の味。何種類か試飲して酔ってしまった。
 予定より一つ前のバスで行くことにして、元気な人は4キロ先の豊田一里塚跡のバス停まで歩いた。
 豊田一里塚跡、小立一里塚跡を過ぎた先の、倉谷集落入口に「倉谷の大わらじ」がある。バスの中から、見て過ぎた。
 この大わらじは、春の行事として正月に大わらじを作り、集落の両端に飾る風習が残っているもの。あるとき、賊がこの大わらじを見て、「こんな大わらじをはく大男がいてはかなわない」と逃走したと言われている。 疫病や悪人よけの一種の道祖神である。毎年、3月に大わらじを作り、掛け替えていることがすばらしいと思った。
 終点の小木でバスを下り、昼食後、バスで宿根木へ向かう。

宿根木へ
 バスを、佐渡国小木民族博物館前で降りて、千石船の見学。
 展示館の中に入ると、千石船・白山丸が目の前にそびえ立っている。この船は、安政5年(1858)宿根木で建造された「幸栄丸」の復元(実物大)で、地元の白山神社にちなんで「白山丸」と名付けられた。全長23.75m、最大幅7.24m、積石数512石積、帆の大きさ約155畳で、大船渡の船大工たちが、新潟の木材や特注して作られた船釘などを使って、復元、建造したもの。制作過程をビデオ映像で見た後、船に上って内部を見学した。展示館の中にあるので、帆は畳んであるが、宿根木祭りの時は展示館の外に引き出して帆を立てて広げるとのこと。155畳の帆を広げた姿を一度、見てみたいものだと思った。
 博物館から100m程歩いたところから十王坂を下ると、宿根木の鎮守・白山神社がある。本殿は寛文元年(1661)若狭小浜の大工、牛田治兵衛による。石鳥居は尾道産の花崗岩とのこと。
 神社の前にある念仏橋は、北前船が運んできた大きな花崗岩で造られている。この橋を渡り、集落に入る。
 集落は、約1ヘクタールの土地に110棟の建造物(主屋、納屋、土蔵)が林立していて、道路に合わせて造られた三角屋もある。この三角屋は吉永小百合のポスターで有名になった。
 清九郎家は幕末から明治にかけて財をなした船主の居宅で、現在一般公開されている。中は立派で、柱、梁、天井、建具に漆塗りが施されている。
 本間先生が車で宿根木まで来てくださって、一緒に散策したのは楽しい思い出である。
 この後、バスで小木に戻り、御金荷の佐渡での到着地、木崎神社に向かう。

木崎神社へ
 木崎神社の宮司さんと友人の、本間先生の案内で、本殿に上がり、奉納された、たくさんの船絵馬を見た。小木港に寄港する廻船が安全を祈り奉納した船絵馬の数々を見ると、佐渡のかつての繁栄が想像された。

 北国街道は善光寺への参詣の道であり、佐渡の金銀を運ぶ道でもあった。信濃追分を出発して、出雲崎、そして佐渡相川金銀山から小木木崎神社まで旅をして、私たちの「北国街道の旅」は終わりとした。

 佐渡の3日間の旅は、バスを利用したため、歩く歩数は少なかったが、内容的には一番充実していたと思う。
 佐渡の旅に当たっては、関川宿資料館の館長さん、佐渡市役所観光課のHさん、真野新町本陣山本家当主、本間先生などたくさんの方々にご教示いただきました。佐渡国の人の厚情をありがたく感謝しています。
(第3日目の歩数、8,014歩)

参加者=初参加・堀内たみ子(1)、奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水正宣(1)、清水洋二(1)、平林正明(1)、磯村雄二(3)、柳澤信義(3)、石井則男(4)、荒井昇三(5)、倉沢直彦(5)、宮澤康元(5)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、清水淳郎(9)、林久美子(9)、藤巻禮子(9)、平林美穂(68期)の18人。

春日山城跡
(クリックして拡大)


ホテルファミーリオ佐渡相川


道遊の割戸

真野新町本陣山本家
前列中左・本間先生、右・当主(クリックして拡大)

宿根木三角屋

木崎神社

第9回 青海川駅から出雲崎宿へ

(18/9/8−9)

青海川駅から鯨波宿へ
 2018年9月8日(土)海に一番近い駅、青海川駅から出発。前回到達した鉢崎宿の先は、中越沖地震で街道が崩壊してしまい、国道トンネルの中を歩くしかない、とのことだったので、2駅先の青海川駅まで電車を利用した。
 青海川駅で降りると、ホームの下は日本海の荒波が寄せる磯。通り過ぎてきたトンネルの上から日本海に流れ落ちる、お弁が滝の飛瀑が見える。佐渡のお弁が、柏崎の藤吉に会いに来た、たらい舟が難破して、お弁の遺体が、この滝の下に漂着したとの悲話がある。
 駅の前を、米山から流れ出す清流・谷根川が流れ、その上に高さ50mの米山大橋(国道)が架かっている。谷根川に下りたところにある「柏崎さけのふるさと公園」展示館に、柏崎市のご厚意で入れていただき、雨に濡れずに昼食を取ることが出来た。この施設では、谷根川を遡上してくる鮭を捕獲、孵化、放流をしていて、今では村上市三面川に次いで多くの鮭が遡上してくるとのこと。
 昼食後、谷根川に架かる旧道の橋を渡り、坂道を上って国道に合流して歩道を歩く。電車がトンネルから出たところから、海を見ながらの街道歩き。目の前に、二見岩と薬師堂海水浴場の浜辺が見える。
 海を見ながらさらに歩くと、鯨波海水浴場。「小学校の修学旅行で来た旅館はどこかな」、「早朝、地引き網を引いて、お土産にとれた魚を持ち帰って、天ぷらにしてもらった」など、懐かしい思い出話が尽きない。
 国道と別れて旧道に入ると、鯨波宿の入口。庚申塔があり、庚申信仰の話を宮下さんがしてくれた。いろいろな話をしながら歩くのが、街道歩きの楽しみである。所々、家並みが途切れる旧宿場を歩き、鯨波駅で小休憩。
 鯨波駅を過ぎたところにある、嫁入り坂は鯨波戦争激戦地、とのこと。戊辰戦争で桑名城を落とされた桑名藩は、桑名領であった柏崎に陣を置き、嫁入り坂の上にある松林を盾として、官軍(参謀、山県有朋)と戦い、優位に防戦した。
 
鯨波宿から柏崎宿へ
 鯨波宿を過ぎると、海岸沿いには海水浴客向けの旅館が点在する。東の輪町公会堂の先に、薬師堂。堂の裏手には六地蔵、観音像などが並んで置かれている。
 しばらく歩くと、立派な常夜灯が立ち、番神堂入口、の表示。番神堂は、日蓮聖人が佐渡配流後、赦されて寺泊に向かう途中暴風雨にあったが、番神岬に無事上陸できたことを神に感謝して、ここに八幡大菩薩を中心に30番神を祀った。番神堂本堂の裏に聖人像が立っている。
 少し行くと、地蔵堂があり、中には長身のお地蔵様が、倒れないように前後を木の梁で支えられて立っている。前庭にはたくさんのお地蔵様が置かれている。街道沿いに置かれていたものをここに集めたのであろうか。
 県道に合流した先に、貞心尼剃髪の地、閻王寺跡がある。今は、ケヤキの大木が茂る富士嶽神社に変わっているが、入口に説明板が立てられている。
 中浜中央バス停の先にある勝願寺は、桑名城を落とされた松平定敬が、桑名領であった柏崎に移り、ここに陣を張った。鯨波戦争は東軍優位であったが、1日で終わり、定敬は、兄の容保と会津で合流。旧幕府軍とともに米沢、仙台、函館と移動し、横浜に脱出して新政府軍に降伏。後に日光東照宮宮司となった、とのこと。勝願寺には、戊辰戦争で亡くなった桑名藩士の慰霊碑と墓碑がある。
 鵜川の手前には、柏崎陣屋跡がある。高田藩松平氏が白川藩に移封されたとき、越後に8万石を残していたため柏崎に陣屋を置いた。この陣屋は約9000坪の広さをもち、明治維新後は柏崎県庁となった。
 鵜川橋を渡ると柏崎宿。宿場入口の枡形を曲がると、街道左側に根埋地蔵(ねまりじぞう)が安置されている。以前は、街道中央に置かれていたが、明治天皇巡幸時に街道脇に移された、とのこと。
 少し先には、立地蔵。やはり、街道中央に置かれていたが、街道脇に移すため掘り出したら、地蔵でなく薬師三尊が掘られていたのが判明した。薬師三尊であることが分かるように白い布が掛けられている。
 石井神社の脇には、芭蕉旧跡・天屋跡の標識がひっそりと立てられている。芭蕉は大庄屋の天屋弥惣兵衛宅で泊まる予定であったが、不快なことがあり、断って鉢崎宿へ向かった、とのこと。
 柏崎宿東端の木戸の外に閻魔堂。閻魔様が十王を従えて最上段に座している。閻魔様の眼光は鋭く、脇には舌を抜くための特大のペンチが奉納されていて、ゾクッとしてしまった。
 ここから柏崎駅前のホテルに向かう歩道には、貞心尼の歌碑が立てられている。
 「あとは人 先は仏に まかせおく 
    おのが心の うちは極楽」
 「秋もヤゝ 夜さむになれば はたおりや
    つづれさせてふ むしのなくなり」
 「かきおくも はかなきいその もしほ草
    見つつしのばむ 人もなき世に」
 宿泊した、ホテルサンシャインは、館内にお食事処があり、ゆったりと食事と新潟の銘酒を楽しんだ。 
(第1日目の歩数、20,313歩)

柏崎宿から宮川宿へ
 9月9日朝、柏崎駅前から椎谷行きのバスに乗る。バスは、旧街道を走り、安政橋を渡り、荒浜砂丘の先の、原子力広報センターで街道は行き止まりになるので、柏崎刈羽原子力発電所の外周を回る道路を走行する。原発は鯨波の海岸沿いを歩いていたときは良く見えたが、バスに乗っていると、松林の先にかすかに見える程度。道路と原発との間は土手と有刺鉄線が張られた鉄条網が廻っている。
 バスは、刈羽村の立派な学校や住民緊急施設の間を走って、宮川宿に到着。
 宮川宿入口には、三体の石仏を安置した小堂があり、馬に乗る勝軍地蔵があったが、多門院境内に移されたとのこと。
 街道を見下ろす山の手にある、宮川天満宮は鳥居のみで、社は中越沖地震で倒壊したまま再建されていない。
 江戸時代の宮川村は200戸あまりの寒村であった、とのこと。今も、戸数は少ない。
 宮川宿の外れにあった高浜小学校入口にはロープが張られ、「高浜小学校跡」と表示が変わっていた。

宮川宿から椎谷宿へ
 宮川宿と椎谷宿の間は2.5キロ、日本海の荒波に乗ってサーフィンを楽しんでいる人を見ながら、海岸沿いの道を歩く。北国街道のイメージどおりの道である。
 椎谷宿入口に、「不動堂入口」の表示があったので、地元の人に聞くと、「ズーッと行った先の山の上にある」とのこと。弘法大師ゆかりの御堂のようだが、諦めて先に進む。
 直ぐ先の、椎谷ふれあいセンターでは、椎谷の歴史を学ぶ学習会の最中。北国街道を歩いているグループ、と告げると、学習会の講師をしていた方が、話を終えたところだから案内してあげましょう、と言ってくださり好意に従った。
 大阪の役で軍功があった堀直之を藩祖とする一万石の椎谷藩の陣屋が置かれていたところ。参勤交代のない定府大名であったが、年に一度は来陣したとのことで、御殿医旧宅が残っている。陣屋は、小高い丘の上に築かれ、3000坪の敷地には藩主邸、馬場、籾蔵、武具蔵、砲術稽古場、勤番所、井戸などがあったが、戊申戦争で焼失し、神社が祀られている。
 陣屋の丘の上から宿場を見下ろすと、馬喰宿が建ち並んでいる。人用と馬用に井戸が2つあるのが馬喰宿の特徴、とのことで、街道沿いに奥行きの深い宿が建並んでいる。椎谷藩の奨励で馬市が盛んになり、椎谷宿の7割は馬喰宿だったとのこと。馬市宿元・梅屋の前に、「史跡日本三大馬市 椎谷の馬市蹟」の記念碑が椎谷堀家22代堀光宗氏により建立されている。そして、宿場を案内してくださったのは、椎谷藩尾崎家18代尾崎忠良氏であった。今も、歴史が息づいている町である。
 宿場の中程の山の手に、椎谷観音堂があり、仁王門の傍らには芭蕉句碑が立てられている。
 「草臥(くたぶれ)て 宿かるころや 藤の花」この句は芭蕉が大和行脚で詠んだもの。江戸の俳人巣也が文政4年(1821)俳諧行脚でこの地に滞在中、椎谷観音堂で咲く藤の花を見て、土地の俳人武田岡右エ門とこの句を選んで建立した、とのこと。
 ここから先の旧道は、中越沖地震の震源に最も近かったため崩壊し、椎谷岬トンネルが造られている。
トンネルを抜けたところには、机立観音堂があったが、地震で堂は倒壊し、観音堂跡の碑と馬頭観音など多くの石仏が祀られている。名前の由来は、その昔、海から漂着した観音像を机上に立てて土地の人がお参りしたことからこの名が付いた、とのこと。

椎谷宿から石地宿、出雲崎宿へ
 長浜海水浴場がある、海岸沿いの道を歩くと、山側の小高い山の上に、大崎城跡が見える。上杉28将の一人、大崎高清の居城だった。
 大崎海水浴場の山の手には、雪割草の里があり、開花期の3月は遊歩道が賑わう、とのこと。その直ぐ先の、大崎温泉、雪割草の湯で昼食休憩。海を見ながら温泉を楽しめる施設として町民で賑わっていた。
 昼食後、石地海水浴場まで歩いてくると、風雨が急に強くなり、バス停留所の建物に避難した。風雨が弱まる気配がないので、タクシー会社に電話したが、どこも出払っていて頼めなかった。やむを得ず、雪割草の湯からタクシーで出雲崎宿に向かっていた藤巻さんに石地のバス停まで引き返してもらい、4回に分けて、道の駅「出雲崎天領の里」までピストン輸送してもらった。
 途中、石地宿の大庄屋内藤家の長屋門を見たいというと、その前はスピードを落として走ってくれた。日本石油を創業した内藤久寛は、この大庄屋が生家である。
 石地宿は磯に恵まれた海岸を持ち、漁業が盛んで、元禄年間にすでに70隻余りの船があったとのこと。
 雨が小降りになるまでの間、道の駅に隣接している「天領出雲崎時代館・出雲崎石油記念館」を見学して出雲崎の概要を知った。
 雨が小降りになってから、代官所跡、光照寺(良寛剃髪の寺)、金銀御用小路、北国街道妻入り会館、芭蕉園、良寛堂を見ながら、妻入りの民家が約800軒、4キロ近く続く町並みを散策した。
 出雲崎の沖合50キロに佐渡が島が横たわるが、生憎の悪天候で島影がかすかに見えるのみであった。
 芭蕉園には芭蕉像と「荒海や佐渡にたふ天河」の句碑がある。芭蕉は向かいの海側の旅籠大崎屋で泊まり、この句の構想が湧き、直江津での句会で披露した、とのこと。
 良寛堂は良寛の生家橘屋跡に建つ。安田靫彦が設計し、良寛の母の故郷佐渡を背景に、良寛堂が日本海に浮かぶように建つ。堂内には良寛持仏の枕地蔵がある。また、良寛堂の裏側(日本海側)には良寛像が座している。
 出雲崎までの北国街道の旅はここで終わり、来月は御金荷の道の出発地、佐渡に行くことにして別れた。
(第2日目の歩数、19,810歩)

参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水正宣(1)、清水洋二(1)、磯村雄二(3)、柳澤信義(3)、石井則男(4)、荒井昇三(5)、倉沢直彦(5)、宮澤康元(5)、山浦ひろみ(5)、村居次雄(8)、山浦るみ子(8)、清水淳郎(9)、藤巻禮子(9)、宮下明子(9)、池田有美子(69期)の17人。

 北陸街道奥州道 出雲崎終点

 雨は空から降って来るのではないのか?
 荒ぶる日本海の水がそのまま横からたたきつけてくるような暴風と豪雨だった。
 バス停の小屋が我々の避難小屋となった。あまりの激しさに、私の頭の中は「出雲崎どころではない。どうしても今日中に帰宅しなきゃ。最寄り駅までタクシーで行き、即、電車。でもタクシーが来ない。では、猪突猛進で嵐の中を突っ走るか。」こんな思いしか浮かばない。
 そんな中、さすがだ。リーダーの計枝さんを中心にスタッフがいろいろ考えてくれた。その結果、藤巻さんのタクシーでピストン輸送してもらい、出雲崎に到着できた。宿場も見学でき、バスに乗り出雲崎駅に到着した。
 1時間遅れの帰宅になったが、伊那谷高速道の運転もちっとも眠くならずに快適だっつた。計枝さんの冷静な判断と入念な下調べと、周りの方々の協力と、藤巻さんの交渉力のおかげです。

 山に囲まれて暮らしている私はあの風雨の強さには驚いた。
 歩きながら見た至る所の風あて柵もバス停の頑丈さも頷けた。

にび色の海
 ずっと海沿いの道なのに、青い海は一度もお目にかかれない。
 「青い海が見たいなあ。」と言ったら、るみ子さんが「にび色の海もいいよ。私好きだよ。」と教えてくれた。
 にび色→鈍色(金偏だ、鈍感の鈍だ。)→薄墨色・濃い鼠色。
 海と空の境目のにび色もきれいだった。すてきな言葉を教わりました。

桑名
 東海道を歩いた時の町のたたずまい・宮の渡しの船旅を思い浮かべた渡し場・焼き蛤・焼き蜆・平田靱負(ゆきえ)・本田忠勝が好きな孫たちと行った桑名城・忠勝の銅像…私の気に入っている町だ。三重県の伊勢湾に面している桑名だ。その名前が突然日本海の海辺に現れた。
 「えっなぜ?」すかさず、どなたかが「桑名の飛び地があったんだ。」と教えてくれた。こんな遠くに飛び地があったのだ。
 歩いていくと桑名藩士の墓・松平容保の弟松平定敬(さだあき)・桑名藩の本陣・松代藩士の墓・鯨波の戦いなどあり、またまたびっくりした。
 戊辰戦争は、京都から始まり上野→会津→函館と思っていた。上野と会津の間に北越戦争というのがあったのだ。
 戊辰戦争を学び直さなければ、と思った。

鯨波
 鯨波が近づくとみんな少年少女の顔になった。
 「懐かしいなあ〜。」「海が広くて大きかった。青かった。」「【みさきや】という旅館だったよ。今もあるかなあ。」「白い砂浜が続き、カーブしていて岩があって・・・」「貝を拾ったね。」「波が不思議だった〜。」「地引網してね。」「え〜そんなの私の学校はしてないよ。いいなあ。」
 たぶん、全員違う小学校だと思う。でもそれぞれの記憶を繋げていけば、鯨波の一枚の絵になる。12才前後の記憶力は冴えている。
 その60年前の子供たちが、70才台になって一緒に歩いているご縁の不思議さに感謝した。

お礼
 江戸から100里 約400qの出雲崎で私の北国街道歩きは終わりとなる。
 面白そうなものがあると、すい寄せられて行ってしまう。すい寄せられた先には、期待以上のものが待っていてくれたり、がっかりさせられたものであったりだ。今回で言えばヒットは番神堂と柏崎陣屋前のおばさん。がっかりは勝軍地蔵と出雲崎の代官所跡。
 いつもそんな行動をしていた私を待っていてくれたり、程よい距離で進んでくれたり、荷物の番をしてくれたり、さんざ、ご迷惑をおかけしたことでしょう。

 2009年に夫の実家にUターンきて、普請が一段落した2010年に歩き始めて9年がたちました。60代に彩りを添えてくれ、わくわく充実した生活の中心でした。
 皆さんの温かさに包まれて、初めてのことを知り、実際に見ることができ、勉強し、脚力も衰えず?ビールの美味しさも満喫でき、幸せでした。
 本当にありがとうございました。

 宮下明子 (9組)



柏崎さけのふるさと公園
(クリックして拡大)


貞心尼剃髪の地、閻王寺跡


柏崎陣屋跡、柏崎県庁跡

宮川天満宮
馬市&良寛像
椎谷の馬市宿元
(画像の上にマウスを乗せる、良寛像)

良寛堂(表)
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第8回 黒井駅から鉢崎宿へ

(18/7/7−8)

黒井駅から黒井宿へ
 2018年7月7日(土)黒井駅に集まる。東京方面からの人は上越新幹線回り、信州方面は北陸新幹線などで11時少し過ぎに合流。
 黒井駅に下りると弱い雨が降り出したので、雨具を身につけたり、傘をさしたり。信越化学の広大な工場に沿って街道を歩く。
 1キロ程歩くと、左手に黒井神社、黒井宿の入口である。本殿の屋根の木組みは「出雲式」とのこと。前回歩いた処に、出雲大社分社があった。海を通じて、出雲とつながっていたのだろうか。
黒井の信号を右折して、黒井宿の町並みを歩く。古い建物は殆ど無い。
 宿場の中程にある本敬寺入口に芭蕉の句碑がある。『奥の細道』では、黒井宿の旅籠屋伝兵衛で休憩して直江津に向かった。芭蕉はこの地で句を詠まなかったが、通過を記念して、黒井宿の俳人が江戸中期、『笈の小文』の句を本敬寺入口に立てたとのこと。
“寂しさや花のあたりの翌(あす)なろう”碑はアスナロの木の根元に立てられている。
 下荒浜のバス停の先に、順徳天皇碑が立てられている。承久の乱で鎌倉幕府に敗れた上皇が、佐渡へ流される途中、荒浜村で休憩されたとのこと。
 西ケ浜消防団倉庫の脇に「犀浜塩」の説明板。この辺りの海岸では、明治中期まで、揚浜式製塩が盛んだった。かつて信州に運ばれた塩もここで作られたのか、と思うと懐かしく思われる。

黒井宿から潟町宿へ
 犀潟地区に入る。犀潟郵便局の先の犀潟駅のベンチを借りて昼食休憩。雨が降っているときは、お寺の軒下か駅で休憩するしかない。犀潟駅では「黒井駅から歩いてきた」と街道歩き旅の話をしたら、駅構内のベンチも使わせていただきうれしかった。
 昼食後、街道に戻って歩く。民家の庭に、明治天皇御休憩所跡、の碑が立っている。空き家になっているようだが覗いてみると、昭和12年7月文部大臣指定、とある。誰かが、昭和12年7月は日華事変の年だ、と言った。戦意を高めるために、こうした碑を作ったのだろうか。
 少し先の新堀川の手前の潟守神明宮に、開削碑が立てられている。砂丘を横断して日本海へ放流する堀が江戸中期に造られ、新田百カ村は潟川の洪水被害から解放されたとのこと。
 新堀川を渡ると、大潟区渋柿浜地区。専念寺の境内に続く道がある。すぐ先に、武田酒造店の醸造所と店舗。入口に立っていた笑顔の店主が、「試飲できますよ」と声を掛けてきた。今夜泊まるホテルにもある、とはいうものの、「試飲」の誘いにのって店内に入る。宮下さんが、朝取りのキュウリの漬け物を出したので、さらに試飲した人も何人か。街道沿いには、旅人相手の酒蔵が多かったようだ。
 大潟区潟町地区、潟町宿にはいる。街道を右に少し入ったところにある、神明宮の入口に「潟町宿開設記念碑」が立てられている。黒井宿から柿崎宿まで砂丘の道が4里も続くため、中間に潟町宿が1660年に新設されたとのこと。潟町宿は明治になって宿駅が廃止となり、建物も殆どが建て替わってしまっている。
 宿場の中程に、米山道道標が立っている。「右 米山道 左 奥州道」と刻んである。私たちは奥州道の方に歩く。
 宿場のはずれに、どんどの石井戸、と名付けられた泉がある。砂丘の間から炎天下でも枯れることなくドンドン湧く泉が潟町宿が開設された頃発見され、宿場の飲料水となった。今も、汲み上げて飲料水として利用されていて、傍らにポンプ小屋がある。
 九戸浜地区を歩き、鵜の浜地区の松林のなかの「鵜の浜ニューホテル」に到着。鵜の浜温泉は、石油天然ガス開発のため帝国石油が試掘したとき、弱アルカリ性43度の温泉が噴出した。町へ寄贈され、昭和33年開湯したとのこと。町民向けのレジャー施設もあって、泊まらなくても温泉を楽しめる。
 ホテルでは、温泉と、海の幸と新潟銘酒を堪能した。
(第1日目の歩数、21,969歩)

鵜の浜から柿崎宿へ
 7月8日朝、ホテルに到着した荒井さんが加わり、所用のため上田に帰る倉沢さんを見送って、出発。幸い、雨が上がり、快晴の朝である。海は見えないが、波音を聞きながらの歩き旅。
 ホテルから直ぐの舞子浜には、小川未明『赤い蝋燭と人魚』の題材になった民話に因んだ人魚塚が立てられている。
 しばらく歩くと、左側に一里塚のような小山。一里塚の表示は無いが、傍らに榎木が植わり、塚の表面には、かつて植わっていた榎木の枯れた根が張っている。上下浜の一里塚、と勝手に命名した。
 上下浜地区にも温泉が出ているらしく、バス停の表示が、上下浜温泉入口、となっていて、浜辺に「マリンホテルハマナス」が見える。ホテルの先はすぐ海のよう。
 三ツ屋地区で旧街道は一時途切れるが、直海浜地区で旧道と新道が一緒になっている。直海浜、と言うだけあって海が直ぐ近い。海に続く小径に入ると、目の前に日本海が広がり、浜辺には釣りをしている人がいる。水平線の先には佐渡島が見える。
 街道は少し内陸に入る。正面に、ピラミッド型の米山が見える。海岸近くからそびえ立つ992.5mの山は、かつては霊峰として修験の人が参詣した。参詣道には別当寺もあったという。
 柿崎自動車学校の脇を通り過ぎると、信越本線が見えてくる。右折して、信越本線のガードをくぐり、線路沿いの道を歩く。
 柿崎橋を渡ると、柿崎宿の西の枡形に玄川神社(くろかわじんじゃ)がある。旧道は、柿崎川の手前を上流に150mほど行き、玄川橋(くろかわばし)を渡っていたが、明治中期に柿崎橋ができて直線道路になった、とのこと。
 柿崎宿は所々に旅籠屋らしき建物が残っているが、海辺のため壁は潮風で白くなっている。補修されている建物も多い。宿場の中程に、米山まんじゅうを売る菓子屋があり、買って食べた。かつては、米山登山道の入口にあり登山客も多かったようだ。
 宿場の山の手側に寺が並んでいる。妙蓮寺は日蓮聖人が佐渡配流から帰還の途中、休憩した地とされる。入口に日蓮聖人の像と南無妙法蓮華経の石碑が置かれている。
 浄善寺は、渋々宿扇屋跡に、インド風のパゴダ様式の本堂が建ち、脇に「柿崎にしぶしぶ宿をかりければ、あるじの心熟柿(うれし)なりけり」と刻んだ聖人詠歌碑が立てられている。浄善寺の入口には「扇屋跡」の碑と親鸞聖人の像がある。また、浄善寺の奥には、扇屋の主が後に親鸞の門弟になり、開山 したといわれる浄福寺がある。
 浄福寺の手前にある食堂で昼食。暑さから、冷やし中華を注文した人が多かった。
 昼食後、東の枡形にある「左奥州道 右山みち」と刻んだ道標を左折して鉢崎(はっさき)宿へ向かった。

柿崎宿から鉢崎宿へ
 柿崎宿を出て街道を歩くと、信越本線とその先に海が見える道になる。中央海水浴場の標識があり、線路の向こう側に砂浜が広がる。
 2キロほど歩いた処で国道と合流するので、トラックが行き交う国道の歩道を歩く。
 竹鼻地区という名の通り、右手は山。小山にヤマユリやアジサイが植えられていて美しい。「慈眼庵」の標識が見え、アジサイの茂みの中に上り道が見える。
 しばらく左側の歩道を歩き、右側の歩道に変わるところに、一里塚のようなものが見える。傍らに休憩所が設けられていて、仮設トイレが置かれている。塚の上には榎木が植えられていて、お地蔵様が置かれている。塚の上に上ってみると大日如来や観音像も置かれている。標識は無いが、かつての一里塚で、海辺を歩いてきて疲れた旅人を休ませた茶屋などがあったのだろう。
 右上に北陸道の橋脚が見えてきた。海岸沿いの国道の歩道を歩くと、大清水観音堂参道の標識がある。大清水観音は、標高200mの山上にある古刹で大泉寺が正式名称。上杉景勝が再建した茅葺きの観音堂(国重文)などがある、とのこと。
 国道を少し歩いた先に、石仏が置かれ、「旧参詣道」の表示がある歩き道がある。
 米山小学校の校庭の脇を通り、米山信号の先で国道と分かれて鉢崎宿に入る。
 宿場の町並みは往時を思わせるが、建物は殆ど建て替わってしまっている。左側に、旧本陣を思わせる立派な玄関のある家。少し先の右側の家並みが途切れたところに、たわら屋跡、の立て看板と説明板がある。芭蕉は出雲崎を出て八里先の柏崎宿で泊まる予定であったが、待遇に不満で、十二里先のたわら屋まで歩き通して泊まった、とのこと。それにしても、十二里といえば約48キロ、よくも歩いたものである。
 右側の山の手に鉢崎神社の鳥居が見える。宿場の行き止まりの、そそり立つ聖ケ鼻の手前に鉢崎関所跡がある。米山三里の険しい山道の入口で、関所を設けるには適地である。今は、中越地震で山道が崩落してしまったので、国道の米山トンネルを迂回するようになっている。また、ここは、出雲崎を出た佐渡の金荷が最初に泊まった地。金荷の安全が保ちやすかったのだろう。
 次回は、米山トンネルを抜けたところからスタートすることにして、米山駅に戻った。駅のホームから、そそり立つ聖ケ鼻がよく見える。
(第2日目の歩数、28,857歩)

参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水正宣(1)、清水洋二(1)、磯村雄二(3)、柳澤信義(3)、石井則男(4)、荒井昇三(5)、倉沢直彦(5)、宮澤康元(5)、山浦ひろみ(5)、村居次雄(8)、山浦るみ子(8)、林久美子(9)、藤巻禮子(9)、宮下明子(9)、平林美穂(68期)、池田有美子(69期)の18人。

 奥州路一考 & 観光ポスターは詐欺

 今回の旅のスタートは7月7日(土)11時02分に黒井駅に集合であったので、関東勢は東京駅7:48発の上越新幹線とき305号で越後湯沢駅乗り換え直江津駅に行く電車がお薦めであった。私は通常は大宮駅からの乗車であったが、この日は時間に余裕があったので東京駅に向かった。しかし不慣れな東京駅で上越新幹線の切符を買うに手間取り、お薦めの電車に乗車できず、1本後の8:24発とき307号に乗車した。先の電車は直江津駅で50分間の待ち合わせが発生するが、この間に売店で昼食用のお弁当などを購入ができる。後の電車は直江津駅の待ち合わせが5分間のため買い物はできないが、黒井駅の集合時刻には間に合うので問題なしと考えていた。
 しかしこの日の後発組は私の他にもう一人(同じ3組の同級生)がいて、(彼は通常1日前に現地に到着して勝手に歩き出しているはずの人物であったが)この日は何故か出発が遅れて私と越後湯沢で合流した。彼は遅れて朝食を食べる時間がなかったのか私が持参した昼食まで食べてしまったため、急遽直江津駅にいる先発組に電話して2人分の昼食用弁当を買ってもらうようお願いした。その結果、昼食には1200円の「たら飯弁当」にありつけたが、これがなかなかの美味だったため、今回の旅の後日談になりますが、再びこの弁当を直江津駅で買いました。
 そのお話は後に置き、本題の街道歩きの感想であるが、今回は黒井駅から米山駅まで日本海の海岸線に沿って歩いたが、前回までと打って変わって詫びしい風景であった。
 ♪海は荒海、向こうは佐渡よ、雀啼け啼け、もう陽も暮れた〜、ここは昔も今も変わらず寂しい海岸風景であったであろう。
 海岸線に沿って松林がどこまでも続くが、これは東海道の旅人を守る松並木とは違って、日本海の強風から家屋や畑を守る防風林である。海岸が近いので畑は砂地が多く落花生などが植えられていた。どの家の庭にも必ず松が植えられていたがほとんど手入れがなされていないようであった(人手不足のためか?)。街道筋の石碑や宿場跡などは見当たらず、時々大きな碑があるので何かと見れば、先の太平洋戦争での戦死者の顕彰碑であった。
 私はこの地の地名が30分ほど歩くと○○浜、また30分ほど歩くと○○潟と変わることに気づいた。つまり浜の長さがすごく短くてすぐ潟になるようだ。潟とは小さな川が海に流れ込む場所であり、川の土砂が砂浜を分断して湿地帯を作るのであろう。地図で確認すると、陸地が狭く山が海岸線に迫っていて、その山の裾野に多くの池が点在している。日本海の水蒸気が雨や雪となって強い風で煽られて山に当たり、地下に潜って湧水となり、これらの湧水がたくさんの池を作ったのであろう。これらのたくさんの池の水が川となって海に流れ込んでいるようだ。私は新潟という地名は昔から知っていたが、その潟の意味は何かと考えたことはなかった。今回の旅で、新潟県の海岸には沢山の潟があること、新潟市の潟はその一つであり最大の潟であることに初めて気づいた。チコちゃんにボーと生きてるんじゃねえよ!と叱られそうであるが、今回の旅で少し賢くなった気がします。
 これで潟の地名が多い理由は解明できたが、まだ分からないのが犀潟という地名である。どうして日本海にアフリカのサイがいるのか。調べてみると江戸時代には麒麟、天馬、犀などの霊獣が広く知られていて、犀は日光東照宮に彫刻されていた。この犀の姿は一角獣のような角を持つ部分についてはサイに似ているが、脚については鹿の足であり背中には亀の甲羅を被っており、日光東照宮の職人が実際には見たことがない獣を伝聞から想像して創作したようである。また昨年のニュースで、日本海の水温が下がると深海に住む大王イカなど奇妙な生物が水面近くに浮上することがあると聞いたので、私の大胆な仮説であるが、江戸時代のある朝、この干潟に頭に尖ったこぶを持った大きな亀が現れ、これを見た村人らがこれは噂で聞いた犀に違いないと考えて、犀が現れる干潟、つまり犀潟という地名になったのではないだろうか?(チコちゃん、正解でしょうか?)
 2日目は、鵜の浜温泉から1時間ほど歩くと海岸近くに人魚塚があったが、日本海に人魚がいるのは奇妙に思って、その由来が書かれた掲示板を読んだところ、人魚は小説の中での話であったが、その小説はこの地に伝わる悲しい男女の恋の民話が基とのことであった。やはりこの地は昔から悲しい情景が似合う場所のようである。
 更に歩くと、陸地の隆起や波の浸食によって海岸の段差がだんだん大きくなっている。山が海にせり出した場所は岬や断崖となり、○○崎の地名となっている。崎は海岸線に近い山が侵食されて残った断崖のようである。そのような断崖の上に柿や柏の木が生えていたのであろうか。そんなことをぼんやりと考えながら歩くと、ようやく今回の目的地である米山駅に到着した。ここでは、♪゚〜米山さんから雲が出た〜と三階節の詞が自然と浮かんだ。しかし、どなたかが、米山さんから月が出た〜とか言うので、一体何が出るのが正しいのか私が歌ってみたら、雲が出たが、曲は炭坑節になってしまって大笑いでした。
 今回の街道筋では、教育委員会等の掲示板設置も少なく、新潟県は長野県より文化財の保護に力をいれていないのかとも考えたが、これは多分、街道の役割や土地柄の違いではないかと思う。正確にどこから街道の風景が寂しくなったかと考えてみると、直江津の道標(海に向かって、左加賀路、右奥州路と書かれていた)からであろう。この地点から北国街道の役割や通行する旅人が大きく変化したことであろう。
 今まで歩いてきた北国街道は、豪華な加賀百万石の大名行列や嫁入り行列などが通って、小布施の商家に厚遇されて通った葛飾北斎など江戸から商用や観光で往来する多くの旅人で賑わった街道であったが、右奥州路に入った途端、そこからは佐渡で発掘した金銀の護送や佐渡への流刑人を護送する隊列だけの寂しい街道となったであろう。自然環境も厳しく往来する旅人がずっと少なくなったであろう。石碑に記録されている人物も親鸞とか日蓮とか芭蕉とか華やかな旅人とは言えない人ばかり。芭蕉は宿屋の待遇が悪いとか言って俳句を詠まずに通り過ぎたようであるが、多分当時の越後は自然環境が厳し過ぎて、石を抱きて野に詠う芭蕉のわびなど理解する余裕がない土地柄だったのではないかと思う。次回に検証したい。

  後日談であるが、私は街道歩きの後で7月24〜26日に2泊3日で火打山と妙高山を縦走した。妙高山はこのあたりで1番高く、昨秋より我々が奥信濃路に入った時からずっと我々を見守ってきてくれた霊峰であるので、一度は登って見たいと思っていたところ、偶然に友人から誘いがあって登ることとなった。山頂付近にはまだ残雪があり、雪渓の上で寝転んで身体を冷やしたり冷たい雪解けの湧水を飲んで、下界の酷暑を忘れることができた。しかし、かなりの急峻な崖道で、私の友人は足を痛めてしまい、3日目の妙高高原の散策は中止して、タクシーでいもり池を見に行くことにした。
 駅の観光用掲示ポスターで妙高山の写真が貼られていたが、この写真は妙高山の手前の池に逆さまの妙高山が写っているもので、良く見かける代表的な妙高山の写真である。ポスターの写真今回この池が妙高高原のいもり池であることが判明したので、この写真の風景を一度目で確かめようと考えて、登山帰りの関山駅から妙高高原駅まで戻って観光案内所に荷物を預けてタクシーでいもり池に行ったが、何と、いもり池の表面は全てハスの葉に覆われていて逆さ妙高は映って無かった。タクシーで観光案内所に戻ってこのことを伝えると、いもり池は外来種のハスが繁殖し現在は退治できない状況であり、その写真は既に何年か前の写真であるが今後も見ることはできない風景でしょう、との説明であった。観光ポスターは詐欺ではないかと言いたいお話でした。ついでに、いもり池のいもりも外来生物に駆逐され今は住んでいないですよと、重ねて同情を誘われても許し難い話でした。
 登山の帰りに直江津駅によって、お土産用に例の美味しい「タラ飯」弁当を探したが、売店では見つからなかった。不審に思い近くを訪ね歩くと駅員さんがそれは改札前の売店のものでしょうと言うので、許可を得て改札を入ると、木の台の上に数点のお弁当が置いてあったが売り子がいない。ついでに次の電車の出発時刻を見ているとご年配の男が当然現れて、越後湯沢に行くなら次の次の電車の方が先に着くよ、と教えてくれた。ありがとうと礼を言うと、直江津のお土産ならタラ飯が1番だよ、と言う。どうやら改札前の売店というのは、このオジさんのことらしいことが分かって、ようやくお土産を買うことができた。更にこのオジさんが、あさって(7月28日)の夜19時半からNHKテレビに出るから是非観てくださいとのこと。
 言われたとおり、翌々日にテレビを見ると、日本の有名な駅弁を訪ねて歩く旅番組で、直江津はユージ(ドミニカ共和国の元大統領のひ孫)が食レポを担当して、このオジさんを訪ねておりました。そしてこのオジさんの正体は木の台を首に掛けてホームで駅弁を売る売り子であることが分かりました。この駅弁売りの風景は、第3セクターの前のJRか更にその前の国鉄時代のものであり、現在残っているのはこの直江津駅のこのオジさん一人だけとのことです。この駅弁売りの風景は信越本線・横川駅の釜飯売りが有名でしたが、今は消滅して我々の世代には懐かしいものですが、この直江津駅は信越本線の生き残りの一部であるので、オジさんは特別に許可されて販売を続けているようです。
 テレビ番組ではユージが駅弁台を首に掛けて、売り子を実演してこれは重い!と叫んでおりましたが、このオジさんは高齢のため実際は首に掛けて歩くことは止めて改札前に台を置き自身は近くに腰掛けて、それらしい乗客に声を掛けて販売しているようでした。このオジさんが最後の一人だとすればいずれは消えて二度と見ることができない風景となるでしょう。どうやらオジさんがテレビ番組を見てくれと言ったのは、直江津駅の名物はタラ飯よりも自分自身だと言いたかったのかも知れません。
 街道歩きの本題から脱線しましたが、今回は乗り換え時間に昼食用にタラ飯を買ってもらったことから、貴重な珍しい人や物に遭遇できたのでちょっと報告してみました。
 柳澤信義 (3組)

 



黒井神社


鵜の浜ニューホテル
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日本海と佐渡島が見える

玄川神社

浄善寺
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鉢崎関所跡

第7回 新井駅から黒井駅へ

(18/5/26−27)

新井駅から高田宿へ
 2018年5月26日(土)新井駅に集まる。東京方面からの人は上越新幹線回りの人もいて、少しずつ目的地に近づく、という旅ではなくなったが、やむを得ない。
 新井駅から街道に向かって歩くと、駅前商店街が「六十朝市」をやっていて、早速、新鮮な「越後トマト」を買ったメンバーも。雪深い越後で、この時期に熟しているということは温室栽培しかないが、大雪にも耐える頑丈な温室で作っているのだろう。
 「北国街道」の看板が付けてある通りに出て、しばらく歩くとお寺が何軒かある一角の一番奥に東本願寺新井別院がある。別院の右手に、関山の宝蔵院を移したという庫裏がひっそりとしてあった。入口に、明治天皇小休所跡の碑がある。ここで、先ほど購入したトマトをいただいて、出発。
 石塚の信号を過ぎた処に、石塚の一里塚跡、と刻んだ立派な碑が立っている。裏側を見ると、石塚地区の石屋さん達が作ったと刻んである。このあたりは矢代川の千種石(輝石安山岩)を利用して村民の多くが石屋であったとのこと。今も、石屋が健在で、看板が何件か見られる。また、家の庭や石垣にも千種石が使われている。
 また、大崎地区との境にある康源寺は、山門の鐘は江戸時代初期の物、境内には心字池があり立派な石灯籠が据えられている。
 栗原地区を過ぎた処に、北新井駅のプレハブ駅舎がある。近くの、栗原ニュータウンの交通の便のために、民営化後に作られた駅のようだ。ここで、昼食休憩。
 昼食後、住宅街になっている割には殆ど車が通らない街道を2.5キロほど歩いたところにある越後出雲神社で小休憩。出雲大社の分社として江戸後期に祀られ、かつては、大社参詣の案内をする御師の宿所もあったとのこと。
 少し先の北陸新幹線の高架の下に、「根切り松」の碑と「明治天皇小休所跡」の立派な碑が立っている。碑文によれば、根が街道にはみ出す樹齢500年の松があったが、明治天皇巡幸前に根を切った、とのこと。根を切られた松はその後枯れてしまったようだ。
 すぐ先を矢代川が流れ、瀬渡橋が架かっている。解説板によれば、稲葉氏が高田城主の時に架けられた橋で、それまでは徒渡りだったとのこと。

 新幹線の「上越妙高駅」を左手に見て、旧道を急ぐ。500mほど歩いたところに願清寺の赤い山門があり、そのすぐ先に「弘法の清水」の碑が立てられている。全国を行脚していた弘法大師が錫杖で清水を掘り当てた、とのこと。碓氷峠にも、弘法の清水があったが、全国にいくつもあるのだろう。
 1キロ程先の高田新田交差点の角に一里塚の碑と伊勢町口番所跡の碑が立っている。すぐ先から雁木通りが続いていて高田宿はもうすぐ。
 500mほど歩くと、青田川に架かる出雲橋の手前が枡形になっていて、ここが高田宿入口。青田川は、高田城の外堀にもなっている。時刻を見ると、予定通り午後3時、高田城に向かった。
 高田城の森が見えてきたが、街道は直進せず、南本町2丁目の信号を左折して青田橋を渡る。「岡崎城下の27曲がりみたいだね」と言いながら500m程歩くと、高橋飴屋。粟飴を江戸初期から商い、十返舎一九の旅行記にも「風味よくこの所の名物なり」と書かれているとか。また、夏目漱石の『坊っちゃん』で、乳母の清が「越後の笹飴が食べたい」と土産に希望するなど、この地の名物であった。私たちも、ここで一休みのつもりが、勧められままにいろいろな新商品を試食して、おいしいお茶をいただき、時を忘れてしまった。
 大急ぎで雁木通りを歩き、500m程行って右折。500m程歩いたところに、札の辻の碑が立っている。ここを右折したところに旧師団長官舎が残っている。
 本町通を直進して、大手門入口の通りに右折して入る。ようやく見えた外堀は、矢代川の蛇行部を利用して造られている。再建された高田城三重櫓は内堀の向こう。時計を見ながら、大急ぎで歩き、櫓に上った。
 見学後、雁木通りを歩いて宿泊のホテルへ。結婚式の客とテニス大会の参加者で、ホテルのフロントには長蛇の列、おまけにコンピューターがダウンしてしまったとのことで、受付に時間を要してしまった。
 夕食は、近くのお食事処で、ノドグロの塩焼き、刺身など季節の食材を使ったお任せ御膳で疲れを癒やした。

高田城見学
 高田城は、徳川家康の六男、松平忠輝が慶長15年(1610)に高田に入封すると、慶長19年(1614)に天下普請として築城された。普請に当たったのは、上杉景勝、前田利常など13の大名が任命され、総裁には忠輝の舅伊達政宗が就任して進められた。
 大阪冬の陣を前に築城を急いだため、天守閣と石垣のない城だったが、濠の幅の広さ、60haを優に超える城郭の広大さに驚いた。しかも、約4ヶ月で完成させた、というのだから、ブルドーザーなどのない時代に、どれだけの人足が投入されたのか、土を掘り、運ぶ姿を想像してしまった。
 櫓の1,2階は資料が展示されている。高田城図間尺、高田城復元模型はわかりやすい。歴代城主、藩主系図は当時の人間関係の知識が無いとわかりにくいが、高田が北陸の押さえの要衝であったことを伺わせる。
 また、築城当初は二重の櫓だったが、寛文地震の後、三重櫓に生まれ変わった。現在の三重櫓は、絵図、古文書を検討し、発掘調査を行い、史実に基づいた木質構造建築による復元、との説明。三層部は太い梁や柱がむき出しになっているので、櫓の構造を見ることが出来た。
(第1日目の歩数、31,299歩)

高田宿から春日新田宿へ、黒井駅へ
 前日、所用のため、自宅へ戻った林さん、宮澤さんに変わって、2日目から参加の荒井さん、倉沢さんが、7時過ぎに到着。ホテルロビーで打ち合わせ後、出発。
 高田の雁木通りは、雪深い町の生活通路として、高田藩4代城主、松平光長の時代(1624〜1681年)とされている。今も総延長16kmも残っていて冬の雪から人々の生活を守っている。
 通りを歩くと、小町問屋街跡、の碑。小川未明文学記念館もある。
 本町通りの突き当たりで街道は左右に分岐している。右は、北国街道奥州道、左は加賀街道。かつて北国街道追分に置かれていた追分の碑は、近くの宇賀魂神社境内に移されて、街道追分から真っ直ぐの道が直江津へと開通していた。
 私たちは、右折して、北国街道奥州道の方へ進んだ。すぐに、瞽女ミュージアム高田、の看板がかかった建物があるが、開館時間が土、日の午前10時から午後3時、とのことで、外からのぞき見して過ぎた。
しばらく歩くと、中屋敷町の標柱、すぐ先が鉤型に曲がり、直江町に入る。本誓寺町、稲田鍛冶町(鍛冶屋が建並んでいた)、鍋屋町(鋳物師の同業者町)、を過ぎたところが稲田口番所跡。ここまでが高田宿だが、稲田橋を渡った先にも雁木通りがある。この途中から松之山を経て三国街道の塩沢宿に通じている。
 松之山街道口を過ぎて、しばらく歩くと、若宮八幡宮があり、木陰で小休憩。
 塩谷新田、春日新田地区は大型店が建並ぶ商業地区になっていて、街道の面影はない。
 信越線に突き当たったところは、かつて「春日新田駅」があったところ。線路の向こう側に春日神社がある。街道は、線路の手前が春日新田宿の枡形で、角に茶屋が建並んでいたようだ。枡形の角に本陣があったが、駅を造るときに無くなってしまった。だが、すぐ隣のお宅は立派な門、式台付の玄関、庭には立派な石灯籠が置かれていて、本陣の一部を残しているようだ。
 宿場の中程に、春日新田の馬市跡の碑が立っている。馬は、東北地方が産地だったため、ここで盛んに取引が行われ、越後三大馬市として栄えた。社の裏手には、馬頭観音の碑も置かれている。
 宿場の町並みを歩き、小町橋を渡ると、街道はなくなって、住宅街になっている。区割りされた住宅街の中の道をたどると、佐内町に奥州道道標が残っている。「右さいみち/左おう志う道」とある。奥州道は佐渡路の一つである北国街道と重なっていたので、柏崎をへて出雲崎までの区間は、佐渡へ渡る幕府の役人や金山の水替人足を乗せた唐丸籠も通り、特に金銀の輸送路として東海道などの五街道に次ぐ重要な往還であった、とのこと。
 住宅街を抜けると、信越線が見えてくる。踏切を渡ったところは信越化学の工場。工場の門の前を通って、すぐ右手が黒井駅。今は無人駅だが、引き込み線が何本も引かれて、かつては大きな駅だった事が推察される。
(第2日目の歩数、27,673歩)

参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水正宣(1)、清水洋二(1)、平林正明(1)、磯村雄二(3)、柳澤信義(3)、石井則男(4)、荒井昇三(5)、倉沢直彦(5)、宮澤康元(5)、安武知子(5)、山浦るみ子(8)、清水淳郎(9)、林久美子(9)、宮下明子(9)、池田有美子(69期)の17人。

 爽やかな風の中を歩いて

 「長野駅で乗り遅れた、どうしよう」という電話が新幹線の中のリーダーに、しかも荷物は電車の中の友に預けてあるという。「北新井駅でお昼の予定だからそちらに来て。」と流石リーダー、落ち着いて指示。こんなハプニングから今回の旅が始まりました。
 集合場所の新井駅でも、「上越回りだと便利で少し安いという情報で乗ってきたのは何と2人だけ、しかも言いだした本人は違うルートで来てるんだから。」という声。笑いで盛り上がっての出発です。
 前回新井駅周辺のお店はほとんどがお休みでしたが、今回は「六十新井朝市」と看板がある地元の農産物、刃物、衣類等の出店の中を通り抜けて行きました。
 圧倒されるほどの大きな木々の境内で、清水さんと柳澤さんが仕入れてきた新鮮なトマトを丸かじりしてから歩き始めました。いつもご馳走さまです。
 石屋さんが何軒もある通りを歩いて北新井駅へ、狭い構内で昼食、乗り遅れた彼も合流して高田宿を目指します。
 間口が狭く奥行きの長い家々が続く町並の有名な雁木通りは統一されたものではなく、軒下を出入りが出来るように、人が通りやすくするように家々が作った物の様です。気をつけて歩かないと躓いてしまう段差のある所もあります。そんな雁木通りに入って程なく江戸初期から続く飴屋さんがありました。おみやげにとお店に寄ると、冷たいお茶でもてなして下さいました。なんでも市販されてない特別なウーロン茶とか、美味しくて生き返るようでした。
 目的の高田城は、歩いても歩いてもなかなか着かず、外堀の桜並木を見たときはホッとしました。城内は広く気持ちのいい公園になっていて、陸上競技場では中学生の記録会が開かれ自転車の中学生を多く見かけました。散歩する人、ランニングしている人、市民の憩いの場でもありました。お城の三重櫓に登り清水淳郎さんの何代にも及ぶ城主の話の説明をして頂きました。爽やかな風に吹かれながら城下の景色、遠くの山々を見て、そういえば歩いている間どこかに妙高の山々が見えていたなと思っていました。

 昨夜はホテルの前で帰る2人と別れ、朝、新しく2人が合流し昨日と同じ15人で出発です。コンビニでお昼を調達し歩き始めてすぐ、リーダーが地図を挟んだ本を忘れたとホテルに引き返したが見つからないという不思議なこともありました。
 北国街道追分の道標が移転されているのを見つけて記念写真を撮って奥州道を歩きだしました。区画整理された広い田んぼに植えられた苗が揺れて美しい田園風景、バラを中心に初夏の花々が色を添えて気持ち良く歩きました。途中イベント会場に寄り一休み、色々出ているお店は準備中で残念。また、かまぼこ屋さんのフリーマーケットも横目で見て素通りでした。
 北国街道奥州道というのに両側に大きな量販店が並ぶ広い道路をしばらく歩き、春日新田宿に入り、線路で参道が分断された春日神社で昼食、山車の倉庫らしき建物が4,5棟あったのが目につきました。
 馬市場に寄り、街中で(さないみち)と書かれた道標を見つけたあとは今回の終点黒井駅に重い足を引きずりながら着きました。
 最近物忘れがひどい、2つ以上荷物は持たないようにしている、馬鹿みたいな失敗をする、同じように悩んでいる人も多いようで少し安心しました。
 ちょっとした失敗も「やってしまった!」と笑いあって楽しんでしまう、そんな仲間がいることは幸せだなと思います。
 奥村恭子(1組)


  第7回北国街道の旅に参加して・・・『雑感』

 北国街道歩きももう7回目となったが、別のイベントと重なり参加できない日もあり、今回で3回目の旅となった。出席率は半分以下だが参加する度、その土地の文化や風土、食べ物に触れ、仲間との談笑の中に色々な楽しみを見いだせるのがこの街道歩きの魅力だと思っている。家内も気楽な仲間に加えていただき参加するようになったが、歩くことが好きなので出席するのが毎回楽しみなようだ。ただ最近はどういうわけか都合が合わず結果として交互に出席することが多くなっている。
 街道歩きを続けていると色々なハプニングが起こる。これもまた旅の楽しみの一つである。今回は長野で集合した仲間の一人がトイレタイムの間に、間に合わず電車に乗り遅れ、後から合流することに。乗り遅れの責任は指示した者にあるのでは・・云々(?)、日大アメフト問題に照らし議論、会話が盛り上がるこんなハプニングから始まった。変な話しだが、こうしたハプニングがあればこそ忘れられない記憶に残る旅となり旅の面白さが増すのでは・・。これに対する清水(計)リーダーの対処の仕方も見事だった。
 今回は初日、新井駅から石塚一里塚跡、越後出雲神社、渡良瀬橋、弘法の清水、伊勢町口番所跡、高田宿に入り、飴や、紺屋、札の辻⇒高田城跡見学がハイライトであった。
 お城散策も街道歩きの魅力の一つ。街道沿いには必ずその土地のお城、庭園、宿がセットされており、今回もまた高田城跡の散策が出来、大きな収穫であった。お城博士の清水淳郎君の熱い解説付きでいつも盛り上がる。徳川家康の六男・松平忠輝公が築城。眼下の景色が楽しめた。お城も現代建築で再建されており、中は美しくお城の現代版新住居といった感じで気持ちが良かった。春は桜の絶景が楽しめるとのこと。日本三大夜桜の一つに数えられているので花見の季節に機会を作って是非再訪したい。
 宿泊はアートホテル上越でこの会食会がまた、楽しい。近くの料理屋に集合、日中の街道歩きの途中で酒の肴、野蒜(のびる)を仕入れ、味噌やお通しとして準備、ナイフ持参なのか「野蒜」のお通しも綺麗に整い、ちょっと小料理屋風を思わせる創りに感激。「野蒜」に味噌をつけて味わいながらお酒を一緒に飲ませてもらったがそのお酒がすこぶる美味しかったこと。石井君に感謝!感謝!でした。
 2日目はホテルを出発、北国街道追分、稲田口番所跡、大日一里塚跡、そして春日新田宿へ、一里塚跡、奥州道道標を確認し黒井駅に到着完了。駅前の信越化学の工場がやけに目立った。 
私の2日間の万歩計は1日目33,709歩、2日目27,219歩(計)60,928歩
 低く見積もっても30kmは歩いたことになる。ゴルフの1ラウンドはよく歩いて1日:20,000歩なのでゴルフと比べて、1日約1.5倍以上。ピンピンコロリの終活を目指す我等団塊世代の健康寿命を延ばす足腰強化運動であると改めて実感した次第。
 これからもできるだけ参加して皆で健康寿命を延ば〜せ・・・♪ 延ば〜せ・・・♪
とエールを送って、次回またの再会を楽しみにしているヒラリンでした。
 平林正明(1組)



東本願寺新井別院
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高田城三重櫓

高田雁木通り

宇賀魂神社の追分の碑(左の大石)

春日新田宿の春日神社
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春日新田の馬市跡

第6回 妙高高原駅から新井宿へ

(18/4/21−22)

妙高高原駅から田切宿、二俣宿へ
 2018年4月21日(土)妙高高原駅に集まる。この駅は、以前は「田口」駅と称していたが、妙高高原の入口ということで「妙高高原」と改称された。
 駅から、田口地区を歩き、北国街道の、豊橋十字路に出て、街道歩きを始める。深沢川を渡ったところに、妙高高原北小学校がある。深沢川の北側に一里塚があったが塚はなくなり、小学校の南西隅に田切一里塚標柱が立てられている。塚があったところには「牛頭大王」の碑が置かれている。
 すぐ先の白田切川は、妙高山の南地獄谷から流れてくるため、水はいつも白濁しているのだという。白田切川を渡ると、街道は直角に曲がり、田切宿枡形に入る。2m近いのっぽの消火栓が目に付く。このあたりの家は高床式の住宅に変わり、入口は二階に階段で上がるようになっている。屋根も落雪するように急傾斜に造られ、屋根に上がる梯子が常設されている。
 田切宿の外れに、樹高20mほどのハルニレの大木が立ち、根元に幕末に立てられた筆塚がある。一里塚かと思ってしまうほどだが、筆塚とのこと。
 郷田切川を渡ると二俣宿である。田切宿と半月交替で問屋業務を務める合宿であった。
 二俣宿脇本陣・畑山家は問屋を兼ねていたが、今は、家屋敷はなく大きなモクレンの木と畑山先生の碑、明治天皇小休所跡の碑、畑山正隆の歌碑があるのみ。
 畑山三作は幕末に寺子屋を開き、地域の教育に努めたので、「畑山先生」の碑が立てられた。また、畑山正隆は、昭和52年の歌会始の選歌に入選したため歌碑が立てられたとのこと。
 二俣宿の外れにある浄土真宗西蓮寺は立派な山門のある寺。お願いして、境内で昼食を取らせていただいた。本堂には、厨子に入った阿弥陀如来が安置されていて、手を合わせたくなる雰囲気のお寺であった。
 昼食を済ませて、二俣地区を歩くと、道の左側に14基の五輪塔が並んでいる。上杉謙信が急逝した後、跡目相続の内乱「御館の乱」がおきた。その戦の無名戦士の墓とのこと。

関山宿へ
 二俣地区の先の大田切川はV字の深い浸食谷を造っていて、国道には妙高大橋が架けられている。街道はS字に蛇行して谷を下り、谷を上る。途中にある大田切清水は、参勤交代の大名ものどを潤した、と書かれてある。清らかでおいしい水で私たちものどを潤し、ペットボトルに汲んだ。
 大田切川を渡った先が坂口新田。大雪の時に幕使が通行に難渋したため、将軍家光の命で高田藩が街道の助成村として入植者を募って開いた。街道の右側に一里塚があったようだが、今は、跡も無い。左手には、坂口新田の庄屋の屋敷があり、修復中だった。
 坂口新田地区の先の、小野沢信号を左折して旧道に入ると、道路の中央に融雪パイプが埋められている。小野沢川を渡ると、左手に興善寺、少し先の右側に大日像が覆屋の中に座している。雪深い地だからだろう。
 関山宿に入る。横町の角に泉地蔵堂があり、ここで街道が直角に折れ、仲町に入る。
 少し先の左手に関山神社の参道が続く。関山神社は、関山権現と呼ばれ、銅造菩薩立像(国重文)をご神体としていたが、明治の廃仏毀釈で「神社」になった。関山権現の別当寺であった宝蔵院は廃寺となった。毎年、関山神社では、妙高山系の山開きが行われ、関山神社の脇に妙高山の登山道入口がある。
 神社を過ぎて500m程歩くと、街道右側に一本松、左側に北沢一里塚の西塚がある。西塚の先には広大な縄文公園が整備されている。この一本松と一里塚が妙高市と上越市の境とのこと。

松崎宿、二本木宿へ
 一里塚の先で国道を渡り、旧道を歩く。このあたりは、稲荷山新田。江戸時代に、街道に沿って多くの新田村ができた。
 田畝の先に、妙高山系の山が連なる。右手に雲願寺、鐘楼もあり、この地区の信仰の中心になっていたようだ。路傍の馬頭観音には石をくり抜いて覆いが架けてあり、お地蔵様も覆屋の中に納めてある。
片貝地区に入ると、「→片貝縄文資料館」の看板がある。妙高山麓は縄文遺跡の宝庫で、耳飾り、石棒、土偶が多数出土していて、廃校となった片貝小学校を再利用して展示してある。
 すぐ先に、大きな筆塚が立てられている。津藩の槍指南役だった公田親子が浪人して、江戸後期にこの地に寺子屋を開き、文字や詩歌を村人に教えた徳を称えた碑、とのこと。
 片貝川を渡り、しばらく歩くと、左側に馬洗場の大石がある。自然石を削り、棚状にしたところに馬頭観音を3体安置してある。
 市屋地区に入る。市屋一里塚跡がこのあたりにあると、ガイドブックにあるが、標識もなく見当たらない。
 少し先の左手に若宮神社があり、街道は神社前で大きく曲がっている。松崎宿入口の枡形のようだ。
妙高はねうまラインの踏切を渡る。松崎宿と二本木宿は連続した宿で、半月ごとに問屋業務を交代する合宿であった。両宿には本陣がなく、間にある安楽寺が本陣役を担った。
 二本木宿に入る。道の中央に融雪パイプが埋まり、散水する地下水の鉄分のためか道路が茶色になっている。
 左手に立派な式台付の玄関がある家、「二本木小休所跡」の碑が立っている。二本木宿は安楽寺が本陣役を担っていたため、明治天皇は寺を避けて松原家(現、早川家)で休んだ。家の玄関部分を残して、後ろに主屋を新築してある。家の歴史を残す取り組みに敬意を表したいと思った。
 二本木地区をひたすら歩いて、ようやく二本木駅に、予定より1時間遅れて到達。妙高サンシャインホテルの迎えのバスに乗り、ホテル着。
 ホテルは温泉があり、大浴場で歩き旅の汗と疲れを落として、新鮮な魚と旬の山菜料理に大満足の夕食だった。
(第1日目の歩数、28,978歩)

二本木から新井宿へ
 朝、ホテルの部屋から、雪化粧した妙高山が見える。妙高高原駅付近で見た妙高山より、妙高山系の山の連なりが目の前に広がり、すばらしい景観である。運転手さんが、妙高山の隣の尖った山は、「火打山」と教えてくれた。
 ホテルの前で妙高山系を背景に記念写真を撮って出発。マイクロバスで二本木駅まで送ってもらう。
1.2キロほど歩いたところに藤沢一里塚。東塚のみ残る。西塚は、戦後の食料増産のため開墾されて消滅した、とのこと。
 一里塚の先は、板橋新田地区。緩やかな坂道を上る。所々に、覆いのついた馬頭観音像が置かれている。振り返ると、妙高山系の山並みが美しい。
 峠の上に馬頭観音が覆屋に収まって2体。かつては、このあたりに立場茶屋があった。
 街道が下りになるところに、小出雲坂の標識がある。この坂を境に高田平野と別れることから「越後見納めの坂」と呼ばれ、小唄に歌われた。かつては、松並木だったが、桜並木に変わっている。
 急坂を下ったところに、賀茂神社。春のお祭りに向けて、氏子たちが、雪囲いを外したり、杭を打ち直したりしていた。ここの水は、山から引いてきた清水、とのことで、喉を潤した。

 賀茂神社の上にある経塚山は公園になっていて、一週間前は、お花見祭りが行われたとのこと。今は、八重桜が満開、というので、街道沿いの家の親子の道案内で上った。
 ここからは、高田平野が一望でき、かつて、武田勝頼が2万の大軍で布陣して春日山城と対峙した地、とのこと。満開の八重桜を眺めて小休憩した。
 融雪装置が埋まった街道を下る。小出雲信号のところの角に、飯山道道標が立っている。「左飯山道/右善光寺道」と刻んである。
 信号を渡り、辻屋橋を渡ると新井宿に入る。
 宿場の町並みは殆ど建て替わっているが、古い呉服店がひっそりとあった。すぐ先に、上町延命地蔵尊の社が建てられている。
 中町の広場に、新井宿のかつての町並みの図が掲げてあるので、それに従って歩く。
 小路を入ったところに市神社。街道に戻って本陣跡と表示してあったところは、和田製粉、になっていて、表示板もない。その向かい側に高札場跡があったらしいが、表示板もない。新井宿見学はここまでとして、新井駅に向かった。
 新井駅から、電車で黒姫駅に戻り、前回、改装中で見学できなかった野尻湖ナウマンゾウ博物館を見学した。
(第2日目の歩数、15,350歩)

野尻湖ナウマンゾウ博物館見学
 1962年に始まった野尻湖発掘は、現在でも続いている。博物館入口には、発掘調査に参加した人の氏名が書いて掲示してある。上田高校生の参加は、第3次に7名が参加したとある。街道歩きのメンバーでは、清水洋二さんと村居次雄さんの名があった。
 この博物館は、50年間続く「野尻湖発掘」の成果に基づき、出土した化石や遺物を現地で保存、研究、展示する目的で設立された。
 野尻湖から出土するナウマンゾウやオオツノジカの化石、「野尻湖人」が使っていた石器や骨器などは、およそ4万年前、最後の氷河時代の物。日本の旧石器時代の遺跡では、人類の道具と動物の骨や植物の化石が一緒に見つかる場所は他にあまりなく、大変珍しい。
 館内には、ナウマンゾウの実物大の復元像が置かれ、出土した化石類は標本展示されているほか、手で触ってみることができる。ナウマンゾウの臼歯は湯たんぽほどの大きさがあり、それに実際に触ってみると、かつての姿を想像してしまう。
 発掘と研究と展示が一体となった博物館で興味深く見学した。 

参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水正宣(1)、清水洋二(1)、磯村雄二(3)、柳澤信義(3)、石井則男(4)、宮澤康元(5)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、山浦るみ子(8)、清水淳郎(9)、藤巻禮子(9)、宮下明子(9)、平林美穂(68期)、池田有美子(69期)の16人。

 季節外れの陽気に包まれながら,妙高高原から北へ向かう

  2018年の初回は妙高高原駅に集合,ということでしたが(車で向かった一人を除いて)全員が長野駅で合流しました。久しぶりに再会した旅グループの面々は元気いっぱいで明るく「しなの鉄道北しなの線」の車内は賑やかだった。(いつもながら,他の乗客にはご迷惑だったことと思います。)
 二本木駅まで歩いた後,宿泊した妙高サンシャインホテルは抜群のロケーション。冠雪した妙高山が裾野を広げ,陽光の中で悠然と輝く景観に感銘を受けました。翌日は二本木宿から新井駅まで歩いた後,関川の関所見学グループ(前回不参加者中心)と野尻湖ナウマンゾウ博物館見学グループ(前回改装工事中)に分かれ,その後に合流して長野駅で解散。
 私は一度友人を迎えに車で妙高に立ち寄った経験があるだけで,新潟県に縁がなく,旧街道の宿場名も今回訪れた田切宿,関山宿,松崎宿,二本木宿,新井宿を含めて無案内でした。中山道や東海道と比べ北國街道を辿る人は少なく,今回は逆ルートで歩いていた男性を一人見かけただけでした。そもそも歩いている人がほとんどいない。道沿いの住民たちは,私たち一行を見ると「今日は何だね?」と言いながら近寄って来ました。
 旧街道に沿って並ぶ家々の多くは,雪国らしいモダンな建築で,入口には階段,玄関は二階にあり,窓ガラスが大きくて広い。屋根に雪下ろしの命綱を掛ける金具が付いている。赤い消火栓が道沿いにニョキニョキと高くそびえていた。ほとんどの家に,門や塀や垣根がなくオープンな造りになっていた。言葉を交わした人々は,皆,穏やかで優しく親切だった。
 空き家らしきものもあちこちで見かけましたが,今回の旅の終点となった新井の街では,旧街道沿いの店も,アーケードのある駅前商店街も(食事処やスーパーを含め)日曜休業で閑散としていました。

 3月に新装オープンしたナウマンゾウ博物館は,発掘過程と資料が詳細に展示され,家族連れが訪れる楽しい施設です。調査参加者名を記した年度ごとのプレートがあり,第三回の中にウォーキング仲間二人の名前もありました。
 季節外れの陽気の中,花々が大慌てで一斉に咲き始め,桜は八重桜を残して散っていたものの,チューリップ,水仙,クロッカス,椿,菜の花,レンギョウ,ドウダンツツジ等が,まだ少し雪の残る庭に咲き誇っていました。大量の雪解け水で,山中では川が滝のように流れ,平地では用水路がどこでも大きな水音を立てていました。
 ホテルやお蕎麦屋さんで採り立ての山菜料理をたっぷり堪能し,さらに,自分たちでも道端に生えていた様々な山菜を摘んで(筍や山椒の葉も)生で食べました。ワラビやアスパラガスを自宅に持ち帰った人も。
 例年になく寒かった冬の間,私はほとんど身体を動かすことなく過ごしており,急に長距離ウォーキングに参加しても無事に済むだろうかと懸念していました。とりわけ1日目の行程が予想外に長距離だったため,最後の頃になると両脚が悲鳴を上げ始めたものの,ダメージが残ることもなく全行程を歩き終え,ホッとしました。
 安武知子(5組)


  満喫している街道歩き

 21日午前7時10分、東京駅の新幹線ホームには清水洋さん1人、東海道歩きでは7−8人が集まっていた。そういえば昨年、大宮から乗る人のために2人で座席を確保していたが、上野でほぼ満席となり、「そこ空いていませんか」と聞かれ、しどろもどろごまかしたこともあったっけ。今日は空いているので大丈夫だ。
 田切宿から二俣宿に旧道を進もうとしたら、地元の方が「郷田切川の橋が工事中で渡れない」というので、田んぼのあぜ道を18号線に出て大きな橋を渡った。ガイドには田切の古道があり水が少ないと渡れると書いてある。二俣宿から旧道を戻ると「古道入り口」と立派な看板が出ていた。川まで下ると対岸にも古道があるが、雪解け水が多くとても渡れなかった。
 関山宿の泉地蔵堂で右折し旧道に行く本隊と分かれ、直進して数人が関山神社に向かった。入り口に仏足石があり、仏足、舎利塔、仏手華判が並んで刻まれているのは珍しいという。その先の妙高堂にある阿弥陀三尊像は見られなかったが、もともと妙高山頂にあったものを明治2年に移されたそうだ。その右手に下半身が埋め込まれた石仏26体がある。関山神社は立派な社だが、脇にはまだ雪がうず高く残っていた。
 ここから二本木駅に行く道すがら子供たちは見ず知らずの人に挨拶をしてくれる。資料を見ながら歩いていたら自転車に乗った子供が挨拶をして通り過ぎた。振り向いて返した。家の前に座っていた年配者たちも旅人に声を掛けてくれた。
 気兼ねない同期生の街道歩きだが、行く先々での出会いもまた楽しからずや。
 石井則男(4組)



歩き始めの豊橋十字路、妙高山を背景に
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御館の乱無名戦士の墓

北沢一里塚跡

ホテル前で妙高山を背景に
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経塚山公園
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新井宿市神社



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