信濃毎日新聞に掲載 19.6.15 会報うえだ 97号(妙高高原駅から出雲崎)
会報うえだ 98号(佐渡国・御金荷の道) 会報うえだ 96号(黒姫駅から関川宿 )
(2)妙高高原駅から出雲崎宿、佐渡 会報うえだ 95号(大屋駅から柏原宿へ)
(1)信濃追分から上原宿 会報うえだ 94号(追分から海野宿、ネパール)

第5回 柏原から上原宿へ

(17/11/11−12)

柏原から野尻宿へ
 11月11日(土)黒姫駅に集まる。長野駅でしなの鉄道に乗った時は、雨が上がっていたのだが、黒姫駅に着くと雨が降っていた。天気予報では、信濃町は夕方まで雨。駅のベンチを借りて昼食を食べてから出発した。
 前回、見学した一茶記念館の前を通り、国道に出て歩道を歩く。2.5キロほど歩いたところに野尻一里塚跡。塚が国道の両側に残っているのは珍しい。国道が通ると、道が拡幅されるので、片方がなくなってしまうのが一般的なのに。
 ナウマンゾウ発掘地、の信号を右折して旧道に入ると、右側に芭蕉の句碑。「うめが香に のつと日の出る 山路かな はせを翁」とあり、裏には、一茶の門人・魯堂(池田伝九郎)と関之(池田十郎平)の句が刻まれている。芭蕉の130回忌にあたる文政6年(1823)に立てられた。
 車道と交わるところに伝九郎神社がある。池田伝九郎が開削した伝九郎用水が神社の裏を流れている。
 向かい側に、川東道道標がある。「従是飯山川東道」と刻んである。北国街道の宿場、柏原、古間、牟}を通らないで善光寺方面に行けた。

 公民館の庭に、一茶の句碑がある。「湖に 尻を吹かせて 蝉の鳴 一茶」野尻宿は俳句が盛んで、一茶はたびたび来ていたとのこと。
 野尻宿本陣跡は標柱のみ。野尻宿の外れ近くに、佐渡から運ばれてきた金銀が一泊した安養寺がある。金蔵跡は太子堂にかわり、本堂は今にも崩れ落ちそう。明治44年(1911)に中勘助が、静養のために安養寺の南座敷に仮住まいしていたというが、今は昔である。
 この先は、明日、歩くことにして、野尻湖畔に戻り、ナウマンゾウ博物館へ。博物館は生憎、改装工事中だったが、資料をいただき、来春に再度来たいところ。というのは、村居さん、清水さんは高校時代に、ナウマンゾウの発掘調査隊に参加したことがあるからである。
 博物館のすぐ先の湖畔に、ナウマンゾウ化石発掘地が見える。バスターミナルには背丈ほどもあるタイヤの除雪車が出動の時を待っていた。
 ここから、ホテルの迎えのマイクロバスで「ホテル・アステイくろひめ」に向かい、温泉で冷えた身体を温めた。
 (第1日目の歩数、10,013歩)

野尻宿から関川宿、上原宿へ
 朝、ホテルの中から、山頂部分を雪化粧した妙高山が見える。隣の黒姫山は霧に隠れて見えない。
ホテルの前で妙高山を背景に記念写真を撮って出発。マイクロバスで野尻宿の出口まで送ってもらい、ゆるやかに曲がった野尻坂峠への道を歩く。峠の上に赤い鳥居が見える。
 峠を越えると、ゆるやかな下り道。しばらく歩くと「ようこそ新潟県へ」と書いた大きな立て看板。県境は関川の関所の手前のはずだが、・・・。
 国道から、途中で右に下る旧道に入るが、街道は廃道になり、スノーシェードの道が整備されている。北斜面で深雪地のため、厳重な雪対策が必要なよう。かつて、積雪期は3メートルもの積雪で、街道は通行できなかったようである。
 赤川1号のスノーシェードを抜けた先から、赤川集落への旧街道に入る。赤川一里塚近くには一茶の最初の妻、常田菊の実家があり、一茶はここをよく訪れていた、とのこと。実家跡には、常田家の墓所が作られている。「我菊や形にもふりにもかまはずに 一茶」
 赤川神社の先を一級河川・関川が流れ、一ノ橋を渡って関川関所に入る。関所は幕府の命により高田藩が管理していた。関所跡の後方に番所を復元し、役人や人見女を人形で再現している。また、道の歴史館が併設されていて、関所や北国街道を紹介している。展示内容は、幕府の金銀輸送に関するもの、加賀藩の参勤交代に関するものなど、充実した内容で、「東海道、中山道の、どの関所の展示より充実していると自負している」と学芸員の方が言っていた。中山道、東海道を踏破した私たちが見ても、よく調べて、工夫した展示であった。

 関所を出てすぐ先の角に、加賀藩本陣跡。家は建て替わっているが、池泉式庭園が残り、紅葉が盛りで美しかった。
 すぐ先に、大銀杏が残る高田藩本陣跡。高田藩専用の本陣を兼ねた問屋があった。ここから上原宿に入る。右角に、旅籠ろうそく屋跡。奥に、畳8畳ほどもある大石を置いた、心字池のある庭園が残っている。こんな大石を海上輸送ならまだしも、陸路をどこから、どうやって運んできたのだろうと思う。
 少し行った先の左手に、大杉が立ち並ぶ関川天神社。一番大きな杉の木にはしめ縄が張られ、樹齢千年と推定され、国の天然記念物に指定されている。また、この境内入口には、親鸞聖人笠懸松の三代目という松が植わっていて、傍らに親鸞堂が建てられている。堂の中には、初代の松で作られたという親鸞像が安置されている。
 この先の毛祝坂の途中には、日本唯一のスキー神社が建てられている。スキーヤーの安全とスキー場の安全を願い、昭和7年に建立された。また我が国最初のスキー登山の犠牲者、酒井薫さんが祀られている、とのこと。
 毛祝坂の途中から、妙高高原駅に向かい、2017年の旅を終えた。
 (第2日目の歩数、14,463歩)

参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水正宣(1)、清水洋二(1)、磯村雄二(3)、柳澤信義(3)、石井則男(4)、宮澤康元(5)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、村居次雄(8)、山浦るみ子(8)、林久美子(9)、藤巻禮子(9)、池田有美子(69期)の15人。

ナウマンゾウの発掘調査に参加

 北国街道の旅の中で、野尻宿を歩く第5回の旅は、私が楽しみにしていた旅のひとつであった。というのは、野尻宿では、本陣跡や御金蔵跡はもちろんだが、その他に野尻湖ナウマンゾウ博物館を見学することになっていたからである。
 50年以上前の古い思い出で恐縮だが、上田高校の1年の終わりの3月末に、ナウマンゾウ博物館ができる出発点となった野尻湖畔でのナウマンゾウの発掘調査の第3次調査があり、私も参加していた。といっても、確たる問題意識があって参加したわけではなく、地学愛好者をまじえた調査ということで、地学の山岸猪久馬先生が参加者を募った時に、この他にも望遠鏡で土星の輪を見る集まりに参加したこともあって、面白そうなので手を挙げたように思う。
 その後、この発掘調査のことはほとんど忘れてしまっていたが、10数年前に本郷の古本屋だったと思うが、何気なく手に取った『野尻湖の発掘 1962−1973』(野尻湖発掘調査団著・井尻正二監修、共立出版、1975年)を開くと、それは私も参加した野尻湖発掘調査の第1次から第5次までをまとめた報告書であり、驚いたことに巻末の参加者名簿の中に、上田高校からの参加者として山岸・倉島両先生のお名前の他に私も含めて高校生9名の名前が載っていた。その時は高かったので購入しなかったが、数年後に神保町の古本屋で再び見つけたときは躊躇なく購入することにした。
 北国街道の旅がはじまって、野尻宿ではナウマンゾウ博物館にも寄ることになったときに、手元にあったこの本を改めて見て、上田高校からの参加者の中に、北国街道を一緒に歩いている村居さんの名前があるのに気がついて、その奇遇に吃驚してしまった。早速、村居さんにこの話をして、雪が残っている湖畔で除雪をしてから寒さで悴んだ手でヘラを使って砂土を薄く削って探したこと、われわれの担当個所からはついに何も発見できなかったこと、夜のミーティングでその日の成果とその意義について先生方の解説があったこと、などの思い出話をした。
 ナウマンゾウ博物館のホームページによると、私たちが参加した第3次発掘調査は、参加者200人余、最初の旧石器剥片2片とナウマンゾウの大腿骨・頸椎・肋骨などが見つかった調査であり、その後も発掘調査は2・3年ごとに継続して行われていて、2016年には第21次の発掘調査が行なわれ、次回は来春とのことである。
 ところが、このような思い入れもあって楽しみにしていたナウマンゾウ博物館は、あろうことか改修工事のため来春の3月20日のリニューアルオープンまで休館となっていた。今回は博物館のパンフレットをいただき、博物館の前で写真を撮ることで諦めざるを得なかった。思い入れが深かっただけにとても残念であったが、リニューアルした後のさらに充実した博物館を必ずや見に来ようと思った。

 さて、北国街道の旅の参加記でありながら、実際には見学できなかった野尻湖ナウマンゾウ博物館のことばかりになってしまったが、1日目の柏原宿から野尻宿の旅は、雨の中の旅になってしまい、安養寺の崩れかけた廃屋とナウマンゾウ博物館の休館とでやや滅入った旅となったが、その日の宿の黒姫高原のホテルアクティくろひめでは、ゆったり温泉に浸かり、盛りだくさんの料理を楽しみ、翌朝には雲間から黒姫山と妙高山を望むことができた。2日目は野尻宿から関川宿・上原宿を通って田切宿までであったが、天気が回復し、紅葉真っ盛りの山々を眺めながら、足取りも軽く信越県境を超えていった。峠は670メートルほどで険しくなく、野尻宿から少し登るとすぐに下りとなった。ただ、天気の方は、県境を超えるとどんよりした曇り空となって、妙高山も姿を隠し、日本海側の気候に一変した。これが雪国の冬の天気かと妙に納得しながら歩いた。この旅の翌週には県境は雪景色となった。
 最後に、今回の旅の途中で便利なアプリを教えてもらったので紹介しておきたい。“山ナビ”という無料アプリで、iPhoneを向けた方角にある山の名前・標高・形状・距離が、曇っていて山が見えなくても即座にわかるという優れものである。この他に、“北国街道”というアプリも便利で利用している。
 清水洋二(1組)


秋と冬の風景に感動

 今年、最後の街道歩きの日、東京を出る時は晴れ。長野駅でしなの鉄道に乗り換え、前回の終駅で今回の出発地の黒姫が近くなると、雲行きがあやしくなり、雨が降っていた。
 「お昼を食べている間に止んでくれ〜」の祈りもむなしく、小雨の中をスタート。途中、雨が止んだり、降ったり、晴れ間が出たりと仲々すっきりしない中、途中、朽ち果てたお寺で銀杏拾いをしたのは何とも言えない時間だった。
 野尻湖畔に着いた時は、ほっと一息。ナウマンゾウ博物館が改修工事で見学できなかった為、予定の時間より早くホテルに到着。温泉もあり、ゆったり過ごすことができ、料理もおいしくて又満足。
 次の朝起きると、妙高山、黒姫山が雪で真っ白になり、紅葉と雪に朝日が輝き、仲々見ることができない風景に出会えて本当に感動!
 もう一つ感動したのが、宮澤さんが真っ白な大きな銀杏を持ってきて下さったこと。ありがとうございました。
 もうすぐ雪が降る時に備えた家並み、雪囲いの植木をながめながら気持ちよく歩き、関川の関所から新潟県に入り、「道の歴史館」では、館長さんの時折質問が入った説明も、さすが上田高校、と言わせるような明解答ぶりはご立派でした。
 いつもショートカットをしていたので、今回はほぼ、皆さんと一緒に歩けて良かったです。
 ♪ ♪ ♪
  静かな湖畔の
       森の陰から
  もうおきちゃいかがと
       カッコウがなく
  カッコウ カッコウ
       カッコウ カッコウ カッコウ
 ♪ ♪ ♪ ♪
(野尻湖畔のキャンプ場で作られた歌)
 藤巻禮子(9組)

野尻一里塚跡

野尻湖畔(クリックして拡大)

雪の妙高山を背景にホテル前

関川関所入口

関川関所(クリックして拡大)

高田藩本陣跡

番外編 北国街道東脇往還“松代道”(長沼道)
別称「雨降り街道」

 下見でチョコっと歩く 磯村雄二  (17/11/11)
神代宿から牟}へ

 北国街道歩き旅の第5回は、黒姫駅の出発が12時頃だったので、少し早く行けば、前回歩いた「新町宿」から「牟礼宿」に向かう途中にあった高山寺手前の北国街道本道(善光寺道)と松代道(長沼道)とが合流する「平出追分」まで、「神代(かじろ)宿」から歩けるなと思い、同行できる方に声を掛けて当日の朝にチョコッと歩いた。
 9時前にしなの鉄道豊野駅に降り立つ。明治9年豊野村と改称した、ここ神代宿から牟礼宿まで約2里(8`)だが、「平出追分」までなら1里弱。「神代宿」は、長沼宿と牟礼宿との距離が3里半と長いうえに、難所の長い急坂の神代坂(香白坂とも)を控えるため、松代道の他宿より遅れて指定(1793年)された新しい継場の宿。神代宿では、北国街道新町(あらまち)宿の外れで分岐した『飯山道』が横切っている。交差する角に石柱道標が立ち、新町宿側の南面に「是ハ善光寺みち」とある。
 なお本陣等は飯山道沿いにあり、後から指定された松代道沿いには問屋等があったとの事。ガイド地図を見ると留番所跡があると記載されていたが、何もなく素通りする。少し行くと正面に観音堂があり、階段上がって振返ると神代宿と背後の新幹線や千曲川堰堤が良く見える。観音堂下に「つつじ山道」道標があり左に分けると、直ぐに長い急な神代坂が始まる。坂の途中に大きな石があり、大石の上に馬頭観音像が祀られている。

 ここらからは、林檎畑の向うに善光寺平、千曲川と対岸の小布施や須坂、その奥に志賀高原の山々が見通せる風景が広がっている。ふと長年週刊新潮の表紙絵を飾っていた谷内六郎氏の大作『里の秋』を思い起こさせる田舎ののどかな景色で、“信州は最高,バンザイ” 。
 長く続く急坂がようやく終わる辺りで一旦車道に出るが、更に先に地図には無い新しい車道があり旧街道は吸収されている様だ。しばらく車道を進み、旧道らしき分岐で車道を逸れ未舗装の道に入る。ガイドでは旧街道は林檎畑で数カ所が分断されており、上級者は藪漕ぎすれば通行できるが、初心者は車道を行けと記載されている。中級者との自負もあり同行の地元のM.Y氏もいるので旧道らしき道を進む。両側は全て林檎畑で道はあちこちで複雑に分かれており、登っては下り、右往左往を繰り返す始末で迷走1時間。電車時刻の制約もあり旧道は断念し、一旦元の車道まで戻り白坂峠をめざすことにした。
 途中軽トラックに採れたての林檎を載せた果樹園の方に話を聞いた処、旧道はあとほんの少しで草刈り道の下りにかかる地点の寸前まで到達出来ていた事が判り残念だったが…。だらだらした登りの車道を進むと、ようやく白坂峠にかかる。峠には道標と馬頭観音がある。ただ旧道への入り口らしき分岐は残念ながら見当たらなかった。更に進むと白坂峠一里塚がある。松代道で塚が残っているのはここだけとのこと。さらに車道を進むと新白坂峠の標識があり、平出追分まで500b。この先から急にダンプの往来が頻繁に多くなる。そう言えば前回も三本松への途中で、庚申塚古墳手前で県道から平出地区への北国街道に曲がった際にもダンプが往来していたが、ここに繋がっていたかと納得した。
 ようやく、前回危うく見過ごす寸前でリーダーS.K女子が戻って発見した「平出追分」の長沼道道標『左 長沼みち 右 善光寺みち』に到着し一安心。ここから先は、前回通ったおなじみの牟礼宿への北国街道本道でした。

《参考》
 *戦国時代北信濃を支配した越後上杉景勝が天正11年(1583年)に牟礼から善光寺に行く道につき命じた景勝の制札『信州越国往復之人民…自牟礼香白坂ヲ直ニ長沼ヘ可令往還』(横道をせずに香白(神代)坂から長沼を通るべきこと)、その後も・森忠政 定書・大久保長安 定書・松平忠輝も同様な横道通行禁止の通達を出していた。
 これらの制札や定書は牟礼宿の牟礼神社に残っており、前回素通りしてしまい残念でした!

 *松代道(長沼みち)は、距離は長いが渡河が少ないので「雨降り街道」とも呼ばれていた。

同行者=宮澤康元(5組)

石柱道標(奥 飯山道・手前 松代道)

観音堂からの神代宿と松代道

神代坂の大石

白坂峠道標と馬頭観音

白坂峠一里塚

平出追分の長沼道道標

第4回 新町から柏原宿へ

(17/10/28−29)
新町宿から牟}へ
  10月28日(土)台風21号に続いて22号が接近し、午後3時過ぎは雨の予報。新町宿の入り口、信濃吉田駅に集まって歩く。
 前回、歩いてきた北国街道の突き当たりに善敬寺の門が見える。あまりにも立派な門なので、境内に入り参拝してから歩くことにした。
 善敬寺の角が新町宿の入り口の枡形。500メートルほど歩いた道の右側に6地蔵が並んでいる。庇の下に座って、街道を見守っているようだ。
 すぐ先に本陣・問屋の表示看板が立っている。家は建て替わっているが、庭の松が風格がある。新町宿は、稲積、徳間、東条の三村からなり、各村に問屋が置かれ月を上中下旬に分けて継ぎ立てをし、稲積村の問屋が新町宿の本陣を兼ねていたとのこと。
 稲田信号を過ぎると、住居表示が「徳間」になる。右へ行く道の角に、飯山道道標がある。
 「右 いひ山 奈可能 
    志ふゆ くさつ 道
  左 北國往還     」と刻んである。当時、善光寺参りの後、飯山、中野、渋温泉、草津温泉方面へ湯治のために行く人々のための道標だったと思われる。

 住居表示が「東条」になり、上り道が急になってきたところにある薬師寺で小休憩。休んで元気を取り戻して、しばらく行くと十王堂。隣に、蚊里田八幡宮入り口の鳥居が立っている。男根石を神体とし、昔は権堂の花柳界からの参詣者が多かったようだ。
 すぐ先の、新町宿の終わりのあたりに「幸清水」の大きな碑が立っている。このあたりは、浅川扇状地の上の方に位置しているため、井戸を掘ってもなかなか水が出ず困難を極めたが、ようやく水が出たのだという。
 粟野神社を過ぎ、リンゴ畑見ながら緩やかな上り道を歩くと、左手に屋根に鯱がのった門と小休所跡の碑が建っている。旧飯山城裏門が旧家の表門として移築されたが、旧家の主屋はなくなっていて、立派な松などの庭木の手入れを植木職人さんがしている最中だった。
 田子池で昼食。田子池は田子神社裏から湧く清水により、かつては8軒もの造り酒屋ができていた。
吉村坂をあえぎながら上る。坂の途中に宇佐美沢一里塚跡。塚は原型を留めないが、地蔵像が2体立っている。坂を登り詰めたところに鍛冶ケ窪野点跡の碑が立ち、明治天皇が北陸巡行時に野点をして休憩したところ。

 平出地区で松代道が合流する。松代道分岐に立てられていた標識が、角の家の建て替えに伴い、奥の家の庭先に移設してあった。標識が見当たらないので尋ねたところ、奥の家の方が「うちの奥に移してある」と、教えてくれた。
 すぐ先が高山寺。境内には名水の井戸があり、加賀の大名が参勤交代の途中で休憩したとのこと。また、参道入り口には芭蕉の句碑が立っている。「しばらくは 花の上なる 月見哉 芭蕉」と刻まれている。
 さらに上っていくと三本松の植わった行人塚。江戸へ奉公に行く15歳の一茶を父が柏原宿から牟}まで送ってきて別れたところ。塚ノ上に、一茶の句碑が立ち「父ありて明けぼの見たし青田原」とある。裏には、「毒なるものはたべうなよ、人にあしざまに思われなよ」と、子を思う父の言葉が刻まれている。なお、ここの信号は縦に赤黄緑と並んでいて、深雪地域に来たことを実感した。
 信号の先で旧道に入り、しばらく行くと四ッ屋一里塚。西塚は高さ2メートルほど、東塚は民家の裏にある。所有者、牟}神社と書いた標柱が立っている。
 牛落しの坂、と言われる急坂を下って行くと筆塚があり、お地蔵様、庚申様が並んでいる。さらに坂を下って県道に合流して、しなの鉄道のガードをくぐっていくと牟}宿だが、ガードの手前を右折して牟}駅に向かい、長野駅近くの、ホテルサンルート長野東口で宿泊した。
 (第1日目の歩数、26,070歩)

牟}宿から古間宿、柏原宿へ
 長野駅から牟}駅に電車で戻り、牟}宿へ向かう。昼頃にかけて雨が強く降る、との予報。観光協会の方から、小玉坂は未舗装の道で、雨が激しいと、道が川のようになり難儀するので、無理をしないように、と言われたが、朝のうちはたいした降りではなかったので予定通り歩くことにした。
 牟}宿は越後と善光寺平を結ぶ交通の要衝であった。宿場の中央を流れていた宿場用水は両側へ寄せられ、かつての建物は本卯建を揚げる鎌問屋・山本家ぐらいしか残っていないが、宿場の雰囲気が残っている。
 本陣は、JAの建物が建ち「御本陣」の看板のみ。脇本陣は斜向かいの郵便局になっている。宿場西の枡形の手前に、鐘楼門のある徳満寺、牟}宿が出来る前からあったという。鐘楼門は善光寺地震以前の古建築。
 西の枡形には真宗の證念寺がある。こちらは、善光寺地震後に再建されたもの。
 證念寺を左折して十王坂を上ると、右側に枝垂れ桜の古木がある。桜が満開の時を想像するとまた来てみたくなる。向かい側には十王堂があるが、明治天皇北陸巡行の時に撤去され、平成2年(1990)に再建されたのだという。明治期の廃仏毀釈で多くの仏像が被害に遭ったが、十王堂が撤去されたというのは、ここが初めてである。

 さらに坂を上っていくと、左手に観音寺があり、門前に六地蔵が並んでいる。
 坂を上り切って、野っ原になっているところに「金付場跡」の説明看板が立っている。佐渡から運んできた金銀荷を新しい馬の背に付け替えた広場の跡、とのこと。後ろは崖でしかも下を鳥居川が蛇行して流れているので、格好の場所だったよう。
 すぐ先の左側角地に「武州加州道中堺の碑」が立っている。武州(江戸)と加州(金沢)の中間地点を示す道標で、江戸時代に立てられた。すぐ先にある黒柳家は加賀藩小休所で、殿様が眺めて一服したという庭園が残っている。私たちも、庭園を眺めながら小休憩させていただいた。

 しなの鉄道のガードと国道の下を通り、旧道を歩くと、小玉高札場跡に縮小した掲示板が立てられている。宿場の出口(入口)にあたり、この先から小玉坂に入る。未舗装の草付き道、雨がまだ本降りではないのでなんとか歩ける。
 あえぎながらゆっくり上る。観音平に馬頭観音が9体並んでいる。坂道の難儀を見守ってくれているのだろう。
 1キロほど上ったところに、小玉坂一里塚跡の標柱。昔は峠の茶屋があったという。腰掛けられるように丸太を輪切りにした木のいすがいくつか置いてある。
 さらに1キロほど上ったところが、清水窪、小玉坂の最高地点である。明治天皇小休所の標柱が立っている。
 ゆるやかな下り道。雨が激しくなってきた。落影集落を歩き、国道に出たところにある高原ドライブインで少し早いが昼食休憩にした。温かい蕎麦、野菜の味噌汁がおいしかった。
 ドライブインの入口に一茶の句碑がある。「花のかげ あかの他人はなかりけり」
すると、清水淳郎さんが「道歩き あかの他人はなかりけり」と詠んだので、うまい、うまい、と皆、同感したが、季語がないので川柳か。

 ドライブインで休んでいる間に、雨が小降りになってきたので、元気になって歩く。500メートルほど行ったところで、国道を駆け渡り、旧道に入る。ゆるやかな下り道。小古間地区に入る。
 小古間の集落を過ぎて、古間の集落の入口に造り酒屋がある。高橋酒造は京都の松尾神社のお札をいただき、「松尾」の銘柄の酒を造っているという。品の良い主人らしい人が店頭に立っていて、「従業員はお休みなので」と言いながら慣れない手つきで購入したお酒を包んでくれた。
 すぐ先に、古間一里塚跡。一茶の句碑が立てられている。「ぬかるみに尻もちつくなでかい蝶 一茶」
古間宿は柏原宿と合宿で、問屋業務を月の前後半で分担し、本陣は柏原宿にあった。古間宿には本陣が置かれなかったが、宿中央の「古屋」に上級武士などは泊まった。
 また、古間鎌は江戸時代から作られ、問屋制家内工業として発展した。今も、宿内に鎌問屋がある。「短夜を古間の人のたくみ哉 一茶」とある。

 鳥居川を渡ると柏原宿。宿入口の諏訪神社には、一茶三回忌に弟と門弟が立てた、一茶の最古の句碑が立てられている。「松陰に寝て食ふ六十餘州かな 一茶」
 斜め向かいが一茶旧宅。文政10年(1827)の柏原大火で居宅を失い焼け残りの土蔵で生涯を閉じた。弟の家が復元され、一茶の子孫は同じ敷地内の「一茶屋」に居住している。
 宿場の中心部に本陣があったが、現在は当時の切石と石灯籠が残るのみ。向かいの脇本陣は柏原大火後の建物で中村屋旅館として営業していて、修業時代の黒坂先生が下宿していたが、今は更地になっている。
 「柏原」の信号の先に、藁葺屋根の中村家住宅(村の鍛冶屋)がある。平成5年(1993)まで夫婦で営業していたとのこと。
 小丸山公園には一茶記念館、一茶銅像、一茶俤堂などがある。一茶記念館の展示は、一茶の生涯と文学、交友などを、貴重な資料から紹介していて見応えがある。一茶の足跡が西国、九州など全国に及んでいることも興味深い。
 一茶記念館見学後、黒姫駅に向かい帰路についた。
 (第2日目の歩数、25,070歩)

参加者=清水計枝(1)、清水正宣(1)、清水洋二(1)、平林正明(1)、磯村雄二(3)、柳澤信義(3)、石井則男(4)、荒井昇三(5)、宮澤康元(5)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、山浦るみ子(8)、清水淳郎(9)、藤巻禮子(9)、宮下明子(9)、池田有美子(69期)の18人。

初の北信濃地域 大変なんだから

 スタートは新町宿。3つの村で一つの宿の役割を分担したとかで、やけに宿場が長かった。左右に立ち並ぶ民家、街道時代の名残か敷地がゆったりと広く、手入れの行き届いた庭と立派な家屋と土蔵や納屋、豊かな暮らしぶりを感じさせる地域だった。ただ街道そのままの狭い道路に車が激しく行きかう。身を縮めるようにして通り抜けた。
 やがて車の流れからも解放されて、道はゆるやかに上り始める。遠くの山並みを眺め、あれが根子岳、隣にとんがって見えるのは笠ヶ岳、さかさ霧がかかっているよ・・・などと会話が弾む。昼食は田子池のほとりでてんでに地面に座り、鴨の泳ぐ池を眺めながら食べたお弁当、遠足気分で楽しかった。
 午後の歩きは快適だった。丹霞郷と呼ばれる丘陵地、点在する民家やりんご畑の間を右に左に曲がり、上ったり下ったりと道が続く。リンゴの古木の向こうに北信五岳がくっきり。鈴なりの真っ赤なりんご、存在感が半端でない五岳、印象的な光景の中を解放されてしばらく歩きを楽しんだ。道が下り始めると、次第に人家や店舗が目立つようになり、やがて終着地牟礼駅。日は暮れかかり、雨も降りだした。絶妙のタイミングで1日目の歩きを終える事ができた。

 翌日は朝から雨。牟礼駅で念入りに雨支度。牟礼駅の観光案内所の方の熱弁で、前日のうちに牟礼宿のあらかたは予習済みだ。随所に設置された説明版と詳細なパンフレットで、丁寧に宿場を見ることが出来、北国街道への理解、少し深まった気がした。
 人家が途絶えると難所の小玉坂。引き返すよりも前進をという皆の選択で雨中の行軍となった。坂は蛇行を繰り返しどんどん上る。長い上り坂だった。周囲を見る余裕など無い。ただ足元だけを見つめ、ひたすら登り、歩いた。無事歩き終えて古間地区へ辿り着いた時は、満足感は大きかったが、雨と汗とで身体は冷え切っていた。
 昼近く、古ぼけたドライブインで昼食をとらせて貰えた。雨の中での立ったままの食事を覚悟していただけに、温かい食べ物と薪ストーブ、何よりもありがたかった。
 最後は古間宿と柏原宿。半月交代で業務を分担した合い宿、両宿とも人一人見かけず家々も閉ざされていて、居心地悪かった。古間は鎌とお酒で有名だとか。鎌の一つでもと思っていたのだがかなわなかった。お酒は造り酒屋で入手できた。柏原宿では廃業した鍛冶屋をのぞき込んだり、小林一茶終焉の土蔵を見たりと勝手に動き回らせて貰った。一茶記念館は地域の文化施設を兼ねているらしく、立派な建物だった。一茶の生涯が驚くほど詳細に調べてあって感心もしたが、一茶が少々気の毒でもあった。
 黒姫駅で2日間の街道歩きは終了。盛り沢山の2日間だった。北信濃地域、初めて自分の足で歩いてみた。大変だっただろうなあとしみじみ思う。街道を歩く人も大変、維持する人も大変だ。加賀百万石の参勤交代、佐渡の金の輸送、善光寺参詣道として繁栄した、などと簡単に言わないでほしい、大変なんだからこのあたりは・・・と感じました。
 山浦るみ子(8組)



旧飯山城裏門 (クリックして拡大)

牟}駅(クリックして拡大)

證念寺

武州加州道中堺碑

小玉坂

一茶旧宅

第3回 戸倉から新町へ

(17/9/9−10)
戸倉から矢代宿へ
 9月9日(土)爽やかな秋晴れの日、戸倉駅に集まって、前回、解散した、下の酒屋の前からスタート。すぐ先の右手に樹齢400年という松が植わった駐車場。石碑に、下戸倉宿本陣(宮本家)があったと刻んである。
 国道を100m程歩き、旧道に入る角の家に、御嶽行者の碑が祀ってある。旧道は、右手に五里ケ峰の山が迫り、左手に千曲川が流れる砂地の田畝の中の道。
 しばらく歩くと、左手に、信濃宮御古跡迄二町、と刻んだ碑が立っている。山際の柏王神社に宝篋印塔があるとのこと。1町は109m、2町は218m、往復すれば436m。元気組は、小走りで見に行って来た。

 1キロ程歩き、左手に少し入ったところにある長泉寺には、明治初期の廃仏毀釈で戸隠奥院から持ち出された観音像が安置されている、というので立ち寄った。観音堂の窓のガラス越しに見ていると、寺の住職さんの好意で観音堂の中に入れて拝観することができた。1200年頃に造られたという、1mほどの比較的大きな仏像で、県宝になっている。廃仏毀釈の時代の狂気を思い、よくぞ壊されずにいたと感激した。
 このあたりは千曲川の洪水地帯で、元禄年間に築いた堤防の一部が残っている。
 また、街道脇の松風塚(芭蕉塚)には、戸倉の俳人達との句が刻まれている。
 名月や児達ならぶ堂の掾 翁 
 ひと時も大事な世たれ木槿(もくげ)咲く 舟山 
 暮れて行く月日あらわに秋の山 松風

 旧寂蒔(じゃくまく)村は名主が宮坂家というだけでなく、半数が宮坂姓とのことで、沿道の表札は、殆ど「宮坂」である。同期生の「宮坂」さんも、この地が出身、もしくはこの地に縁のある人が多いようだ。
 右手に迫っていた五里ケ峰の北端に屋代城跡がある。屋代駅はこの山裾にある。矢代宿の少し手前にある屋代駅で昼食休憩。

矢代宿から篠ノ井へ
 屋代駅のすぐ先に、明治の洋風小学校、屋代学校の校舎が保存されている。明治21年建築、とのこと。長野県には、古い順に中込、開智、格致、園里、作新、山辺、屋代、下市田、中野が残り、全国一多い。
 本町の通りを歩くと、左側に旅籠藤屋。明治期に建て替えられたが旅籠の面影を留めている。横町信号の先に須々岐水(すすきみず)神社の立派な鳥居が見える。
神社の前を右折し、すぐ先の角を左折すると、矢代宿の町並みが続く。
 通りの右側に脇本陣跡、の碑が立っている。脇本陣の先が松代道の始点で、松代道を挟んで本陣が並んでいた。矢代宿は佐渡の金銀の輸送にも使われた宿場。本陣跡に立派な倉がある。ここで金銀が泊まったのかな、と想像した。
 屋代信号を千曲川に向かってまっすぐ行ったところが、矢代の渡し、とのことだが、長野道・更埴インターが出来ていて行けないので、千曲川沿いの道を右に歩き、篠ノ井橋を渡り、堤防の上の道を左に戻って、矢代の渡し跡がある軻良根古(からねこ)神社に行くことにした。

 篠ノ井橋を渡って、右にしばらく行ったところに、10年程前に上田高校の校長をして退職した藤本先生が住職をしている円福寺があるというので、立ち寄った。藤本先生は長野高校の出身だが、上田高校は印象深く、退職後も上田高校との交流がある、とのことで、私たちが立ち寄ったことを大変喜んでくださった。
 堤防の上の道を歩いて軻良根古神社に着いて、千曲川を眺めると、矢代の渡し、は遙か彼方にある。篠ノ井氏の祖先は高麗からの渡来人で、高麗彌子(からねこ)を意味して祀った、とのこと。軻良根古神社から、篠ノ井追分に向かって歩くと、「郡役所跡、警察署跡」の碑がある。すぐ先に、農学校跡、の説明板もある。篠ノ井駅が出来るまでは街道筋のこのあたりが更級郡の中心であった。
 篠ノ井追分は北国西街道との分岐点。左へ行くと稲荷山、松本を経て中山道・洗馬宿の追分に至る道。中山道を歩いた時を思い出して懐かしい。
 右へ1キロ程歩くと、見六(みろく)橋。橋を渡って数百メートル歩くと宝昌寺。この寺の観音堂には、謡曲「紅葉狩」に出てくる薬師如来が安置してある。観音堂の中を覗くと、厨子が置かれていて、その中に置かれているようだ。戸隠山に住む鬼女・紅葉を平維茂が退治し、紅葉の残党の復讐を恐れる村人に、維茂を模した薬師如来を与え、宝昌寺の堂に安置したのだという。
 寺から進んで、御幣川(おんべがわ)五差路を越えて、篠ノ井駅前通りに出たところが、この日の宿。ホテルルートインコート篠ノ井で泊まる。夕食は近くの居酒屋で。土曜日なので、店は満席で賑わっていた。 
 (第1日目の歩数、28,113歩)

篠ノ井から丹波島宿へ
 予定通り、8時出発。昨日は仕事で参加できなかった清水淳郎さんが、出発の準備をしてロビーに行くと待っていた。このあたりは彼の実家に近く、詳しいので心強い。
 昨日の旧道に戻り、丹波島宿を目指して歩く。所々に旧家が残る道。芝澤の秋葉神社と天神さん、は鞘堂の中に祀ってある。
 少し先の高田公会堂の前には、地蔵堂。すぐ先にある立派な門は、このあたりの大地主、小出家とのこと。
 100mほど先の左側に、二層の鐘楼門がある蓮香寺。長野オリンピックの時は、ドイツ選手団のゲストハウスになり、記念碑が境内に立っている。
 すぐ先には、明治天皇原休憩所の碑が立っている。かつて、茶屋本陣だったところ。
 所々に旧家が残る道を歩く。桃の選果場では、撥出しの桃を格安で販売していた。買っていただいた桃を水道水で洗い、かじりつくと、みずみずしい果汁が溢れ出て、おいしい!皆で歩きながら食べた。

 左手に、親鸞聖人御舊跡、の碑が見える。浄土真宗唯念寺への参道入り口、とのこと。
 左手に立派な地蔵堂がある。元禄年間に建立されたものだが、平成4年に改修されたようだ。
 丹波島交差点の先の、左手が於佐加(おさか)神社。丹波島宿の西の枡形にある。鳥居の横に、秋葉社が石柱の上に乗っている。落下しないか心配になる。
 かつて、犀川は丹波川といい、数条流れていた。その間にあったので丹波島と名付けられたという。
宿場の入り口の民家の屋根に鐘馗様が飾ってある。魔除けの守り神として飾る風習が残っているのだという。家は建て替わっているが、宿場内の4軒に見られた。
 宿場の中程に高札場跡が復元されている。隣が、問屋・脇本陣で江戸中期の母屋が宿内で唯一残っている。また、明治初期に松代から移築されたという冠木門と松が風格を添えている。門前には、明治天皇御膳水、の碑が立っている。
 小路をへだてて本陣跡。本陣門と明治天皇御小休所、の碑が立っている。かつては、本陣前から松代への街道があった、とのこと。
 真っ直ぐな宿場の町並みが600メートルほど続く。突き当たりの鐘馗様が屋根に飾ってある家の角を左折して100メートルほど進み、犀川の堤防の手前が旧枡形。向かい側に、大きな丹波島の渡し場記念碑が立っている。「まっすぐにかすみたもうや善光寺 小林一茶」とある。川向こうの、山の中腹に善光寺雲上殿の赤い屋根が見える。

丹波島宿から善光寺宿へ
 堤防の上の道を、丹波島橋に向かって歩く。橋の上は歩道があり、橋の変遷を欄干にレリーフで示している。江戸時代、犀川の急流を渡る舟は、岸から岸へ渡した綱をたぐりながら進んだ。
 橋の上から川面を見ると、裾花川の濁った水が、犀川の清流に合流して流れていた。
 橋を渡り終えたところに善光寺常夜灯が置かれている。
 国道右側の常夜灯の脇が旧道。少し先の歩道橋を渡って、旧道にはいる。
 すぐ右手に、赤く塗られた馬頭観音が小さなお堂に入っている。しばらく歩くと、左手に、吹上地蔵堂がある。かつては、このあたりに茶屋があって旅人が休んだ処。私たちも休憩したいところだが、おいしい桃を食べたこともあり、長野駅で昼食休憩、ということにして歩き続けた。

 長野駅へは、JRの線路を歩道橋で渡り、旧道を右折して入った。
 門前蕎麦、の昼食を予定していたが、時間が過ぎてしまったため、駅そば、で昼食。昼食後、旧道をバスで移動した。途中、車内アナウンスで、かるかや山・西光寺、権堂などを確認しながら、善光寺大門で下車。
 バス停のすぐ前が、善光寺宿本陣藤屋。建物は大正時代に建て替え、レトロな雰囲気の建物に、御本陣藤屋旅館、の看板が掛けられ、1階はレストランだが、上の階は旅館として営業している。
 境内に入り、参道を進むと、左手には大本願(浄土宗)、「月影や四門四宗も只一つ 芭蕉」の句碑が立っている。善光寺は宗派に別れる前の七世紀頃創建のため、四門四宗の無宗派である。右手には子房が並ぶ。
 仁王門をくぐり、仲見世通りを歩くと、左手に大勧進(天台宗)。すぐ目の前に山門(国重文)が迎えてくれる。
 本堂(国宝)に入って参拝し、境内入り口に戻る。

善光寺宿から新町(北長野)へ
 境内入り口を左折すると北国街道が続く。なだらかな坂道を下ると、突き当たりが西宮神社。長野のえびすさん西宮神社、と染めた赤い旗が立っている。
 左折して進むと、一里塚跡に建つ地蔵庵の庭に赤く塗られたお地蔵様が立っている。柏崎地蔵と言われ、謡曲『柏崎』に出てくる。越後から我が子を訪ねてきた母親が善光寺で子・花若と再会する物語。
 二階が蔵造りになった旧家が所々に残る道を歩く。1キロ程歩くと、左手に時丸寺がある。善光寺縁起に登場する三輪時丸が結んだ庵が東之門町から移ってきてここに建てられた、とのこと。
 かんかん照りの道を、さらに1キロ程歩くと、樹木が茂った森が見えてきた。暑い時は緑陰がうれしい。吉田神社である。本殿は工事中のため、入り口の木陰で休憩。この神社は、全国68の一の宮を境内に祀っているのだという。
 神社の先を左折するのが北国街道で、新町宿の入り口である。私たちは、右折して北長野駅に向かい、帰路についた。
 (第2日目の歩数、30,038歩)

参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水正宣(1)、清水洋二(1)、磯村雄二(3)、柳澤信義(3)、石井則男(4)、荒井昇三(5)、宮澤康元(5)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、山浦るみ子(8)、村居次雄(8)、清水淳郎(9)、林久美子(9)、藤巻禮子(9)、宮下明子(9)、池田有美子(69期)の18人。

戸倉宿から善光寺へ

9月9日(土)晴れ
 9:50戸倉駅集合、今日は17人、篠ノ井まで。前回最後に寄った茅葺の酒屋を背景に集合写真を撮る。直ぐ戸倉宿本陣跡(宮本家)、松が往時を残す。しなの鉄道千曲駅近くの長泉寺を訪ね、県指定の県宝「聖観音坐像」拝観させて貰う。元は戸隠神社の本地仏だったが明治の廃仏毀釈により流出し、明治20年長泉寺に移されたという。坐像は珍しい。銘には1298年とあるそうだ、穏やかなお顔の観音さま。皆さんと般若心経を唱える。若いお大黒さんにお礼を言って街道に戻る。
 昼食後、屋代小学校の旧校舎を見学。直ぐ矢代宿、旅籠だった藤屋旅館が往時を残す、須々岐水神社先の本陣跡で松代道と別れる。その先でR18と合流、新幹線、上信越道などが頭上を通り旧道もあったものではない。千曲川河畔に出る、この辺りが矢代の渡し。クリーンセンターの東屋で休憩、清水計枝さんのケーキ。篠ノ井橋を渡り、下手の土手を10分ほど下り、円福寺藤本住職を訪ねる、住職は10年前上田高校校長。会議で留守だったが会いに来てくれる、外で立ち話し、機関紙「円福」をいただく。
上流へ1キロほど渡しの篠ノ井側、軻良根古神社へ、少し先で篠ノ井追分、北国西街道と合流した。篠ノ井追分宿(間ノ宿)今夜のホテルも近い、陽の中を黙々と歩く。16時ホテル着、18時から近くの居酒屋村さ来で夕食。

9月10日(日)晴れ
 ホテル前で集合写真、8:00清水敦郎君の案内で出発。篠ノ井は書道の盛んな町、筆塚があちこちにある。原村茶屋本陣跡、旧街道らしい道を丹波島宿に向かって歩く。途中で果物の直売場があり立ち寄る。農家のはねだし果物が箱売り、近くの人が車で買いに来ている。モモが1箱900円ほど、どんどん売れる。敦郎君が2箱買い皆に分けてくれた、ご馳走さま。
 於佐加神社で直角に曲り丹波島宿に入る、宿はずっと直線。綺麗に舗装され800m、電柱なし、厄除けの鍾馗さんが屋根に。中ほど脇本陣柳島家、冠木門が古い、本陣跡は明治天皇小休所の碑のみ。家々の玄関に屋号を書いて札が掛る、街並みに風情がある。街を外れ犀川に向かう、土手には丹波島の渡しの新しい碑が立つ、向こう岸は善光寺に続く街並みが見える。丹波島橋を渡る、橋の直前で裾花川と合流、犀川の水量が多い。橋の欄干に渡しから船橋、木造の橋、金属製の橋と変遷の絵がある。江戸時代はさぞ大変だったろう。
 バスで善光寺へ、バス停前は本陣だった藤屋ご本陣、唐辛子の八幡屋礒五郎。仁王門、参道を通り山門、本堂でお参り、山門に戻り解散。長野駅に戻る人、引き続き歩き新町宿の手前北長野駅まで歩く人。善光寺信号から再び北国街道を、ずっと三輪が続く、善光寺を過ぎたので静かな街道だったことだろう。三輪時丸から地名と時丸寺が出来たそうだ。3キロ近く歩き、吉田神社で休憩、木陰が嬉しい。もうすぐ北長野。長野電鉄を超え北長野駅15:05。2日間暑い中お疲れ様でした。
 村居次雄(8組)


黄金の街道

 夏の名残の暑さの中戸倉から歩き始めた。国道と線路にはさまれた旧北国街道は平坦で歩き易く快調にスタート。少し行くと立派な白壁土塀がめぐらされたI嬢の実家が見え、青春時代の背景が感じられて良いものだなと思える。途中長泉寺に回り道をする。朱色の観音堂には戸隠神社奥の院に祀られていた観音像が穏やかな顔で迎えてくれた。明治の神仏分離令で民間に流失したものが、明治20年にこの寺に納められたとのこと。M導師(?)のありがたい般若心経を聞きながらしばしの休憩。IさんHちゃんは先に行き過ぎてちょっと 残念なことになってしまったけれど。
 屋代に入って行くと面白い地名が続く。寂蒔、鋳物師屋、杭瀬下など、何となく街道沿いの由緒ある地名という気がする。PCで変換するにはちょっとやっかいではある。矢代宿はきれいになりすぎてあまり風情は無い様に感じたが、小学校に残されている明治時代の学校跡また藤屋旅館などには目を奪われた。本陣跡を見てからFさんと二人本隊から別れて篠ノ井へ向かった。

 二日目は篠ノ井今井宿、丹波嶋宿から善光寺へ。しばらく歩くと川中島。そうだ、ここはあの有名な川中島白桃の産地と思ったら、この日合流したS社長が太っ腹な差し入れをしてくれ一人ひとりに桃を頂く。皆餓鬼の如くかぶりつく。美味しさに疲れも忘れるようだった。桃の形をエロいと言ってにやけていたIさんは飾って眺めているかも。ともかくSさんご馳走様でした。丹波嶋宿で目をひいたのは魔よけの鐘き様の飾り瓦だ。それも厳しいものではなく愛敬のあるものが屋根にチョンと乗っているのはかわいい。宿場は犀川の堤防よりかなり低く昔はしばしば洪水に悩まされたのだろうと思われた。
 長い丹波島橋を渡り市街地に入る。Mさんはそのまま終着点まで直行というのでここでお別れ。元気で羨ましく思いながら見送った。桃を食べたから昼食は遅くても良いかなとリーダーと話していたけれど、Yさんは食べていないと言うので長野駅で皆で蕎麦屋さんに。M君は食券の押し間違いでバタバタ。お腹はすいていないと言いながらペロッと胃に納まってしまい笑ってしまった。食後バスで善光寺に向かい参拝するが、全国の善光寺また関連した寺院が地図に記されていた。こんなにあるんだと驚いてしまった。ここでFさんと私は又皆さんと別れる。余力を残しておくと翌日脚にダメージも無く動けるのが分かった。

 佐渡より金を運んだ黄金のルート北国街道だが、今埴科から善光寺平は黄色い稲穂が街道沿いにたわわに実り、垂れ下がり、豊かな秋の風景が広がっていて違う意味での黄金の街道だった。この時期は夏と秋が混在しており、夏の名残の朝顔のヘブンリーブルーが鮮やかで目を楽しませてくれた。コスモスが咲き乱れ、紫式部の実がつやつやと輝いていたりと気持ちが和む楽しい北国街道歩きだった。
 林久美子(9組)



屋代学校 (クリックして拡大)

篠ノ井追分

丹波島宿脇本陣

丹波島の渡し跡

善光寺仁王門(クリックして拡大)

善光寺本堂

第2回 大屋から戸倉宿へ

(17/6/3−4)

大屋から上田宿へ
 6月3日(土)大屋駅に集まって、清水淳郎著『信州上田城』の抜き刷りで上田城下の説明を聞いてから、上田宿を目指す。駅前の信号を渡ってすぐの小路を入ると、大屋神社の鳥居があり、左手を見ると旧道が通っている。西海野の仁王堂から通じている道で、江戸前期の街道であった。戌の満水の時に、仁王像が流されて一体になり、街道も千曲川から少し離れて新道になった。
 大屋神社の拝殿の軒下に掛かっている小舟は、日本海海戦の翌年、東郷元帥が千曲川で舟遊びをした時のものとのこと。
 旧道を歩いて行くと、道がカーブしたところに桜並木の写真がパネルにしてガードレールに貼ってある。丸子方面から通学していた参加者によれば、最近まで、道の両側の土手の上にうっそうと茂る桜並木があり、花の季節はうっとりとするような光景であり、夏の時季には豊かな緑陰をもたらしていて、通過するのが楽しみな道だった、とのこと。道路の拡幅に伴って、両側の桜並木が無くなってしまったのは残念。せめて、片側だけでも残せなかったのだろうか。

 人家が建ち並ぶ道をしばらく行くと、右手に「北国街道一里塚」の看板が立てられている。
 そのすぐ先の空き地には、「仁和寺宮嘉彰親王御遺跡」の標柱と「明治天皇岩下御小休所跡」の石碑がたっている。旧家尾崎家があった所、とのこと。
 屋根に気抜がある家が所々にある岩下の集落を歩く。千曲川が見えたところに、太鼓淵の説明看板がある。川の中に大きな岩が見え、下が淵になっている。この大岩は大昔、小牧山が噴火したときに飛んできたもの、とのこと。小牧山がかつて火山だった、とは知らなかった。
 神川橋を渡る。神川は菅平に源があると言うが、水量が多くて驚いた。これなら、徳川の大軍を足留めして退けることも可能だったのだろうと思う。
 神川小学校の前に大きな馬頭観音の石碑がある。脇に、加賀飛脚が立てたと刻んである。
 千曲川の堤防沿いの道になったところで、新幹線のハープ橋が見える。堤防の上に石碑が見えるので行ってみると、馬頭観音だった。

 小さな神社、愛宕社の脇の道を行くと、国分尼寺跡、とのこと。街道を進むと、城郭状の石垣に塀を築き、重厚な門のある旧上田宿本陣邸がある。清水淳郎さんが『中山道の歩き方』の取材で伺ったことがある、とのことで、頼んで中に入れていただいた。
 門を入ると、母屋があり、大名が出入りした式台付きの玄関がある。玄関を入ると中に近衛文麿と並んで当主の両親が写る写真が飾られている。海野町にこの家があった戦前に写されたもの、とのこと。「本陣柳澤家は、宿場が廃止された明治時代に下堀に移転した」と聞いていたが、移転したのは昭和40年、と聞いて驚いた。

 信濃国分寺跡の公園の緑陰で昼食休憩後、しなの鉄道の線路を渡り、上堀の信号を渡って、踏入の交差点を過ぎると古い町並みが続く。すぐ先に、信州大学繊維学部と白く書かれた大きな石碑が見える。
 ここが宿場の入り口なのか、枡形になっている。左折して常田地区に入る。しばらく行くと科野大宮社に突き当たる。古代には信濃国の総社であった。ケヤキなどの樹木が茂り、緑陰が心地よいので一休み。大宮社の手前の空き地には、道路拡幅工事でで取り壊された磯村さんの実家があったとのこと。
 大宮社の前の道をしばらく行くと、「毘沙門堂址」の標柱と「佐久間象山先生勉学之地」の標柱が立っている。活文禅師が開いた私塾の多聞庵で象山や赤松小三郎などが学んだという。
 右折して横町に入る。右手に六地蔵が並んだ日輪寺。すぐ先に宗吽寺の山門が見える。
 左折して海野町に入る。真田氏は上田城大手前通りに本家にあたる海野郷の人々を招いた。右手に高市神社があり、向かいが本陣問屋跡である。
 海野町を過ぎて大手町の交差点に来ると、100mほど先に大手門跡が見える。右折して原町に入る。真田氏発祥の地、原之郷から人々を招き、城下町の中心に町人町を造った。
 右手駐車場の前に問屋跡の碑が立っている。通りの向かいには市神の社がある。その隣は蔵屋敷。蔵のみが残っている。
 通りの右側に池波正太郎真田太平記館。寄らずに進むと、蛭沢が鉤の手に曲がって 流れている。此処に架かっている橋は、切って落とせるように出来ていた、と清水淳郎さんから説明を受ける。真田氏が上田城を守るために、矢出沢川と分水したのだ。

 この先の中央三丁目交差点を左折して、すぐ先を右折して柳町に入る。なまこ壁の土蔵や古い商家の町並みが残り、かつての街道の雰囲気をつたえている。
 街道は左折して紺屋町に入るが、右手の角に「保命水」という井戸が残されている。300メートルほど上にある海善寺の湧水を、明治14年に木管で引いてきたもので、清冽な水は人々に愛用されてきたという。
 紺屋町、西脇を過ぎて新町地区で街道は右折して矢出沢川に架かる橋(高橋)を渡る。この角にある丸山邸は、上田藩御用商人で材木商であった丸山平八郎の私宅で、維新後、石垣は上田城から移築したもの。映画「たそがれ清兵衛」の決闘シーンの撮影にも使われた。
 この先の街道は明日、歩くことにして、北向観音道標まで戻り、芳泉寺へ向かう。芳泉寺には、真田信之の妻、小松姫の墓がある。また、真田氏が松代に移封された後、上田城に入り、破却されていた上田城を修築した仙石忠政、政俊父子の御霊屋もある。仙石氏は塩田平にため池を造るなどの功績もあるがあまり知られていない。
 芳泉寺の脇から「上田城歴史の散歩道」が設けられている。立派な門のあるお屋敷の間を通り、上田城跡公園へ。公園の入り口は、かつて「小泉曲輪」と言われていた。
 上田城跡見学は、清水淳郎さんの案内で、足場が悪かったために唯一取り壊されずに残ったという西櫓を下から眺めて説明を聞き、二の丸の堀跡(かつては上田丸子電鉄・真田線が走っていた)を通って、藩主の館跡(上田高校)で第1日目の旅を終えて宿に向かった。
 この日は、上田市内で、野球大会とバスケットボール大会が重なり、宿泊難民になりそうだったが、61期の同窓生が経営する「桂旅館」に宿泊することが出来、和洋の盛りだくさんの料理でもてなされ、楽しく、おいしい一夜を過ごした。
 (第1日目の歩数、23,174歩)

上田宿から坂木宿へ
 おいしい朝食をたっぷり食べて、桂旅館を出発。上田高校の前を通り、上田城跡、下紺屋町を経て、丸山邸へ。上田城の石垣をもう一度見て、「右 せん加うし道」道標の示す方に歩く。生塚の信号を渡り、しばらく歩くと、右側の正福寺の入り口に千人塚がある。
 寛保2年戌年の洪水では千曲川流域で2800人余の流死者を出し、上田地域に漂着した人々は正福寺に葬られた。境内には慰霊の地蔵尊が奉納されている。
 ここから旧街道に入り、秋和の里を歩く。右側に杉の古株が堂に入ってしめ縄が張られている。近年まで街道沿いにそびえ立ち、旅人に親しまれていた一本杉の写真が飾ってある。
 秋和地区は、上田城防備のため、土地を与えて住民を移り住まわせた集落だったが、明治期以降は蚕種業で栄えた。街道沿いには立派な構えの旧家が残っている。その一角のモダンに建替えた家の前に同期生の中島さんが家族と一緒に待っていてくれた。しばし歓談して、塩尻に向かう。

 新幹線のトンネル入り口手前に小高い丘があり、上は一里塚公園になっている。丘の上り口にお地蔵さんが置かれている。善光寺に向かう旅人を見守っているようだ。
 塩尻地区の入り口には「蚕種の里」の標識が立てられている。右手の清水家には加賀藩の厠が残っている、というので頼んで見せていただいた。屋敷の庭の奥に、梅鉢紋の瓦が載った小屋があり、漆塗りの便器が置かれている。殿様はここで用を足した後、座敷で休憩し、金沢へ、飛脚を立てて、無事に岩鼻の難所を越えたことを伝える文を発出したとのこと。山(崖)が迫り、崖下を千曲川の波が洗う岩鼻は旅人にとって難儀の地だったようである。
 左手の土塀を巡した広大な屋敷は、蚕種業で財をなした藤本家の建物。またすぐ先の右手には上田紬の小岩井紬工房が営業している。中を見学させていただいた。1200本もの細い絹の縦糸の間を左右に紬の糸をくぐらせて機を織る工程は、気が遠くなるような根気のいる作業である。
 塩尻地区を過ぎると、右手から岩山が迫ってくる千曲川沿いの道を進む。岩鼻の険と言われていた所である。岩鼻の下に去来の句碑(「岩はなや爰にもひとり月の客」)があるとのことだが、見当たらなかった。

 坂木地区に入ると、用水の上に架かる橋は、「くらかけばし」とある。
 バラの咲き乱れる道を行くと、右手に会地早雄神社(おうぢはやおじんじゃ)。参道の脇に江戸時代後期に立てられたという防人歌碑がある。「ちはやぶる神の御坂に幣奉り 齊ふ命は母父がため」埴科郡から九州へ向かう若者が信濃国を離れる御坂峠で父母への思いを詠んだ。この歌碑は御坂峠にもあるとのこと。
 ここから鼠宿。説明板によれば、古代に狼煙台が岩鼻にあり、寝不見(ねずみ)からこの地名が生まれた。上田宿と坂木宿の間の宿であったが、松代藩は私宿としてここに本陣を置いた。
 国道の左手に明治天皇御小休所跡の碑が立っている旧家が松代藩本陣であった。門の瓦に六文銭が付いている。
 南条郵便局のところで国道と別れ、旧道に入る。天井川を超えたところに、玄古たばこ碑がある。江戸時代、寺の住職玄古が薩摩から煙草の種を取り寄せて栽培を奨励し、横尾村の名産になっていた、とのこと。

 中之条信号のところで国道に合流。すぐ右手に「文化の館」の看板が掛かった、長屋門のあるお屋敷がある。中之条陣屋に公用で来た人が泊まる宿だったとのこと。
 国道左側に、天領中之条陣屋跡入り口、と刻んだ石碑が立っている。
 国道を進むと、右手に庭中に枝を広げた松のある民家。樹齢何年ぐらいだろう、などと話しながら過ぎる。
 善光寺常夜灯があるところで、国道と別れ左に入る。しばらく旧道を歩き、四ッ屋信号で国道を渡り、右手旧道に入る。一里塚のあった所に石碑が三つ、庚申塔、道祖神、二十三夜と並んでいる。
 少し歩くと、右手に十王堂がある。奥には、村上義清供養塔が建てられている。坂木陣屋の代官、長谷川利次が江戸初期に建てたとのこと。背後の山の上に村上義清の本拠地、葛尾城跡がある。
 街道が鉤の手に曲がるところが坂木宿の枡形で、西宮神社がある。神社の先を右折すると大壁造りの坂木宿本陣表門が残る。主屋は、昭和4年に遊郭経営者により建て替えられ、後に医院となり洋館部分が増築された。今は「ふるさと歴史館」となっている。中には、川中島合戦図屏風、村上義清ゆかりの品などが展示されていて興味深い。

 本陣跡から少し行った右手に、坂木村の名主を長く務めた坂田家がある。壁に「さかた」と浮き彫りになっている。日名沢川を渡った先で街道は左折するが、正面は坂城神社で葛尾山登山口に続いている。
 左折すると街道右側の民家の庭先に「長谷川井戸」がある。坂城陣屋の代官、長谷川利次が宿場内三カ所に設けた井戸の一つ、とのこと。

坂木宿から戸倉宿へ
 ここから千曲川に向かって下り道。宿場の枡形に善光寺常夜灯が立っている。枡形を右折して道を下っていくと、右手の山の中腹にお地蔵様が置かれている。「横吹八丁」と言われていた山腹を巻く道が800mほど続く難所で、大名も駕籠をおりて横殴りの強風の中を歩いたという。「よこふきや駒もいななく雪あらし」蘭更の句碑がある。
 私たちは、かつて信越線が走っていた山沿いの道を歩く。鉄道は、今は山の中のトンネルを通っている。鉄道の線路のレールを利用して山沿いに柵が作られ、バラが植えられていて美しい。
 国道の左側に「笄の渡し跡」がある。村上義清夫人が千曲川を渡してくれた船頭に髪の飾りの笄(こうがい)をお礼に与えたという。

 1キロほど国道を歩き、千曲市域に入ったところで、国道と鉄路を渡り、上戸倉宿に入る。宿場入り口にお地蔵様の碑が3体並んでいる。江戸時代に戸倉村が上下に分村したため、2宿ができた。問屋業務は月の21日まで下戸倉宿、以降は上戸倉宿が務めていた。上戸倉宿は国道から離れたため、宿場の町並みが残っているが、江戸中期まで本陣を務めたという玉井家は空き地になっている。江戸後期に本陣を務めた小出家は宿場の突き当たりの右手にあり、外観はかつての本陣のままだが、立派な門を入って見ると、一部建て変わっていた。また、向かい側にある、問屋、玉井家は廃屋に近い。さみしい気持ちになって、下戸倉宿に向かった。
 しなの鉄道の踏切を渡り、国道を横切り、消防署の脇の旧道をしばらく歩くと、国道に合流する。1キロほど車の激しい国道の歩道を歩くと、左手に上山田温泉入り口の万葉橋への道がある。万葉橋のたもとの万葉公園には、清水淳郎さんのお父さんなどが奔走してできた万葉歌碑があるとのこと。さらに1キロ程歩くと右側に、下戸倉宿本陣跡、明治天皇行在所跡、の碑が立っている。立派な石灯籠が残るのみで寂しい。
 国道の先、左側には築250年の風格のある、茅葺き屋根の「下の酒屋」が見える。ここで小休憩して解散、帰路についた。
 (第2日目の歩数、36,255歩)

参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水正宣(1)、清水洋二(1)、石井則男(4)、荒井昇三(5)、倉沢直彦(5)、宮澤康元(5)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、山浦るみ子(8)、村居次雄(8)、清水淳郎(9)林久美子(9)、藤巻禮子(9)、宮下明子(9)、平林美穂(68期)、池田有美子(69期)の18人。

烏帽子、太郎に囲まれて ― 千曲の流れを下に見る

 抜けるような青空でやや肌寒い風のある絶好のハイキング日和に大屋駅に参集しました。
 大屋と聞くと、母から聞いた笑話が直ぐに思い浮かびます。大正時代、丸子の飯沼から長瀬まで歩き、そこから鉄道馬車で上田高等女学校に通ったことが自慢の母でした。
 《農家の小作人の娘さんでしょうか、母親に“東京って大屋みたいに賑やかかい”と聞くと母親が、“馬鹿だねぇこの娘は。東京はこの三倍もあるんだよ”と答えたので、答えた母親の方がすっかり笑われたという。》 話でした。しかし、私の感覚では、信州にもどると未だにこの感覚が甦り、ホッとしたりします・・・。

 お昼を食べるために信濃国分寺を目指して千曲川添いの道を急いでいると左手の視界から小牧山が途切れ、大きく蓼科山の特徴あるお椀型の山容が目の前に現れました。小牧橋を渡ると見慣れた風景も現れて国分寺跡地の公園はすぐそこでした。

 上田市は私の生まれたところです。
 柳町の保命水に近い国道18号線の北側、呈蓮寺・海禅寺の通りの4軒続きの長屋の一角で、兄二人を連れた両親が引っ越して、すぐに生まれたのです。後から弟も出来ました。東西に真っ直ぐに伸びる道と平行に上田電鉄の電車が走り、六畳二間に多い時には親子6人で暮らしていました。北小・三中に通い、銭湯は柳乃湯、プールは上田城跡北といった半径1.5キロメートル位のところに何でも間に合う小王国だったので、生活環境だけみれば子供にとってはまさしく楽園でした。
 それが、ゼッタイここから出て行きたい、上田市には住むまいと決意した理由は、終戦後まもなく父親が上田市役所を些細なことで辞め、私がものごころ付く頃には母親の稼ぎと、上田松尾を出て東京に就職した九つ上の長兄の仕送りに頼る暮らしになってしまったからです。

 何故こんな身の上話を書いてみたくなったかと言いますと、英語・数学及び、歴史の学習も全て高度になった上田高校時代になっても、北国街道の“ほ”の字も知らなかったと言い訳したいからです。
 ですから街道歩きはまるで時代劇の映画の中に紛れ込んだようで、楽しいことこの上ないのです。

 街中を流れる清流の矢出沢川が直角に曲がる場所にある丸山家の石垣は、反りの線が綺麗に見えて美しく、川を隔てたこちらには柳や珍しい木があってちょっと風情(ふぜい)がありました。
 この先の真っ直ぐに続く西に向かう街道の村々は、石碑『道標』によれば真田氏が城下町の防衛目的で造った由。其の西側を固めた四ヶ村は、鎌原(かんばら)、西脇(にしわき)、生塚(うぶつか)、秋和(あきわ)で、計画的に作られたものと知りました。そのためでしょうか、気持良い直線の道でした。
 何所(どこ)だったでしょうか、前を見ても後ろを振り返っても真っ直ぐに道は続き、両側にぎっしりと民家が並んで、どちらを向いても『果て』は見えない地点がありました。権力者が一切を取り仕切らないとこうは真っ直ぐには出来ないだろうなと、妙なところで感心しました。

 芳泉寺の小松姫と、仙石氏の墓所はとても立派なものでした。ここでは木戸を出たすぐ目の前に見上げるように高く枝葉を爽やかに伸ばす木に興味を持ちました。
 かりんの木でした。先に青い実が二つなっていました。浄土宗の寺は何となく全体的に女性っぽいです。
 この後、しなの鉄道で中抜きをして坂木宿本陣跡の「ふるさと歴史館」に先行し、(来館者の途切れているのを幸いに)学芸員の方に美味しいお茶をサービスして頂き、コンビニで買ったおむすびを食べました。一行を待っていると肌寒くなってきたので、重ね着をして外にでて陽に当ると暖かくなりました。お天道様は有り難いなぁと感じながら、ほぼ250年前の出来た当時に復元したという、本陣の厚々とした黄色がかった茶の土壁の門に見惚れていると、斜めの陽に映えて土壁はますます昔懐かしい温もりを感じさせてくれました。

 追いついた一行と再び戸倉(とぐら)を目指して歩き始めると、皆それぞれに生まれ故郷の近いこともあって本家や分家、連れ合いの親戚などの話を道々語り合いました。話の中に出てくる苗字は、<トランプの神経衰弱>さながらきちんと辿れば、南総里見八犬伝のように、どこかの時代で繋がりそうで可笑しかったです。
 坂木宿の通りの中程で南に目を向けると、千曲川が流れ出てくる谷間のように見える二つの山の間に、昨日は間近(まじか)に感じた蓼科山が、掌(てのひら)に入るほど小さくみえて<今は昔>(いまむかし)の気分になり、これが私のふるさとなのだと改めて実感しました。
 清水正宣(1組)


ねえ、ねえ 知ってたあ?

 帰宅した翌朝、自分の布団で目を覚ました時、「昨日いたのは本当に上田の街だったのだろうか。」と不思議な気分になった。慣れ親しんだ上田ではなく、遠い東海道の一場面のようだった。

初めて知ったことを、思いつくままに
@横町からかくっと曲がり、海野町へ。昔うさぎやの前をかくっと曲がり、原町へ。
 駅からのメイン通りの松尾町は昔は無かったのだ。
Aほていやの所が柳澤太郎兵衛の本陣。S40年代に国分寺の近くに引っ越したというので、
 私たちが高校生の頃は、あそこにあったんだ。見たことなかった。
B映画「たそがれ清兵衛」の決闘場面が上田ロケ地だっだ。ずーっと(どこだろう)と
 思っていたが、やっとわかった。秋和に向かう高橋を渡り、丸山家の石垣の下。
 ああ、ここ、ここ。
C芳泉寺という立派なたたずまいのお寺も初めて行った。小松姫と仙谷氏の墓があった。
D芳泉寺から、上田城へ向かう歴史の道は趣がある。重厚な白壁の横の一本道。
 上田とは思えない風情のある道だった。
E元の捨堀に上田高校の第二グランドがあった。カラフルなスポーツシューズが男子高校生
 らしく並んでいた。
 *ここで、私は、上田城西側は、野球場までしか行ってないことが判明。上田城の西側は
  防備が手薄と言われるが、確かに城に到達するとは思えないような、のどかな道だった。
F太郎山はどこ?
 上田城を案内するとき友人たちにうそを教えていた。太郎山は手前で奥は東太郎山
 だそうだ。
G東山道神坂峠に「埴科郡防人の歌」がある。その原点の埴科郡に同じ歌の碑があった。
 ここから出発し、東山道を南下し神坂峠で信濃と別れ難所を越え九州を目指したのだ。
 九州まで行った防人は帰って来られたのだろうか。

 宿の女将が3期上の先輩だった。お若く美しく笑顔が素敵な女性でした。H23年に他界してしまった兄とも仲良しだったとのこと。
 女将からの伝言
 「お料理をきれいに食べていただいてありがとうございました。『やはり街道歩きをするような方々は、食べっぷりが違うね。』と従業員と話していたのですよ。」とのこと。
 お料理が、盛り付けといい、色合いといい、お味といい、量といい大満足でした。
 こちらこそありがとうございました。
 歴史の知識が深まったのはプロ中のプロの清水社長の名ガイドのおかげです。個人的に特別コースを案内頂いた正宣さんにも、感謝です。
 いつもながら楽しい旅にしてくれているみなさん、ありがとう。
 宮下明子(9組)



上田宿本陣邸 (クリックして拡大)

丸山家の石垣

上田城跡

上田高校校門

坂木宿本陣(クリックして拡大)

上戸倉宿本陣

寄稿 『分去れ』って?(北国街道歩きに臨んで)

                        磯村雄二(3組)
 東海道の旅に引き続いて、リーダーS.K女史から「北国街道の旅のお誘い」を受けて 参加することは決めていたが、どこか東海道歩きの際の高揚した気持ちと違っていた。 それが何なのかは分からなかった。北国街道コースガイドを見ると小諸、田中、海野宿、上田、坂城(坂木)などは、街道筋を繋げて歩いた事はないが、何度も訪れている知っている地元の場所だ。
 今回の街道歩きの出発地点は、中山道と北国街道の分岐である信濃追分から。
 追分の地名は各地に残っている。いま別の街道歩きグループで歩いている青梅街道も、新宿三丁目の新宿追分で甲州街道と分岐していた。有名な追分だんご屋も近くにあった。東海道歩きの際には、関宿東追分は伊勢別街道との分岐で、伊勢神社内宮宇治橋南詰の鳥居が立っていた。日永の追分は、伊勢参宮道と東海道の分岐で、伊勢参宮道第二の鳥居が立っていた。また三河と遠江では、本筋東海道と脇往還の別称「姫街道」との御油追分、見附追分があった。昨年末の57次の旅は、東海道と京街道が分岐する髭茶屋追分からだった。

 今一、気乗りがしない中で、リーダー達が歩いた「中山道」旅日記を64期HPで見た。
   …内容(抜粋)は以下であった…
 <追分宿は、今も江戸時代の雰囲気を残している。追分を愛し晩年は永住した作家堀辰雄文学記念館の入り口の立派な門は、本陣の裏門を移設したとのこと。脇本陣は旅館油屋として今も残る。旅籠つたや、枡形茶屋つがるや、高札場、など昔の面影を残して佇んでいて追分宿を歩くと、時の流れを感じさせられる。宿場を出たところに、常夜燈と分去れの碑>

 『分去れ』最初は読み方が判らなかった。調べたら『わかされ』だという。 追分は、要は街道の分岐点で道が分かれてゆく処だが、『分去れ』の意味は?。
 思い出したのが、昔し狩人が歌っていた「コスモス街道」(「あずさ2号」も狩人だが)
     【コスモスの花は 今でも咲いていますか
     右は越後へ行く北の道  左は木曽まで行く中仙道
     続いてる コスモスの道】
 文学的教養の欠片など全くない小生だが、恋人達が“それぞれの人生に向け別れて去ってゆく”、別れて去るので『わかされ』だと、ひとり納得した。
 さらに調べたらこの歌詞の基は、立原道造氏の「夏の旅 T.村はづれの歌」の一部らしい。
     【右は越後へ行く北の道  左は木曾行く中仙道】

 旅人だったら、“別れてそれぞれの目的地に向け別々の道に立ち去ってゆく”のか。 勝手な理屈付けして、それならばいきなり信濃追分からでなく、前準備が必要と感じて、やはり中山道から歩かないとまずいと思いたち(しかも仲間の多くは、中山道の旅を完歩しているベテラン揃いでもあり)、少しは中山道を歩こうと。そこで同級生のY.N氏が良く言っていた「戦略的踏破主義」を採用することとした。
 日本橋元標から数百bの日光道中追分までは、別グループの日光街道歩きの際に歩いてはいるが、中山道最初の継(次)立て宿場の板橋宿までは歩いていないので、まずは板橋宿までを本番10日前に歩いた。

 そして本番の前日に八高線で高崎へ、更に横川へ。
 そこから碓氷関所・坂本宿・難所碓氷峠を越えて、軽井沢宿・沓掛宿をめざす。昼食用にと少し重いが釜飯を買う。関所は桜が満開。川久保薬師堂前の薬師坂を上がると汗が出てくるほどの好天気。坂本宿の京口(上)木戸を過ぎると旧18号国道から離れて中山道の山道へ。いきなりの急登だ。刎石坂では、芭蕉の句「ひとつ脱て うしろに負いぬ 衣かへ」の通りで長袖シャツを脱ぐ始末。覗で先程歩いてきた坂本宿を俯瞰する。暑い位の陽気で妙義山は霞んでいる。横川駅から歩いて3時間経ち「栗が原」(明治天皇巡幸道との分岐で、交番の発祥地)で釜飯を食らう。皇女和宮道(今は安中藩安政遠足のコース)分岐を過ぎ、ようやく上信國境の熊野神社に到着。赤線の県境線が伸びている茶屋「しげの屋」で名物峠の力餅で一服して、軽井沢宿へと峠を下る。途中で旧中山道の山道を見失いかなりの迷走が。
 仕方なく「碓氷峠遊覧歩道」を歩く。吊り橋を渡りようやくショーハウス手前で県道(巡幸道)に合流。観光客で賑わう旧軽(軽井沢宿)を駆け足で抜け、市村記念館(近衛文麿別荘跡)付近で旧中山道に戻る。既に7時間近く歩いて来たので、当初は信濃追分宿までの計画だったが、峠下りでの時間ロスもあり諦めて沓掛宿までに変更。湯川を前沢橋で渡るあたりで浅間山がバッチリ見える。長倉神社の境内にある「浅間三筋の煙の下で、漢 沓掛時次郎」歌碑など見て中軽井沢駅(旧沓掛駅)から、しなの鉄道で小諸の宿へ。

 翌日[4/15]は、前日の続きで歩けなかった沓掛宿の外れから草津道石仏道標・古宿・女街道分岐馬頭観音・借宿・草津道道標・追分一里塚を経て、追分宿で郷土資料館と堀辰雄記念館を見る。浅間神社境内の芭蕉句碑(ふきとばす 石も浅間の 野分かな)、泉洞寺のカーリング地蔵なども見て、追分節にも謡われている枡形茶屋「つがるや」手前の喫茶店兼パン屋で本隊の到着を待って、『分去れ』で合流した。

 『分去れ』道標の「右 従是北国海道 左 従是中仙道」は勿論だが、大きな常夜燈には 「是より左 伊勢」とある。別の道標には「さらしな(更科)は右 みよしの(吉野)ハ左にて 月と花とを 追分の宿」とある。なんともスケールの大きな彼方に感慨深いものを感じた。
 よしこれでモヤモヤが吹っ切れた。(伊勢や京都や吉野に行くと言って別れた人を忘れて)中山道から分かれ、北国街道を歩いて更科は勿論、越路を踏破し、加賀路まで歩くぞ!


碓氷関所

覗から坂本宿と妙義山

刎石一里塚跡

上信国境上しげの屋

沓掛宿湯川の前沢橋からの浅間山

追分一里塚

第1回 信濃追分から海野宿へ

(17/4/15−16)

はじめに
 昨年秋に東海道の旅を終えたが、やはり、故郷・上田を通る「北国街道の旅」で終わりにしよう、ということになった。
 北国街道は中山道追分から善光寺を経て越後高田までをいい、さらに金を佐渡から江戸まで運んだ道でもあるため、佐渡を対岸に控える出雲崎までの約220キロを北国街道とすることが一般的である。
 江戸時代、佐渡から出雲崎に船で運ばれた金は、金蔵で2泊した後、鉢崎、高田、野尻、矢代、小諸、坂本、高崎、熊谷、浦和、板橋で泊まり、11日目に江戸に着いた。金が泊まる宿には金蔵が設けられて厳重に警備がされたという。また、江戸後期になると、江戸の無宿人が佐渡へ送られ、金採掘にあたった。
 北国街道は、善光寺参詣の道であり、金と人が運ばれた道であり、加賀藩三千人の参勤交代の道でもあり、また越後から信州に塩が運ばれた重要な街道であった。
 (KAZU)

【信濃国】
信濃追分から小諸宿へ
 2017年4月15日、信濃追分駅に集まって、中山道と北国街道の分去れに向かう。
 追分宿は、宿場の中程に堀辰雄文学記念館がある。入口の門は追分宿本陣の裏門を移築している。追分宿本陣跡には、明治天皇行在所跡碑が立ち、街道沿いに高札場が復元してある。また、枡形があった位置に枡形茶屋があり、中山道の旅を思い出し懐かしい。
 分去れには、常夜灯と道祖神の碑が立てられている。分去れの碑には、「さらしなは右 みよし野は左にて 月と花とを追分の宿」とある。
 浅間おろしが吹き荒ぶ寒い日。すぐ先の、庚申塔が並んでいる公園で昼食を食べてから歩き始めた。
寒風が強く帽子が飛ばされそうになる。追分原は、浅間山の噴火の火砕流で覆われているというが、長い年月でコナラやシラカバなどの樹木が育っている。3キロ程歩いて、濁川を渡る。鉄分を多く含むため酸化して濁っているのだとのこと。
 この川の先が馬瀬口地区。長屋門のある高山家の前に明治天皇の小休所跡碑が立っている。
 十石坂を下る。このあたりは、両岸が垂直に削られた深い浸食谷が幾筋もできて田切地形を形成している。

 平原一里塚跡は、道の両側に馬頭観音が立っていてホッとする。すぐ先の人家の間に、「一遍上人初開道場」の大きな碑が立ち、一遍上人が踊り念仏を創始した十念寺の跡とのこと。
 少し先の旧家の土蔵脇に、みごとな松の老木がある。参勤交代に通った加賀の殿様も絶賛したという。
 2キロほど歩くと、道の右側に立派な石碑が立てられ、周囲に植木が植えられてきれいに整えられている。柏木小右衛門生誕の地、とあり、碑の裏に業績が刻んである。柏木村の郷士の家に生まれたが、士官を辞めて帰農し御影新田を開いた人。
 四ッ谷信号を左折して、すぐの細い道を下ると、甲州道道標がある。「右甲州道/左江戸海道」と刻んである。道標の脇の塚の上には観音像が立てられている。
 ここから乙女坂を上る。国道に出て、渡ったところに唐松一里塚がある。江戸時代初期に仙石氏が幕府の命により造ったとのこと。道の両側に塚が残っていて、右塚は上に上れるように階段がつけてある。階段は後世の人が付けたのだろうが、珍しいこと。

 蛇堀川を渡ったところが小諸宿入り口。この川は、小諸城外堀を担っていた。馬頭観音が並び、「ここは与良街 北国街道」と書かれた柱が立てられている。ここで吉田満子さんが待っていて、小諸宿を案内してくださった。
 「与良館」は、旧商家の建物が小諸市に寄付され、観光客のお休みどころになっている。裏手にある土蔵は、小諸藩の銭倉だったものを、明治期に借金の形に藩主から譲られた空の倉、とのこと。また、戦時中、高浜虚子が疎開していた離れは高浜虚子記念館になっている。
 向かい側にある小山家は、藩主がたびたびお茶を飲みに来たので、上段の間などを備えているとのこと。
 小諸宿は江戸中期には東信濃随一の経済力を誇ったので、立派な商家が立ち並んでいた。旧商家や旅籠が今も残っている。
 与良館のすぐ先には大きな味噌蔵を持つ味噌屋があり「山吹味噌」の看板が掛かっている。

 海応院は、関ヶ原に向かう徳川秀忠軍を足留めしていた真田軍と、この寺の住職の調停で休戦して、関ヶ原に向かうことが出来たので、秀忠から下馬札を贈られたとのこと。
 荒町と本町境の鉤の手にある光岳寺の山門は旧小諸城足柄門を移したもの。
 ほんまち町屋館の先の鍋曲輪には、江戸時代から営業している蕎麦屋「丁子庵」が今も営業している。
 宿場の通りに出ると、旧脇本陣があり、すぐ先に本陣の表門と問屋場の建物(国重文)が残る。本陣主屋は小諸駅脇の公園に移築されている。
 街道をそれて小諸城跡に向かうと、仙石権兵衛によって建てられたという大手門(国重文)が返還され、元の場所に移築されている。
 線路を渡り、「懐古園」と書かれた三の門を入ったところにある、小諸グランドキャッスルホテルに宿泊した。ホテルのレストランからは2分咲きの桜が見えて、お花見気分であった。
 (一日目の歩数、30,405歩)

小諸から田中宿へ
 翌朝、朝食をしっかり食べて、8時に出発。昨日とは打って変わって、汗ばむ天気になった。
 本陣主屋の前を通り、街道に出る。坂を下って行くと諏訪神社がある。戌の満水(1742年)で大きな被害を出したという中沢川を渡ると、布引観世音と刻んだ大きな碑と道標がある。ここが小諸宿の西のはずれ。
 富士見坂を上り、西原地区に入る。深沢川の手前には馬頭観音が2体佇んでいる。戌の満水で深い沢ができた、という。川沿いの土手には桜が植えられて2分咲きである。
 芝生田地区に入る。前方に白馬三山などの北アルプスの白い山並みが見える。北アルプスを遠望しながらの街道歩きは心も弾む。大石沢川を渡る。アーチ型石組の橋が架かっている。眼鏡橋とある。橋を渡った路傍に双体道祖神が2つ置かれている。
 1キロほど歩くと、牧家一里塚跡。南塚に一里塚の碑が立っている。北塚側の立場茶屋があったところに、佐久間象山筆の雷電の碑が立てられている。江戸と明治の2つの碑が並んでいる。江戸期のものは、碑の破片を持ち帰ると立派な男になれると風評がたち、破損が著しくなり、明治期に新設されたとのこと。
 加沢原は戌の満水による土石流の被害が大きかったので庭先に大石が置かれている。常田の諏訪神社の桜は満開に近い。

 田中宿東の枡形を過ぎて田中宿に入る。平成5年からの町並み整備で、道路が拡幅されて、街道の面影はない。
 案内標識にしたがって、街道脇の小路にに入る。薬師堂の入り口の左右に2体の石の仁王像が立っている。1体は雷電の母が、もう1体は雷電が奉納したと伝わっている。境内には、戌の満水の供養塔が立てられている。
 田中宿の通りに戻り、少し歩くと「田中宿脇本陣」の看板を掛けた雑貨屋がある。この手前が本陣だが、戌の満水で被害を受け、本陣業務は海野宿に移った。本陣門が街道から少し奥に入った小田中家に保存されている。
 宿場の西の枡形に勝軍地蔵が置かれている。武装して馬に乗った地蔵尊には善光寺地蔵と刻まれている。

田中宿から海野宿へ
 田中宿から海野宿へは約2キロの道。田中小学校の脇の道を歩き、踏切を渡ると宿場入り口の枡形、大きな石が置かれている。すぐ先が白鳥神社。ここで待っていたのが、倉沢直彦さんと荒井f三さん。歩くのは自信が無いからと、海野宿で同期生が待っているとは思いもよらなかった。この後、せっかく来たのだから、と大屋駅まで一緒に歩いた。
 宿場の入り口に、「媒地蔵(なかだちじぞう)」と言われているお地蔵さんが置かれている。婚期が遅れていた加賀のお姫様がお祈りして良縁に恵まれたことから、こう呼ばれているとのこと。
 海野宿は出桁造りと海野格子、卯建が揚がる家並が特徴で、重要伝統的建造物群保存地区に指定され、日本の道百選に選ばれている。宿場用水が残り、今も清らかな水が流れている。
 海野宿本陣は、本陣と問屋を兼ねていたので、問屋の長屋門が残っている。
 また、海野宿から大屋駅までの西海野地区は、宿場ではないが、用水が流れ、海野宿と類似の景観を持っている。大屋駅まで歩いて、第1回の旅は終わった。
 (二日目の歩数、27,782歩)

参加者=初参加・荒井昇三(5)、倉沢直彦(5)、宮澤康元(5)、平林美穂(68期)。奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水正宣(1)、清水洋二(1)、平林正明(1)、磯村雄二(3)、柳澤信義(3)、石井則男(4)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、山浦るみ子(8)、村居次雄(8)、林久美子(9)、藤巻禮子(9)、宮下明子(9)、池田有美子(69期)の20人。

 至れり尽くせりの街道歩き

 最近、ひまつぶしに家の近くの稲荷山(北国西往還(善光寺道))、千曲市の土口地区(北国街道東脇往還(松代道))にスケッチに出かけているうちに、北国街道全部の家並みも見たいと思っていたところ、今年の関東同期会に参加した時に北国街道を歩く企画があると聞き喜んで参加させていただくことにしました。
 千曲市の生家に戻って約5年、すっかり車生活に慣れてしまい、長距離を歩くことに少々自信がなくなり、皆さんについていけるか心配ではありましたが、信濃追分駅での「旅の仕方」の説明で「基本的に、64期の女性の歩くペースに合わせた徒歩とします。」との説明を受け、多少安心し出発しましたが意外と速いペースに又不安がよぎりました。
 それでも歩きながら、高校時代に会話もしたことのない方々とお話をしながら、街道筋の家並み、宿場間の田園風景を楽しむことが出来ました。
 今回は信濃追分から大屋までの工程でしたが、その間に目にした立派な長屋門、切妻造りの大屋根、千本格子の建具を備えた古民家等の街道風景をモチーフに、日を改めて「ひまつぶしスケッチ」をしに来たいな?とも思いました。
 初の街道歩きを終え、清水計枝さんには宿泊の手配から本企画に関する資料の準備、街道筋の史跡の解説、食事場所、トイレ場所、休息場所の設定等あらゆる面でご苦労して頂きましたことに深く感謝です。
 又女性の方々からは休息の都度おやつをいただくなど、兎に角至れり尽くせりの街道歩きでした。皆さんに感謝申し上げます。
 次回はもう少し予習をして参加したいと思います。
 宮澤康元(5組)


 


追分宿・堀辰雄文学記念館

追分・分去れ
(クリックして拡大)

小諸城大手門

小諸宿本陣主屋

田中宿・薬師堂の仁王像

海野宿・白鳥神社
(クリックして拡大)



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