番外編 北国街道東脇往還“松代道”(長沼道)
下見でチョコっと歩く 磯村雄二
(17/11/11) |
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神代宿から牟}へ 北国街道歩き旅の第5回は、黒姫駅の出発が12時頃だったので、少し早く行けば、前回歩いた「新町宿」から「牟礼宿」に向かう途中にあった高山寺手前の北国街道本道(善光寺道)と松代道(長沼道)とが合流する「平出追分」まで、「神代(かじろ)宿」から歩けるなと思い、同行できる方に声を掛けて当日の朝にチョコッと歩いた。 《参考》 *松代道(長沼みち)は、距離は長いが渡河が少ないので「雨降り街道」とも呼ばれていた。 |
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同行者=宮澤康元(5組)
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石柱道標(奥 飯山道・手前 松代道) |
観音堂からの神代宿と松代道 |
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神代坂の大石 |
白坂峠道標と馬頭観音 |
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白坂峠一里塚 |
平出追分の長沼道道標 |
寄稿 『分去れ』って?(北国街道歩きに臨んで)磯村雄二(3組) |
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東海道の旅に引き続いて、リーダーS.K女史から「北国街道の旅のお誘い」を受けて
参加することは決めていたが、どこか東海道歩きの際の高揚した気持ちと違っていた。
それが何なのかは分からなかった。北国街道コースガイドを見ると小諸、田中、海野宿、上田、坂城(坂木)などは、街道筋を繋げて歩いた事はないが、何度も訪れている知っている地元の場所だ。 今回の街道歩きの出発地点は、中山道と北国街道の分岐である信濃追分から。 追分の地名は各地に残っている。いま別の街道歩きグループで歩いている青梅街道も、新宿三丁目の新宿追分で甲州街道と分岐していた。有名な追分だんご屋も近くにあった。東海道歩きの際には、関宿東追分は伊勢別街道との分岐で、伊勢神社内宮宇治橋南詰の鳥居が立っていた。日永の追分は、伊勢参宮道と東海道の分岐で、伊勢参宮道第二の鳥居が立っていた。また三河と遠江では、本筋東海道と脇往還の別称「姫街道」との御油追分、見附追分があった。昨年末の57次の旅は、東海道と京街道が分岐する髭茶屋追分からだった。 今一、気乗りがしない中で、リーダー達が歩いた「中山道」旅日記を64期HPで見た。 …内容(抜粋)は以下であった… <追分宿は、今も江戸時代の雰囲気を残している。追分を愛し晩年は永住した作家堀辰雄文学記念館の入り口の立派な門は、本陣の裏門を移設したとのこと。脇本陣は旅館油屋として今も残る。旅籠つたや、枡形茶屋つがるや、高札場、など昔の面影を残して佇んでいて追分宿を歩くと、時の流れを感じさせられる。宿場を出たところに、常夜燈と分去れの碑> 『分去れ』最初は読み方が判らなかった。調べたら『わかされ』だという。
追分は、要は街道の分岐点で道が分かれてゆく処だが、『分去れ』の意味は?。 旅人だったら、“別れてそれぞれの目的地に向け別々の道に立ち去ってゆく”のか。
勝手な理屈付けして、それならばいきなり信濃追分からでなく、前準備が必要と感じて、やはり中山道から歩かないとまずいと思いたち(しかも仲間の多くは、中山道の旅を完歩しているベテラン揃いでもあり)、少しは中山道を歩こうと。そこで同級生のY.N氏が良く言っていた「戦略的踏破主義」を採用することとした。 『分去れ』道標の「右 従是北国海道 左 従是中仙道」は勿論だが、大きな常夜燈には
「是より左 伊勢」とある。別の道標には「さらしな(更科)は右 みよしの(吉野)ハ左にて 月と花とを 追分の宿」とある。なんともスケールの大きな彼方に感慨深いものを感じた。 |
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碓氷関所 |
覗から坂本宿と妙義山 |
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刎石一里塚跡 |
上信国境上しげの屋 |
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沓掛宿湯川の前沢橋からの浅間山 |
追分一里塚 |