(5)加賀街道まとめ (会報99号)
(4)加賀街道 第3回 (3)加賀街道 第2回
(2)加賀街道 第1回 (1)善光寺道

いいとこ取りの加賀街道の旅(第3回、最終)

(19/9/29-30)   清水計枝(1組)

  9月28日(土)から出発した「前旅」(後述)組と、あいの風富山線「石動駅」で合流。参加者16名、と事前に小矢部市観光協会に電話したところ、今年4月に駅の南北通路が出来て、駅構内に団らんスペースを造ったので、そこで昼食後、駅観光案内所の倶利伽羅峠に詳しい職員の説明を聞いて出発するとよい、とアドバイスされた。
 駅の団らんスペースは、テーブルと椅子が置かれ、ゆっくり座って昼食を取ることが出来た。昼食後、駅観光案内所で、「倶利伽羅観光ガイド図」をもらい、説明を聞く。倶利伽羅不動寺を目指して、距離が一番短い(4.5km)歴史国道「倶利伽羅越えいにしえの街道」を行くことにして出発。
 ところが、新しくできた駅の南口からの道が「ガイド図」にはなくて、近道のはずが回り道をしてしまった。
 
埴生護国八幡宮から倶利伽羅不動寺へ
 埴生護国八幡宮は約1300年の歴史を持ち、木曽義仲が戦勝を祈願したことで有名。社殿の前には木曽義仲の馬に乗った大きな像がある。江戸時代は、加賀藩前田家の寄進により手厚く保護されてきた、とのこと。
 倶利伽羅源平の郷埴生口から、ゆるやかな上り道。かつての街道沿いを思わせる民家が建並ぶ道を1.5キロ程歩くと、「長坂道登り口」の看板。ここからは車が入れない1.4キロの遊歩道である。
 遊歩道は、最初は敷石のある急な上り道。たるみ茶屋跡付近で「アケビ」がたわわに実をつけて下がっている木を発見。IさんとSさんが取って皆に分けてくれた。ほのかに甘い、懐かしい子供の頃のおやつ、美味しかった!
 この後の道は、敷石がない草付き道。それでも、キチンと手入れがされていて歩きやすい。木漏れ日の中を歩き、長坂山頂(標高260m)へ。ここから緩やかな下り道。天池茶屋跡には「峠茶屋」の碑が立てられている。少し下ったところが、矢立山。ここは義仲軍の最前線だったところで、平家軍が放った多くの矢が立ったことから「矢立山」の名の由来となった、とのこと。
 200m程歩いたところから急な上り道。0.5k程上り、平坦になったところが猿ヶ馬場。平家の総大将・平維盛が本陣を置いたところ。芭蕉の句碑が置かれている。「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」
 直ぐ先の公園には義仲の奇襲作戦「火牛の計」に使われたという、角に松明を付けた牛の像が2体置かれている。あたりには約6000本の八重桜が植えられていて、桜の季節に来たら、さぞかし、と思われた。この桜は、昭和の花咲かじいさん、と呼ばれた高木勝巳さんが、自動車事故に遭うも、倶利伽羅不動のお守りに護られて怪我をしなかったことに感謝して植え続けたとのこと。
 そして、ようやく倶利伽羅不動寺に到着。上りがきつかったので、4.5km以上歩いた感がした。

倶利伽羅不動寺
 この寺は、富山県小矢部市と石川県津幡町との県境に位置する日本三大不動の一つ。奈良時代初期の養老2年(718)に、中国から渡来したインドの高僧、善無畏三蔵が北陸路を通った際、砺波山中に住む魔物を倶利伽羅竜王を勧請して退治し、その不動明王を祀った。このことから、この地を倶利伽羅と呼ぶようになった、とのこと。
 それでは、三大不動の残り2は?、成田不動と大山不動とのこと。

倶利伽羅駅へ
 北陸道は、ここから「津幡駅」に通じているが、歩く距離が長くなるので、手前の「倶利伽羅駅」まで3キロの道を歩いた。
 「3キロなら訳ない」と甘く見たが、下り坂がきつく、難儀した。駅に着いたときは膝がガクガク、駅のホームに上がる階段が辛かった。
 倶利伽羅駅からIRいしかわ鉄道で金沢駅へ。「マンテンホテル金沢駅前」に着くと、汗を流して夕食。夕食のあとは、大浴場で疲れを癒やす人、カラオケに行く人、などそれぞれ楽しんだ。

金沢城見学
 駅前からバスで、「兼六園下」下車。普通の見学者は、直ぐ近くの石川門口から入場するのだが、私たちは、清水淳郎さんの案内で、城の外周の石垣から見ることに。
 旧百間堀、今は埋め立てられて道路になっている。対岸は、兼六園の石垣。百間堀園地から見上げると、石川門が美しくそびえている。石垣は3段に積まれていて、攻略するのは大変だ。
 南の角にある辰巳櫓跡の石垣は4段に積まれて、かつてはその上に櫓があった。明治以降、金沢城内に第6旅団司令部が置かれ、この石垣を積み直したため、石垣の復元をしないと櫓の復元が出来ずにいる、とのこと。
 復元された「いもり堀」に沿って、高く積まれた城の石垣を見上げながら歩く。所々に、城の石垣を構成していた石が置かれている。
 城の西側の丸の内園地は櫓の復元工事中で、櫓を復元後は尾山神社に橋を渡っていけるようになるのだという。私達は、尾山神社に寄り道した。
 尾山神社は、加賀前田家の初代藩主・前田利家とまつを祀った神社。神社入口の神門は和洋折衷様式。境内には、長い槍を持って馬に乗る利家の像とまつの石のレリーフが置かれている。
 城の外側の通りに戻り、尾崎神社の角を曲がったところに大手堀、大手門口がある。ここで、軽井沢から駆けつけた林さんと合流。大手門口から城内に入ると、入口の枡形には、入る人を圧倒するように、大きな鏡石が配置されている。
 新丸広場の先には再建された河北門がある。三の丸広場を通って、内堀に架かる橋を渡り、橋爪門を入ると、橋爪門続櫓と五十間長屋に圧倒される。五十間長屋に入場して、下の石積みの関係で柱が菱形になっているということを説明を聞いて確認する。
 この後は、玉泉院丸庭園へ。辰巳用水を水源とする池泉回遊式の庭園で、滝と一体となった色紙短冊積石垣が美しい。
 今は、入口の門になっている石川門(搦手門)から退城して、兼六園に向かった。

兼六園見学
 兼六園に入場し、昼食(加賀御膳)を食べた後、ガイドの説明で園内を40分かけて散策した。
 兼六園は、5代藩主綱紀が作庭を始め、歴代藩主が手を加えてきた、とのこと。園内を流れる水は、1631年の寛永の大火の翌年、3代藩主・利常の命により、城の防火用水としてつくった辰巳用水を利用している。この用水は12キロ先の水源から岩をくり抜き運ばれてきている。
 噴水の前からスタート。この噴水は、上にある霞が池を水源として、自然の水圧で上がっている。
 雪吊りの松として有名な「唐崎の松」は、兼六園の中で最も枝振りが見事な松だが、13代藩主・斉泰が琵琶湖畔の唐崎から種子を取り寄せて実生から育てた黒松とのこと。
 園内には、名石、名木が配され、池あり、橋ありで、見飽きない。四季折々楽しめる庭で、観光名所になるのもうなずける。

天徳院拝観
 観光コースでは行くことが少ないが、加賀前田家と徳川将軍家の融和に尽くした「珠姫」菩提のため、創建されたという天徳院を訪ねた。
 徳川二代将軍・秀忠の二女として生まれ、3歳で加賀に輿入れ、14歳で加賀藩三代藩主・前田利常と結婚、3男5女を産み育てたが24歳で亡くなった。
 ちょうど、私達が訪れた時刻に、からくり人形「珠姫・天徳院物語」を上演していて、珠姫の生涯の解説になった。引き続いて、寺の職員から話があり、寺院内を拝観した。
 本堂奥に安置してあった、珠姫の木像は弥勒菩薩のようであった。

前田家墓所(野田山)見学
 天徳院からタクシーに分乗して、犀川を渡った先にある野田山墓地に向かった。
 前田家の墓所は土を盛り上げた円墳で、中に石棺が納められているようであった。お彼岸の墓参りに際して墓所の掃除などをするのが一般的だが、ここは、夏草が生い茂っていた。

 ここから、待たせてあったタクシーに乗り、金沢駅に向かい、それぞれ帰路に着いた。

参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水正宣(1)、清水洋二(1)、平林正明(1)、磯村雄二(3)、柳澤信義(3)、石井則男(4)、倉沢直彦(5)、宮澤康元(5)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、村居次雄(8)、山浦るみ子(8)、清水淳郎(9)、林久美子(9)、藤巻禮子(9)の17人。

「前旅」に行きました
 第1回の旅で親不知に行かなかった人と、フォッサマグナパークを見たい人5人で、9月28日(土)に出発して「前旅」を楽しんだ。
 糸魚川で大糸線に乗り換えて、根知駅下車。徒歩15分ほどで現地に到着。
糸魚川のフォッサマグナが、ユネスコ世界ジオパークに指定されたので、昨年1年かけて工事して、今年4月から公開された。
 糸魚川・静岡構造線は日本列島の地質を東西に分ける巨大な断層であり、ユーラシアプレートと北アメリカプレートの境界です。その断層の露頭を目の前に見ることが出来る。とてもハイな気分にさせられた。その直ぐ近くには、枕状溶岩の露頭があり、地球の断面を見た。
 糸魚川駅に戻り、フォッサマグナミュージアムを見学。糸魚川で採取されたヒスイや世界各地の化石や鉱物が展示されている。また、日本列島の誕生とフォッサマグナ形成の映像と展示は、最新の研究を踏まえた内容で、大変興味深かった。
 この後、親不知駅から親不知観光ホテルの送迎バスでホテルに行き、親不知の断崖絶壁を見てから、海の幸たっぷりの夕食をいただいた。
 翌朝は、ホテルの車で、越後市振の関跡を通って、市振駅まで送っていただき、富山駅で皆さんと合流して、石動駅へ向かった。
(参加者)清水計枝、山浦ひろみ、山浦るみ子、清水洋二、柳澤信義、清水淳郎

護国八幡神社(クリックして拡大)
猿ヶ馬場公園

倶利伽羅不動寺

金沢城大手門前

金沢城石川門出口(クリックして拡大)


兼六園噴水前(クリックして拡大)


フォッサマグナパーク(前旅)


枕状溶岩の露頭(前旅)

いいとこ取りの加賀街道の旅(第2回)

(19/6/22-23)   清水計枝(1組)

 6月22日(土)特急あずさ号に乗って、大糸線で南小谷に向かう。梅雨明け前なので残雪の北アルプスを見ながらの旅の予定だったが、雲がかかっていて、安曇野から有明山が見えた後は、北アルプスはほとんど見えず、大糸線沿いに並ぶ、木崎湖、中綱湖、青木湖の碧い湖面を見ながらの旅。大町駅にきてようやく白馬三山の雪の残る山の姿がほの見えて歓声があがった。
 南小谷で1両編成のディーゼル車に乗り換えて、姫川沿いの景色を見ながらの旅。途中、ヒスイ峡への道路標識が見えると、第1回の旅で見た102トンのヒスイの原石はここから運ばれて行ったのだ、などと話題になった。
 列車は糸魚川駅で「日本海ひすいライン」に乗り換え、加賀街道沿いを走行する。青海駅の先はトンネル、出たところが親不知駅。すぐにまたトンネルに入り、トンネルを抜けたところが市振駅。市振駅の少し手前に、市振の関所があった。越後と越中の国境の関所である。前回、訪れた親不知、子不知が加賀街道の最大の難所だったことを改めて思う。
 市振駅からは日本海を見ながら、海岸沿いを走行する。泊駅で、「あいの風とやま線」のあい色の列車に乗り換える。黒部駅、魚津駅、滑川駅など富山県に入ったことを思わせる駅名をたどり、富山駅に着く。富山駅は新幹線と在来線が同居して、巨大な鉄骨造りの駅に変身していた。
 この日は「夏至」だが、街道をひたすら歩くのではなく、冷房の効いた列車を使って街道をたどり、「いいとこ」だけ歩いて旅をする、こんな旅も良いものだ、と思った。
 
富山城跡
 富山駅から15分ほど南に歩いた処が富山城跡。清水淳郎さんの案内で城跡を巡る。
 富山城は、神保氏が築き、上杉と織田の戦い後、織田の家臣佐々成政が得たが、秀吉と対立して降伏、城は破却された。江戸時代に加賀前田氏の分家が独立して富山藩を立藩して富山城を築いた。四周を水堀と神通川を利用して城の守りとしていた。
 駅から歩いて行くと、最初に現れるのが、千歳御門。城門にしては低い構え。東出丸に造られた千歳御殿の門が修復移築されたもの、とのこと。
 水堀沿いの道をたどり、堀に架かる橋を渡ると大手門跡。枡形になっていて、東、西、北面に巨石が置かれ堅牢な造り。昭和29年(1954)に富山城跡一帯で富山産業大博覧会が開催された時に建設された富山城天守閣がある。現在は、富山市立郷土博物館として、富山城の歴史・文化を紹介している。二階で錦絵の展示をしていて、その中の一枚に「木曽義仲の倶利伽羅峠越え」があった。次回越える峠道であり、楽しみである。
 本丸、西の丸は富山城跡公園になっている。
 城跡の見学を終えてホテルに向かおうとすると、「富山と滝廉太郎」という展示が目に入った。中に入ってみると正面に、楽譜を膝に置き、手にペンを持った滝廉太郎像が置かれ、壁面には富山と滝廉太郎に関する展示がしてあった。
 展示資料によれば、滝廉太郎は、父親が富山県書記官(副知事相当)に任命された事に伴い、明治19年に家族とともに富山にやってきて、7歳~9歳まで富山県尋常師範学校附属小学校に通っていた。そして、富山県初の音楽会が、明治19年から毎月1回、師範学校講堂で開催され、廉太郎が通っていた小学校の児童も参加していたので、西洋音楽との関わりがあったと思われる、とのこと。
 また、廉太郎が作曲した組曲『四季』や、童謡『お正月』、『雪やこんこん』は富山で過ごした幼い頃の印象が影響しているようである。

富山駅から高岡駅へ
 翌朝、富山駅から在来線に乗り、4駅で高岡駅。金沢へ行く人だろうか、思いの外混雑していた。歩く事を思えば立っていても苦にならない。20分ほどで高岡駅に着く。

国宝 瑞龍寺と前田利長墓所見学
 駅から南に500mほど歩くと、右手に真っ直ぐ、瑞龍寺に向かう参道が現れる。参道の両側には松の木が植えられていて趣がある。200mほど参道を行くと、瑞龍寺の総門がある。
 ボランテイアガイドの方が案内して下さった。
 瑞龍寺は加賀前田家2代当主、前田利長の菩提寺として、3代利常が建立した。典型的な禅宗建築の伽藍配置をもち、山門、仏殿、法堂を一直線に配列し、左右に禅堂と大庫裏を置き、加えて四周を回廊で結んでいる。また、かつては周囲に堀を巡らせていた。仏殿には、御本尊として中国明代の釈迦・文殊・普賢の三尊をまつってある。
 ちょうど、座禅体験を終えた中学生が禅堂から出てきて、禅宗が今も生きている、と感じた。
 瑞龍寺から真っ直ぐ続く「八丁道」を東に行ったところに、前田利長墓所がある。周囲に堀を巡らせ、二段の石垣の上に墓所が造られている。大名個人の墓としては最大級とのこと。

高岡城跡
 高岡駅に戻り、観光案内所で自転車を借りて市内を巡ることにする。観光協会のアドバイスで、街道を歩いて、歩きが得意な方達でも、市内を巡るには自転車が良い、とのこと。
 まず、高岡城跡に向かい、清水淳郎さんの提案で城の外堀の周囲を回る。公園の外周2.1kとのことだが、自転車で回れば苦にならない。
 外周を回って大手口に来ると、高山右近像が立っている。前田家2代利長は隠居して、高岡城を造った。縄張りは、キリシタン大名であり、築城の名手として有名な高山右近と伝承されている。城は21万㎡と広大で、3つの水濠は豊富な湧水で満たされ、その面積は全体の3分の1を占めている。
 入城して5年、利長は亡くなり、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。 しかし、加賀藩は、城の実質的な保全を図ったため、濠はほとんど築城時のままに残されている。こうしたことから、高岡城跡は「日本100名城」になっているのだ、と回ってみてわかった。
 城の中心部にある本丸広場を見下ろすように前田利長公像が立っている。

高岡大仏
 次に向かったのが「高岡大仏」。高岡城跡から200mほどの所にある。
 高岡大仏の由来は、およそ800年前、摂津国に住む源義勝が承久の乱を避け、入道して越中に移り住み、護持してきた丈八寸の金銅仏を腹中に納めた一丈六尺の木造大仏を造営したのが始まり。
 慶長14年(1609)前田利長が高岡に築城の折、現在地に移されたが、文政4年(1821)の大火で類焼、再建されるも、明治33年(1900)の大火で再び焼失してしまった。昭和7年(1932)総高15m85cmの不燃の大仏が鋳造され、平成19年(2007)大修理が行われた。
 大修理が行われて12年、ということもあり、端然とした姿の露座の大仏であった。高岡市出身で高岡市名誉市民の堀田善衛は「高岡の大佛に寄す」と題して「町なかの 狭きかたえに 身を寄せて・・・・・はるかなる天竺より この北国の 片隅に 来たり座せる 佛の像・・・・・」と讃を寄せている。

山町筋(土蔵造りの町並み)
 次に向かったのが、山町筋という商都高岡を支えた商人たちの町。明治33年(1900)の大火以後、土蔵造りの家が建てられた。高岡御車山を持つことから「山町」と呼ばれている。
 高岡御車山会館には、高岡が誇る「御車山」を通年展示してある。5月1日には桃山様式の7基の山車が華やかに町を巡行するという。豊臣秀吉公から拝領した山車を、利長公が町民に与えたのが始まり、とされている。
 ここで昼食休憩。郷土料理の「昆布締め」、ほうれん草を混ぜ合わせた「緑菜ラーメン」など思い思いの店で昼食とした。

金屋町(千本格子の家並み)
 前田利長が、産業振興のために鋳物師を呼び寄せ、住まわせた高岡鋳物発祥の地。千本格子と石畳が美しい。吉永小百合が観光用ポスターを撮ったところ。
 私たちも、吉永小百合が立った石畳に立ち記念撮影したり、吉永さんがコーヒーを飲んだ椅子の隣の椅子でコーヒーを飲んだり、して楽しんだ。
 前田家は、参勤交代の時は必ず高岡に1泊したとのこと。利長の菩提寺「瑞龍寺」があることと、高岡の町の振興を意識していたのであろう。
 この他、高岡には、戦国時代に一向一揆の中心となっていた勝興寺、北前船資料館、3代利常公が建造した御旅屋の門など名所旧跡がたくさんある。
 私たちは、自転車で高岡駅の観光案内所に戻り、JR城端線で新高岡駅に行き、新幹線で帰路に。「プラス女子旅」をした人もあり。

参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水正宣(1)、清水洋二(1)、荒井昇三(5)、倉沢直彦(5)、宮澤康元(5)、安武知子(5)、山浦ひろみ(5)、村居次雄(8)、山浦るみ子(8)、清水淳郎(9)、藤巻禮子(9)の13人。

富山城跡、高岡城跡の旅

 6月22日八王子駅からあずさ3号に乗り込んだ。ホームのアナウンスで全ての指定席は完売とのこと、今年の3月からあずさは自由席が無くなったのだ。5号車には清水淳郎さん、清水洋二さん、藤巻さん、山浦さんが乗っている。私の席は6号車9番D、南アルプス、北アルプスを車窓から眺めるにはD席が良いのです。ところが大月あたりから雨、この先も期待できそうもない。笹子トンネルを過ぎると曇りになったが、遠く南アルプスは雲の中、鳳凰三山も裾野だけ。「中央線から見える山」のコピー、「北アルプス北部全図」のコピーも用意したのに…。
 10時23分松本着、清水計枝さんを始め上田からの仲間も乗り込んで来た。乗客もかなり減ったので全車指定もお構いなく6号車に集まりお喋りが始まった。今回は総勢13人、11時には弁当を広げた。大糸線は白馬まで乗ったことがあるがその先は未乗車、楽しみにしていた。白馬の手前でやっと雲の中に白馬三山が見えた、雪渓も見える。白馬駅ではクラブツーリズムの団体などが降りた。11時42分終点南小谷に着く、隣のホームに糸魚川行きのワンマン2両、座れたが発車時には立つ人も出た。12時発車、ディーゼルだ。姫川に沿って下る、カーブが多く徐行運転の区間もあり、トンネルが多いがトンネル内はスピードを上げていた。次第に川幅が広くなり水量も多くなる、糸魚川が近づくと田が広くなり人家も見えた。
 糸魚川駅12時57分着、乗り換え6分でえちごトキめき鉄道泊行き、1両運行、これも座れた。30分で泊、ホーム先で暫く待つとあいの風とやま鉄道折り返し金沢行きが入ってきた。2両編成、なかなかきれいな電車だ。14時36分富山駅着、まだ工事中であるがきれいな駅だ。新潟県と比較すると、富山県の駅はきれいだ、きれいばかり続いたが…。
 賑やかな駅前から歩いて富山城跡へ、清水淳郎さんの解説を聞きながら石垣を見て、掘りの周りを回り城内の富山市郷土博物館に入る。富山城の由来と変遷を学ぶ。天守の展望台に上るが立山は見えず。外に出て休憩した後、宿泊するホテルルートインに向かう。18時からホテル内美蔵で夕食、ブリなどお刺身や天ぷら、ホタルイカの沖漬けなどに舌鼓、地酒「立山」も美味く、お喋りが弾んだ。
 翌朝8時20分ホテルを出て富山駅へ、あいの風とやま鉄道で高岡駅へ、結構混んだ電車だった。予報は曇りだが、どんよりしている。8時57分高岡駅、ここもきれいな駅、新築したばかりなのか、新幹線駅は別なのに。最初に瑞龍寺に向かう、金沢は加賀藩とは知っていたが、富山も高岡も加賀藩だったとは今回初めて知った。ボランティアガイドの説明を聞きながら寺内を回る。山門、仏殿、法堂は国宝、それぞれ重厚である。次に向かったのが前田利長墓所、瑞龍寺から真っ直ぐ東へ八丁道を行く。鬱蒼とした林の中に墓所はあった。
 11時、駅に戻り観光案内所でレンタサイクルを借り、まず高岡古城公園へ。ここでも淳郎さんの解説、高山右近の縄張りで作ったのだそうだ、右近の像もある。しかし一国一城令により廃城となり残るのは外堀、内堀。本丸広場に利長公の銅像があった。雲行きが怪しくなったが、高岡大仏を目指す。三大大仏の一つ、一寸新しいが…。山町筋に向かい土蔵造りの町並みを見、ここで昼食。最後に千本格子の金屋町、石畳で風情がある、通りが微妙に畝っている。吉永小百合のポスターを撮った場所で記念撮影。金屋町は高岡鋳物発祥の地なのだそうだ。皆さん大寺幸八商店に入りお土産を買う。15時駅に戻り自転車を返す。新高岡駅までJRで一駅、駅の周りはまだ閑散としている。16時23分のはくたか570号に乗る。いつもの仲間と富山の旅、ありがとうございました。今年の秋には立山に登りたい…。
 村居次雄(8組)


女3人 いいとこどりの加賀街道プラス旅

 富山県の高岡市と岐阜県の白川郷を結んで『世界遺産バス』が走っていることをたまたま知った。『いいとこどりの加賀街道』の第2回はその高岡市で行程が終了だ。藤巻さん、奥村さん、私の女性3人で五箇山と白川郷を訪ねるプラス旅を楽しもうということになった。
 仲間が去ったあとの高岡駅で3人だけでバスを待ったがなんだか心細かった。『世界遺産バス』などと仰々しい名前の割に地味な大型バスが現れた時はほっとした。

 平坦な富山平野を1時間程走り続け、やがて山間地へと入って行った。しばらく山中を走ってトンネルに入る。長いトンネルだった。抜けるとすぐ短いトンネル。この短いトンネルがあっという間に終わると、眼前には息を呑むような絶景が広がっていた。緑、緑、視界のすべてが緑。緑の小山が幾重にも重なっていた。鮮烈な緑だった。「この景色を見ることが出来ただけでも、来てよかったね」と言い交した。ゆっくりあじわいたいという願いなどおかまいなしで、カーブだらけの道をグングン行く。やがて道は下りに入る。小さな集落がいくつか現れる。下り終わって平地に入ると沿道に人家が増え、どこか懐かしい田舎道の光景になった。宿泊は『五箇山荘』という国民宿舎、上梨という集落で降ろしてもらった。

 バスが走り去ると、目の前には大きな茶色の塊があった。
「えー、まさか、これがあれ…?」
合掌造りの家との予期せぬ出会いにうろたえた。国指定重要文化財村上家と看板に黒々と書かれていた。開館の時間を確認し、庄川の橋を渡る。加賀藩時代にはかける事が許されなかった橋だ。庄川を覗き込んでみる。深い谷だ。川幅はさほどではないが、水量は多く流れが激しい。水の色は緑白色、不思議な水の色だった。橋のちょっと先には茶色のお堂の様な流刑小屋があった。
五箇山で是非見たいと願っていたものが、立て続けに表れて興奮したが、身体はヘトヘトだった。全部を翌日まわしにしてノロノロと坂を上がって行った。上から降りてきた五箇山荘の車に拾って貰ってようやく宿に辿り着いた。
五箇山荘は食事良し、部屋良し、温泉良し、スタッフ良しで言う事なしだった。夕食後スタッフの1人がこきりこ節を披露してくれた。ささらやこきりこの楽器体験をさせて貰ったが、簡単そうに見えて手強く、つい夢中になっていた。

 翌朝は朝食を済ませただちに出発、まず流刑小屋へ。6畳間位の小屋の周りをひとめぐりし、あかりとりらしきくりぬき穴から覗きこむ。頑丈な家畜小屋としか思えなかった。続いて村上家へ。すでに戸障子は開けられていて、案内の方が囲炉裏の火をつけようとしているところだった。盛大に煙が立ち上がる囲炉裏の近くで話を聞く。流刑地としての五箇山のあれこれを語ってくれた。目の前を流れる庄川の右岸に8軒の流刑小屋があったが、1集落に1軒づつ。後背地は深い山、前の庄川には橋がけが許されなかった。川越えは手動の吊り篭のみ、住民が大変だったろうと思う。囚人は江戸時代を通して150人、全員が武士で政治犯だったという。権力闘争の敗者だったのだろうか。あるいは政治改革を目論んだ者だったのだろうか、などとあとで3人で論じ合った。終わりにこきりこ節を歌ってくれた。1日に何回もうたうのであろうか良い声だった。建物の中は自由に見学していってくださいとの事で、2階、3階にあがる。民具がぎっしり展示されていた。

 バスで5km先の菅沼集落へ。ここは五箇山に2カ所ある世界遺産指定地域の小さい方の集落。数枚の田のまわりに9軒の合掌造りの家が並んでいた。そのうちの2軒に入る事が出来た。『五箇山民俗館』と『塩硝の館』と看板にあった。
 流刑と塩哨作り、加賀藩のダークな側面を担ってきた地という勝手なイメージが、この塩哨の館ですっかり変わった。丁寧な説明と実際に使われていた道具類の展示で分かり易かった。秘密めいた危険な作業に住民は携わっていたと思い込んでいたが、塩哨作りは地域の大切ななりわいだったようで、危険とは言い難かった。むしろ食品加工とか、保存食作りと同類に感じた。長い時間をかけ、最新の注意で良質なものを作り上げていたようで、完成品は山越えで加賀藩の火薬製造所に運ばれたが、他藩へも売り捌いていたという。黒船の来航がきっかけで、塩哨の生産量は10倍にまで増加したとのテンヤワンヤの時代であったらしいが、外国から硝石の輸入が可能になった事で終焉が訪れた、と大雑把に言えばこんな歴史があったらしい。和紙作りと塩哨という安定産業があった五箇山地域、里よりはるかに暮らしが良かったかも、などと思いながら、もう一つの合掌造りの『五箇山民俗館』に入った。この時、すでに疲れが溜まってきていた。現代のバリアフリーの考え方の対極にある合掌造り、シニアにはしんどかった。2軒目はざっと済ませたので何が展示してあったか、思い出せない。

 最後に訪れた白川郷、大ハズレだった。バスを降りたその時から帰りたくなっていた。どこもかしこも人だらけだ。足が進まない。手近な食堂で食事だけは済ませた。シャトルバスで集落が一望できる高台へ、すぐ又、戻る。バス待合所でひたすら帰りのバスを待った。

 白川郷で下がってしまったテンション、『はくたか』に乗り込んでようやく平常に戻った。口もまわり出した。『いいとこどりの加賀街道プラス旅』は尻すぼみで終わったが「行って良かったねえ」と何度も言い交した。心が震えるような自然の美しさがあった。こきりこ節の唄と踊りのなつかしさ、合掌造りの家の存在感と生活の厚み、五箇山で出会った人、自然、歴史全てが感動だった。

 今回のプラス旅で得た教訓、プラス旅はほんの少々に抑えねばならない、自分の体力を過信してはならない。70を超えた年齢だ。思っているようには3日目は動けません。でも、時間やお金に余裕があったら行う事をおすすめします。
  山浦るみ子(8組)


富山城千歳御門
富山城天守閣(クリックして拡大)

瑞龍寺仏殿

高岡城跡 (クリックして拡大)

高岡大仏


山町筋


金屋町


五箇山菅沼集落(プラス女子旅)

  

北国街道 西脇往還 “善光寺道” (第3回)

(19/5/23-24)   磯村雄二(3組)
 第3回は篠ノ井線坂北駅に12時集合。青柳宿、麻績宿、桑原宿(間宿)、稲荷山宿、篠ノ井追分、篠ノ井駅まで21km。シェーンガルテンおみ泊。
 翌日、猿ケ馬場峠を越え、廻国供養塔の手前で同級生(3組)W.R氏が出迎えてくれた。姨捨正宗の長野醸造所の本家筋というので、見学・試飲をし、ご自宅でお茶を頂いた。
  

北国街道 西脇往還 善光寺道” (第2回)

(19/4/23-24)   磯村雄二(3組)
 第2回は松本駅に10時集合、 松本宿、岡田宿、刈谷原宿、乱橋宿(間宿)、会田宿、西条宿(間宿)までの29km。穴沢温泉松茸山荘に泊まり、松茸料理を堪能した。
  

北国街道 西脇往還 善光寺道” (第1回)

(19/3/27)   磯村雄二(3組)
  西脇往還は、「洗馬宿」外れ(塩尻宿寄り)の追分で中山道から分岐する。 「郷原宿」から「稲荷山宿」までの九宿で次ぎ、「篠ノ井追分宿(間宿)」で北国街道に繋がる。
 第1回は中央西線洗馬駅に10時集合し、郷原宿、村井宿、松本宿までの日帰りで18kmを歩いた。

いいとこ取りの加賀街道の旅(第1回)

(19/4/13-14)   清水計枝(1組)

 70歳を迎えて、同期生と、身体的に無理の無い旅を楽しくしたい、と考えて、2019年は、在来線(加賀街道と並行している)を利用して沿線の名所旧跡を訪ね歩くことにしました。
 第1回は加賀街道追分、春日山城跡、高田城の夜桜見物と親不知・子不知、第2回は大糸線経由で富山城跡、高岡城跡、瑞龍寺と高岡の町並み散策、第3回は倶利伽羅峠越えと金沢城跡です。
 
 4月13日(土)高田駅に集まって、北国街道を高田追分(北国街道と加賀街道の分岐点)に向かって歩く。追分にある町屋が瞽女ミュージアムになっていて見学。

瞽女ミュージアム高田
 瞽女(ごぜ)は、三味線(元は鼓だった)をたずさえて語り物などを唄いながら、各地を門付けして歩いた。高田瞽女は高田を中心にして頸城三郡や信州佐久・上田のあたりまで四季にあわせた行程を決めて、旅に出ると2ヶ月は家に帰らず、1年に300日も旅して回っていたとのこと。ミュージアムの中に地図が貼ってあり、瞽女宿の所在地が示してある。
 1964年まで、高田で最後の瞽女親方、杉本キクイが旅巡業をしていた。斉藤真一画伯が杉本キクイの人間性に深く感動して多くの作品と著作を発表して注目された。館内には、斉藤画伯の作品が多数展示してある。

 瞽女ミュージアムを見学後は、人通りの少ない、のどかな加賀街道を歩く。北本町3丁目の信号を渡ったところに、陀羅尼口番所跡の碑が立っている。ここで高田城下とはお別れ、ということだが、街道の町並みが続いている。満開の桜の木があちこちにあり、夜の高田城跡のお花見が楽しみである。沿道の家の庭には、チューリップ、スイセンなど春の花が咲き競って春らしい陽気。
 白山神社を過ぎ、土橋地区の諏訪神社の境内で昼食。隣に、文禄年間創業の大杉屋惣兵衛(飴屋)がある。昼食後、飴を試食、購入。サービスで入れていただいたお茶がとても美味しかった。
 しばらく歩くと木田新田。信号の手前に、追分地蔵が置かれている。直江津道と加賀街道の追分である。「右いままちみち/左かかかいたう」と刻んである。加賀街道は春日山の裾を通って谷浜、糸魚川へ続く。今町道は春日山駅を経て直江津へ向かう道。私たちは、春日山駅に向かい、ここで、春日山城跡見学組と林泉寺見学組に別れた。
 春日山城跡は桜が咲き、お花見をしながら城跡廻りを楽しんだ。また、林泉寺は、謙信の墓所や川中島合戦の死者供養塔などがあり、スミレ、カタクリ、ユキワリソウなどが苔の間から顔を出して咲き、古に思いをはせながら散策するにはちょうど良い。
 春日山駅から高田駅に戻り、ホテルに荷物を置いて、高田城跡へお花見に出発。

高田城跡で夜桜見物
 城内には3000本の桜が植わり、ちょうど満開とあって人出がすごい。堀の幅が広いので、三重櫓がライトアップされると、櫓が桜と共に堀の水面に映って美しく、人の波も気にならない。
 お堀の土手に座って、それぞれ買ってきた弁当と飲み物で花見の宴となった。中でも、好評だったのは、Rさんがトルファンから買ってきた葡萄酒。王翰の涼州詞「葡萄美酒夜光杯 欲飲琵琶馬上催 酔臥沙場君莫笑 古来征戦幾人回」に詠われた葡萄酒である。日本のワインとは一味違って美味しかった。

 4月14日(日)高田駅から、妙高はねうまラインに乗って直江津駅へ、日本海ひすいラインに乗り換えて親不知駅で下車。駅を出たところから加賀街道を歩く。左手は断崖が迫り、右手は鉄道、国道、高速道が海沿いを通る。2キロほど歩いた処で国道に合流する。
 合流地点にある、親不知ピアパーク(道の駅)から2.5キロ程先の親不知コミュニテイロードまでは、歩道のない洞門で歩くのは危険なためタクシーを利用した。
 親不知ピアパークには、日本最大のヒスイの原石(102トン)が展示されている。

親不知・子不知
 かつて北陸道最大の難所として知られる。断崖絶壁と日本海の荒波が打ち寄せるわずかな波打ち際を駆け抜けて通った。
 明治になり、天皇の全国巡幸のために、断崖絶壁を切り開き道路が造られた。現在は、断崖絶壁の中を国道が通り、明治の道路は「親不知コミュニテイーロード」として遊歩道になっている。
 コミュニテイーロードは1キロ程。600メートルほど歩いた処から、遊歩道(階段)を下りると「親不知レンガトンネル」の入口がある。大正元年に竣工した鉄道トンネルで、昭和40年に複線化に伴い廃線となるまで使われていた。トンネル内はフットライトが設置され、通行できるように整備されている。ヒンヤリするトンネル内を600メートルほど歩いて戻り、天険海岸に下りてみた。わずかな波打ち際に、かつて人が通った痕跡が残っていて、北陸道の難所を想像した。
 海岸から、つづら折りの道を上り、コミュニテイーロードの出発地に戻った。ここに建つ親不知観光ホテルで、名物「鱈汁定食」の昼食。

 ホテルから、タクシーで、親不知、子不知海岸沿いの道を戻って、青海駅へ。青海駅前に旧青海宿加賀藩本陣跡がある。糸魚川駅まで電車を使い、日本最大と言われる「フォッサマグナミュージアム」を見学して帰路についた。

フォッサマグナミュージアム 
 ミュージアムには、フォッサマグナの発見者ナウマン博士の紹介室や、日本列島誕生シアター、ヒスイ原石や岩石、化石など興味深い展示がされていて、短時間では見切れなかった。
 2015年にミュージアムをリニューアルしたとのことで、2016年に日本展示学会賞を受賞している。

参加者=奥村恭子(1)、清水計枝(1)、清水正宣(1)、清水洋二(1)、磯村雄二(3)、柳澤信義(3)、石井則男(4)、荒井昇三(5)、倉沢直彦(5)、宮澤康元(5)、安武知子(5)、村居次雄(8)、山浦るみ子(8)、清水淳郎(9)、藤巻禮子(9)の15人。

何もかも素敵な夜桜見物

 今回のいいとこ取りのメインは、何といっても高田城の夜桜見物でした。
 雲一つない快晴の下、越後湯沢からのほくほく線は周りのスキー場にはまだ雪が残っていました。六日町、十日町と直江津に近づくにしたがって桜の花も蕾から一部咲き、五部咲きと成長していき、高田に着く頃には満開の様子に期待は大きくなります。
 高田駅に降りた時、あまりの人の多さにビックリ、「帰りの切符を買って行ってください」という駅員さんの声もあり、殆どが桜見物のお客さんだと納得です。
 夕方高田駅前のホテルに荷物を置き「コンビニで各自食べ物、飲み物を調達して出発します」というリーダーの声で夜桜見物が始まりました。お城に向かう人、帰ってくる人たちが行き交い歩道も混雑、なかなか着かない、遠いなと感じながら満開の桜の木があちこちに見て、わくわくしながら公園に。大勢の人、沢山の屋台、そこに並ぶ長い行列、お堀の周りは人で一杯。そんな中、三重櫓のすぐ近くに空き地を見つけ座り込む。リーダーからおつまみと敷物が配られ、「ワー、用意がいい、流石慣れているね」と感心する。ワインやお酒が回って来て宴会ムードに。6時にライトが点灯されるが明るいので目立たない。暗くなるにつれ桜が夜空に浮き上がり、ゆっくり飲んだり食べたりしながらライトアップされた櫓やお堀の周りの桜に見入る。桜の木がほぼ同じ位の大きさ、間隔も近すぎず遠すぎず、しかも4000本近い数に圧倒されました。ライトに照らされた櫓とピンク色のモアモアとした桜がお堀の水面に映り、水の中に吸い込まれていくような幻想的な透明感に歓声をあげました。
 前々から友達に「高田城の桜はすごいよ、絶対見に行く価値があるよ」と聞いていたので今回このように花の見頃、天気もバッチリ、その上楽しい仲間と一緒に何もかも素敵な夜桜見物ができ幸せです。

 高田の瞽女ミュージアムで見学した瞽女さんの厳しくも自立した生活をしていた様子、前回門の前で引き返した林泉寺の春日山城から移築されたという趣のある惣門、重厚な山門、苔むした緑の林の中にカタクリやショウジョウバカマの花々に護られた謙信公のお墓。ものがたり館からは春日城のスケールの大きさを幹事、土塁一面に生えた土筆の数の多さなど印象に残りました。
 翌日の親不知コミュニティーロードの険しい崖、暗い旧国鉄北陸本線のトンネル跡、岸壁に刻まれた「如砥如矢」(とのごとくやのごとし)の文字など道路を造る困難や苦労が偲ばれます。
 「いいとこ取り」というネーミングもいいですね。電車、バスは勿論タクシーも使っての旅でしたが、タクシーでのピストン輸送、ホテルでの食事等の交渉などリーダーの清水さんあっての旅でした。何もかも有難うございました。
 奥村恭子(1組)


糸魚川ジオパークに魅せらせて

 北国街道の旅は出雲崎と佐渡の旅で終わり、これからは古希を過ぎたので無理のない旅をということか、加賀街道の旅は踏破するのが目的でない街道沿いのいいとこを観て歩こうという旅となった。
 今回のいいとこは、瞽女ミュージアム、春日山城跡、高田城夜桜見物、親不知、フォッサマグナミュージアムなど、予想以上に盛り沢山であった。瞽女ミュージアム、春日山城跡ものがたり館・林泉寺は北国街道の旅の時に十分に観れなかったところであり、高田城はすでに立ち寄っていたが、日本三大夜桜のひとつの高田城の夜桜を楽しもうという趣向であった。
 当日は朝から快晴の好天気に恵まれ、周りの妙高山などの山々は4月の新雪で眩しいほどに白く輝き、頚城平野一帯のさくらはちょうど満開を迎えて、北国越後は春爛漫の真っ盛りであった。そのもとでの高田城の夜桜見物は、これ以上望めないほど素晴らしいものであった。4000本のソメイヨシノが高田城の内堀・外堀を中心に咲き誇り、その中を三重櫓がライトアップされて幻想的な世界を作っていた。わたしたちもその櫓と桜の下の芝生に陣取って美酒に酔いしれた。
 この日の昼間は、瞽女ミュージアムに立ち寄った後、春日山城に行った。今回は上杉謙信の墓所のある林泉寺と春日山城跡ものがたり館がお目当てであったが、あまりの好天気に誘われて、他の5人と一緒に再び春日山城跡に登ることにした。予想していた通り、城跡の彼方此方にさくらが咲き乱れ、天守台・本丸跡の高台からは広い頚城平野の向うに米山・越後三山・苗場山・斑尾山・妙高山・火打山などの雪山の大パノラマが拡がっていた。雪解け水に恵まれた頚城平野の豊かな自然を感じながら城跡を下り、林泉寺で謙信公の墓を詣でた後、春の陽気に浮かれながら春日山駅まで歩いた。

  翌日は、高田から妙高はねうまラインと日本海ひすいラインを乗り継いで親不知に向った。今回の旅歩きのメインイベントは、親不知・子不知の中の天険親不知のコミュニティロードとレンガトンネルを歩いて往時を偲ぶことであった。親不知駅で下車して親不知ピアパークまで歩き、そこからコミュニティロード入口にある天険レストランまでは歩道がほとんど無いのでタクシーで行くことにして、そのタクシーを待つ間、ピアパークの翡翠ふるさと館で世界最大級の102トンのヒスイ原石を見学し、記念に小さな原石を買った(ヒスイは2016年に日本鉱物科学会で国石に選定されている)。
 コミュニティロードは、明治16年に切り拓かれた旧国道8号で、昭和41年に現在の天険トンネルができた後に、遊歩道として整備されて親不知コミュニティロードとなった。またレンガトンネルは、大正元年に開通した北陸本線の旧トンネルで、昭和40年に新しいトンネルができた後に、通行できるように整備されて今の親不知レンガトンネルになった。海から100メートルはあると思われる断崖絶壁に作られたコミュニティロードを日本海の絶景を眺めながら1キロほど歩き、西側遊歩道の長い階段を下ったところにあるレンガトンネルを通って帰ってきた。
 トンネルの出口から東側遊歩道の階段を上るとレストランに戻るが、さらに下の天険海岸までの階段を降りてみた。驚いたことに、江戸時代に加賀百万石の前田家が参勤交代で通った加賀街道は、北アルプスの北縁の断崖絶壁の直下とはいえ、丸い大小の石がごろごろしている道らしい道のない波打ち際であった。今では東西どちらにも進むことができなかった。コミュニティロードの真下にある天険海岸は親不知・子不知の最大の難所で、波打ち際に大懐・小懐・大穴・小穴といった緊急避難の岩穴があったということだが、それを観に行くこともできなかった。
 明治16年に早くも旧国道8号が拓かれたことを考えると、幕府の加賀前田家対策としてより安全な道は作らせなかったのではと勘繰りたくなるがどうだろうか。ヒスイは見つからなかったが、まん丸の奇麗な石を3つ拾ってレストランに戻り、たら鍋の美味しい昼食の後、青海駅に戻るタクシーを待っていると、国道8号の隧道の屋根の上にカモシカが降りてきた。この断崖絶壁が北アルプスの北縁であることを教えに来てくれたように思えた。

 青海駅から糸魚川駅に戻り、希望者でフォッサマグナミュージアムに寄った。実は、わたしの今回の旅の密かな楽しみはこのミュージアムの見学だった。このミュージアムに寄ることが分かった後、本屋で藤岡換太郎『フォッサマグナ』(講談社ブルーバックス、2018年)を見つけて読んだところ、フォッサマグナと中央構造線は成り立ちが全く違うこと、フォッサマグナの南部と北部は同じではないこと、フォッサマグナで分断されている東北日本と西南日本は大陸から別々に分離したようであることなどなどを知り、また糸魚川はフォッサマグナの西の境界の糸魚川・静岡構造線の北端にあって、国内に6カ所ある世界ジオパークのひとつに認定されていることなどが分かって、是非、フォッサマグナミュージアムに行ってみたいと思っていた。
 ミュージアムは、巨大なヒスイの原石の展示にはじまり、フォッサマグナの形成の映像、さらにはフォッサマグナの発見者ナウマンのコーナーなど、2015年にリニューアルされた最新の研究成果の興味深い展示が並び、われわれに残された30分ほどの時間ではまったく見切れない内容であった。心残りだったので、ミュージアムの出版物をいくつも購入して帰ることにした。なお、糸魚川・静岡構造線の境界の断層を実際に見学できるのはさらに南のフォッサマグナパークであること、また小滝川ヒスイ峡はさらにその奥であることを知り、いつか訪ねてみたいと思いながら帰路に就いた。
 清水洋二(1組)


レンガトンネル (クリックして拡大)
芭蕉が通った海岸

春日山城

高田城の夜桜見物 (クリックして拡大)

追分地蔵


林泉寺




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